Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

摂津高親

摂津 高親(つ の たかちか/せっつ の ー、1306年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武士・吏僚、得宗被官(御内人)。

 

 

史料上における摂津高

細川重男がまとめられた経歴表*1を示すと次の通りである。

 

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№129 摂津高親(父:摂津親鑒、母:未詳)
  生年未詳
  従五位上分脈。『中原系図』<続類従・系図部>)

  宮内大輔(分脈。『中原系図』<続類従・系図部>)
  引付衆(分脈。『中原系図』<続類従・系図部>)

1:元徳2(1330).2.   在官途奉行

2:元弘3(1333).5.22 没(為鎌倉滅亡)
 [典拠]
父:分脈。『中原系図』(続類従・系図部)。『中原系図』(『門司文書』)は親鑒の弟とす。
1:金文419に「官途執筆宮内大輔高親」とある(→後掲【史料4】)。

2:太平記・巻10 「高時幷一門以下於東勝寺自害事」(→後掲【史料8】)。

 

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次に津高の実在および活動が確認できる史料を以下に列挙する。 

 

【史料1】(元徳元(1329)年)8月29日付「金沢貞顕(崇顕)書状」(『金沢文庫文書』)*2:「…兼日為宮内大輔高親奉行…」

【史料2】(元徳年)12月22日付「金沢貞顕(崇顕)書状」(『金沢文庫文書』)より*3

(前略)

一 常陸前司(=小田時知)伊勢前司(=伊賀兼光)佐ゝ木隠岐前等、一級所望事、為宮内大輔奉行、其沙汰候。被訪意見候之間、皆可有御免之由、申所存候了。而城入道(=同前)常陸隠岐両人者、可有御免、伊せ〔伊勢〕ハ難有御免之由被申候云ゝ。刑部権大輔入道同前候歟之旨推量候。伊勢常陸よりも年老、公事先立候。丹後(=長井宗衡)筑後(=小田貞知)日来座下候。近此頭人にてこそ候へ、伊せハ十余年頭人候。器量御要人候之間、一級御免不可有其難候歟之由、再三申候了。宮内大輔披露いかゝ候らん。不審候。あなかしく。

十二月廿二日

(切封墨引)

元徳二正二、北方雑色帰洛便到」 

 

【史料3】(元徳元年?)極月29日付「金沢貞顕(崇顕)書状」(『金沢文庫文書』)*4:「…宮内大輔退座事、…」 

【史料4】(元徳2(1330)年)2月19日付「金沢貞顕(崇顕)書状」(『金沢文庫文書』)より*5

(前略)

注文一通給候了。さしつかひて、前に関東にて官途所望事承候了。無勿体候。此注文を長崎左衛門入道(=長崎円喜ニ見せ候て、返事のやうにしたかひて、官途執筆宮内大輔高親か方へわたすへく候。

(中略)

二月十九日

(切封墨引)

元徳二二廿九、芝三郎便到」

 

【史料5】元徳2年3月26日付「宮内大輔某奉書案」(『越後三浦和田文書』)*6の発給者「宮内大輔

【史料6】元徳3(1331)年12月14日付「宮内大輔某奉書」(『筑前中村文書』)*7:「宮内大輔」の署名と花押

 

【史料7】 (年次未詳)「金沢貞顕書状」(『金沢称名寺文書』)より*8 

(前略)

御乗之路次無為一昨日 十七日酉刻 下着候了。左候□、同前候。返ゝ目出喜入候。神宮寺殿御乳母両人進物、去夕被遣候之処、領納。悦喜候之間、悦思給候。左候者、五月其憚候之間、来月可見候。此程も無心本候。

右馬助貞冬罷当職一級事令申候之処、一昨日有御沙汰、御免候。御教書進之候。小除目之次、可有申御沙汰候。同時ニ駿川駿河大夫将監顕義(=貞顕の兄・金沢顕実の子)越後大夫将監時益*9。・相模前右馬助高基(=元執権・普恩寺基時の子)・相模右近大夫将監時種等御免候了。此人ゝゝ自貞冬上首候之間、不可超越候程ニ不知存候。仍竹万庄沙汰人帰洛之由、令申候之際、事付候。此人ゝゝ同時ニ被叙候之様 (中欠) 人と同日ニ可被叙候。評定衆昇進之時、引付衆・非公人之上首候哉覧と沙汰ある事ハ古今無沙汰事候。旧冬四人評定衆・鎮西管領(=赤橋英時*10御免候しも、引付衆・非公人の上首、御さたなく候き。今度始御沙汰候歟。高基時種等を被付上候。背本意候。官途執筆高親眼□事候之際、父道準令申沙汰候。城入道(=安達時顕)・長崎入道(=長崎円喜はかり相計候云ゝ。内挙も罷官申候も、所望の方人にて候事なと、つやゝゝ無存知人候之間、歎入候。

