Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

三浦泰連 (佐原七郎左衛門太郎)

佐原 泰連(さはら やすつら、生年不詳(1230年代?)~1247年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人三浦(佐原)政連(まさつら)の子。通称は太郎(七郎左衛門太郎)

 

宝治元(1247)年6月22日条にある宝治合戦での戦死者のリストに「佐原七郎左衛門太郎泰連」が含まれており*1、『吾妻鏡』ではここが唯一の登場箇所である*2。同名の「佐原十郎左衛門尉泰連」およびその子息*3らの後に挙げられており、十郎左衛門尉とは別に "泰連" なる人物がいたことになる。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

その通称名は「佐原七郎左衛門(尉)」の「太郎(=長男)」であったことを表しており、『吾妻鏡』延応元(1239)年正月1日条から寛元4(1246)年8月15日条にかけて6回登場している「佐原七郎左衛門尉政連(=佐原政連)*4の息子であったと見て良いだろう。

宝治元年当時泰連元服済みであるから、若くとも10代前半の筈で、遅くとも1230年代後半には生まれていると推測できる。実名の「」は、仁治3(1242)年6月に亡くなるまで3代執権であった北条*5偏諱が許されており、泰時と泰連は烏帽子親子関係にあったと判断して良いと思う。

 

親子の年齢差を考えれば、父・政連は『吾妻鏡』登場時期の1240年代には30代半ば以上の年齢に達していたことも推定できる。下記記事にて言及の通り、三浦氏一門における左衛門尉任官年齢は20代後半であり、この条件を十分に満たしている。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

また、政連の仮名「七郎」は佐原氏での傾向を踏まえると、そのまま7男を意味すると考えて良いと思うが、世代的に佐原義連の子と判断される。

*前述の戦死者リストなど『吾妻鏡』での記載に従えば、1240年代当時、例えば義連の次男・盛連の子息であれば「遠江七郎左衛門尉」、3男・家連の子息であれば「肥前七郎左衛門尉」等といったように、父の官途(国守)に因んで呼称される筈であり、「佐原~」と呼ばれ得るのは左衛門尉止まりであった義連の子息である。

 

脚注

*1:『大日本史料』5-22 P.83 

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.333「泰連 佐原(三浦)」の項 より。

*3:『大日本史料』5-22 P.82

*4:吾妻鏡人名索引』P.283「政連 佐原」の項 より。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。