武田信貞
武田 信貞(たけだ のぶさだ、生年不詳(1280年代?)~没年不詳(1336年以後))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。父は武田宗光。弟に武田時信(七郎五郎)。仮名は弥五郎、官途は伊豆守・大膳権大夫(または大膳大夫)。
建武政権武者所での活動
『建武記』(『建武年間記』)には、延元元(1336)年4月、建武政権での武者所六番の筆頭に結番された人物として「武田大膳権大夫信貞(又は 武田大膳大夫信貞とも)」の記載がある*1。
『尊卑分脈』の武田氏系図(以下『分脈』と略記)を見るとこれに該当し得る人物が2名確認できる。一人は武田信政の子(信時の弟)政綱の孫で「建武々者(=建武武者)所 甲斐守」「信貞イ(異本では「信貞」と記載 の意味)」と注記される貞信*2、もう一人は信政の弟・信隆の曽孫で「建武々者所 大膳大夫 伊豆守」との注記がある信貞*3である。いずれも武田信光から5代目にあたりほぼ同世代であったと考えられるが、官途・実名の一致からすると後者の信隆流武田信貞に比定するのが妥当であろう。ちなみに武者所結番の中に貞信の名は確認できず、貞信での注記は信貞と混同されたが故に誤って挿入されたものと思われる*4。
そして『建武記』からは延元元年当時、信貞が正五位上相当の長官である大膳大夫*5或いはその権官であったことも窺える。
信貞の世代推定
次に、信貞と同様、信光から5代目にあたる人物について確認してみたい。
武田信宗
本家筋(信時流)では武田信宗となる。『系図綜覧』所収『甲斐信濃源氏綱要』(以下『綱要』と略記)によれば、文永6(1269)年に生まれ、建治3(1277)年に執権・北条時宗の加冠によって元服したと伝えられる*6。尚、鎌倉期歴代当主の親子の年齢差は「信光―(34)―信政―(36)―信時―(25)―時綱―(24)―信宗―(23)―信武」(平均28.4歳)となっている。
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武田貞信
政綱流(石和流武田氏)では前述した武田貞信である。祖父の政綱は兄・信時の生まれた1220年より後に生まれた筈だが、『吾妻鏡』での初出が仁治2(1241)年正月23日条の「武田五郎三郎」であるから、信時とさほど年の離れていない弟で1220年代に生まれたと推測される。従って、その孫である貞信もはとこ(又従兄弟)にあたる信宗とさほど離れていない世代の人物であったと思われ、前述の平均年齢を用いれば1270年代後半の生まれと推定可能である。『建武記』建武元(1334)年10月14日条には北山殿笠懸射手の1人として、元服を済ませていた貞信の子「武田石禾三郎政義」が登場しており*7、その数年前元弘の乱に際して上洛した鎌倉幕府軍のメンバーの一人「武田三郎」(『伊勢光明寺文書残篇』)*8も政義であろう。その二十数年前、嘉元の乱(1305年)の折、比留宗広を預かる際の使者を務めた「武田三郎」が貞信ではないかと思われる。
今年嘉元三……四月……廿三日、子刻、左京権大夫時村朝臣誤被誅訖、子息親類脱殃訖、五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、和田七郎茂明、預三浦介入道、使工藤右衛門入道、茂明逐電了、工藤中務丞有清、預遠江入道(=名越時基?)、使諏方三郎左衛門尉、豊後五郎左衛門尉光家、預陸奥守、使大蔵五郎兵衛入道、海老名左衛門次郎秀綱、預足利讃岐入道、使武田七郎五郎、白井小次郎胤資、預尾張左近大夫将監、使長崎次郎兵衛尉、五大院九郎高頼、預宇都宮下野守、使広沢弾正忠、赤土左衛門四郎長忠、預相模守、使佐野左衛門入道、井原四郎左衛門尉盛明、預掃部頭入道、使粟飯原左衛門尉、比留新左衛門尉宗広、預陸奥守、使武田三郎、甘糟左衛門太郎忠貞、預兵部大輔(=甘縄顕実?)、使工藤左近将監、岩田四郎左衛門尉宗家、預相模守、使南条中務丞、土岐孫太郎入道鏡円(=定親)、預武蔵守、使伊具入道、同月四日、駿河守宗方被誅、討手陸奥守宗宣、下野守貞綱、既欲攻寄之処、宗方聞殿中師時館、禅閤(=北条貞時入道崇演)同宿、騒擾、自宿所被参之間、隠岐入道阿清為宗方被討訖、宗方被管〔被官〕於処々被誅了、於御方討死人々、備前掃部助貞宗、信濃四郎左衛門尉、下条右衛門次郎等也、被疵者八人云々、同十四日、禅閤并相州師時移武蔵守久時亭、今日禅〔評〕定始、七月十六日、金寿御前逝去訖、
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武田助政
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こちら▲の記事でも紹介の通り、信貞に同じく信隆を祖とする別系統では、はとこ(又従兄弟)にあたる武田助政(すけまさ)の名が、正中3(1326)年3月23日付「関東下知状」(『甲斐大善寺文書』)*10で確認でき、8年半後の建武元(1334)年9月27日には、後醍醐天皇の加茂神社行幸に足利尊氏が供奉した際の「汲兵」の筆頭に「武田八郎次郎信助」(『小早川家文書』)*11の名が見られ、助政の子・武田信助(のぶすけ)が元服済みで活動期間に入っていたことが窺える。すなわち、元服は通常10代前半で行われたから、信助は遅くとも1320年代の生まれ、その父・助政は1300年代以前の生まれと推定可能である。但し建武元年当時の信助が10代とすると随兵として同行するには若過ぎるように思われるので、助政・信助父子の生年は更に遡るだろう。すると助政の生年も1270~90年代になってくると思われる。
