Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

金沢時直

北条 時直(ほうじょう ときなお、1276年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期から末期の武将、大隅長門・周防守護。金沢流北条実村の子で、金沢時直(かねさわ ー)とも呼ばれる。官途は上野介。

 

 

系譜について

まずは、複数の説が伝わる時直の系譜について整理しておきたい。

 

①『尊卑分脈』・『続群書類従』所収「北条系図」・『諸家系図纂』所収「浅羽本北条系図

実時―実村―時直顕時実政の兄)

②『正宗寺本北条系図』・『野津本北条系図

実時―実村(顕時・実政の兄)

③『系図纂要』所収「北条系図」・『姓氏分脈』所収「北条系図

実時―実政(顕時弟)―実村(政顕兄)時直

 

実時の子・実村が顕時らの父とする系譜が誤りであることは先行研究で既に指摘されている通りである*1

この影響からか、一説に時直を実時の子(実村・顕時・実政らと兄弟)とするものがあるが、児玉真一*2・細川重男*3両氏が③の系譜を支持する見解を示されており、少なくとも「実村―時直」という系譜は正しいと見なして良いだろう

但し、次の【図A】にあるように、鎌倉時代後期の成立とされる「入来院本平氏系図*4でも越後太郎実村の子とするが、その系譜は「実時実村時直」である。これが正しいだろう。よって、①の系譜で顕時・実政らを "時直の弟" ではなく、②のように "実村の弟" と修正すれば良いことになる。この系図では、時直の項に「嘉元三閏十二十七任上野守〔ママ、上野介*5」の注記および男子(=後述する上野四郎のことか?)があったことが記されている。

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▲【図A】『入来院本 平氏系図』より一部抜粋

 

大隅・防長守護として

長門守護代記』の記載の再検討

時直が長門国の守護であったことは『長門守護職次第』で「廿三、上野殿」と記される*6ほか、『長門国守護代記』

二十一 上総介殿真政〔ママ〕 ……(注記省略)

二十二 左京権大夫殿(=北条時村

二十三 上野殿時直 真政舎兄 守護代横溝小三郎清村

とあることで確認ができる。そして田村哲夫によって紹介された同書の異本2種のうち、『長門国守護代記』(南野光子氏所蔵)では「第二十三 北条上野介時直 真政舎兄也 守護代横溝小三郎清村」とほぼ同内容で記載される*7が、一方の『防長両国温知録 所収 長門国国司守護職歴代之記』(岡誠作氏所蔵)では次のように書かれている*8

 北条上総介〔ママ、単なる誤記か〕時直

 上総介真政ノ舎兄、初メ遠江守ト云、後任上野介

 以上北条家支配

 

まず「上総介真政」とはその官職から金沢実政を指すと考えられる。「真」・「実」はともに「さね」と読める。そして時直はその「舎兄」であったと記すが、これは誤りと考えて良い。

そもそも『長門守護代記』は戦国時代の大内義隆まで(岡氏所蔵本『長門守護代記』ではその後の毛利秀就まで)を載せており、近世初頭の成立であることは明らかである*9

*南野氏所蔵本『長門守護代記』の巻末には「橘姓南野氏家系」(系図) が記載されており、戦国期の当主・南野春遠内藤弘偏諱「春」を賜ったことも記されている*10

従って、時直を「真政(=実政)舎兄」としたのは単に『尊卑分脈』室町時代初期成立)を参照したことによるものであろう。よってこの情報を必ずしも信ずる必要は無い。

*一部先行研究では時直を政顕の子とする*11が、これも「真政舎兄」の記載に従って実政と同じく父を政顕としたものに過ぎず、信用に値しないと思う。僅かに『正宗寺本 北条系図』では政顕の次男に「時直」を載せるが、「遁世」と記されるのみで上野介時直と同一人物の確証は無く、近世成立とみられる同系図には一部に杜撰な誤りも見られるので、記載の情報の信憑性はそれほど高くない。ちなみに『入来院本 平氏系図』(前掲【図A】)では政顕次男は「政直」となっている*12