(以下略)

 

(切封墨引)  五月十九日

  

【史料8】(元弘3(1333)年5月22日)『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より 

去程に高重(=長崎高重)走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門(=長崎高直?)に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿(=北条高時の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。…………其外の人々には、……摂津形部大輔〔ママ〕入道……摂津宮内大輔高親同左近大夫将監親貞、……我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。……元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

 

【史料4】と【史料7】により、鎌倉時代末期には宮内大輔に任官し「官途執筆(=官途奉行)」という役職に就いていた高親という人物がいたことが分かる。そして【史料7】では高親の父が道準であったことも明記されている。同じ頃に「摂津刑部大輔親鑑〔鑒は鑑の異体字」「摂津刑部大輔入道々準」等と書かれた史料が残ることから、【史料7】での道準(親鑒)・高親父子が摂津氏であることが認められよう。軍記物語である【史料8】の内容とも矛盾なく一致しており、他の史料で単に「宮内大輔」と書かれるものも高親に比定される。

官途奉行は幕府において御家人などの官爵叙任を司る役職であった*11が、細川氏によると高親の役割は単なる事務手続きといった形式的なものに過ぎず、官途の推挙(申請)の取捨を行う等の実権は、安達時顕・長崎円喜の手にあったという(官途推挙については他に父・親鑒や金沢貞顕の計4名が発言権を有していたようである)。恐らく高親は若手であったので、政権上層部の意向に従って事務的な作業を行うだけで良かったのであろう。

 

高親の子・摂津時親

『士林証文』には、暦応4(1341)年8月12日付の摂津親秀の譲状が多く収録されており*12、自身の所領を「惣領 能直(よしなお)分」などに分割して相続させる旨を記しているが、その中で唯一例外的に「摂津三郎時親」という項目がある*13。その中身は次の通りである。

【史料9】暦応4(1341)年8月7日付「摂津親秀譲状」

一.摂津三郎時親

右親類等悉所分*1之上者、尤雖可計宛、及訴訟之間不能所分、雖然御沙汰落居*2之後、為惣領之計、以備後国重永別作内本庄半分、武蔵国岩手砂下方半分、可去与時親也、但違惣領之命者、可申賜当所之状 如件、

 暦応四年八月七日  掃部頭親秀

*1: 所領*14

*2: 物事の決まりが落ち着くこと*15 

「右(=摂津時親)親類等」の悉くの所領の事(扱い)について、訴訟に対する沙汰が決定した後に、惣領の計らいとして「備後国重永別作内本庄半分、武蔵国岩手砂下方半分」を摂津時親に与える旨を記したものであるが、「等(など)」という表現からすると当然時親以外の一門も含まれると考えられる。【系図】と照らし合わせれば、対象となり得るのは、親如(ちかゆき)・致顕(むねあき)父子の系統か、時親の系統であろう。

しかし、細川氏によると同文書に「一.隼人正入道宗準 分」と書かれている*16のは、『建武年間記』の関東廂番三番衆の一人に「前隼人正致顕」*17、康永3(1344)年3月21日付「室町幕府引付番文」(『白河結城文書』)の四番に「摂津隼人正入道」と見える*18ことから、致顕が出家した同人ではないかという。すなわち、致顕は別の項目で書かれていることが分かる。

従って、「等」に含まれるのは時親を含む兄・親鑒(道準)の系統で、「親類等悉所分」というのは、北条氏と運命を共にした親鑒やその嫡男・高親の遺領をも指す表現ではないかと思われる。【史料2】・【史料7】などを見れば、鎌倉時代末期において親鑒が摂津氏をまとめる立場にあったことは明白であるが、暦応4年の段階で次の「惣領」に嫡孫・能直を指名できる立場にあったことも踏まえると、親秀は親鑒高親父子の死に伴って摂津氏惣領の座を継承していたと考えられる。

建武元(1334)年5月、別府尾張権守幸時(別府幸時)が、後醍醐天皇から恩賞として「摂津親鑒跡」であった「(上野国)下佐貫内羽禰継」の地を給する綸旨を賜っており(『別符文書』)*19、一方で親秀は1330年代後半から安堵方頭人・引付方頭人としての活動が確認できる*20ので、【史料8】は軍記物語でありながら史実に基づいたものと考えて良いだろう。

尚、当時の時親は「三郎」と称するのみでまだ無官であったことが分かるが、元服してさほど経っていない段階であったからであろう。当時の年齢を元服適齢の10代前半と仮定すると、父・高親の活動期にあたる1330年頃には生まれていたことになる。従って親子の年齢差を考えれば、高親は1310年頃までには生まれていたと推定可能であろう。