武田盛信
助政の弟・盛信(武田十郎太郎*12、甲斐守)については、以下の史料が確認できる。
● 『太平記』巻16「聖主又臨幸山門事」:延元元(1336)年、湊川の戦いで敗れたことに伴い、三種の神器と共に京を離れ、比叡山のある東坂本に臨幸した後醍醐天皇に随行した護衛兵の中に「武田甲斐守盛正〔ママ〕」*13。この頃は南朝方であったようである。
●『石清水八幡宮記録』:暦応3(1340)年12月12日、86貫355文で厳島神社への小神殿造営に当たった「武田甲斐守」*14
●『御的日記』康永3(1344)年正月29日条:この日の弓始の第一試合に参加した「武田甲斐守」*15
●『伊勢結城文書』/『太平記』巻24:康永4(1345=貞和元)年8月29日の足利尊氏・直義兄弟の天龍寺供養に随行した「武田甲斐前司 盛信」*16
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こちら▲の記事で言及の通り、この頃の武田氏における国守任官年齢は40代ほどであったから、1336年当時甲斐守(従五位下相当)*17であった盛信の生年は遅くとも1290年代と推定可能である。
観応3(1352)年6月7日付の「武田参河(=三河)守殿」宛の足利尊氏書状(『新渡戸文書』)にある「亡父武田甲斐入道聖観跡」*18も時期の近さからして盛信に比定して良かろう。天龍寺参詣より数年ほどで出家し、同年までに亡くなったことが分かる。また、系図には載せられていないため実名不詳ながら、盛信(聖観)の嫡男が三河守に任官していたことも窺え、同様に40代ほどであったと推測される。逆算すると1310年代以前の生まれで、父・盛信と親子の年齢差で問題ない。同年8月5日にも武田三河守に関する書状2点が残存している*19。
武田時信
最後に、『分脈』に信貞の弟として記載される時信(ときのぶ)については、『御的日記』嘉元3(1305)年正月2日の的始の第一試合において曽我次郎左衛門尉忠重に敗れた「武田七郎五郎時信」*20に比定されよう。『分脈』では仮名「七郎二郎」と記載されるが、「二」は「五」が伝写の過程で誤って書かれてしまったものと思われる。
同年の嘉元の乱に際し、北条時村殺害犯の一人、海老名季綱(左衛門次郎秀綱と表記)を足利貞氏(義観)に預ける時の使者を務めた「武田七郎五郎」(前掲【史料A】)および 徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(後掲【史料B】)における5番衆の一人「武田七郎五郎」も時信に同定されよう。
すなわちこの頃、兄である信貞も元服済みであったと推測可能で、次節で述べるが、大斎番文での12番衆の一人「武田弥五郎」が信貞に比定される可能性がある。元服は通常10代前半で行われたから、1290年以前の生まれと考えて良いだろう。
以上、信貞と同じく信光の玄孫にあたる人物の年代推定を行ったが、信貞の生年も1270~80年代とするのが妥当であろう。次節以降では通称・官途の変化を頼りにその裏付けをしていきたいと思う。
鎌倉時代末期における「武田弥五郎」について
【史料B】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*21
(前略)
五 番
武田伊豆守 万年馬〔右馬カ〕入道
武田七郎五郎 渋谷十郎入道(=宗重)
粟飯原後家 亘理四郎左衛門尉(=亘理胤継)
但馬新左衛門尉 斎藤図書左衛門尉
(省略)
十二番
工藤右衛門入道 五大院左衛門入道
出雲守 妙鑑房
武田弥五郎 諏方兵衛尉
内嶋後家 水原図書允
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*22)」の結番を定めたものであり、前述したが、結論から言うと12番衆の一人「武田弥五郎」も信貞に同定されると思う。
『分脈』を見る限り、この人物は「彌五郎」と注記される武田基綱(もとつな)と武田信貞のいずれかに該当し得る*23。基綱については正和3(1314)年12月23日謀叛を企てたとして誅されたとも書かれ、【史料B】当時存命であったと思われるが、『系図綜覧』所収『甲斐信濃源氏綱要』上では「彌三郎」と記載される*24から、「武田弥五郎」は信貞の可能性の方が高いのではないか。
というのも、当時の北条貞時は既に執権職を従弟の北条師時に譲って出家し、あくまで得宗家当主として "副将軍" の立場にあり*25、信貞もその「貞」の偏諱を賜って元服を済ませていたと考えられるからである*26。「武田弥五郎」は元服してさほど経っていないため無官であった当時の信貞の呼称として相応に思う。前述したが、5番衆には弟の「武田七郎五郎」時信も結番されている。
