Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

金沢貞顕

北条 貞顕(ほうじょう さだあき、1278年~1333年)は、鎌倉時代後期~末期の武将、御家人、北条氏一門。金沢顕時の嫡男。母は遠藤為俊の娘・入殿。金沢流北条氏の第4代当主で、金沢貞顕(かねさわ ー)とも呼ばれる。鎌倉幕府においては第12代連署、第15代執権を歴任した。

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金沢貞顕北条貞顕)の肖像画(国宝、称名寺蔵、神奈川県立金沢文庫保管)

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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金沢流では、初代・(初名:実義)が第3代執権の長兄・北条時から1字を受けて改名し、2代・が泰*1、3代・(のち顕時)が北条宗を*2、それぞれ烏帽子親として元服を遂げたことが判明しており、嫡流は代々得宗家と烏帽子親子関係を結んでいたことが指摘されている*3

」の名もこの慣例に倣い、永井晋が説かれる通り、得宗北条偏諱」と父・顕時の「顕」によって構成されたと考えて何ら問題はないだろう*4

 

細川重男のまとめ*5によると、『北条時政以来後見次第』東京大学史料編纂所架蔵影写本、以下『北次第』と略記)に元弘3(1333)年の鎌倉幕府滅亡に殉じた時56歳(数え年、以下同様)であったといい、逆算すると弘安元(1278)年生まれとなる。

*異説として、『武家年代記』正和4(1315)年条の貞顕の注記に「正中三五十八出家七十二」の記載があり*6、逆算すると建長7(1255)年生まれとなるが、元服する2年前の顕時(時方)8歳の時の子となってしまって矛盾するため、細川氏が述べられる通り、誤りである。

 

吾妻鏡』を見ると、実時・顕時はともに10歳で元服を遂げており、貞顕の元服の年次も同年齢を迎える弘安10(1287)年頃であったと推測可能である。同7(1284)年からは貞時が9代執権の座にあり*7顕も執権・時を烏帽子親として元服したと考えて良いだろう。

 

同8(1285)年の霜月騒動の影響により初出仕が遅れたらしいが、『北次第』には貞顕の最初の活動として、永仁2(1294)年12月16日に左衛門尉となり、東二条院後深草天皇中宮・西園寺公子)の蔵人を兼務した旨が記されている*8。この当時17歳で元服済みであったことは確かだろう。

 

永井氏によると、顕時追善供養のために起草された諷誦文では、貞顕が3人の兄を超越して家督を継いだと記されており、「3人の兄」とは僧籍に入った庶長子の顕弁(けんべん)を除く顕実・時雄・顕景を指すと考えられ*9元服の際に名乗った最初の通称も、父・顕時の越後守に因んだ「越後」と6男を表す「六郎」を合わせた「越後六郎」であったという*10。永井氏は、「六郎」は実際に長幼の順によって付けられたもので5人の兄がいたのではないかと説かれている系図類では確認できないが、前述の4人の他に夭折した兄がもう一人いたのかもしれない)

特に顕実・時雄は同母の兄で、貞顕は「生まれながらの嫡子ではなかった」*11はずだが、それまでの家督継承者のみに許されていた得宗偏諱を賜っていることもまた事実であり、元服の段階では嫡男に定められていたのではないかと思われる。逆に言えば、得宗偏諱を受けずに先に元服したであろう顕実・時雄は、元服の段階では庶子(もしくは準嫡子)扱いであったものと推測される*12。貞顕が嫡子となった理由について、永井氏は器量によって選ばれたのではないかと説かれている*13。 

 

 (関連記事)

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(参考ページ)

北条貞顕 - Wikipedia

 金沢貞顕(かねさわさだあき)とは - コトバンク

南北朝列伝 ー 金沢貞顕

 

脚注

*1:吾妻鏡』天福元年12月29日条。

*2:吾妻鏡』正嘉元年11月23日条。

*3:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志編 『日本中世政治文化論の射程』 思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27) より。

*4:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.3。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.96。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:注4前掲永井氏著書 P.15 および 注5前掲職員表。

*9:注4前掲永井氏著書 P.5~6。

*10:注4前掲永井氏著書 P.3・5。

*11:注4前掲永井氏著書 P.6。

*12:顕実は文永10(1273)年生まれと判明しており(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その59-甘縄顕実 | 日本中世史を楽しむ♪)、1282年頃の元服と思われるが、その実名は父・顕時の「顕」と祖父・実時の「実」によって構成されたと思われ、恐らくは顕時が烏帽子親を務めたのであろう。時雄も恐らくは父・顕時が加冠を務め、嫡子に定めていた貞顕に関しては顕時が得宗・貞時に加冠と偏諱を願い出たのではないかと思われる。

*13:注4前掲永井氏著書 P.17。