 

また、岡氏所蔵本『長門守護代記』にある、初め遠江守、後に上野介に任じられたとする記載についても検討したい。上野介であったことは実際の書状で確認できるので後述するが、遠江守であったと記すのは『太平記』でその後鎌倉幕府滅亡あたりを描く部分(巻11「長門探題降参事」)のみである(後述参照)遠江守従五位下相当、長官級・国守)から上野介正六位下相当、次官級)という官職経歴も事実上降格となってしまい不自然極まりない。よってこの部分記載も誤伝と判断される。

この影響があってか、北条時直 - Wikipedia では「嘉禎3年(1237年)に式部大輔に叙任。寛元4年(1246年)から建長3年(1251年)まで遠江守となる。」という経歴を載せるが、これは同姓同名の北条時直(時房流、朝直の弟)と混同したものであろう。 

 

 

上野介への任官とその年齢 

前述したように、鎌倉期成立の「入来院本平氏系図」には、嘉元3(1305)年閏12月17日(1306年2月9日)に上野介正六位下相当)に任じられた旨の記載があり、信用しても問題ないだろう。直近では、正応元(1288)年10月7日から上野介であった大仏宗宣が、正安3(1301)年9月27日には陸奥守に昇進していることが確認でき、(間に1, 2人挟むかもしれないが)その後継であったことになる。

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細川重男のまとめによると、鎌倉末期の北条氏内部には幕府の役職を基準とする家格秩序があり、金沢流顕時系・大仏流宗宣系は得宗家・赤橋流と同じく寄合衆家(惣領が執権・連署・寄合衆に就任する最高家格)に属するとした*13が、それでも、山野龍太郎の見解によれば得宗・赤橋両流が将軍を烏帽子親としたのに対し、金沢・大仏両流はそれよりも一ランク低い、得宗家を烏帽子親とする家に位置づけられていたという*14

他の金沢氏庶流の例として、実政・政顕父子も30代後半で上総介正六位下相当)に任官したと考えられる*15ので、時直も上野介任官時30代であった可能性は高いと思う。仮に宗宣と同様、30歳で任官したとすれば、1276年頃の生まれとなるが、父・実村との年齢差の面でも問題はない*16

次節で紹介するが、史料上での初出である永仁2(1294)年までには元服済みであったと考えられ、元服は多く10代前半で行われたから、遅くとも1280年頃までには生まれていたと判断できる。そして上野介任官当時の年齢を考えれば、これを大幅に遡るとは考え難いので、本項では1276年頃の生まれと推定しておく。 

奇しくもこの年は金沢実時が亡くなった年でもある。勿論、実時の晩年期或いは死の前後に生まれた可能性は否定できないものの、この頃1273年に顕実*17、1278年に貞顕*18(いずれも顕時の子)が生まれるなど、実時にとっては孫が生まれるような年代に入っており、「実時―時直」が親子であった可能性が低くなる一つの根拠になり得よう。

 

史料上における時直 

以下金沢時直に関する多数の史料を挙げておく*19

 

【史料1】永仁2(1294)年8月2日付「北条時直覆勘状」(『祢寝文書』)*20:発給者「」の署名と花押

【史料2】永仁3(1295)年8月2日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『祢寝文書』)*21:発給者「」の署名と花押

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「平」は北条氏が平維時の末裔として平姓を称していたことによる。次に示す花押との一致により時直の花押であったと判断できる。

 

【史料3】永仁5(1297)年8月4日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『祢寝文書』)*22:発給者「時直」の署名と花押

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【史料4】永仁6(1298)年8月2日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『坂口忠智所蔵文書』)*23:発給者「」の署名と花押

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【史料5】正安元(1299)年11月8日付「北条時直覆勘状」(『坂口忠智所蔵文書』)*24:発給者「」の署名と花押

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【史料6】正安2(1300)年7月25日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『祢寝文書』)*25:発給者「時直」の署名と花押