また、『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)には、元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養において、朝には「兵衛佐有範(=日野有範か)」に「馬一疋 栗毛、」を進上し、その後の法要においても「砂金卅両 銀剱一 馬一疋 置鞍、栗毛、」を進上する「武田弥五郎」の名が見られる*27が、これは間違いなく信貞であろう(前述の通り基綱は1314年に亡くなっているため)。ここからも以前の貞時との関係性が垣間見える。
伊豆守から大膳大夫へ ー若狭武田氏を例にー
冒頭で述べたように『分脈』での信貞には「建武々者所 大膳大夫 伊豆守」と注記される。結論から言うと、この記載が正しければ、官途の順序は伊豆守→大膳(権)大夫であったと考えられる。
その根拠として、後世の例にはなってしまうが、大膳大夫に代々任ぜられてきた若狭武田氏を題材に考察してみたいと思う。
5代当主・武田元信は『綱要』によると文明3(1471)年に元服した際、烏帽子親・細川勝元から「元」の偏諱を受けたという*28。以後実名が確認できる史料で、明応8(1499)年8月6日付「室町幕府奉行奉書」の文頭に「武田伊豆守元信」*29とあったものが、三条西実隆の歌日記『再昌草』*30永正16(1519)年12月20日条には「武田大膳大夫元信朝臣、過(すぎ)し廿六日(=11月26日)得度す」とあり*31、伊豆守から大膳大夫へと昇進していること、その大膳大夫が得度(出家)前の最終官途であったことが窺える。
6代・武田元光は父・元信(或いは同様に細川氏)と祖先・武田信光、各々の1字による名乗りであろうか。『親孝日記』大永元(1521)年10月6日条に「武田伊豆守殿」とあり*32、『若狭神宮寺文書』には同じ宛名(「根本神宮寺衆徒」宛て)と花押を持ち、同3(1523)年11月17日付で各々「伊豆守」・「元光」と署名している書状が収録されていて*33、元光も父同様に伊豆守任官を果たしたことが窺える。そしてこの後に現れる「武田大膳大夫」も転任後の元光と考えられている。
7代・武田信豊(初め光豊)も天文8(1539)年12月に伊豆守に任ぜられた(『歴名土代』)*34が、この頃同族である甲斐の武田晴信(のちの信玄)が任官されていたこともあって最後まで大膳大夫に任ぜられることはなかったという*35。
これらを見るだけでも、 伊豆守→大膳大夫という順序で昇進することは十分にあり得たと考えられる。
*その他、国守→大夫となったケースとしては、政村流北条時村(陸奥守→武蔵守→左京権大夫)*36、金沢貞顕(越後守→右馬権頭→武蔵守→修理権大夫)*37、大仏維貞(陸奥守→修理大夫)*38などが挙げられる。
信貞の伊豆守、大膳権大夫任官
筆者は、信貞が元亨3年以後、『分脈』での記載通り「伊豆守」に任官したのではないかと推測する。
『分脈』そのものが南北朝時代から室町時代初期にかけての成立であり*39、同族の部分でも武田盛信の注記「甲斐守」や、その甥・武田信助の「八郎次郎」が実際の史料で裏付けられることは前述した通りであるから、信貞の弟・時信の注記がほぼ正確であることからしても、信貞の注記「伊豆守」だけが誤りであるとは思えない。
そして、前節で述べたように、伊豆守→大膳大夫という順序で昇進することは十分にあり得たから、信貞は大膳(権)大夫任官前の鎌倉時代末期に伊豆守になっていたのではないかと推測される。
前述の『伊勢光明寺文書残篇』にある元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」*40にある「武田伊豆守」が信貞と推測されることは次の記事を参照のこと。
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そもそも大膳大夫とは、令制での大膳職における、正五位上相当の長官であり*41、大膳権大夫はその権官である。大膳大夫・権大夫で各々定員が1名と定められていた*42。
直近では、建武元(1334)年に長井広秀が大膳権大夫に補任されており(『関東将軍家政所執事次第』)*43、同年正月の関東廂番結番(『建武記』)*44および冒頭で掲げた武者所の四番筆頭*45にも「長井大膳権大夫広秀」の名が確認できるが、『師守記』暦応3/興国元(1340)年正月27日条で「長井前大膳権大夫広秀」*46と書かれるまでには辞したようである。
考えられるとすれば、
● 延元元年の武者所結番で「長井大膳権大夫広秀」が「長井前大膳権大夫広秀」の誤り(脱字)で、その後継として信貞が大膳権大夫となった。
● 恐らくは鎌倉幕府滅亡の1333年頃、信貞が大膳権大夫となり、翌建武元年を迎えるまでに正官(大膳大夫)となり、後継の大膳権大夫(権官)に広秀が就任。延元元年の武者所結番では「長井大膳権大夫広秀」と「武田大膳大夫信貞」が並ぶ。
のいずれかであろう。恐らくは後者と思われるが、伊豆守の後に建武政権下で大膳権大夫→大膳大夫への昇進が認められたと推測されよう。
事績のまとめ(推定)
● 徳治2(1307)年:5月、鎌倉円覚寺での大斎結番12番衆「武田弥五郎」
