Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

工藤貞景

工藤 貞景(くどう さだかげ、生年不詳(1280年代?)~1333年?/1334年?)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。通称および官途は 六郎、左衛門尉。藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏助光流一族の者と推測される。工藤時光の子で工藤貞祐の弟か。

 

まずは、貞景の実在が確かめられる史料を掲げておきたい。

 

【史料1-a】(嘉元2(1304)年)卯月(4月)2日付「工藤貞景書状案」(『東寺百合文書』)*1:「塩飽入道殿」宛て、署名に「貞景

【史料1-b】同日付「塩飽右近入道書状案」(『東寺百合文書』)*2:「播磨田左近入道」宛て。冒頭に「塩飽右近入道殿返状案 工藤六郎殿仰談候若州田畠弐町余事……」とあり。

*貞景とやり取りした塩飽入道ないしは塩飽右近入道は、貞和2(1346)年2月日付「若狭国太良庄禅勝申状案」(『東寺百合文書』)*3の文中にある同国恒枝保・富田郷などの給主「塩飽右近入道法〔ママ、塩飽右近入道道法か〕*4に比定されるのではないかと思われ、筆者は塩飽盛遠(了暁)の父と推測する。

 

【史料2】(元亨3(1323)年)「東寺供僧申状案」(『東寺百合文書』)*5:文中に「工藤六郎左衛門尉貞景

【史料3】(元亨3年)「東寺供僧申状案」(『東寺百合文書』)*6:文中に「工藤六郎左衛門尉貞景

 

【史料4】(建武元(1334)年?)3月26日付「若狭国太良庄地頭代・脇袋彦太郎代官 僧・順生請文」(『東寺百合文書』):「……将又工藤六郎 并 恒枝保先給主塩飽右近入道状等案文二通副進候、……」*7

【史料5】(建武元年?)3月26日付「若狭国太良庄百姓等申詞」(『東寺百合文書』):「……其後給主工藤六郎殿知行時、……」*8

 

【史料6-a】建武元年4月付「百姓等申詞」(『東寺百合文書』)

「……当荘給主工藤六郎貞景、於関東有其沙汰之処、……」*9

「……一. 工藤六郎貞景状之正文事、可有敵方状にて候、……」*10

【史料6-b】建武元年4月20日付「僧・良厳注進状」(『東寺百合文書』)

「……一. 工藤六郎貞景塩飽右近入道之状等案、」*11

【史料7】建武元年6月26日付「若狭国太良荘百姓等書状」(『東寺百合文書』):「……且先御給主工藤六郎左衛門尉殿、当国永富保 并 国中御内御領于所々、……」*12

この史料により、建武元年に入って貞景の「跡」=旧領が、同国にある北条氏得宗領と共に収公されたことが窺える。前々年(1333年)の鎌倉幕府滅亡を受けての処置であろうから、貞景も東勝寺合戦、或いは後述の大光寺合戦(1334年)で運命を共にしたのではないかと思われる。

【史料8】建武2(1335)年「若狭国太良荘雑掌申状案」(『東寺百合文書』):「……竹向方上表之後者、工藤六郎左衛門尉貞景給之、任竹向之例、二十余箇年知行之、……」*13

 

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この貞景についてはどの系図上でも確認できないが、同じく得宗被官であった工藤次郎右衛門尉貞祐の兄弟と推測する見解もある*14。貞祐については、近年今野慶信が「南家伊東氏藤原姓大系図*15に着目して系譜を明らかにされた。

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▲【図9】今野作成による得宗被官・工藤氏の略系図*16

 

確かに、得宗被官であるだけでなく、貞の「景」が工藤に通ずることからしても、貞祐の近親者であった可能性は高いだろう。「六郎」の仮名や「左衛門尉」の官途を持つことからすると、祐光の子(この場合、貞祐の従兄弟)、或いは貞祐に次ぐ時光の準嫡子(貞祐の弟)のいずれかが有力ではないかと思う。「六郎」は必ずしも6男を表すわけではないことに注意しておきたい。

 

貞祐などの工藤氏一族は20代で左衛門尉、右衛門尉等に初任官する傾向にあったとみられ、貞景もその例外ではないだろう。【史料1】にあるように1304年当時は無官で「工藤六郎(貞景)」とのみ呼ばれていたようだが、これは元服からさほど経っていなかったからであったとみられ、若くとも10代半ば位であったと推測できる。

そして【史料2】・【史料3】が示すように、初出から19年経った1323年当時は左衛門尉に任官済みであったことが分かるが、若くとも30代というのは在任の年齢として全然問題はない。

