宇都宮公綱
宇都宮 公綱(うつのみや きんつな、1302年~1356年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。宇都宮氏第9代当主。父は宇都宮貞綱、母は長井時秀の娘。初名は宇都宮高綱(たかつな)。
系図類を見ると、公綱の傍注に「本 高綱」(『尊卑分脈』)、「元 高綱」(『諸家系図纂』)、「始 高綱」(『下野風土記』上)と書かれている他、『正宗寺蔵書』の系図では同じく貞綱の子で氏綱の父を「高綱(兵部大輔〔ママ〕 備前守 理蓮)」と載せている*1。すなわち当初は「高綱」を名乗っていたということである。
先学で既にご指摘のように「高綱」の名は、それまでの嫡男(泰綱、経綱、貞綱)が「綱」を通字とし、得宗「北条泰時・経時・貞時」より一字拝領してきた慣例に倣い、得宗・北条高時から偏諱を受けたものとされる*2。
ここで生没年や享年について調べてみると、系図によって様々だが、細川重男氏のまとめによれば、延文元(1356)年10月20日に55歳で亡くなったとする『続群書類従』所収「宇都宮系図」の記載が正しいのではないかとされる*3。逆算すると乾元元(1302)年生まれ。高時が得宗家家督を継承した応長元(1311)年には10歳、14代執権に就任した正和5(1316)年*4には15歳と、元服の適齢を迎える。異説では享年を45、或いは51(『佐野本宇都宮系図』:逆算すると徳治元(1306)年生まれ)と伝えるものもあり*5、これらの場合だと尚更、高時執権期間(1316~1326年)内の元服が確実となる。よって高時と高綱(公綱)は烏帽子親子関係にあったと判断して良いだろう。
管見の限り「(宇都宮)高綱」の名が確認できる史料は見つかっていないと思われるが、弟が「高貞」を名乗ったことは『尊卑分脈』等の系図類のほか、実際の史料でも確認ができる*6ので、兄である公綱が初め「高綱」を名乗っていたという系図類での記載に疑いは無いと思う。
建武元(1334)年8月「(八番制)雑訴決断所結番交名」の一番に「宇津宮兵部少輔 公綱」とあるのが確認でき*7、これが改名後の初見と思われるので、鎌倉幕府滅亡後まもなく改名したものと判断される。
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(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)
● 宇都宮公綱
● 宇都宮公綱
脚注
*1:『大日本史料』6-20 P.883~885 に拠る。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)。江田郁夫 編著『下野宇都宮氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉(戎光祥出版、2011年)P.9。宇都宮経綱 - Henkipedia。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*5:注3同箇所。
*6:『北條九代記』(『鎌倉年代記』裏書と同内容)嘉暦2(1327)年6月条に「宇都宮五郎高貞」とある(→『史料稿本』後醍醐天皇紀・嘉暦2年4~8月 P.25)。