【史料7】(正安2年)後7月26日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『坂口忠智所蔵文書』)*26:発給者「」の署名と花押

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【史料8】(正安3(1301)年)7月25日付「大隅守護北条時直覆勘状」(『坂口忠智所蔵文書』)*27:発給者「時直」の署名と花押

*『鎌倉遺文』では、同年8月23日付「鎮西探題御教書案」(『大隅桑幡文書』)での宛名「越後九郎殿」を時直に比定する*28。この人物は永仁7(1299)年正月28日に鎮西評定衆*29、4月10日に鎮西一番引付頭人となった「越後九郎」(「鎮西引付衆結番注文」)*30と同人と考えて良いと思うが、この人物を時直と同一人物とする根拠は全く検討が付かない。ちなみに時直を「越後九郎」とする史料・系図は確認できない。「越後」というのは父親の官職を付したものであり、この頃の越後守としては金沢顕時(1280~1285出家)*31、北条兼時(1288~1295没)*32、赤橋久時(1295~1304転任)*33が挙げられるが、久時の長男・守時が生まれて間もない頃*34なので、その弟が元服済みということは無い。兼時の場合、男子がいたという情報が確認できない。そしてこの頃は、顕時の子・"越後六郎"貞顕が初の任官で左衛門尉となってから4年ほどしか経っていない*35ので、貞顕の弟が元服して間もないために無官であってもおかしくはない。系図類では確認できないが、「越後九郎」は時直ではなく、系図には載せられていない顕時の9男(実名不詳)だったのではないかと思われる。

 

【史料9】嘉元元(1303)年12月23日付「大隅守護北条時直施行状案」(『台明寺文書』)*36:発給者「時直」の署名と花押

【史料10】嘉元3(1305)年12月3日付「大隅守護北条時直裁許状」(『祢寝文書』/『祢寝系図』)*37:発給者「時直」の署名と花押

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*この頃から花押の形が変化しているが、大隅守護としての書状発給に変わりはないので、【史料3】の時直と同人と見なして問題ないだろう。

 

★嘉元3年閏12月17日:上野介任官(『入来院本平氏系図』)

 

【史料11】『武家年代記』裏書・延慶元(1308)年7月9日条

延慶元七…(中略)…九日、御所御出佐介尾州亭、一説上野介□□木備中入道流罪尾張国、依南都訴也、

 

★この間に上野介を退任か。

 

【史料12】延慶4(1311)年2月2日付「鎮西御教書案」(『大隅台明寺文書』)*38:宛名「上野前司殿

【史料13】延慶4年6月2日付「鎮西御教書案」(『大隅台明寺文書』)*39:宛名「上野前司殿

【史料14】正和元(1312)年10月2日付「北条時直御教書案」(『大隅台明寺文書』)*40:「前上野総介〔ママ〕」の署名と花押

【史料15】文保元(1317)年5月8日付「大隅守護北条時直請文」(『大隅台明寺文書』)*41:「前上野介平時直 請文」の署名と裏花押

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【史料16】文保元年5月22日付「大隅守護北条時直書下」(『大隅岸良文書』)*42:「前上野介」の署名と花押

【史料17】(文保元年?)□月2日付「北条時直書状」金沢文庫蔵『雑抄』裏文書)*43:発給者「前上野介時□」の署名と花押

【史料18】元亨元(1321)年4月15日付「北条時直書下」(『二階堂氏正統家譜』十)*44:発給者「前上野介」の署名と花押

【史料19】元亨3(1323)年8月13日付「六波羅御教書案」(『防長風土注進案八吉田宰判山野井村』)*45:宛名「上野前司殿

【史料20】(元亨3年)9月22日付「北条時直書下」(『防長風土注進案八吉田宰判山野井村』/『正法寺文書』)*46:発給者「前上野介」の署名と花押

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【史料21】元亨3年10月8日付「北条時直書下」(『防長風土注進案八吉田宰判山野井村』/『正法寺文書』)*47:発給者「前上野介」の署名と花押

