Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

後藤基胤

後藤 基胤(ごとう もとたね、1265年頃?~没年不詳(1330年頃?))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。 

尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によれば、父は後藤基頼、宇都宮頼業(横田頼業)の娘を母とする兄(異母兄か)後藤基宗がいる。官途は信濃守。法名覚也(かくや)か。

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

父・基頼については暦仁元(1238)年生まれと判明しており*2、現実的な親子の年齢差を考えれば、基宗・基胤兄弟の生年は1258年頃より後と考えるべきであろう。歴代の親子の年齢差を参考にして基宗の生年を弘長2(1262)年~文永9(1272)年の生まれとする中川博夫の推定*3が的を射ていると思われ、下記記事では1262年頃の生まれとさせていただいた。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事で言及の通り、基の実名は執権・北条時偏諱を受けたものと判断され、基胤はそれに対して庶子扱いであったと思われる。国史大系本『分脈』での記載通り、基宗が兄、基胤が弟とみなして良いだろう*4。「」の字は千葉氏一門からの一字拝領である可能性が高いが、明らかにすることは困難である。

 

さて、『分脈』の基胤の傍注には「信乃」と記載されているが、恐らく細川重男(特に基胤とは同人扱いにはせず)実名不詳としていた「後藤信濃前司」「後藤信濃入道」と同人なのではないか。後にもその一例を示すが史料上で「信濃」を「信乃」と書いた例は少なくない。細川氏のブログによる経歴表は次の通りである*5

 

>>>>>>>>>>>>>>>


№111後藤某(父:未詳、母:未詳)
  生没年未詳
01:年月日未詳      信濃
02:正中2(1325).05.25 在御所奉行
03:嘉暦1(1326).03.  出家
04:嘉暦1(1326).03.  在評定衆
 [典拠]
01:『鶴岡社務記録』正中2年5月25日条に、「御所奉行摂津刑部大輔入道々準・後藤信濃前司」とある。
02:同上。
03:02・04により、この人は正中2年5月より嘉暦元年3月までの10カ月間に出家したことがわかり、この間の出家の機会として可能性の高いのは嘉暦元年3月13日の高時の出家に従ったことである。よって、このように推定しておく。
04:金文374にある同年3月16日の評定メンバーに「後藤信濃入道」とある。

 

>>>>>>>>>>>>>>>

 

02の2年前、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において「後藤信乃前司」が「銀剱一 五衣一領」を進上しており(『北條貞時十三年忌供養記』)*6、同年の段階で信濃守を辞していたことが分かるので、30~40代での国守任官(参考までに父・基頼は40歳で筑後守に任官)を経た年齢であったことが推測可能である。逆算すると1270~90年代生まれの世代となり、基宗の弟として問題ないと思う。本項では基宗より少し後、1265年頃の生まれとしておく。

 

04の史料も見ておこう。

【史料1】(正中3(1326=嘉暦元)年)3月「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*7

愚老執権事、去十六日朝、以長崎新兵衛尉被仰下候之際、面目無極候。当日被始行評定候了。出仕人々、陸奥守・中務権少輔・刑部権大輔入道山城入道長崎新左衛門尉 以上東座、武蔵守駿河守尾張前司 遅参・武蔵左近大夫将監・前讃岐権守後藤信濃入道 以上西座、評定目六并硯役信濃左近大夫孔子布施兵庫允、参否安東左衛門尉候き。奏事三ヶ条、神事・仏事・□〔乃貢の事、信濃左近大夫(以下欠)

【読み下し】愚老執権の事、去る十六日朝、長崎新兵衛の尉を以て仰せ下され候の際、面目極まり無く候、当日評定を始行せられ候いをはんぬ。出仕の人々……(以下略)

文中の「愚老」・「予」とは一人称*8、すなわち筆者である貞顕で、3月16日に長崎新兵衛尉(実名不詳、新左衛門尉高資の一族であろう)から15代執権就任の知らせを聞いた直後に書かれたものであることが分かる。そして同日の評定のメンバーに「後藤信濃入道」が含まれており、評定衆のメンバーであったことは次の史料によっても裏付けられる。

