Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

京極貞氏

佐々木 貞氏(ささき さだうじ、1290年頃?~1355年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。

京極流佐々木宗氏の子*1。母は佐々木宗綱の娘貞宗の姉)京極貞氏(きょうごく ー)、鏡貞氏(かがみ ー)とも呼ばれる。息子に鏡高治長岡貞高伊吹秀氏松下秀敦鏡貞佑がいたと伝わる*2

 

 

生年と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事で紹介した通り、父・宗氏については1269年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考えれば、貞氏の生年は1289年頃より後とすべきである。

 

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また、こちら▲の記事で紹介した弟・高氏(のちの佐々木導誉の生年=1296年 より前には生まれているはずである。『尊卑分脈』では、宗氏の子を貞氏高氏の順で載せるだけでなく、母親にあたる宗綱の女子の注記にも「佐渡判官宗氏妾 貞氏高氏等母」と書かれており(下図参照)、通称(輩行名)の点でも高氏が「四郎」なのに対し、『諸家系図纂』によると貞氏は「三郎」であったという*3ので、貞氏が兄で先に生まれたと判断される。

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▲【図A】『尊卑分脈』より

 

以上より、貞氏の生年は1289年頃~1290年代前半と推定される

紺戸淳の論文では、の名が得宗北条から偏諱を受けたものと推測されている*4。貞時は正安3(1301)年まで第9代執権を務め、その後も "副将軍" として応長元(1311)年まで存命であり*5、前述の推定に従えば、貞氏の元服当時の得宗となる。父・が北条時、弟・が北条時の偏諱を賜ったことは上記各記事で述べた通りであるから、氏も時と烏帽子親子関係を結んで一字拝領を許されたと判断して問題ないだろう。1289年の生まれとすれば、貞時が執権を辞した年に13歳(数え年、以下同様)元服の適齢を迎えるので、貞時執権期間内に済ませたものと判断される。

 

 

宇多源氏佐々木氏の国守任官年齢について

ここで、他の例も見ながら、佐々木氏における国守任官年齢について考察してみたい。

家祖にあたる高祖父・佐々木信綱は養和元(1181)年頃の生まれとされ、『民経記』によると寛喜3(1231)年正月29日に近江守に任官したという*6。すなわち任官年齢は51歳ほどであったことになる。

承久2(1220)年生まれの曽祖父・氏信は、『吾妻鏡』での表記の変化から建長8(1256)年に37歳で対馬となっていたことが分かる*7。正嘉2(1258)年8月には対馬守を辞しているが、弘安6(1283)年10月には64歳で父・信綱にゆかりの近江守への任官が認められている*8

氏信の息子たちについても見ていこう。長男・頼氏(1242年生)44歳の時、霜月騒動での恩賞として豊後守への任官が認められている。頼氏に代わって跡目となった4男・宗綱(1248年生)の場合、『関東評定衆伝』弘安4(1281)年条で「佐々木能登源宗綱」と記されており*9引付衆となった34歳までに国守任官を果たし辞していたことが分かる。3男・満信は【図A】に弘安2(1279)年に24歳で亡くなったとあるが、息子の宗氏・黒田宗満兄弟との年齢差の観点から、享年は『諸家系図纂』にある34が正しい。そして前述の通り宗氏が「佐渡大夫判官」を称していることから、父である満信が亡くなる34歳までに佐渡守任官を果たしていたことが推測できよう。

参考までに、佐々木氏嫡流となった、氏信の兄・泰綱の六角流佐々木氏でも、泰綱が28歳壱岐守、その嫡男・頼綱も恐らくは同年齢で備中守となったことが判明している。恐らく "準嫡流" たる京極流の者がこれより若い年齢で任官を果たすことは無いだろう。

 

以上の考察により、佐々木氏では時代を下るにつれ、30代前半にまで低年齢化していたと推測される。 

 

 

近江守貞氏の出家

【図A】によれば貞氏近江守に任官したといい、「佐々木近江入道」等の名が多くの史料上で確認できることは後述するが、その在任時期が生年の判断基準の根拠になり得ると思う。

系図にある通り、弟の高氏(道誉)は正中3(1326)年3月23日に烏帽子親である北条高時の剃髪に追随する形で、国守任官を果たさないまま出家を遂げたため、その後は「佐々木佐渡(大夫)判官入道」等で呼称されている*10。それに対し兄であった貞氏は国守にまで昇進していたことになる。