 

 

摂津氏歴代の任官年齢

【史料1】より、1329年夏の段階で宮内大輔正五位下相当)*21であったことが分かる。

ここで、次に掲げる摂津氏歴代当主の官職歴を参考にしながら、高親の年齢を推定したいと思う。

 中原師員:1185年~1251年*22

権少外記正七位上相当/権官(13)

少外記(同上/正官)・叙爵従五位下(14)

大蔵権少輔従五位下相当・次官級/権官(15)

従五位上(21)

越前介正六位下相当・国介(次官級))(22)

正五位下・辞大蔵権少輔(31)

兼 大外記正六位上相当)・摂津守従五位下相当・国守(長官級))(47)

兼 大膳権大夫正五位下相当)(50)

従四位上(54)

正四位下(57)  

 中原師連:1220年~1283年*23

権少外記正七位上相当/権官(17)

兼 掃部権助・叙爵従五位下(18)

従五位上(19)

正五位下・辞掃部権助(21)

縫殿頭従五位下相当・長官級(22)

長門介(27)

 摂津親致:1247年~1303年*24

左近将監従六位上相当)(25)

摂津守従五位下相当・国守(長官級)/叙爵?*25(32)

出家(38)  北条時宗逝去に伴う。

 摂津親鑒:1280年頃?~1333年*26

1306~1307年:隼人正正六位下相当)

1310年代?:刑部権大輔正五位下相当・次官級/権官 

*嘉元3(1305)年12月15日付「摂津親鑒下知状」(『金剛三昧院文書』)*27には「散位親鑒」とあったものが、徳治3(1308)年2月7日付「関東下知状」(『東京国立博物館所蔵文書』)*28では「前隼人正親鑑」と記されており、隼人正在任はこの間であったことが分かる。また、文保元(1317)年3月のものとされる「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*29には「刑部権大輔近日上洛之間、」とあり、この時までに刑部権大輔に任官していたことも分かる。

 

祖父・親致との現実的な年齢差を考えれば、高親の生年は早くとも1290年頃の筈である。父・親鑒は生年不詳だが、歴代の官職歴を参考にすれば、正六位下相当の官職を得た1306年頃には20~30代だったのではないかと思われる。勿論、与えられる官職は官位と必ずしも一致するわけではないが、その数年後、正五位下相当の刑部権大輔に任官を果たした時には、中原師員が正五位下になったのとほぼ同じ30歳前半となる。

親子の年齢差を考えれば、この位の時期に高親が生まれたと推測するのが妥当ではないかと思う。前節で1310年頃までに生まれたと推定したが、これで1300年代後半生まれである可能性が濃厚になったと言えよう。

仮に1306年生まれとすると、1329年当時24歳(数え年)にして宮内大輔に昇っていたことになる。親鑒が同じく正五位下相当の刑部権大輔に任官した時30歳程度と推定したから、低年齢化した可能性は十分に考えられる。これより時代が下れば更に低年齢での宮内大輔任官となってしまうため、遅くとも1300年代半ば頃には生まれたと考えるのが良いだろう。よって、高親の生年は1306年頃と推定する

 

*前掲【史料8】の傍線部を見ると、諏訪直性(経)が、先に切腹した長崎高重、摂津道準(親鑒)を「若者共」と呼び、自身を「年老」と発言する部分がある。直性は北条時執権期に元服し「」の偏諱を受けた世代であろうから、遅くとも1270年代の生まれと考えられ、親鑒の方が年少となって辻褄が合う。

 

 

北条高時の烏帽子子

最後に「高親」の名乗りについて考察したい。

」の字については、祖父・致の代から使われているが、細川氏によると中原能を意識して使い始めたものではないかという*30。親致は親能の直系の子孫ではないが、師員を親能の子とする史料が存在しており、実際両者とも中原貞を先祖とするので、その1字を "復活" させたのであろう(前述の摂津能直・能秀(よしひで)父子や、時親の子・能連(よしつら)に見られるように一時期、南北朝時代の摂津氏では親能の「能」字も使われている)

摂津氏では、致―鑒と「親○」型の名乗りであり、他にも【史料8】・【史料9】での貞や秀も同様であった。それに対しはその例外であったが、わざわざ上(1文字目)に掲げる「」が烏帽子親からの一字拝領だったからではないかと推測される。これは言うまでもなく当時の得宗北条からの偏諱であろう。

元服は通常10代前半で行われることが多かったから、前節での推定生年に基づけば、元服当時の執権は、第14代執権・高時(在職:1316年~1326年)*31であることは確実である。当初は将軍側近の家であった摂津氏だったが、得宗専制が強化される中で親致―親鑒の2代に亘り得宗家に接近し、高時政権の中枢を担った親鑒が我が嫡男(高親)の加冠を高時に願い出たのであろう*32。若年での宮内大輔任官も推挙があってのものかもしれないが、親は烏帽子親・時と良好な関係を築き、その政権を支える若者として従い、そのまま運命を共にしたのである。