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【史料22】(元亨3年10月27日)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収)*48:この日参加者の一人である「長門上野前司殿」が「銭百貫文」を進上。

 

【史料23】正中2(1325)年3月2日付「北条時直書下」(『防長風土注進案八吉田宰判山野井村』/『正法寺文書』)*49:発給者「前上野介」の署名と花押

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【史料24】嘉暦元(1326)年12月20日付「関東御教書」(『長門忌宮神社文書』)*50:宛名「上野前司殿

【史料25】嘉暦2(1327)年2月29日付「北条時直書下」(『長門一宮住吉神社文書』)*51:発給者「前上野介」の署名と花押

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【史料26】嘉暦2年6月12日付「長門守護北条時直施行状」(『長門忌宮神社文書』):発給者「前上野介」の署名と花押

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【史料27】嘉暦3(1328)年2月16日付「関東御教書」(『長門忌宮神社文書』)*52:宛名「上野前司殿

【史料28】嘉暦3年5月17日付「北条時直書下」(『長門忌宮神社文書』)*53:発給者「前上野介」の署名と花押、押紙に「北条上野助〔ママ〕時直

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【史料29】(嘉暦4(1329)年)7月8日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*54:「(切封墨引)嘉暦四七廿二、上野前司若党帰□便到、……」

【史料30】(嘉暦4年?)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*55:「……去月廿七日御返事、長州上野前司使下向之便、今日到来、委細承候了、……」 

*「長州」は長門国の別称*56

【史料31】元徳元(1329)年11月29日付「関東御教書」(『長門忌宮神社文書』)*57:宛名「上野前司殿

【史料32】元徳2(1330)年10月28日付「北条時直寄進状」(『保阪潤治氏所蔵手鑑』/『長府毛利文書』)*58:「従五位下前上野介平時直」の署名と花押

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【史料33】元弘3(1333)年3月24日付「後醍醐天皇綸旨」(『萩藩閥閲録』所収『吉見家譜』)*59

今度朝敵高時ヵ一類、北条上野前司直元〔ママ〕近日伯州発向之由依之使頼行、為被等討手之大将、唯今所被差向也、早引防長芸石之軍士、可致直元征伐之策者也、綸旨如此、仍執達如件

 元弘三年三月廿四日 左少将奉之
  吉見三河守殿

内容としては、北条高時の一族である時直(直元は誤記)が近々伯耆国に発向するので、吉見頼行を討手の大将として周防・長門・安芸・石見の武士を率いこれを討伐するように命じたものであるが、名前の誤記がある他、頼行は延慶2(1309)年4月28日に没した故人である*60ため、偽文書とされる。しかし動乱期であったこの頃、時直が倒幕方と度々合戦になっていたこと自体は以下史料で確認できる。

 

【史料34】元弘3年3月28日付「伊予忽那重清軍忠状」(『伊予忽那文書』)*61

(前略)一.長門周防探題上野前司時直、引率両国軍勢等、発向当国(=伊勢国、焼払在々所々、構城椁於星岡山之間、押寄三月十二日刻申件城、致散々合戦、時直以下責落軍勢等畢、……

後述の『太平記』以外に時直を「長門探題」とする史料であるが、その実態については「長門探題・周防探題」という鎌倉幕府の機関が設置されていたわけではなく、単に防長守護の俗称に過ぎないと考えられている*62。3月12日、長門・周防両国から伊予国星岡山(現・愛媛県松山市星岡町)へと率いてきた時直の軍勢を、倒幕側の重清が「責め(攻め)落とした」とある。この戦いには祝安親(彦三郎)も参加していたといい(『伊予三島文書』)*63『博多日記』にもその記述が見られる。

尚『博多日記』において時直は「上野殿」・「上州御台(=時直の妻を指す)」などの表記で登場する*64

 

