三浦泰連 (佐原七郎左衛門太郎)
佐原 泰連(さはら やすつら、生年不詳(1230年代?)~1247年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。三浦(佐原)政連(まさつら)の子。通称は太郎(七郎左衛門太郎)。
宝治元(1247)年6月22日条にある宝治合戦での戦死者のリストに「佐原七郎左衛門太郎泰連」が含まれており*1、『吾妻鏡』ではここが唯一の登場箇所である*2。同名の「佐原十郎左衛門尉泰連」およびその子息*3らの後に挙げられており、十郎左衛門尉とは別に "泰連" なる人物がいたことになる。
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その通称名は「佐原七郎左衛門(尉)」の「太郎(=長男)」であったことを表しており、『吾妻鏡』延応元(1239)年正月1日条から寛元4(1246)年8月15日条にかけて6回登場している「佐原七郎左衛門尉政連(=佐原政連)」*4の息子であったと見て良いだろう。
宝治元年当時泰連は元服済みであるから、若くとも10代前半の筈で、遅くとも1230年代後半には生まれていると推測できる。実名の「泰連」は、仁治3(1242)年6月に亡くなるまで3代執権であった北条泰時*5の偏諱が許されており、泰時と泰連は烏帽子親子関係にあったと判断して良いと思う。
親子の年齢差を考えれば、父・政連は『吾妻鏡』登場時期の1240年代には30代半ば以上の年齢に達していたことも推定できる。下記記事にて言及の通り、三浦氏一門における左衛門尉任官年齢は20代後半であり、この条件を十分に満たしている。
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また、政連の仮名「七郎」は佐原氏での傾向を踏まえると、そのまま7男を意味すると考えて良いと思うが、世代的に佐原義連の子と判断される。
*前述の戦死者リストなど『吾妻鏡』での記載に従えば、1240年代当時、例えば義連の次男・盛連の子息であれば「遠江七郎左衛門尉」、3男・家連の子息であれば「肥前七郎左衛門尉」等といったように、父の官途(国守)に因んで呼称される筈であり、「佐原~」と呼ばれ得るのは左衛門尉止まりであった義連の子息である。