 

(参考ページ)

 摂津高親 - Wikipedia

 南北朝列伝 ー 摂津氏

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.89。

*2:『鎌倉遺文』第39巻30730号。

*3:注1細川氏著書 P.326より引用。『鎌倉遺文』第39巻30829号。『金沢文庫古文書』414号。

*4:『鎌倉遺文』第39巻30846号。

*5:注1細川氏著書 P.326より引用。『金沢文庫古文書』419号。『鎌倉遺文』第39巻30909号。

*6:『鎌倉遺文』第40巻30992号。

*7:『鎌倉遺文』第40巻31561号。

*8:注1細川氏著書 P.324~325 より引用。尚、この史料は年次未詳であるが、文中に「城入道」とあることから、秋田城介・安達時顕(法名:延明)が出家した嘉暦元(1326)年以後に書かれたものであることは確実である。細川氏によれば、この書状は金沢貞顕の次男・貞冬の官位昇進についてのものであるという。貞冬は右馬助を辞して一級昇進することが認められたが、貞冬の「上首」であった従兄弟の甘縄顕義や北条時益・普音寺高基・北条時種を超越する形で貞冬だけを昇進させるわけにいかないということで、「上首」4名も同時に昇進することとなったようである。これに対し貞顕は、前年の冬に評定衆および鎮西探題が昇進した際には「引付衆・非公人」で「上首」であった者には何の沙汰も無かったという前例まで挙げて不平不満を述べていることが分かる。『鎌倉年代記』裏書によれば、元徳3(1331=元弘元)年9月の幕府軍上洛の段階でも大将の一人として「右馬助貞冬」と名乗っていたから、右馬助を辞す話が出るとすればこれ以後であろう。記載の日付も踏まえると1332年または1333年と推定される。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪。尚、『武家補任』によると時益は元徳2(1330)年の上洛の段階で既に左近将監に任官済みであったという(→ 『史料稿本』後醍醐天皇紀・元徳2年4~7月 P.51)。

*10:鎮西探題在職は1321年頃~1333年(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その31-赤橋英時 | 日本中世史を楽しむ♪ より)。

*11:官途奉行(カントブギョウ)とは - コトバンク より。

*12:『大日本史料』6-6 P.881~

*13:『大日本史料』6-6 P.885

*14:所分(しょぶん)とは - コトバンク より。

*15:落居(ラッキョ)とは - コトバンク より。

*16:『大日本史料』6-6 P.884

*17:【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕を参照のこと。

*18:田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」(所収:『立命館文學』624号、立命館大学、2012年)P.713(四二五)。

*19:3.鎌倉幕府の滅亡と鎌倉後期の佐貫荘 - 箕輪城と上州戦国史幡羅郡家は別府郷にあった成田四家

*20:注1前掲基礎表 No.132「摂津親秀」の項。

*21:宮内省 - Wikipedia  #職員 より。

*22:注1前掲基礎表 No.125「中原師員」の項中原師員(なかはらの もろかず)とは - コトバンク中原師員 - Wikipedia より。

*23:注1前掲基礎表 No.126「中原師連」の項、中原師連(なかはらの もろつら)とは - コトバンク中原師連 - Wikipedia より。

*24:注1前掲基礎表 No.127「摂津親致」の項、摂津親致(せっつの ちかむね)とは - コトバンク より。

*25:『関東評定衆伝』弘安元(1278)年条によると、同年2月に、同じく引付衆であった金沢顕時と共に評定衆に加えられることとなったが、顕時が「左近大夫将監」と記されるのに対し、親致の表記は「左近将監」のみである。両者とも左近衛将監であったが、五位の通称「大夫」を持つ顕時が叙爵済みであったことが窺えよう(→ 左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク を参照)。逆に親致は同年5月の摂津守任官と同時の叙爵だったのではないかと推測される。

*26:注1前掲基礎表 No.128「摂津親鑒」の項、摂津親鑒(せっつの ちかあき)とは - コトバンク摂津親鑑 - Wikipedia より。

*27:『鎌倉遺文』第29巻22417号。

*28:『鎌倉遺文』第30巻23167号。

*29:『鎌倉遺文』第34巻26127号。

*30:注1細川氏著書 P.60。

*31:注1前掲基礎表 No.9「北条高時」の項 より。

*32:高親の遺児・時親については、【史料9】より鎌倉幕府滅亡後の元服と推測されるが、「時」の字は亡き高時の1字を取って命名されたものなのかもしれない。