Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小山宗長

小山 宗長(おやま むねなが、1264年頃~1307年?)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人

通称は五郎。左衛門尉。父は小山時長、母は宇都宮泰綱の娘。(以上『尊卑分脈』より) 

 

残念ながら、宗長については史料があまり残されておらず、その活動内容は不明であるが、本項では生没年など推定できるものについての考察を記しておきたい。

 

 

時長の子 北条時宗の烏帽子子

 〈小山氏略系図(『尊卑分脈』より) 

 朝長―長村―時長―宗長―貞朝―高朝

この家系は「長」または「朝」を通字としており、時長以降の当主の名前に着目すると、"時"、"貞"、"高" については北条氏 (得宗) からの偏諱であることは確実視して良いと思われるので、宗長だけが将軍(6代・宗尊親王)を烏帽子親にしたとは考えにくいが、念のため確認しておこう。 

 

父の小山時長については『鎌倉大日記』によって生没年代が明らかとなっている。

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現実的に考えて、仮に時長が20歳(※満年齢)以上の時の子と考えると、1266年生まれとなるが、ちょうどこの年の6月には宗尊親王は解任の上で京都に送還されている*1。従って、仮に時長が10代後半の時の子(1261~1265年生まれ)だとしても、元服の頃の将軍が宗尊親王であることはあり得ず、よって「」の字は8代執権・北条時からの偏諱であること確実であろう。

 

生年の推定

北条時宗は、弘安7(1284)年4月の死去まで得宗家当主として執権を務めた。従って、宗長の元服もこの時までに行われているはずである。7歳で元服時宗は例外として、この頃の元服は通常10~15歳あたりで行われていた。

従って、(1284年に10歳である場合の)1275年より後の生まれであるとは考えづらい。よって、宗長の生年は1266~1275年の間であったと推定はできる。

 

次に考えるべきこととして、息子・小山貞朝(『尊卑分脈』)との関係を確認しておこう。

貞朝の死去については次の二つが伝わる。

徳治二(1307)― 関東下向之時頓死(『尊卑分脈』小山貞朝項の注記)

元徳二(1330)年 十月一日 小山下野前司他界 貞朝 四十九(『常楽記』*2

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が正しいことについては、こちら▲の記事で取り上げたが、逆算すると生年は1282年となる。従って、父の宗長が同年の段階で約20歳以上であることが現実的と思われるので、1270年代生まれである可能性は低いと判断される。

時長 (1246年生) と 貞朝 (1282年生) の年齢差は36歳と、祖父―孫の関係にしては少ない気もするが、時長・宗長が各々18歳(数え年19)の時に子をもうけたと解釈すれば、強ちあり得ない話でもない。よって宗長の生年は、1264年頃であったと推定しておきたい。

 

ちなみに、母は宇都宮泰綱の娘であり、兄弟にあたる北条経時室(1231年生)、経綱(1233年前後?)*3、景綱(1235年生)とさほど年齢が離れていないことを考えて、仮に景綱より年少(すなわち妹)で1240年ごろの生まれだとしても、宗長を20代で生んでいることになり、問題はない。 

 

没年の推定 

上記同記事で言及しているが、元亨3(1323)年10月26日の北条貞時十三年忌供養に、貞朝と思しき「小山下野前司」なる者が参加している。当時の段階で既に下野守を辞していたということを考えると、貞朝は1310年代には下野守であったと判断され、恐らくその頃には小山氏の家督を継承していたのではなかろうか。

 

ここで、前述の徳治二― 関東下向之時頓死」に着目したい。

尊卑分脈』は系図集の中で比較的古い年代の成立であるが故に、信憑性の高いものとして重用されていることは事実で、いくら系図に誤りがあるからといって、①のような内容をでたらめで書けるとは思えないのだ。『尊卑分脈』の小山氏系図は幾つか誤りと思われる箇所が指摘されており、どうも記載に混乱が生じているようである。これらの観点から、①は宗長のことを言っている可能性も考えられないだろうか

 

貞朝は本家筋とみられる宗朝に養子入りして、小山氏の嫡流や「四郎」の仮名を継承しているが、「下野守」に任官していることから、宗長の後継者でもあったと考えられる*4。徳治2(1307)年当時貞朝は26歳であり、宗長からの家督継承時期として問題ないと思う。

 

貞朝の項にあった「関東下向之時頓死」について、細川重男は『尊卑分脈』・『系図纂要』に「評定衆」、『下野国誌』11に「下野守。従五位下。四郎左衛門尉。鎌倉評定衆」と書かれていることと照合して、貞朝が六波羅評定衆であった可能性も考えておられる*5が、これまでの考察を踏まえると、宗長がそうであったのかもしれない。

 

 

脚注

*1:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*2:『編年史料』後醍醐天皇紀・元徳2年 P.25

*3:経綱については以前記事宇都宮経綱 - Henkipediaを参照。

*4:長村―時長―宗長と続いた「五郎」の仮名は貞朝の庶子・秀政が継承しているが『尊卑分脈』に「或宗長子云々」とあることから、形式上祖父である宗長の嗣子として "五郎" 家を再興したと考えられる。貞朝は宗長―秀政の間の当主も兼ねていたのであろう。

*5:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」[番外]⑤「小山貞朝」の項 より。