Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条宗房

北条 宗房(ほうじょう むねふさ、生年不詳(1250年代後半か?)~没年不詳(1295年以前?))は、鎌倉時代中期の武将、御家人。時房流北条時隆(ときたか)の子。官途は右馬助、左馬助、土佐守。法名道妙(どうみょう)

 

 

系譜について

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尊卑分脈』によれば、宇都宮経綱には「陸奥守平宗宣」「土左守〔ママ〕平宗房」2人の娘がいたという*1が、この宗宣・宗房は平姓北条氏一門の人物、すなわち北条(大仏)宗宣北条宗房とみなして良いだろう。 

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宗宣についてはこちら▲の記事を参照のこと。

一方、宗房については後述の通り『関東評定衆伝』 弘安年間の引付衆の一人に「平宗房」として確認できる。細川重男のまとめ*2によると次の通りである。

 

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№67 北条宗房(父:北条時隆、母:未詳)
  生没年未詳
  右馬助(関評・弘安元年条)
01:弘安1(1278).03.16 引付衆
02:弘安4(1281).04.  左馬助
03:弘安7(1284).03 .  土佐守
04:弘安7(1284).04.  出家(法名道妙)
 [典拠]
父:『前田本平氏系図』。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。時隆は北条時房の次男時村の子。
01:関評・弘安元年条相模右馬助平宗房」。
02:関評・弘安4年条右馬助平宗房 四月転左馬助」。
03:関評・弘安7年条(相模)右馬助〔ママ〕平宗房 三月任土佐守 四月出家法名道妙」。
04:関評・弘安7年条。『前田本平氏系図』。

 

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これに加え、01の約4ヶ月前にあたる建治3(1277)年の北条貞時元服において「一.御馬栗毛」を献じる「上手 相模右馬助、下手 長崎四郎左衛門尉(=光綱(『建治三年記』)*3も上記の「相模右馬助平宗房」と同人とみなして問題ないだろう*4

ja.wikipedia.org

さて、北条宗房 - Wikipedia によれば、同時代に "北条宗房" なる者が2名存在していたという。 

【A】時政―時房―時村―時隆―宗房

【B】時政―義時―政村―宗房陸奥三郎時村弟)

 

冒頭の表で【A】を採用する細川氏に対して、山野井功夫引付衆宗房の系譜を【B】とする*5

 

まず、【A】説については次の古系図3点により立証されよう。

『野津本 北条系図(1286年校合、1304年書写)民部権大輔時隆の子(時員の弟)に「相模馬助 宗房*6

*「馬助」とは本来、馬寮(めりょう)の次官で、左馬助・右馬助双方の総称である*7。「うまのすけ」と読めることから、読みが同じ右馬助*8を指すとも考えられるが、冒頭細川氏の表02にあるように宗房は左馬助にも任じられたようであるから、いずれだとしても「馬助」の表記は妥当な記載である。前述『関東評定衆伝』や『建治三年記』で記載の「相模右馬助」に合致し、十分に信用に値しよう。

『入来院本 平氏系図(1310年代後半成立か):時隆の子に「宗房女〔ママ、女は誤入か〕」を載せており*9、他系図とも照合すれば「女」は誤って挿入されたものであろう。

『前田本 平氏系図室町時代前期成立か):元々は仁和寺に所蔵されていた系図の影写本。時隆の子・宗房の傍注に「土佐守 法名道妙」とあり*10

政村流北条氏  #北条宗房(外部HP)では『建治三年記』や『関東評定衆伝』での「相模右馬助平宗房」を政村の子、すなわち【B】説としているが、これら3点によって(【B】説の真偽に関わらず)時隆の子であったことが分かる。

 

一方【B】説の根拠と思われるものとして、近世(江戸時代)に編纂された『諸家系図纂』所収「北条系図」には時隆の子・宗房(土佐守)とは別に、政村の子として宗房(四郎)が載せられている。しかしこれは恐らく『関東評定衆伝』において「相模式部大夫平政長 右馬助平宗房」等の形で、相模守政村の子・政長と並べて書かれたために、編纂時に兄弟と見なされてしまった可能性が考えられる。

また、その後幕末期にまとめられた『系図纂要』でも各々次のように記載が見られる*11

【表C】

宗房 新相模四郎 弘安元年三ノ十六引付衆 同四年四ノ左馬助 同七年三ノ土佐守 四ノ出家 法名道妙
政長 新相模五郎 弘安元年三ノ十六引付衆式部大夫 同七年正ノ評定衆 八ノ駿河守 正安三年七ノ十四卒五十二

 

山野井は多くの史料で「新相模四郎」と注記される宗房の弟として記載されるが故に、政長は5男に相違ないとされている*12が、それらの「史料」というのは恐らく実際の書状や記録ではなく『諸家系図纂』や『系図纂要』といった系図類と思われ、史料的根拠が弱い。『系図纂要』の記載(【表C】)は内容からしてほぼ全てが『関東評定衆伝』に基づいていることは明らかで、編纂当時における研究の成果に過ぎない。

また、両系図の記載を信用した場合、『関東評定衆伝』において弟(政長)、兄(宗房)の順で書かれているのも違和感があるし、官職の面でも、当初は式部大夫(五位相当)*13、右馬助正六位下相当)*14と弟・政長の方が上位であったかと思いきや、弘安7年になると兄・宗房の方が先にいきなり国守任官を果たしたことになり、昇進の仕方として明らかに不自然である。

