Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

土岐頼貞

土岐 頼貞(とき よりさだ、1271年~1339年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人守護大名歌人。父は土岐光定。母は北条経時の娘か(後述参照)室町幕府の初代美濃守護。主な通称 および 官途は、隠岐孫二郎、伯耆守、伯耆入道。法名存孝(ぞんこう)。

 

 

生年と烏帽子親について

『尊卑分脈』土岐氏系図(以下『分脈』と略記)『開善寺過去帳『常楽記』『土岐累代記』などによると、頼貞(存孝)は暦応2(1339)年2月23日に亡くなったとされ*1『村庵小稿』*2「土岐伯州源頼貞公画像賛并序」でも同月21日に発病し、22日の「明日(=23日)」に逝去とするが、その享年を「年六十九歳」(数え年、以下同様)とする*3。逆算すると文永8(1271)年生まれとなり、下記参考ページなどでもこれが採用されている。

ちなみに『分脈』には、孫・頼康の傍注に嘉慶元(1387)年12月25日(西暦:1388年2月3日)瑞岩寺に於いて70歳で卒去した旨の記載があり、逆算すると文保2(1318)年生まれとなる。祖父―孫の年齢差を考慮しても、頼貞の生年は遅くとも1270年代とすべきであろうから、文永8年生まれというのは十分妥当であると言えよう

この生年を信ずれば、北条貞時が9代執権に就任した弘安7(1284)年4月*4当時、14歳と元服の適齢を迎える。頼の「」は執権に就任して間もない時が烏帽子親となって偏諱を与えたものと考えて良いだろう。実際は誤りと思われるが『分脈』で母が北条貞時の娘と書かれていることが、却ってその近い関係性を暗示していると言えよう。

尚、別説として「明智氏一族宮城家相伝系図書」(以下「宮城系図」とする)では享年を76と記載し、逆算すると1264年生まれとなるが、この偏諱の観点からすると採用し難い。或いは「67歳」等の誤記とも考えられよう。

 

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尚、光国以降の当主は代々、祖先・源頼光の「光」を通字としていたが、貞の場合は光・国父子間で継承された「」を "復活" させている*5。このような事例は、特に鎌倉時代後期において他家でも多く見られた現象である。以後、頼貞の系統(美濃土岐氏)は足利将軍の偏諱を受けた者を除き「頼」を通字としている。

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▲本稿投稿当時のNHK大河ドラマ麒麟がくる』に登場する、土岐氏当主の土岐芸(よりのり)、土岐源氏出身とされる主人公・明智

 

 

母親について

『分脈』では頼貞の母親について「母平貞時女 定親同母」との注記があり、北条貞時の娘と解釈されているが、貞時は頼貞と同い年*6であるため、「貞時―頼貞」を「外祖父―孫」とするには年代が明らかに合わず、北条時定(経時・時頼の弟)の誤記*7などと考えられている。

池田町宮地の河野氏から分家した大野町瀬古、古川村の「河野氏系図」には、光定の妻が北条経時三女とあるらしい。一般の個人系図であるため、一応情報の扱いには注意を要するが、「宮城系図」でも同様に「北條武蔵守平経時 或又北條相模守平貞時女共云々」と記載されているから、特に他の説が見当たらないことからしても、一定の信憑性は置けるのではないか。ちなみに、この河野氏は鎌倉から嫁いだ北条氏の娘にお供して美濃に移り、その後土岐氏より土地を与えられて帰農したと伝えられる。

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経時は1224年生まれであり*8、 頼貞がその孫として1271年に生まれたとしても、祖父―外孫の年齢差として十分相応である。よって『分脈』での記載は「母平経時女」とすべきところを「貞時」と誤記または誤写してしまったものと推測される*9。 

 

史料における頼貞

詳しくは後述するが、頼貞が実際の史料上に現れるのは数え54歳の時であり、それまでの活動は不詳である。但し、その間に次の史料が確認できる。

 

