Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大仏宗泰

北条 宗泰(ほうじょう むねやす、生年不詳(1260年代後半か)~1305年?)は、鎌倉時代後期の武将・御家人。通称は六郎。官途は民部少輔、土佐守。

大仏流北条宣時の子、第11代執権・北条宗宣の弟で、大仏宗泰(おさらぎ ー)とも呼ばれる。

 

 

はじめに

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その75-大仏宗泰 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)*1に従って主な活動経歴を示すと次の通りである。

 

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№75 大仏宗泰(父:大仏宣時、母:未詳)
  生没年未詳
  従五位下(『佐野本北条系図』)
  民部少輔(『前田本平氏系図』。『佐野本北条系図』)
  土佐守(『正宗寺本北条系図』)
01:永仁3(1295).   在引付衆
02:永仁6(1298).04.09 四番引付頭人
03:正安1(1299).04.01 三番引付頭人
04:正安3(1301).08.  二番引付頭人
05:乾元1(1302).02.18 三番引付頭人
06:嘉元3(1305).08.01 二番引付頭人
07:嘉元3(1305).08.22 辞二番引付頭人
 [典拠]
父:『前田本平氏系図』。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。
01:永記・閏2月12日条。引付にみえる「民部少」が官途から宗泰に比定される。
02:鎌記・永仁6年条。
03:鎌記・正安元年条。
04:鎌記・正安3年条。
05:鎌記・乾元元年条。
06:鎌記・嘉元3年条。
07:鎌記・嘉元3年条。

 

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細川氏が述べられるように、「大仏氏の庶流の人ですが、」泰は息子の直とともに、得宗(時時)の偏諱を受けたことが窺える。名乗りや時期からして正しい推測と思われるが、以下本項では具体的な元服の時期を推定するなどして、これについての裏付けを試みたいと思う。

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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尚、系図類によると、宣時の4人の息子*2のうち、宗泰は次男(=宗宣の弟、貞房の兄)に位置付けられている。宗宣が1259年、貞房が1272年の生まれとそれぞれ判明しているので、宗泰の生年は1259~1272年の間とすべきであろう。これを前提に、以下考察をしたいと思う。

 

宗泰の叙爵と民部少輔任官

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上記職員表に示したように、細川氏は、太田時連の日記である『永仁三年記』の閏2月12日条において、引付にみえる「民部少」を宗泰の史料上での初見とする(下記【史料A】参照)

【史料A】(*永仁3年記(http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/nendai/129599.html) より引用)

十二日 丁巳 晴
評定、奥州(大仏宣時)武州北条時村、遠入(名越時基、法名:道西)越入上州、野入(宇都宮景綱、法名:蓮瑜)隠州能州(京極流佐々木宗綱)、勢州(二階堂盛綱、法名:行誓)、豊州(三善矢野倫景)、摂入(摂津親致、法名:道厳)時連。引付、民部少、摂州、常州。常葉備州(常葉時範)丹後の廷尉四番、摂州三番に遷えらる、皆由図書の助一番文副、飯尾中務政有矢野八郎貞倫二番、元政所、津戸小二郎為行、二番合奉、富来孫十光康、四番、肥後二郎頼平、元政所召人、三番、明石民部二郎盛行、三番、岡田五郎左衛門の尉景實、四番、当所公人に召し加えらる、越前孫七政親、五番、召し加えらるべきの由これを仰せ出さる。明石彦次郎、豊前左京の進、皆吉彦四郎侍所に召し加えらると云々。

この史料での人名は、筆者自身の「時連」を除いては原則、通称名で書かれているが、「奥州」=陸奥(=父・宣時)、「上州」=上野介(=兄・宗宣)、「遠入」=遠江入道 のように略記されている。従って「民部少」は民部少輔の略である。

そして、民部少輔従五位下相当の官職であり*3、この当時叙爵*4済みであったことが推測される。細川氏はこの人物を『前田本平氏系図』と『佐野本北条系図』で「民部少輔」(前田本では民部 "小" 輔とするが単なる誤記であろう)と注記される宗泰に比定されたのである。

 

ここで考えたいのが、大仏流北条氏における叙爵の年齢である。

細川氏のまとめ*5によると、大仏流嫡流では宣時が30歳、宗宣が24歳、維貞が17歳と次第に低年齢化していることが分かる。更に生年が判明している宗宣の弟・貞房が庶子でありながら叙爵年齢は19歳であった。従って、宗宣以降の大仏流は嫡流・庶流にかかわらず、叙爵年齢が10代後半に向かって低年齢化していたと判断される。すると、宗泰もその例外ではなく20歳前後だったのではないかと思われる。

【史料A】が叙爵と同年かは分からないが、数年後の史料である可能性も考えて当時20歳位として良いのではないかと思う。

 

 

宗泰の最終官途 および 没年について

冒頭職員表で細川氏は、宗泰の父が宣時である根拠(典拠)として『前田本平氏系図*6『正宗寺本北条系図』・『佐野本北条系図』の3つを掲げておられるが、もう一つ同じように記す系図がある。山口隼正が紹介された『入来院本平氏系図である。次に該当部分を掲げる*7

【図B】

f:id:historyjapan_henki961:20191002154245p:plain山口氏はこの部分を含む北条氏系図について、成立時期を鎌倉時代後期の1316~1318年の間と推定されている*8。そのような古系図なだけあって、編纂前に書かれたからか、最終官途が「越前守」「丹波守」であることが明らかな弟の貞房・貞宣に(途中の官職である)「式部大夫」「兵庫助」と記すなど、独自の貴重な情報も散見される。