ここで、元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養について記された『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)を見ると、「佐々木近江前司」が「銀劔一 馬二疋 置鞍、栗毛、、」、「佐渡大夫判官」が「太刀一 左巻、馬一疋 置鞍、栗毛 、」をそれぞれ進上しているが、『神奈川県史』は各々貞氏高氏に比定する*11。これが正しければこの時には貞氏は近江守を既に辞していたことになり、1290年頃の生まれとすればこの当時34歳となって、祖父である満信や宗綱と同様になるので、十分にあり得る想定である。一方、弟の高氏は28歳であったから国守に任官するには少々早かったものと見受けられ、3年後の出家の際には近く国守任官の予定があったのかもしれない。

 

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但し、こちら▲の記事で紹介の通り、同元(1321)年12月29日付「除目聞書」(『二階堂氏正統家譜十』)*12には「近江守源貞清」とあり、この日の小除目*13で同族の佐々木貞清(塩冶貞清)近江守に任ぜられたことが窺え、正中2(1325)年5月には「守護人 前近江守源朝臣」の署名で書状を発給しているため、「佐々木近江前司」はこの貞清にも比定し得るので注意が必要である。

尚、前述の『貞時供養記』には法要への参加者として「友近江守」の名があり、大友貞宗が元亨3年当時現役の近江守在任者であったことが分かる。貞宗は出家する正中3年まで近江守に在任していた。

 

【史料1-a】(元徳元(1329)年)12月5日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*14

(前欠)可得其意候、

一.彼堂事、月公状并注文給候了、のとかに能々み候て、不審候者、重可申候、

一.北方(=六波羅探題北方・常葉範貞)使者山本九郎帰洛之由、承候了、

一.能書人不尋出之旨同前、猶々可有御尋候、宗人等者、はか々々しく尋出候ハしと覚候、他所の仁に申され候へく候、一童雑色等事、子細同前、

一.刑部権大輔入道(=摂津道準)代官参申旨承候了、可被入御意候、

一.長門六郎兵衛入道跡事、同承候了、尤不審候、舎兄者、行意か諸事計申候之旨、語申候き、不実候哉、あなかしく、

 十二月五日

(切封墨引)「元徳元十二、親政下人便到、」

 

【史料1-b】(元徳元年)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*15

長門六郎兵衛入道跡、いかやうにゆつりて候やらん、子息等年少にて、弥御要人不足に候事、返々々歎入候々々、又京都も不審候、能々内々者可有御用心候也、今月十二日御札、同廿三日到来候了、

一.佐々木近江入道子息等返状、慥賜候了、

一.出雲次郎左衛門尉(=波多野通貞?)返状、同到来候了、

一.聞書一通、同前、返状、同到来候了、

一.聞書一通、同前、

一.神津五郎兵衛尉秀政、於播州所領他界之旨、承候了、暇も不申候て下向之条、不可思儀〔議〕候、右筆奉行五人つゝにて候しか、刑部権大輔入道奉行にて、近年六人になされ候事、不可然覚候、時に欠出来もくるしからす

【史料1-a】は、出家後の摂津親鑒法名:道準)に比定される「刑部権大輔入道」の他、正中3(1326)年に出家した二階堂忠貞(の法名)と思しき「行意」 が文中に現れることから、1326年以後の史料であることは確実で、墨引にあることから元徳元(1329)年に書かれたものと見なせる。

そして、同じく「長門六郎兵衛入道跡」について言及されている【史料1-b】も元徳元年、或いはその前後といった時期に書かれた可能性が高い。この史料中に「佐々木近江入道」なる人物が確認できる。

前述した元亨3年の「佐々木近江前司」の出家後の姿である可能性が極めて高い。但し、元弘の乱塩冶高貞の活動が確認できることから、『諸家系図纂』の記載通り正中3(1326)年3月28日に亡くなったと思われる、その父・貞清に比定される可能性は低く、「佐々木近江入道」=貞氏だったのではないかと思う(この理由については後述も参照)

