Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

色部長高

色部 長高(いろべ ながたか、生年不詳(1300年代初頭?)~没年未詳(1343年以後))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。色部長貞の嫡男。通称・官途は蔵人。

 

色部氏桓武平氏秩父氏の流れを汲み、地頭職を得た越後国小泉荘色部条の地から「色部」を称するようになったという。鎌倉期の色部氏については清水亮の論文*1に詳しく、以下それに沿って紹介する。

 

f:id:historyjapan_henki961:20210313180019p:plain

▲【図1】色部氏略系図*2

色部氏の家系は、色部公長の息子の代で分かれ、庶子の一人・色部長茂は小泉荘牛屋条の中心地である西部を相続するだけでなく、出雲国飯生荘地頭職も譲与されて、惣領となった兄・色部忠長に次ぐ存在であったことが窺える*3。高橋一樹の見解によれば、長茂の嫡男・色部長行(九郎左衛門尉)は鎌倉末期に北条氏と関係の深い相模・信濃の国衙領に所領を持ち、北条氏被官化していた可能性が高いという*4

historyofjapan-henki.hateblo.jp

そして清水氏は、長行の嫡子・長、嫡孫・長が各々、北条氏得宗時・時の偏諱を受けたと推測されている*5。同氏は長茂流色部氏が貞時以降の得宗から一字拝領を受けるようになった背景について、同じ頃、蝦夷鎮圧の拠点とする関係で鎌倉幕府の統制が強化され、小泉本荘が幕府直轄領(=関東御領)とされたことに着目され、長茂流は積極的に幕府中枢部に接近することで、惣領家と拮抗、もしくはそれを凌駕する政治的位置を保持していたと説かれている*6

 

長高については次の史料が残されていて、その実在が確認できる。

【史料2】建武2(1335)年閏10月4日付「雑訴決断所牒」*7

【史料3】康永2(1343)年3月4日付「室町幕府引付頭人石橋和義奉書案」(反町英作氏所蔵『色部文書』)*8

 (張紙)「十四、左衛門佐遵行状案」

青木四郎左衛門尉武房等申越後国小泉庄事、申状具書如此、於色部遠江権守長倫平蔵人長高秩父左衛門次郎持長山城入道行暁安富大蔵大夫空円(=安富長嗣)者、所被糺明也、至城入道後藤信濃入道闕所分者、不日止本庄左衛門次郎(=持長)以下輩濫妨、任御下文、可被沙汰付、更不可有緩怠之儀之状、依仰執達如件、

 康永二年三月四日  左衛門佐(=和義)

  上椙民部大輔殿  在判

清水氏によると、【史料3】は武蔵国御家人青木武房らが恩賞として与えられた小泉荘内の所領で、本主たちが当知行を行っていることに対して室町幕府に提訴した結果出された引付頭人奉書であるという。

同荘の関東御領化については前述したが、1333年に鎌倉幕府が滅ぶと、その内部にあった安達時顕後藤基胤二階堂行貞(行暁)安富長嗣(空円)北条高時政権中枢メンバーの「(=旧領)」が闕所地として確定されていた(行貞と基胤は幕府滅亡前に逝去)が、小泉荘全体が没収対象地とみなされてしまったためか、同時に色部長倫色部長高の所領も一旦は没収処分を受けてしまったらしい。

【史料2】によれば、長高は同族と思われる秩父貞長(孫太郎)と牛屋条内宮次薬師丸田畠在家をめぐって相論を起こし、去々年(=1333年)に貞長が再度所領の知行を主張して苅田狼籍を行ったことも記されているが、清水氏はこれが同年の鎌倉幕府倒壊を契機としたことは明らかで、長茂流が得宗に接近していたために、幕府倒壊に伴って微妙な立場に置かれていたのではないかと説かれている*9。繰り返すが「」の偏諱はその証左になり得よう。

 

系図類によれば、秩父季長は平武基秩父武基)6世の孫(=来孫)にあたる。同じく武基の来孫にあたる畠山重忠長寛2(1164)年生まれとされる*10ので、季長もそれほど離れた世代ではなかったと思われる。仮に同年生まれとし、なるべく誤差の出ぬよう各親子間の年齢差を平均25として算出すれば、長貞の生年は1289年頃、長高のそれは1304年頃と推定可能である。元服は通常10代前半で行われることが多かったので、長元服当時の得宗北条(1311年家督継承、執権在職:1316~1326年)*11であった可能性は高く、その偏諱を受けることも可能と判断できる。父・長貞自身が一字を拝領したこともあり、続いて息子の元服に際しても「」の偏諱を申請したのではないかと思われる。

 

(参考ページ)

 色部氏 - Wikipedia

 武家家伝_色部氏

 

脚注

*1:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)

*2:注1前掲清水氏論文 P.3 掲載系図川島光男 編『越後国人領主色部氏史料集』(出版:神林村教育委員会、1979年)所収「色部・本庄氏系図」等により作成)、武家家伝_本庄氏 を参考に作成。

*3:注1前掲清水氏論文 P.4。

*4:前注同箇所。

*5:前注同箇所。

*6:注1前掲清水氏論文 P.4・7。

*7:注1前掲清水氏論文 P.9。『新潟県史 資料編 中世』1046号文書。

*8:注1前掲清水氏論文 P.8。『新潟県史 資料編 中世』1047号文書。

*9:注1前掲清水氏論文 P.9。

*10:畠山重忠とは - コトバンク より。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。