よって、逆算すると遅くとも1280年代後半の生まれになるだろう。1304年当時、得宗・副将軍(前執権)北条(出家して崇演)偏諱を許されて「」を名乗っていることからすると、貞景は貞時の執権期間(1284~1301年)*17内に元服して一字を拝領したものと判断される。

 

備考

『新編弘前市史 通史編1』には、「後醍醐方では、同年(=1333年)九月には津軽四郡の検注を工藤貞景に命じ、津軽地方の支配固めに入ったのであるが、ことはそう容易ではなかった。津軽の武士のなかにはなお幕府方に思いを寄せるものも多く、実際のところ先の検注の命を受けた貞景自身、のちに幕府方につく人間であるから、右の検注が成功したかどうかも怪しいものである。」との記述がある*18

詳しくは後述するが、この貞景は「工藤治部右衛門二郎貞景」という、通称名が異なる同姓同名の人物である。治部右衛門とは「治部大輔」等治部省関係の役職にありながら右衛門尉に任官していたことを表すとみられ、貞景はその「二郎(息子、本来は次男の意)」であったことになる。従って前述の "六郎" 貞景とは別人と見なすべきであろう。

まずは、貞景に検注を命じたというその書状を紹介する。

 

【史料α】元弘3(1333)年9月24日付「掃部助某等連署奉書案」岩手大学所蔵『新渡戸文書』)*19

(端裏書)「治部衛門二郎殿〔ママ〕 御書下案文」

津軽四郡田数 并 得分員数及給主交名事、帯文書者可令写進之、無其儀者不曰不国急速可被進也、仍執達如件、

 元弘三年九月廿四日 沙弥 有判

  前賀賀〔ママ、加賀カ〕

  掃部助

 工藤治部右門二郎殿〔ママ〕

そして、この「工藤治部右〔「衛」 脱字か〕門二郎」は、翌建武元(1334)年11月19日、持寄城に楯籠っていた旧鎌倉幕府方の名越時如工藤高景*20らが降伏したことにより終結した、いわゆる大光寺合戦から約1ヶ月後、12月14日付けで南部師行陸奥国司の北畠顕家など全軍に報告するために、降伏した捕虜52人と預人21人の名簿としてまとめた「津軽降人交名注進状」(『遠野南部家文書』)にある「工藤治部右衛門二郎貞景*21と同人であろう。この貞景は安保弥五郎入道のもとに身柄を預けられたが「死去」の注記がある通り、何かしらの処分が下される前に亡くなったらしい。

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脚注

*1:『鎌倉遺文』第28巻21782号。ミ函/15/1/:工藤貞景書状案|文書詳細|東寺百合文書ゑ函/12/:工藤貞景書状案|文書詳細|東寺百合文書

*2:『鎌倉遺文』未収録文書99900506号(データベース検索結果より)。ミ函/15/2/:塩飽右近入道書状案|文書詳細|東寺百合文書

*3:リ函/45/:若狭国太良庄禅勝申状案|文書詳細|東寺百合文書

*4:『東寺百合文書』リ之部24~34号-三 P.50『福井県史』通史編2 中世

*5:ゑ函/26/:東寺供僧申状案|文書詳細|東寺百合文書

*6:無号之部/23/:東寺供僧申状案|文書詳細|東寺百合文書小泉聖恵「得宗家の支配構造」(所収:『お茶の水史学』40号、1996年)P.29。

*7:『大日本史料』6-1 P.544~545ゑ函/122/:若狭国太良庄地頭代脇袋彦太郎代僧順生請文|文書詳細|東寺百合文書

*8:『大日本史料』6-1 P.545ゑ函/123/:若狭国太良庄百姓等申詞|文書詳細|東寺百合文書

*9:『大日本史料』6-1 P.546

*10:『大日本史料』6-1 P.547

*11:『大日本史料』6-1 P.548ゑ函/27/:若狭国太良庄良厳注進状|文書詳細|東寺百合文書

*12:『大日本史料』6-1 P.596

*13:『大日本史料』6-2 P.564は函/93/:若狭国太良庄雑掌申状案|文書詳細|東寺百合文書

*14:『福井県史』通史編2 中世

*15:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)。

*16:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*18:『新編弘前市史 通史編1 古代・中世』 P.314

*19:『新編弘前市史 資料編1 古代・中世編』六二九号文書

*20:安達高景とする説が誤りと思われることは 【論稿】大光寺合戦における工藤氏一族について - Henkipedia 参照。

*21:『大日本史料』6-2 P.137