『諸家系図纂』「佐々木系図*16では貞氏は建武2(1335)年の出家とするが、実際には鎌倉幕府滅亡前に済ませていたと推測される。弟の高氏(道誉)に同じく高時の出家に追随した可能性が高いのではないか。

 

併せて『光明寺残篇』に収録の、次の史料3点も見ておきたい。

 

【史料2-a】元徳3/元弘元(1331)年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』)

 被成御教書人々。次第不同。
武蔵左近大夫将監  遠江入道
江馬越前権守    遠江前司
千葉介       小山判官
河越参河入道
    結城七郎左衛門尉
長沼駿河権守
(宗親) 佐々木隠岐前司
千葉太郎
      佐々木近江前司
小田尾張権守    
佐々木備中前司(大原時重)
土岐伯耆入道     小笠原又五郎
佐々木源太左衛門尉(加地時秀) 狩野介入道

佐々木佐渡大夫判官入道 讃岐国守護代 駿河八郎

 以上廿人。暫可在京之由被仰了。

 嶋津上総入道
  大和孫六左衛門尉高房

*この史料は、『新校 群書類従』に『光明寺残篇』の翻刻を掲載する際に、その異本から挿入された部分であるといい、『鎌倉遺文』にも収録されている*17

 

【史料2-b】元弘元年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*18

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥守        河越参河入道
 小山判官       佐々木近江入道
 佐々木備中前司(大原時重)  千葉太郎
 武田三郎         小笠原彦五郎
 諏訪祝(時継?)     高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道       長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉     安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞) 吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助      駿河八郎
 千葉介      長沼駿河権守(宗親)
 小田人々       佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道   宇佐美摂津前司
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)  □野二郎左衛門尉
 湯浅人々     和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道       遠江前司
 武田伊豆守       三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)  狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道       信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫    結城七郎左衛門尉
 加藤丹後入道    加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道  美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参
 
【史料2-c】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*19
大将軍
 陸奥守遠江国       武蔵右馬助伊勢国
 遠江尾張国       武蔵左近大夫将監美濃国
 駿河左近大夫将監讃岐国  足利宮内大輔三河国
 足利上総三郎        千葉介一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国   宇都宮三河権守伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国      小山大夫判官一族
 小田尾張権守一族      結城七郎左衛門尉一族
 武田三郎一族并甲斐国    小笠原信濃入道一族
 伊東大和入道 一族      宇佐美摂津前司一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族 安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族 河越参河入道一族
 三浦若狭判官(時明)    高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司一族     同備中前司(大原時重)
 千葉太郎

勢多橋警護
 佐々木近江前司  同佐渡大夫判官入道(高氏/導誉)

(*史料2-b・2-cはいずれも http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

これら史料3点は、元弘の乱に際して上洛した鎌倉幕府軍の名簿であり、「佐々木近江前司」と「佐々木近江入道」の2名が確認できる。【史料1-b】より後の史料であるから、各々別人と判断して良いと思われ、【史料2-a】での「遠江入道(=名越宗教カ?)」・「遠江前司」と同様に、同じ国守を退任して出家した者とそうでない者がいたことになる。

「佐々木近江前司」を貞氏とした場合、「佐々木近江入道」に該当する人物がいなくなる。ちなみに前述の貞清系図類も含めて出家したとする記録が確認できない。故に、【史料1-b】も含めて「佐々木近江入道」を貞氏と判断した次第である。

 尚、「佐々木近江前司」については、建武元(1334)年9月27日、後醍醐天皇の加茂神社行幸足利尊氏が供奉した際の随兵の一人「佐々木近江前司貞継*20に比定されるのではないかと思われる。但し貞継については、掲載されていないことから系図上での位置は不明であり、研究の余地を残している。

 

 

南北朝時代における貞氏

最後に、鎌倉幕府滅亡後の貞氏(善観)に関する史料を紹介する。

 

【史料3】暦応4(1341)年正月20日足利直義、「佐々木近江入道」を遣わし、大和国の神官・雑賀西阿を攻撃(『朽木文書』)*21。 

【史料4】貞和3(1347)年11月21日:「佐々木近江守 法師 法名善観」、将軍・足利尊氏から近江多賀社の地頭職を与えられる(『正閏史料』)*22

冒頭(端裏書か)には「近江守貞氏善観ハ高氏道誉ノ兄」の注記があり、『分脈』(【図A】)での貞氏の注記「近江守」・「法名善観」に一致する。更に、永徳元(1381)年12月12日付書状(『周防佐々木文書』)の文中に「…佐々木近江四郎義敦祖父善観譲状…父秀敦対舎兄対馬守秀氏……」とあり*23、 『分脈』と照合すれば善観=貞氏であることは確実となる。