● 元亨3(1323)年:10月27日の北条貞時13年忌供養に参加の「武田弥五郎」
● 元弘元(1331)年:10月15日、元弘の乱に際し江馬越前入道を大将とする軍勢に「武田伊豆守」が従軍し上洛。
● 延元元(1336)年:4月、建武政権での武者所六番筆頭「武田大膳大夫信貞」
脚注
*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*3:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:『甲斐国志』では『建武記』の「武田大膳権大夫」を政綱(石和)流の貞信に比定する(→ 甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション)が、これも誤りであろう。
*5:大膳の大夫(だいぜんのだいぶ)とは - コトバンク より。
*6:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*8:『鎌倉遺文』第41巻32135号・32136号。『群書類従. 第拾七輯』P.258・261 も参照のこと。
*9:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店、1979年)P.59。『編年史料』後二条天皇紀・嘉元3年5~6月 P.2~4。
*10:『鎌倉遺文』第38巻29446号。
*11:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169 二九四号。
*12:父・政嗣が「太郎(七郎太郎)」で、『分脈』曰く兄・助政も当初は「太郎四郎」を名乗ったらしいので、盛信も正しくは「太郎十郎」であったかもしれないが、史料上では確認できないので後考を俟ちたい。
*16:『大日本史料』6-9 P.287・315。他に 同書P.247・250・275・304の各史料でも「武田甲斐前司」の名が確認できる。
*20:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、創価大学大学院、2012年)P.395 注43。太刀岡勇気「政治力を示す場としての弓場始」(2006年)。
*21:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ (細川重男氏のブログ)によると、時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日。
*23:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*24:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*25:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.263~264 注(55)を参照のこと。
*26:「貞」の偏諱を2文字目にしているのは、恐らく既に元服していた武田貞信との重複を避けるためであろう。又は貞信(石和流)に対する庶流扱いのためとも考えられる。
*27:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.706・708。
*28:元信の父・国信は畠山持国(徳本)の俗名から、叔父(国信の弟)の元綱も同様に勝元から、各々1字を賜ったと思われる。いずれも元服当時の幕府管領であった人物からの一字拝領である。
*29:『大日本古文書』家わけ第八『毛利家文書之一』P.147(一六七号)。
*30:三条西実隆とは - コトバンク より。
*31:『大日本史料』9-10 P.34・同9-13 P.380。
*34:『史料稿本』後奈良天皇紀・天文8年11~12月 P.95。
*35:武田信豊 (若狭武田氏) - Wikipedia より。典拠は 木下聡「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」(所収:『若狭武田氏』〈シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻〉戎光祥出版、2016年)。
*36:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その46-北条時村 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*37:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*38:北条維貞 - Wikipedia より。修理大夫は従四位下相当官(→修理職・修理大夫(おさめつくるつかさ)とは - コトバンク)。
*39:尊卑分脈 - Wikipedia、尊卑分脈とは - コトバンク より。
*40:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*41:大膳大夫とは - コトバンク より。