ここで『野辺本 北条系図』を見ると、政村の子次郎時道〔ママ、時通〕左近大夫将監時村の弟)政長の注記に「四郎」と記載されている*15。政長の左にある注記「号大夫河内前士左大臣法印厳忠弟子也」は、更に左横が欠損しているものの、前述の古系図などに見える厳斎の説明であることに疑いは無く、同系図宗房が書かれていそうな気配は無い。この系図室町時代前期、応安8(1375)年12月1日に書写されたとの記載がある*16が、北条氏の部分については北条時宗と同じ世代までで途切れていることから、文永元(1264)年以前に成立したと考えられており*17、十分に史料的価値・信頼性は高いと思う。

よって、政長が「四郎」であったことに疑いは無く(実際に政村の4男であろう)政村の子で同じ「四郎」を称する宗房がいたとは考え難い。よって近世の系図に見られる【B】説は単に江戸時代当時の研究成果に過ぎず、否定されよう。

すなわち、実際の史料、古系図で確認できる北条宗房は、時隆の子ただ一人だけである。以下、この前提に基づいて生年の推定を行いたい。

 

 

生年と烏帽子親の推定

冒頭、細川氏の表にもある通り、宗房の父・時隆は北条時房の次男・時村の子である。これは野辺・野津・入来院・前田各本の北条氏古系図により裏付けられる。

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こちら▲の記事で言及した通り、時房次男・時村については1198年生まれの可能性が高い。 

そしてその息子・時隆は時村が亡くなる嘉禄元(1225)年12月2日*18までには生まれている筈であるが、『吾妻鏡』では寛元3(1245)年8月15日条を初見として、正嘉元(1257)年正月3日条まで「相模八郎時隆」と書かれ、同年8月15日から「民部大輔時隆」・「民部権大輔時隆」等に表記が変わっているので、正嘉元年には佐介流における叙爵の平均年齢30~40代*19に達していたと考えられる。時村晩年期の息子で1220年頃の生まれであろう。

時村―時隆父子間の年齢差は20数年ほどであったとみられるので、これを参考にすると時隆の子・宗房は早くとも1240年代半ばの生まれと推定できる。

時村の通称「相模次郎」は父・時房が最後に任じられた国守が相模守で、その次男であったことを表す。時村の息子時広・時隆)は父が早くに出家したために祖父・時房の養子に迎えられたようで、各々時房の官途にちなんで「相模七郎」・「相模八郎」を称している。そして前述の通り、宗房も「相模」を冠していたが、これは父・時隆が民部権大輔のあと国守に任官しなかったために、同じく時房の官途を付したものとみられる。

 

前述の推定からすると、時隆は30代後半になっても国守任官を果たさなかったことになる。伯父(時隆の兄)時広は24歳で式部少丞従六位上相当*20、26歳で叙爵して武蔵権守、37歳で越前守となっている*21。これを参考にすると、弘安4(1281)年左馬助正六位下相当)*22に転任した当時、宗房はまだ叙爵前で20代前半であった可能性が高い。そして3年経った同7(1284)年3月土佐守に任じられた時には20代後半に達していたのではないか。

従って宗房は父・時隆が民部権大輔に任じられた頃に生まれたものと推測される。

 

ところで細川氏は、要職に就くことのなかった時村系北条氏から宗房引付衆に選ばれたことについて、当時の執権・北条時宗による抜擢があったのではないかと推測されている。直接的な表現はされていないが、他の例で数多く偏諱についての言及をされている同氏のことだから、当然ながら房の「宗」も時偏諱と考えての見解であろう。「房」は曽祖父・時房に由来する1字であろうから、「」が烏帽子親から賜ったもので間違いないと思われるが、1250年代後半の生まれとすれば、時宗得宗の座にあった期間(1263~1284年)*23内の元服がほぼ確実となり、そのように推測可能である。

このことは、弘安7年4月に時宗が亡くなったのを悼んで出家していることからも窺えよう。同年3月に若年ながら土佐守に任じられたのも時宗の推挙があってのことだったのではないか。冒頭の経歴表にある通り、これが史料上での終見であり、細川氏はその後の『永仁三年記』に現れないことから、同年(1295年)までに引退もしくは逝去したのではないかと推測されている*24

 

(参考ページ)

 北条宗房 - Wikipedia

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その67-北条宗房 | 日本中世史を楽しむ♪

 佐介流時村系北条氏  #北条宗房

政村流北条氏  #北条宗房

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.67「北条宗房」の項。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その67-北条宗房 | 日本中世史を楽しむ♪(細川のブログ)も参照のこと。

*3:『建治三年記』12月2日条。

*4:政村流北条氏  #北条宗房 より。

*5:山野井功夫北条政村及び政村流の研究」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)P.213。

*6:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館 研究報告』5、1985年)P.44。

*7:馬助とは - コトバンク より。

*8:右馬助とは - コトバンク より。

*9:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.23。

*10:注2前掲細川氏著書 P.378。

*11:系図纂要』第八冊 平氏名著出版、1974年)P.296 より。

*12:北条政長 - Wikipedia より。典拠は『北条氏系譜人名辞典』「北条政長」の項(執筆:山野井功夫)。

*13:式部の大夫とは - コトバンク より。

*14:注8同箇所より。

*15:鹿児島県歴史資料センター黎明館 編『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ七』(鹿児島県、1998年)P.412(『野辺文書』7号「平氏並北条氏系図」)。

*16:前注同書 P.413。

*17:永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)P.16。典拠は 福島金治「野辺本北条氏系図について」(所収:『宮崎県史』史料編中世一、宮崎県史しおり)。

*18:注2前掲細川氏著書 P.35。典拠は『佐野本 北条系図』・『続群書類従』所収「北条系図」など。

*19:注2前掲細川氏著書 P.46~47。

*20:式部の少丞とは - コトバンク より。

*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その68-北条時広 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*22:左馬助とは - コトバンク より。

*23:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*24:注2前掲細川氏著書 P.35。