【史料1】『鎌倉年代記』裏書・嘉元3(1305)年条*10より

今年嘉元三……四月……廿三日、子刻、左京権大夫時村朝臣誤被誅訖、子息親類脱殃訖、五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、和田七郎茂明預三浦介入道、使工藤右衛門入道茂明逐電了、工藤中務丞有清遠江入道(=名越時基?)、使諏方三郎左衛門尉、豊後五郎左衛門尉光家陸奥守、使大蔵五郎兵衛入道、海老名左衛門次郎秀綱足利讃岐入道、使武田七郎五郎白井小次郎胤資尾張左近大夫将監、使長崎次郎兵衛尉、五大院九郎高頼宇都宮下野守、使広沢弾正忠、土左衛門四郎長忠相模守、使佐野左衛門入道、井原四郎左衛門尉盛明掃部頭入道、使粟飯原左衛門尉、比留新左衛門尉宗広陸奥守、使武田三郎甘糟左衛門太郎忠貞預兵部大輔、使工藤左近将監、岩田四郎左衛門尉宗家相模守、使南条中務丞、土岐孫太郎入道鏡武蔵守、使伊具入道、同月四日、駿河守宗方被誅、討手陸奥守宗宣下野守貞綱、既欲攻寄之処、宗方聞殿中師時館、禅閤(=北条貞時入道崇演)同宿、騒擾、自宿所被参之間、隠岐入道阿清宗方被討訖、宗方被管〔被官〕於処々被誅了、於御方討死人々、備前掃部助貞宗信濃四郎左衛門尉、下条右衛門次郎等也、被疵者八人云々、同十四日、禅閤并相州師時武蔵守久時亭、今日禅〔評〕定始、七月十六日、金寿御前逝去訖、

この史料の伝えるところだと、嘉元3(1305)年4月23日、連署北条時村が誤って殺害される事件が起こり、翌月にはその討手12名が斬首(但し和田茂明は逐電して生き延びた)となったが、その中に「土岐孫太郎入道鏡」が含まれている。

この人物は『分脈』において「隠岐孫太郎」・「出家鏡圓(=鏡円)」・「左京大夫時村合戦懸前被討」等と注記される土岐定親(さだちか)に比定される。頼貞の同母兄でありながら、蜂屋頼俊(山県頼経の子で蜂屋氏祖)*11の子・頼親の養子となって*12跡目からは外れていたようである。

いわゆるこの嘉元の乱における頼貞の詳細な動向は確認されていないが、特に兄・定親(鏡円)に連座した様子が見られないことから、貞時との繋がりもあってか得宗側について生き残ったのであろう。一方、乱の首謀者とされる北条宗方も頼貞の義兄弟(妻の兄または弟)にあたるが、定親が反時村方(事実上の宗方サイド)についたのもその婚姻関係を通じての交流があったためかもしれない。

 

【史料2】(元亨4(1324=正中元)年)9月26日付「結城宗広書状」(『越前藤島神社文書』):「……土岐伯耆前司宿所 唐笠辻子……」*13

『鎌倉遺文』第40巻31512号にある宗広書状(『伊勢藤島神社文書』所収とする)も全く同文であり、恐らくはこの【史料2】と同一物であろう。そして、署名が法名の「道忠」ではなく「宗広」となっていることから出家して「白河上野入道」と称したことが史料で確認できる嘉暦4(1329)年*14より前のものであることも分かる。

この史料は、後醍醐天皇による最初の倒幕計画=正中の変(1324年)の知らせを受けた宗広が、上野七郎兵衛尉(=長男・親朝か*15に書き送ったものとされる。この書状の中では、情報が鎌倉に届いた直後の9月23日に、土岐伯耆前司の鎌倉・唐笠辻子の屋敷にも幕府の兵が押し寄せて家臣たちを捕縛したと書かれている*16