【史料35】元弘3年4月13日付「高津道性軍忠実検状」(『武蔵飯田一郎所蔵文書』)*65:「……於長門国々符国府上野前司城、四月二日合戦、……」

『博多日記』でも同月1日の出来事として厚東氏・由利氏・大峰の地頭、および伊佐の人々が高津入道道に加担し「長門殿御舘」を攻めたとあり、日付に若干の誤差はあれど、これが時直の居城であったことを示す実際の書状である。

 

その後同年5月、六波羅探題鎌倉幕府が相次いで滅ぼされ、九州でも鎮西探題赤橋英時が攻められ自害して果てた。『太平記(巻11「長門探題降参事」)によると、それらの報告を聞き及んだ「長門探題遠江守時直」はやがて少弐貞経(妙恵)島津貞久(道鑑)に対し降伏して助命され、間もなく病死したと伝える*66。『太平記』は元々軍記物語であり、時直がこの頃「遠江守」であったかは疑問だが、近世成立の『南朝編年紀略』において、わざわざ『太平記』を参照したとしながらも「六月十七日 長門探題上野介時直降参、太平、」と記されることから、上記の金沢時直を指していると考えて問題ないだろう。

 

 

北条上野四郎入道の反乱

建武2(1335)年1月12日、長門国府の佐加利山城において「上野四郎入道」が「越後左近将監入道」と兵を挙げて謀叛を起こし、18日貞経の命を受けた吉田頼景法名:宗智)景村父子らの軍勢によって攻め落とされたことが複数の書状に見える*67。両入道は「朝敵」或いは「凶徒」とされ、近世成立の『歴代鎮西志』では「平氏餘燼」*68と記すから、平姓北条氏の残党であったと見なせる。「上野四郎(こうずけ(の)しろう)」は父が上野介でその息子(本来は4男の意)を表す通称と考えられるから時直の遺児と見なされ、無官のまま入道(出家)していたことが窺える。実名・法名ともに不明である。

尚、この推定が正しければ時直の最終官途は「上野介」であったと判断される。生前遠江守に任官していたのであれば、その息子は「遠江四郎」と呼ばれる筈だからである。『太平記』が「遠江守」とした理由は不明だが、やはり鎌倉中期の大仏時直と混同されたのかもしれない。

前述の時直の生年(推定)から判断すると、現実的な親子間の年齢差を考慮して、上野四郎某は1296年頃より後の生まれであったと推測される。出家のタイミングは不明だが、高時或いは泰家の出家への追随、もしくは1333年の鎌倉幕府滅亡或いは父・時直の死のいずれかが考えられるのではないか。無官で「四郎」のまま出家しているので、幕府滅亡時30代に達していなかったのかもしれない。時直の生年はこの上野四郎との年齢差も考慮した。

落城以降、史料上で確認できないため、その際に敗死したと思われる。ここに時直流北条氏は断絶した。

 

(関連記事)

takatokihojo.hatenablog.com

 

(参考ページ)

 北条時直 - Wikipedia

 金沢時直とは - コトバンク

 金沢流北条氏 #北条時直

 

脚注

*1:関靖「金沢氏系図について」(『日本歴史』12号、1948年)以来、この説が採用されている。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.48 註(13) より。

*2:児玉真一「鎌倉時代後期における防長守護北条氏」(所収:『山口県地方史研究』71号、1994年)P.3。

*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.48 註(13)。

*4:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.13。

*5:上野国親王国司(~守)を務める親王任国の一つであり、国府の実質的長官は次官級の上野介であった(→ 上野国 - Wikipedia、典拠は『類聚三代格』)。

*6:『大日本史料』6-2 P.245

*7:田村哲夫「異本『長門守護代記』の紹介」(所収:『山口県文書館研究紀要』9号、山口県、1982年)P.64。

*8:前注同箇所。

*9:前注田村氏論文 P.71~73。

*10:前注田村氏論文 P.73。

*11:金沢時直とは - コトバンク

*12:注4前掲山口氏論文 P.14。

*13:注3前掲細川氏著書 P.42。

*14:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』、思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27)。

