宇都宮泰綱
宇都宮 泰綱(うつのみや やすつな、1203年~1261年)は、鎌倉時代前・中期の武将、御家人。宇都宮氏第6代当主。『尊卑分脈』*1等によれば、父は宇都宮頼綱、母は北条時政の娘。
この史料により、在京であった泰綱が亡くなった弘長元年の段階で享年59(数え年、以下同様)であったことが分かり、逆算すると建仁3(1203)年生まれとなる。
藤原定家の日記『明月記』嘉禄2(1226)年7月6日条では、3代執権・北条泰時(武蔵守)の意向により、「武蔵太郎(=北条時氏)嫡男(=経時)」が「修理亮泰綱聟(むこ)」になるとの約束が成されたと伝えており、『吾妻鏡』でも、寛喜元(1229)年9月17日条に「修理亮泰綱」とあるのが初見とされ、その後も「宇都宮修理亮」「修理亮泰綱」と6回現れて、嘉禎3(1237)年6月23日条に「宇都宮修理亮泰綱」とあるのが確認できる*2。
前述の生年に基づくと史料における初見の嘉禄2年当時24歳となるが、この時までに元服を済ませ、官職を得ていたことは確実である。「泰綱」の名は執権泰時(在職:1224~1242年)*3の偏諱「泰」が許されたものと見受けられるので、泰時が元服時の烏帽子親となって直接一字を与えたものと考えて良いだろう*4(父・頼綱についても年代や両者の関係性を考慮すると源頼朝からの一字拝領と考えられる*5)。
ところで、前述の生年に基づいて通常10~15歳で行う元服の年次を推定すると、およそ1212~1217年となる。泰綱にとって泰時とは母方の従兄弟関係にあり、畠山泰国(母方の従兄弟)や三浦泰村*6と同様、縁戚関係にあったため泰時が執権となる前でも烏帽子親子関係が結ばれたケースだったのであろう。
前述の通り、泰綱の娘は4代執権・北条経時に嫁ぎ、当初の嫡男であったと考えられる経綱もまた、その偏諱を受けたようである。経綱は男子に恵まれず、代わって景綱が家督を継承するが、その後の「貞綱―高綱(幕府滅亡後は公綱)」も先例に倣って「貞時―高時」と烏帽子親子関係を結んだのであった*7。
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(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№104-宇都宮泰綱 | 日本中世史を楽しむ♪
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.318「泰綱 宇都宮」の項 より。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)より。
*4:江田郁夫 編著『下野宇都宮氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉(戎光祥出版、2011年)P.9。
*5:宇都宮頼綱と牧氏の変: 夢幻と湧源 より。
*7:注4同箇所。