この時討たれた多治見国長について『花園院宸記』9月19日条に「田地味丶丶国長 伯耆前司頼員〔ママ〕外戚之親族云々」とあること*17に加え、『分脈』等の系図類や、後掲【史料9】とも照合すれば「土岐伯耆前司伯耆前司は「前伯耆守」の意)伯耆守であった頼貞に比定されよう。前述の生年を採れば、この当時54歳となるが、伯耆守を辞した後の年齢としても十分相応と言える。

最終的に頼貞個人が咎められた形跡は無いため、事件とは無関係だったと思われるが、一族*18天皇への加担者として幕府軍に討たれたため、惣領である頼貞にも嫌疑がかけられたものとみられる。

 

【史料3】元徳3(1331)年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』)

 被成御教書人々。次第不同。
武蔵左近大夫将監  遠江入道
江馬越前権守    遠江前司
千葉介貞胤    小山判官高朝
河越参河入道
貞重 結城七郎左衛門尉朝高
長沼駿河権守
(宗親) 佐々木隠岐前司清高
千葉太郎
胤貞   佐々木近江前司
小田尾張権守
(高知) 佐々木備中前司(大原時重)
土岐伯耆入道     小笠原又五郎
佐々木源太左衛門尉(加地時秀) 狩野介入道
貞親
佐々木佐渡大夫判官入道導誉 讃岐国守護代 駿河八郎

 以上廿人。暫可在京之由被仰了。

 嶋津上総入道
貞久 大和孫六左衛門尉高房

この史料は、『新校 群書類従』に『光明寺残篇』の翻刻を掲載する際に、その異本から挿入された部分であるといい、『鎌倉遺文』にも収録されている*19

これは後醍醐天皇による2度目の倒幕運動=元弘の変に際し、幕府が京へ差し向けた軍勢の名簿であり、その中に「土岐伯耆入道」も含まれている。これも【史料2】の後に「土岐伯耆前司」が出家した同人、すなわち頼貞(存孝)に比定されよう*20

以下、同じ通称名を持った人物が度々史料上に現れるが、同じく頼貞(存孝)に比定される。1333年の鎌倉幕府滅亡に殉ずることなく、足利尊氏に従い生き残ったことが窺えよう。

 

【史料4】正慶元(1332)年6月日付「山城臨川寺領目録」(『山城天龍寺文書』):「……地頭土岐伯耆入道并一族云々……」*21

 

【史料5】建武元(1334)年12月23日付「源家満軍忠状」(『熊谷家文書』)*22:「美濃国鵜飼庄一方地頭太郎三郎家満申、依謀叛人蜂起事、去十八日、土岐伯耆入道代官神戸五郎入道共令内談、……(中略)……同日戊時、土岐伯耆八郎(=頼仲か)相共渡阿志賀河之先陣」

 

【史料6】足利尊氏関東下向宿次・合戦注文(『国立国会図書館所蔵文書』)*23

足利宰相関東下向宿次
  建武二八二進発

(中略)

 

十九日、辻堂・片瀬原合戦
  御方打死人敷
 三浦葦名判官入道々円 子息六郎左衛門尉
 土岐隠岐五郎(=貞頼) 土岐伯耆入道兵庫頭(=頼古?)、同舎弟(=頼孝?)

 昧原三郎
  手負人
 佐々木備中前司父子 大高伊予権守
 味原出雲権守 此外数輩雖在之、不知名字、
  降人於清見関参之、
 千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉
 海上筑後前司   天野参川権守
 伊東六郎左衛門尉(=祐持?) 丸六郎
 奥五郎
 諏方上宮祝三河権守頼重法師於大御(以下欠) 

