Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

工藤宗光

工藤 宗光(くどう むねみつ、生年不詳(1260年代?)~1333年頃?)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武士。北条氏得宗家被官である御内人藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏助光流の当主。工藤頼光系図では光頼)の嫡男で工藤貞光の父。官途は右近将監。

 

まずは次の系図をご覧いただきたい。

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▲【図A】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*1

 

「南家伊東氏藤原姓大系図*2(以下「大系図」と略記)を基に今野氏がまとめられたものであるが、同氏は以下の各史料における「工藤右近将監」が年代的に宗光(「大系図」では「工藤右近将監」と明記)であると結論付けられた*3

 

【史料1】『親玄僧正日記』永仁元(1293)年10月1日:「…姫御前護刀事、乳夫子息工藤右近為使者示送…」

工藤右近(工藤右近将監)北条貞時(当時の9代執権)娘の乳母夫(乳父)の子息(すなわち貞時娘と乳兄弟)であったと伝えており、今野・山内吹十(やまのうち・ふきと)*4両氏は年代を考慮してこの「工藤右近」を宗光、貞時娘の乳父はその父親である頼光としている。

今野氏によると、前日9月30日条には、親玄僧正がこの工藤右近(宗光)と面会していることも記されているという。

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父・光についてはこちら▲の記事で、その生年を1230年代後半と推測した。今野氏が言われるように「」は元服時に5代執権・北条時偏諱を受けたものと考えられ、時頼治世下の『吾妻鏡』建長5(1253)年正月1日条でその名を確認できるからである。

よって、親子の年齢差を考慮すれば、宗光の生年は1260年頃より後と推測可能である。元服は通常10代前半で行われたから、少なくとも宗尊親王が解任の上で京都に送還された文永3(1266)年*5までにその1字を賜ることは不可能で、得宗被官であること、のちに息子・光も得宗時の偏諱を受けた様子であることからしても、光は北条時の8代執権在職期間(1268~1284年)*6内に元服し、今野氏の推測通り時から「」の偏諱を受けたと判断される。

そして、永仁元年当時右近将監(=右近衛将監)任官済みであったことからすると、当時20代後半~30代に達していた可能性が高いと思われるので、1260年代の生まれとするのが妥当であろう。 

 

【史料2】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*7

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 二 番

  工藤次郎右衛門尉  粟飯原左衛門尉

(略)

 七 番

  安東左衛門尉(重綱?貞忠?) 工藤右近将監

  佐介越前守     南條中務丞

  小笠原四郎     曾我次郎左衛門尉

  工藤左近将監    千竃六郎

(略)

  十二番

  工藤右衛門入道   五大院左衛門入道

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(時宗忌日*8)」の結番を定めたものであるが、"工藤右衛門入道" 杲暁"工藤次郎右衛門尉" 貞祐父子など工藤氏一族が多く割り当てられる中で、7番衆の一人に「工藤右近将監」も含まれている。

この後の史料で「工藤右近入道(出家後の右近将監)」、「工藤右近将監」と2名の登場が確認でき、【図A】より各々宗光・貞光に比定されることは明らかである。

但し「大系図」での貞光の注記は「新右近」であり、基となった系図が作成された当時、同じく右近将監であった父・宗光と区別されてそう呼ばれていたことが分かる。仮に徳治2年当時貞光が右近将監であったとしても、年代的にその呼称は「新右近」であったと考えられるので【史料2】の「工藤右近将監」=宗光と見なすのが妥当であろう。

 

【史料3】正和5(1316)年閏10月18日付「得宗公文所奉書」(『多田神社文書』)*9

攝州多田院塔供養御奉加御馬事、先日被仰下之處、無沙汰云〻、不日可被沙汰進之由候也、仍執達如件、

 正和五年閏十月十八日 □直(花押)

            了□(花押)

            演心

            高資(花押)

 工藤右近入道殿

のちに「御内侍所」長官を務める「工藤右近将監(=貞光)」が現れるので、この史料において内管領長崎高資や、尾藤演心得宗公文所より、摂津国多田院の塔供養奉加の馬について指令を受ける「工藤右近入道殿」は、その父・宗光に比定するしかなかろう。すなわち、この時までに出家していたことが分かる。尚「大系図」には特に出家・入道等の注記は無く、法名についても不明である。

ところで、細川重男の研究*10によると、この時の右近入道(宗光)は多田院造営総奉行であったという。同じく『多田神社文書』には、翌文保元(1317)年5月10日にも同奉行であった「工藤次郎右衛門尉」=貞祐宛ての奉書が収録されているが、こちらは(高資・演心など政治的地位の高い者を含まない)下級職員のみの奉者であることから、細川氏は同じく工藤氏でも右近入道(宗光)次郎右衛門尉(貞祐)では公文所内部での地位に格差があったのではないかと推測されている。

この2人は【図A】により同族であることが判明したが、各々兄・三郎助光と弟・六郎重光の家系であるという違いが元々あり、官途の面でも右近将監(=右近衛将監、従六位上相当)*11の方が右衛門尉(大尉:従六位下、少尉:正七位上 相当)*12より官位が高い。この2つの系統が得宗被官として勢力を伸ばしたことは間違いないが、助光流の方が(得宗から見て)惣領家に位置付けられていたことが窺えよう。


【史料4】元弘4(1334)年2月晦日陸奥国宣」(『留守文書』)*13

(花押 *北畠顕家

陸奥国二迫栗原郷内外栗原并竹子澤内 工藤右近入道 事、為合戦勲功賞、所宛行也、可被知行之由、国宣所候也、仍執達如件、
 元弘四年二月晦日  大蔵権少輔清高 奉
  留守彦二郎殿

留守氏一門・余目家任(いえとう)が「合戦勲功賞」として「二迫栗原郷(のちの栗原郡、現在の宮城県栗原市栗原 并びに 竹子沢内」にあった工藤右近入道(宗光)(=旧領)の知行を命じられている。【史料3】以降宗光の活動は確認できず、没年に関しても不詳であるが、同年7月29日にも「糠部郡七戸内 工藤右近将監」が伊達行朝に宛がわれている*14から、前年(1333年)の鎌倉幕府滅亡時まで息子・貞光の領地とは別に宗光の領地があったと考えられ、故にその頃まで存命であったと推測される。

(関連記事)

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脚注

*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。

*3:注1前掲今野氏論文 P.113。

*4:山内吹十「得宗家の乳母と女房 : 得宗―被官関係の一側面」(所収:『法政史学』第80巻、法政大学史学会、2013年)P.30。

*5:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*7:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*8:注6同箇所によると、時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日である。

*9:『鎌倉遺文』第34巻26002号。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.204~205。

*10:前注細川氏著書 P.118 註(13)。

*11:右近将監(うこんのじょう)とは - コトバンク より。

*12:右衛門の尉(うえもんのじょう)とは - コトバンク より。

*13:『大日本史料』6-1 P.464~465笠原信男「栗原郡における中世の修験 ー羽黒先達及び熊野先達ー」(所収:『東北歴史博物館研究紀要』、東北歴史博物館、2010年)P.54。『鎌倉遺文』第42巻32855号。『仙台市史』資料編1 古代中世(仙台市史編さん委員会、1995年)P.155。

*14:『大日本史料』6-1 P.657