北条 義宗(ほうじょう よしむね、1253年~1277年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。赤橋流北条氏第2代当主で赤橋義宗(あかはし ー)とも。
第6代執権・北条長時の嫡男(長男)。六波羅探題北方や第2代連署などを歴任した北条重時の嫡孫にあたる。

▲赤橋流北条氏略系図(https://www.yoritomo-japan.com/kamakura137/jyokomyoji-moritoki.html より拝借)
『関東評定衆伝』*1『六波羅守護次第』*2『鎌倉年代記』『武家年代記』『尊卑分脈』等によれば、建治3(1277)年8月17日に25歳(数え年、以下同様)の若さで亡くなったといい、逆算すると建長5(1253)年生まれとなる*3。
『吾妻鏡』建長8(1256=康元元)年9月19日条に「今日。武州嫡男四歳労赤斑瘡云々。」とあり、年齢からしてのちの義宗とみなして良いだろう*4。これが史料上での初見となる。この当時は将軍・宗尊親王や得宗(前執権)の北条時頼らも発症するなど、「赤斑瘡(あかもがさ)」と呼ばれる、いわゆる麻疹の病気*5が流行っており、当時の執権であった「武州」=武蔵守長時*6の幼き嫡男・義宗もこの病にかかったと伝えている。
その後『吾妻鏡』では、文永2(1265)年11月20日条に「陸奥孫四郎」、同3(1266)年正月3日条に「陸奥孫四郎義宗」と2回登場しており(弘長3年正月1日条の「陸奥左近大夫将監義宗」は(塩田流北条)義政の誤記)*7、当時の年齢が10代半ば位であることに加え、16歳となった文永5(1268)年末には左近将監となって叙爵している*8ことから、この頃までには元服を済ませていたと分かる。
実名「義宗」の「宗」は、文永3年まで第6代将軍の座にあった宗尊*9を烏帽子親としてその偏諱を受けたものとされ*10、時期的にも妥当な推測だと思う。赤橋流北条氏の歴代当主では例外的に「時」の通字を用いていないが、義宗がまだ5歳であった康元2(1257)年2月には既に、同じく宗尊の加冠により元服した時頼の嫡子が「時宗(=北条時宗)」と名乗っていた*11ので、同名を避けるために曽祖父・北条義時の「義」字を用いたからであろう。
元々、赤橋流北条氏は本家筋の得宗家に次ぐ家格を有していたといい、名乗りの面でも以降の「久時―守時」が各々、親王将軍(8代・久明親王、9代・守邦親王)と烏帽子親子関係を結んだ様子が窺える*12。
(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その28-赤橋義宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)
脚注
*1:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:熊谷隆之「<研究ノート>六波羅探題任免小考 : 『六波羅守護次第』の紹介とあわせて」(所収:京都大学文学部内・史学研究会編『史林』第86巻第6号)P.101(865)~102(866)。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その28-赤橋義宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:吾妻鏡入門第四十六巻九月、赤橋流北条氏 ー 北条義宗 より。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その27-赤橋長時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.63「義宗」の項。『六波羅守護次第』(→注2同箇所)の駿河守平義宗の注記に「長時一男 字(あざな)陸奥孫四郎」とあることから、赤橋義宗に比定される。
*8:注3同箇所。典拠は『関東評定衆伝』建治3年条、『六波羅守護次第』(→注2同箇所)など。
*9:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。
*10:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』、思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27)。
*11:北条時宗 - Henkipedia 参照。
*12:注10前掲山野氏論文 同箇所。