隠岐五郎については、『分脈』で光定長男・国時の孫にあたる貞頼に「隠岐五郎」と注記があり*24、これに従っておく。

*兵庫頭兄弟の人物比定については佐々木紀一氏の説*25に従う。『分脈』等では "十郎太郎"頼古(よりふる?)と "十郎次郎" 頼孝を親子とする*26が、佐々木氏が説かれる通り、伯耆十郎(=伯耆守頼貞の「十郎(=10男)」頼兼)の「太郎(=長男)」、「次郎(=次男)」と見なすのが妥当であろう。

 

【史料7】(建武3(1336)年*27『太平記』巻17「隆資卿自八幡被寄事」より

……城中是に躁れて、声々にひしめき合けれ共、将軍(=尊氏)は些共不驚給、鎮守の御宝前に看経しておはしける。其前に問注所信濃入道々大土岐伯耆入道存孝と二人倶して候けるが、存孝傍を屹と見て、「あはれ愚息にて候悪源太(=頼直?)を上の手へ向候はで、是に留て候はゞ、此敵をば輒く追払はせ候はんずる者を。」と申ける処に、悪源太つと参りたり。存孝うれしげに打見て、「いかに上の手の軍は未始まらぬか。」「いやそれは未存知仕候はず。三条河原まで罷向て候つるが、東寺の坤に当て、烟の見へ候間、取て返して馳参じて候。御方の御合戦は何と候やらん。」と申ければ、武蔵守(=高師直、「只今作道の軍に打負て引退くといへ共、是御陣の兵多からねば、入替事叶はず、已に坤の角の出屏を被打破て、櫓を被焼落上は、将軍の御大事此時也。一騎なりとも御辺打出て此敵を払へかし。」畏て、「承り候。」とて、悪源太御前を立けるを、将軍、「暫。」とて、いつも帯副にし給ける御所作り兵庫鎖の御太刀を、引出物にぞせられける。……

 

【史料8】建武5(1338)年5月11日付「足利直義御教書」(『熊谷家文書』)*28

越前国凶徒誅伐事、所被仰于土岐伯耆入道也、使共事可令勤仕状如件、

  建武五年五月十一日 (直義花押)

 熊谷小四郎殿

 

【史料9】暦応2(1339)年2月18日付「足利直義奥上署判下文」(『土岐家文書』)*29

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下 土岐彦九郎頼重

 可令早領知美濃国妻木郷

  多藝庄内多藝嶋榛木地頭

  職事

右任祖父土岐伯耆守頼貞

法師 法名存孝 今月十七日譲状可令

知行之状 如件以下

 暦應二年二月十八日

源朝臣(花押 *足利直義

【史料9】は頼貞が亡くなる僅か5日前の史料であるが、その前日(2月17日)に頼貞が孫の頼重に向けて譲状を発給していたことが記されている。『村庵小稿』に21日発病とあることは冒頭で前述した通りであるが、譲状発給の理由を考えれば、この頃からその予兆があったと判断して良かろう。

婚姻関係・烏帽子親子関係を通じて繋がりのあった北条氏得宗家に鎌倉幕府滅亡の直前まで従い、続いて清和源氏・北条氏末裔という同じルーツを持つ足利尊氏*30の室町新幕府樹立を見届け「御一家(=足利氏)の次、諸家の頭」(『家中竹馬記』)、「土岐絶えば足利絶ゆべし」(『土岐家聞書』)とまで信任された頼貞*31は、その69年の生涯を閉じたのであった。

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▲土岐頼貞公の墓(旧光善寺跡、https://tabi-z.com/tokiyorisada-no-haka より拝借)

 

尚、没年については次の史料にも存孝(頼貞)33回忌についての記載があって裏付けが可能である。

【史料10】『後愚昧記』応安3(1370)年12月15日条:「十五日、雨下、今日土岐大膳大夫入道(=頼康 入道善忠)下向尾州了、……(中略)……明年(=1371年)正月〔ママ、"祖"脱字カ〕入道存考〔ママ〕相当卅三廻之間、為執行彼仏事云々、……」

 

(参考ページ)