そして宗泰についても「土佐守」「嘉元三他□」の注記がある。細川氏によると、『正宗寺本北条系図』は江戸時代の成立で、常葉重高について長崎高重と混同した記載がある*9等の杜撰な誤りも見られるため、正確性には注意を要するという*10。前述の通り『前田本平氏系図』と『佐野本北条系図』で「民部少輔」と注記するのとは異なって、正宗寺本系図では「土佐守」と記すが、上図の入来院本系図によって裏付けができる。すなわち、宗泰は最終的に民部少輔から昇進して国守任官を果たしたと考えられよう

 

「嘉元三他□」については欠字の部分(解読不能か)があるが、山口氏は「他」であると推定される。その嘉元3(1305)年の8月には、二番引付頭人を就任から僅か21日で辞しており、急病等の何かしらの変化があったことが推測される。同年の段階で宗泰が土佐守であったことを確認できる史料は今のところ発見されていないが、『実躬卿記』嘉元4(1306)年3月30日条にある除目の記事で橘以守(もちもり)の土佐守任官が確認でき*11、時期からすると宗泰逝去に伴う人事だったのではないか。よって引付頭人の辞任からさほど経たないうちに亡くなったと推測され、山口氏の(もちもり)見解は正しいと判断できよう。

 

ここで確認したいのが、国守任官の年齢である。

wallerstein.hatenadiary.org

細川氏のまとめによると、大仏流嫡流では宣時が30歳の叙爵と同時に武蔵守、宗宣が43歳で陸奥守と一旦は高年齢化するが、維貞が30歳で陸奥守となって低年齢化している*12。宗宣の弟・貞房は35歳で越前守任官を果たしており、大仏流の国守任官年齢は30代であったと考えて良いだろう*13。従って、宗泰も土佐守任官時30代には達していたと推測される。

 

生年と烏帽子親の推定

以上の考察をまとめると

永仁3(1295)年:民部少輔 … 20歳位

嘉元3(1305)年:土佐守(?) … 30歳位

となり、遅くとも1275年頃には生まれていたことになる。冒頭で述べたように、弟・貞房が生まれた1272年より前になるはずだから、もう数年遡らせて良いだろう。あくまで1295~1305年の間に30歳位で土佐守任官を果たしたとすれば良いので、その時期は【史料A】から数年以内だったのかもしれない。従って宗泰の生年は1260年代後半と推定して良いだろう

その判断材料として、冒頭に述べた北条時宗からの一字拝領の問題がある。時宗が亡くなった弘安7(1284)年4月までに元服を済ませたはずだが、1260年代の生まれとすれば確実に時宗執権期間内の元服となる。よって、大仏は「」の字が(直接の先祖には当たらないと思われるが)第3代執権・北条時にちなんだものとみられるので、兄に同じく得宗北条時を烏帽子親として元服し「」の偏諱を賜ったとみなして問題ないと判断できる*14

【図C】

その裏付けになり得るものとして、田中稔が紹介された、『福富家文書』所収『野津本北条系図*15を掲げておきたい。田中氏などによれば、最終的には豊後国の野津院で嘉元2(1304)年に写されたとされる*16が、奥書には弘安9(1286)年9月7日に新旧校合して書写された旨が記されており、実際に北条氏各系統の系図は当時の得宗・貞時とほぼ同世代の人物で終わっている*17。よって、兄・宗宣(上野前司五郎)の注記「六波羅南方、永仁五年」等一部の追記を除いた大半の部分は弘安9年までに書かれたと考えて良いだろう。宗泰には「六郎」と記すのみで、元服前であったと推測される弟の貞房・貞宣の記載はなく*18弘安9年当時の宗泰は元服から間もない無官(民部少輔任官前)の青年であったと判断できよう。すなわち、宗泰の元服時宗晩年期に行われたと推定可能で、前述の如く生年を1260年代後半とすれば辻褄が合う。よってこれを以って結論としたい。

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.75「大仏宗泰」の項と同内容。

*2:厳密には他に、僧籍に入った宣覚(注1前掲細川氏著書 P.379『前田本平氏系図』では寛覚、或いは寛覚とは別に苅田流北条為時の子に宣覚がいて養子に迎えたとも)がいる。

*3:民部の少輔(みんぶのしょう)とは - コトバンク より。

*4:律令制で、六位から(古代・中世の日本においては貴族として下限の位階であった)従五位下に叙せられること。叙爵(ジョシャク)とは - コトバンク および 叙爵 - Wikipedia より。

*5:注1細川氏著書 P.46。

*6:注1前掲細川氏著書 P.379。

*7:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.28。

*8:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。

*9:常葉重高 - Henkipedia 参照。

*10:注1前掲細川氏著書 P.45。

*11:『鎌倉遺文』第29巻22591号。尚、この時名越公貞が民部少輔への任官を果たしている。

*12:注1前掲細川氏著書 P.36。

*13:宗宣の場合は、武蔵守より転任した父・宣時が得宗北条貞時に追随して出家したのを受けての陸奥守任官であったためタイミングが遅れただけであり、細川氏が「当時の鎌倉政権の家格尊重主義を示す事例」(前注同箇所)とされるように、むしろ宣時―宗宣―維貞3代に亘って同じ国守任官を認められたことこそ評価すべきであろう。従って宗宣は大仏流の国守任官年齢を考える上で例外とみなして良いと思う。

*14:細川氏のほか、紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15・21・23 にも同様の言及がある。

*15:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第5集、1985年)。

*16:前注田中氏論文 P.46。主な収蔵資料 | 史料編纂書(皇學館大学 研究開発推進センターHP)

*17:前注田中氏論文 P.33・45。

*18:前注田中氏論文 P.45。