*15:規矩高政 - Henkipedia 参照。

*16:実村は生年不詳だが、およそ1244~1247年の間と推定される(→ 金沢顕時 - Henkipedia を参照)。

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その59-甘縄顕実 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*19:花押については花押カードデータベース東京大学史料編纂所)に掲載のものを引用した。

*20:『鎌倉遺文』第24巻18616号。

*21:『鎌倉遺文』第25巻18882号。

*22:『鎌倉遺文』第26巻19424号。

*23:『九州史料叢書禰寝文書』1-90。

*24:『鎌倉遺文』第27巻20287号。

*25:『鎌倉遺文』第27巻20499号。

*26:『鎌倉遺文』第27巻20536号。

*27:『鎌倉遺文』第27巻20828号。

*28:『鎌倉遺文』第46巻51811号。

*29:「大友田原系図」(→ 戸次貞直 - Henkipedia【図2】)貞直の注記内に記載の同日付「関東御教書案」より。『鎌倉遺文』第26巻51811号 または 年代記正安元年も参照のこと。

*30:『薩藩旧記 前編』7(『鎌倉遺文』第26巻20027号、『大日本史料』6-2 P.245)・『旧典類聚』13(『鎌倉遺文』第26巻20028号)より。

*31:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その55-金沢顕時 | 日本中世史を楽しむ♪

*32:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪

*33:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その29-赤橋久時 | 日本中世史を楽しむ♪

*34:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪

*35:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪

*36:『鎌倉遺文』第28巻21710号。『東大史料』嘉元3年12月 P.70

*37:『鎌倉遺文』第29巻22404号。

*38:『鎌倉遺文』第31巻24196号。

*39:『鎌倉遺文』第31巻24299号。

*40:『鎌倉遺文』第32巻24668号。

*41:『鎌倉遺文』第34巻26170号。

*42:『鎌倉遺文』第34巻26210号。

*43:『鎌倉遺文』第34巻26257号。

*44:『鎌倉遺文』第36巻27765号。

*45:『鎌倉遺文』第37巻28483号。佐藤秀成「防長守護小考」(所収:『史学』第82巻第1号、三田史学会、2013年)P.28[史料六]。

*46:『鎌倉遺文』第37巻28531号。前注佐藤氏論文 P.35 註(27)。

*47:『鎌倉遺文』第37巻28546号。前注佐藤氏論文 P.35 註(27)。

*48:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.707。

*49:『鎌倉遺文』第37巻29024号。

*50:『鎌倉遺文』第38巻29690号。

*51:『鎌倉遺文』第38巻29754号。

*52:『鎌倉遺文』第39巻30143号。

*53:『鎌倉遺文』第39巻30262号。

*54:『鎌倉遺文』第39巻30655号。

*55:『鎌倉遺文』第39巻30702号。『金沢文庫古文書』688号(武将編P.126 391号)。大仏高政 - Henkipedia【史料A】。

*56:長州 - Wikipedia より。

*57:『鎌倉遺文』第39巻30783号。

*58:『鎌倉遺文』第40巻31262号。

*59:吉見氏の長門探題討伐 より。

*60:「岡隆信覚書」より(→ 吉見頼行と一本松築城)。

*61:『鎌倉遺文』第41巻32068号。『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年3月 P.73

*62:注45前掲佐藤氏論文 P.33 および 長門探題 - Wikipedia より。

*63:『東大史料』元弘3年5月1~8日 P.71

*64:『博多日記』については 史料編−501博多日記 を参照のこと。

*65:『鎌倉遺文』第41巻32090号。

*66:『大日本史料』6-1 P.40~42「太平記」長門探題降参の事(その1) : Santa Lab's Blog

*67:『大日本史料』6-2 P.241~244

*68:『大日本史料』6-2 P.244。ここでの「平氏」は平維時の末裔として平姓を称していた北条氏を指す。「」は「余」の異体字、「燼(=烬)」は「燃え残り」の意であり、ここでは「余党(残党)」と同義と考えて良かろう。