 土岐頼貞 - Wikipedia

 土岐頼貞(とき よりさだ)とは - コトバンク

南北朝列伝 #土岐頼貞

 美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂): 佐々木哲学校佐々木哲のブログ)

佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(上)(下){所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』39巻(2012年)・40巻(2013年)}

 宝賀寿男「古代氏族系譜集成にみる土岐一族 土岐一族関係系図の各種検討(試論)―

 

脚注

*1:『大日本史料』6-5 P.429

*2:続群書類従』12(文筆部 巻第331)所収(村庵小稿 - 成田山仏教図書館蔵書目録 より)。室町時代の画僧・周文の伝記を概括した、希世霊彦『周文都管像賛』の別名(→ 周文)。

*3:『大日本史料』6-5 P.428

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:頼貞の「頼」については、別説として佐々木哲が妻の父である北条宗頼に由来するのではないかと推測されている(→ 美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂): 佐々木哲学校)が、宗頼は弘安2(1279)年に亡くなっており(→ 『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月、P.5)、それまでに9歳以下で元服を済ませたとはあまり考え難い。頼貞の弟・頼久についても同様である。よってこの「頼」はやはり摂津源氏の通字と見なすのが妥当であろう。

*6:但し、貞時は得宗家の慣例に従い、建治3(1277)年に7歳で先に元服を済ませている。注4前掲同箇所より。

*7:美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂): 佐々木哲学校 より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪より。

*9:『分脈』では同様の記載ミスが他にも確認できる。例えば、尊卑分脈 - Wikipedia や 源義清 (左京権大夫) - Wikipedia で紹介しているところだと、源義忠の子・義清の母を「平盛の娘」とするが、年代的に合わないため、正しくは「平盛の娘(=忠盛の姉)」と考えられている。

*10:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店、1979年)P.59。

*11:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*12:『分脈』および 蜂屋氏 - Wikipedia より。

*13:『鎌倉遺文』第37巻28835号。書き下し文は 年代記元弘元年 を参照。

*14:宗広の出家時期については 結城宗広 - Henkipedia を参照のこと。

*15:南北朝列伝 #結城親朝 より。【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図I】親広(改親朝)の注記にも「白河七郎」・「左兵衛尉」とある。

*16:南北朝列伝 #土岐頼貞 より。

*17:佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(上) P.37 および 同(下) P.46。

*18:『花園院宸記』同年9月19日条では土岐十郎五郎頼有、同年10月3日付「和田助家着到状」では土岐伯耆十郎(頼貞の子・頼兼か)とする。

*19:『鎌倉遺文』第40巻31509号。『新校 群書類従』第19巻 P.738

*20:現存の史料からだと、その少なさから頼貞の出家時期を特定するのは難しいが、タイミングとしてあり得るとすれば、正中3(1326)年3月の得宗北条高時の出家への追随が考えられよう。

*21:『鎌倉遺文』第41巻31771号。

*22:『大日本古文書』家わけ第14「熊谷家文書」P.204 二二三号

*23:『神奈川県史 資料編3 古代・中世(3上)』3231号。大須賀氏二 #大須賀宗朝 にも掲載あり。

*24:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*25:佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(下) P.45、P.49 注(25)。

*26:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*27:太平記』では7月13日とするが、実際は6月30日であるという。

*28:『大日本古文書』家わけ第14「熊谷家文書」P.84 六〇号

*29:群馬県立歴史博物館寄託。書状の画像は 特別展『~光秀の源流~ 土岐明智氏と妻木氏』|土岐市美濃陶磁歴史館 ー 土岐市文化振興事業団翻刻明智城は4度落ちた?|城田涼子|note より。

*30:足利氏は源義家の子・義国の流れを引く名門で、途中足利泰氏が泰時の外孫、続く頼氏が時頼の甥であるなど婚姻関係を通じて北条氏の血を引いていた。

*31:土岐頼貞(とき よりさだ)とは - コトバンク より。