色部長貞
色部 長貞(いろべ ながさだ、生年不詳(1280年代後半?)~没年未詳)は、鎌倉時代後期の武将。父は色部長行。子に色部長高。
色部氏は桓武平氏流秩父氏の流れを汲み、地頭職を得た越後国小泉荘色部条の地から「色部」を称するようになったという。色部公長の息子の代で家系が分かれ、庶子の一人・色部長茂は小泉荘牛屋条の中心地である西部を相続するだけでなく、出雲国飯生荘地頭職も譲与されて、惣領となった兄・色部忠長に次ぐ存在であったことが窺える*2。高橋一樹氏の見解によれば、長茂の嫡男・色部長行(九郎左衛門尉)は鎌倉末期に北条氏と関係の深い相模・信濃の国衙領に所領を持ち、北条氏被官化していた可能性が高いといい*3、清水亮氏は長行の嫡子・長貞、嫡孫・長高が各々、北条氏得宗貞時・高時の偏諱を受けたと推測されている*4。清水氏は長茂流色部氏が貞時以降の得宗から一字拝領を受けるようになった背景について、同じ頃、蝦夷鎮圧の拠点とする関係で鎌倉幕府の統制が強化され、小泉本荘が幕府直轄領(=関東御領)とされたことに着目され、長茂流は積極的に幕府中枢部に接近することで、惣領家と拮抗、もしくはそれを凌駕する政治的位置を保持していたと説かれている*5。
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長貞は系図上に記載されるのみで、実際の史料上では未確認だが、嫡男・長高については実際の史料で実在が確認でき、父・長行についても次に挙げる複数の書状が残されている。
【表2】『鎌倉遺文』における色部長行に関する史料(書状)一覧
年 | 月日 | 史料名 | 史料上での表記 | 巻/号 |
『所収文書』 | ||||
永仁6(1298) | 5.11 | 阿忍(諸田長茂)田畠譲状 | 惣領長行 | 26/19679 |
越後・桜井市作氏所蔵『色部文書』 | ||||
乾元2(1303) | □.3 | 関東下知状案 | 平長行 | 28/21612 |
『出羽色部文書』 | ||||
文保3(1319) | 3.18 | 関東下知状案 | 色部九郎左衛門尉長行 | 35/26975 |
『古案記録草案 色部文書』 | ||||
正慶2(1333) | 3.21 | 色部長行譲状案(4通) | さへもんのせう長行 | 46/52152・52153・52154・52155 |
『出羽色部文書』 | ||||
元弘3(1333) | 5.18 | 色部長行著到状 | 色部九郎左衛門尉長行 | 41/32174 |
『越後・桜井市作氏所蔵文書』 |
よって、実際の史料には現れないものの、長行と長高の間の代として「長貞」という人物がいたことは認めても良かろう。反対に系図での記載を否定し得る史料も確認できないので、ここでは色部氏系図での記載を信用しておく。
系図類によれば、秩父季長は平武基(秩父武基)6世の孫(=来孫)にあたる。同じく武基の来孫にあたる畠山重忠が長寛2(1164)年生まれとされる*6ので、季長もそれほど離れた世代ではなかったと思われる。仮に同年生まれとし、なるべく誤差の出ぬよう各親子間の年齢差を平均25として算出すれば、長貞の生年は1289年頃、長高のそれは1304年頃と推定可能である。元服は通常10代前半で行われることが多かったので、長貞の元服当時の得宗が北条貞時(執権在職:1284~1301年)*7であった可能性は高く、その偏諱を受けることも可能と判断できる。
前述したように幕府の小泉荘への介入が強まると、父・長行が惣領家に対抗すべく得宗に接近する過程で、息子(長貞)の元服に際し「貞」の偏諱を申請したのではないかと思われる。尚「貞」字が下(2文字目)に置かれたのは、そのような名乗り方は多く庶子に見られ*8、北条氏側としては色部氏嫡流への配慮から、あくまで庶流である長茂流にそうさせていたのかもしれない*9。これは続く長高でも同様であったが、この時期得宗から偏諱を許されること自体が喜ばしいことであった*10から、特に反発は出なかったように見受けられる。
(参考ページ)
● 武家家伝_色部氏
脚注
*1:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)P.3 掲載系図(川島光男 編『越後国人領主色部氏史料集』(出版:神林村教育委員会、1979年)所収「色部・本庄氏系図」等により作成)、武家家伝_本庄氏 を参考に作成。
*2:注1前掲清水氏論文 P.4。
*3:前注同箇所。
*4:前注同箇所。
*5:注1前掲清水氏論文 P.4・7。
*6:畠山重忠とは - コトバンク より。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*8:必ずしもそうではないがそのような傾向にあったとは考えられる。兄弟間で偏諱の位置を変えた例としては、九条頼経から1字を受けた北条経時と時頼、北条時宗から1字を受けた安達盛宗―宗景 や 千葉宗胤―胤宗、平宗綱―飯沼資宗 などが挙げられる。
*9:同様の例として、北条氏極楽寺流(重時流)の支流である常葉流(範貞―重高)、安達氏庶流の大室氏(義宗―長貞―盛高)などが挙げられる。
*10:そのように考えられる例として、武田信政・石川貞光の系図での注記を見ると、「既に嘉例であったため」或いは「先公(=先代・時光)の嘉例により」各々時政・貞時から偏諱を賜ったと記されている。後世にまとめられた系図であるとはいえ、各々独立した系図史料で「嘉例(=めでたい先例)」と評価されていることは注目に値する。実際、石川氏の他にも小笠原氏・結城氏・工藤氏など得宗専制強化に伴って得宗の一字拝領を願い出る家柄が増加傾向にあったことから、そのような風潮があったと考えて良いのではないかと思われる。