【史料2】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*9

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行暁

出羽入道道薀        後藤信乃入道

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

「信」と「信」では表記が異なってはいるが、それは「信乃入道道大」も同じで、道大は信濃守であった太田時連に比定される*10から、同一とみなして問題ない(当ブログ他記事でもその都度紹介しているが同様の例は他の多数の史料でも確認でき、美濃を「美乃」と書いた例もある)。そしてこの史料により後藤信濃入道=基胤の法名が「覚也(かくや)」であったことが分かる*11。 

細川氏は前述ブログ記事で「前2代続けて六波羅に転じていた後藤氏が、この人に至って関東で評定衆に昇る。後藤氏、ギリギリで関東中枢に復活!」と述べられているが、実際は恐らく、父に同行した基宗の系統がそのまま在京し、一方の基胤は鎌倉に戻って活動したのではないか。2つの系統に分かれた後藤氏が京都六波羅と鎌倉をそれぞれ拠点にしたと考えられる。

 

その後の基胤(覚也)の消息は不明。但し、【史料2】にあるほとんどのメンバーが1333年の鎌倉幕府滅亡に殉じており、同じくその時まで存命であれば評定衆の一人として巻き込まれていてもおかしくはないと思うが、その関連史料に一切現れないことからすると、山城入道行暁(=二階堂行貞と同様でその直前、1330年前後には亡くなっていたのかもしれない。

鎌倉幕府滅亡時またはそれ以前に亡くなっていたことを裏付け得る史料として、その後南北朝時代に出された以下2点の書状が確認される。 

【史料3】康永2(1343)年3月4日付「室町幕府引付頭人石橋和義奉書案」(反町英作氏所蔵『色部文書』)*12

 (張紙)「十四、左衛門佐遵行状案」

青木四郎左衛門尉武房等申越後国小泉庄事、申状具書如此、於色部遠江権守長倫・平蔵人長高秩父左衛門次郎持長・山城入道行暁・安富大蔵大夫空円(=安富長嗣)者、所被糺明也、至城入道後藤信濃入道闕所分者、不日止本庄左衛門次郎(=持長)以下輩濫妨、任御下文、可被沙汰付、更不可有緩怠之儀之状、依仰執達如件、

 康永二年三月四日  左衛門佐(=和義)

  上椙民部大輔殿  在判

 

【史料4】延文2(1357)年6月11日「越後守護代芳賀高家施行状」(『桜井市作氏所蔵文書』)*13

当国瀬波郡小泉庄内城介入道〔ママ、後〕藤信乃入道二階堂山城入道等事、為兵粮料所々被預置也、一族并同心之輩、依忠浅深、可被配分之由候也、仍執達如件、

 延文二年六月十一日 伊賀守(花押)

  色部遠江(=色部長忠)殿

清水亮も論文で「後藤信濃入道」=基胤とされている。【史料3】・【史料4】での「」という表現により、越後国小泉庄内にあった基胤安達時顕(延明)二階堂行貞(行暁)ら【史料2】にも名を連ねる高時政権中枢メンバーの旧領が、幕府滅亡後闕所地となったことが窺え、【史料4】は色部長忠が芳賀高家(正しくは高貞か)よりこれらの闕所地を「忠の浅深」によって「一族并びに同心の輩」に配分する権利を得たものである。 

 

脚注 

*1:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.393~394。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№110-後藤基頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:中川博夫「後藤基綱・基政父子(一) -その家譜と略伝について-」(所収:『芸文研究』48号、慶應義塾大学藝文学会、1986年)P.38。

*4:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.394。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№111-後藤某 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*6:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709。

*7:『鎌倉遺文』第38巻29390号。『金沢文庫古文書』374号。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.319、年代記嘉暦元年 にも掲載あり。

*8:愚老(グロウ)とは - コトバンク より。

*9:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№194-太田時連 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:法名に「也」字が使われるのは珍しいが、日本史上では空也などの例がある。

*12:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)P.8。『新潟県史 資料編 中世』1047号文書。

*13:前注清水氏論文 P.10。『新潟県史 資料編 中世』2755号。