【史料5】『園太暦』観応2(1351)年正月16日条:「佐々木近江入道善願〔ママ〕*24

【史料6】観応2年2月13日:将軍・尊氏、細川頼和(細河余一頼和、和氏の子)に「越後国白河荘上下条 佐々木近江入道」を与える(『野田文書』)*25

【史料7】観応2年6月24日:「佐々木近江守法師、法名善観」、将軍・尊氏から遠江国浅羽荘の地頭職 および 同国小杉郷を与えられる(『佐々木寅介氏所蔵文書』)*26

【史料6】から【史料7】へは、貞氏の領地の鞍替えが行われたものと推測される。

【史料8】(文和2(1353)年)2月28日興福寺が出した訴状の宛名に「佐々木近江入道殿*27

【史料9】『賢俊僧正日記』文和4(1355)年2月1日条:将軍・尊氏、「佐々木近江入道」らを遣わして成就寺行宮を警固*28

【史料10】『賢俊僧正日記』文和4年11月19日条:「十一月十九日、佐々木近江入道今暁他界云々、判官入道篭居、依之恩沙汰延引了、」*29

「判官入道」とは "佐渡大夫判官入道" 導誉(高氏) を指すと思われ、篭居*30しているのは、近江入道=兄・貞氏(善観)で、その死を悼んだからであろう。貞氏の没年月日は文和4年11月19日であったと判断される。 

*【史料3】や【史料6】の「佐々木近江入道」については六角流佐々木時信(頼綱の子)に比定する説もある。時信は29歳であった建武元(1334)年の段階ではまだ左衛門尉で「備中大夫判官」と呼ばれており、それから間もない頃、嫡男・氏頼元服する暦応元(1338)年までに近江守に補任されたとみられるが、その後1346年に亡くなるまでに出家したことは管見の限り特に確認できない。

 

(参考ページ)

 佐々木貞氏 - Wikipedia

 京極貞氏(きょうごく さだうじ)とは - コトバンク

佐々木貞氏 ー 南北朝列伝

 佐渡大夫判官高氏(佐々木導誉): 佐々木哲学校(佐々木哲のブログ記事)

 

脚注

*1:『大日本史料』6-38 P.7275

*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*3:『大日本史料』6-38 P.76。『諸家系図纂』。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.17。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:『大日本史料』5-6 P.227239

*7:京極頼氏 - Henkipedia より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№99-京極氏信 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№100-京極宗綱 | 日本中世史を楽しむ♪群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*10:「大夫判官」は検非違使庁の尉(三等官、六位相当)でありながら従五位下に叙爵された者の呼称(→ 大夫の判官(タイフノホウガン)とは - コトバンク)。高氏は左衛門尉、検非違使となっており、これが最終官途となった。

*11:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.706・711。

*12:『鎌倉遺文』第36巻27934号。『二階堂氏正統家譜 十』

*13:大臣以外の官を任ずる儀式として春と秋に行われる恒例の除目以外に臨時に実施される小規模な除目。詳しくは 臨時除目 - Wikipedia を参照。

*14:『鎌倉遺文』第39巻30796号。

*15:『鎌倉遺文』第39巻30797号。

*16:『大日本史料』6-38 P.76。『諸家系図纂』。

*17:『鎌倉遺文』第40巻31509号。『新校 群書類従』第19巻 P.738

*18:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*19:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*20:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169(二九四号)

*21:『大日本史料』6-6 P.627

*22:『大日本史料』6-10 P.965

*23:『大日本史料』6-20 P.904

*24:『大日本史料』6-14 P.439

*25:『大日本史料』6-14 P.739

*26:『大日本史料』6-15 P.73

*27:『大日本史料』6-17 P.719

*28:『大日本史料』6-19 P.659

*29:『大日本史料』6-20 P.70

*30:(修行・物忌み・謹慎などのために)家の中に引きこもること(→ 篭居の意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典)。