Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

武田貞信

武田 貞信(たけだ さだのぶ、生年不詳(1270年代?)~1347年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。武田政綱を祖とする石和流武田氏の第3代当主。父は武田信家(宗信)。妻は安藤左衛門入道の娘か。子に武田政義武田貞政。通称は三郎。官途は伊豆守か系図類では甲斐守)

 

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こちらの記事▲で紹介している、永仁2(1294)年の成立とされる、白河集古苑所蔵「結城系図(結城錦一氏旧蔵)には、小山貞朝の母が「武田三郎入道女(=娘)」であったとの注記が見られ*1、市村高男はこの「武田三郎入道」を政綱(武田五郎三郎)に比定される*2。文永8(1271)年4月27日、得宗(8代執権)北条時宗より甲斐国甘利庄南方の地頭代に任じられた「武田三郎入道妙意(『紀州三浦文書』)*3も政綱に比定されよう*4

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こちら▲の記事で紹介の通り、貞朝の生年は1282年と判明しているので、その従兄弟にあたる貞信も近い世代の人だったのではないか

 

建武記』(『建武年間記』)建武元(1334)年10月14日条には北山殿笠懸射手の1人として「武田石禾三郎政義」が登場しており*5、貞信の嫡男・政義に比定される。その数年前、元弘の乱に際し幕府側に従軍して上洛する「武田三郎(『伊勢光明寺残篇』)*6も政義であろう。元弘3(1333)年4月のリストでは「武田三郎 一族并甲斐国」とあり、『諏訪大明神絵詞』や『神氏系図藤沢政頼諏訪氏一族)の注記中、建武3/延元元(1336)年正月1日の出来事を記す箇所で「甲州守護武田駿河」と書かれていて*7、政義が鎌倉幕府滅亡前後で甲斐国守護であったこと、建武年間中に駿河守任官を果たしたことが窺える*8

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こちら▲の記事で考察しているが、鎌倉時代後半期における武田氏の国守任官年齢は40代であったようで、政義が1335年頃にその年齢を迎えていたとすれば1290年代の生まれと推定できる(但し時代を下るにつれ任官年齢が徐々に低下していた可能性もあり、南北朝時代に幼名を名乗っている息子・武田福寿丸との年齢差を踏まえると、1300年代初頭の生まれであったとも考えられる)。親子の年齢差を考慮すれば、その父・貞信は1270年代以前の生まれとすべきである。

また、同記事では『常楽記』元亨4(1324)年10月3日条の「武田伊豆前司(妻が安藤左衛門入道の息女)」を貞信と推定しており、当時伊豆守を辞していたから40代以上と推測され、逆算すると1270~1280年代の生まれと、同様の結果が得られる。 

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こちら▲の記事で、貞信の父・宗信(信家)を1250年代の生まれと推定したので、貞信の生年はやはり1270年代とするのが妥当であろう元服は通常10代前半で行われたから、既にご指摘の通り「」の名は、得宗北条(執権在職: 1284~1301年)*9を烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと見なして問題ないと思う*10

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)によると政綱(武田五郎三郎)宗信(信家、石禾三郎)も「三郎」を称していたようで*11、政義に至るまで政綱(石和)流当主代々の仮名であったと推測される。嘉元の乱(1305年)の折、比留宗広を預かる際の使者を務めた「武田三郎(『鎌倉年代記』裏書/『北条九代記*12貞信に比定されるのではないかと思われる。

 

『分脈』での注記によれば、貞信は貞和3(1347)年6月に亡くなったといい、特に否定し得る史料が他に無いため、今のところ信憑性は認めて良いと思われる。但し、南北朝時代の史料に表立って現れている様子は無く、前述したように元弘の乱の段階では嫡男・政義家督や甲斐守護*13を譲って事実上引退していたのではないかと推測される。

 

跡を継いだ政義駿河守)については、その遺児(貞信の孫)武田福寿丸の書状(『八坂神社記録』)によると康永2(1343)年に戦死したという。

次男・貞政(上野介)については、観応3/正平7(1352)年正月日付の「佐藤元(蔵人)軍忠状」(『伊勢佐藤文書』)、「武田文元(弥六)軍忠状」浅草文庫本『古文書』4-上 所収)にある「甲州……武田上野介*14に同定されよう。両書状によると、去る29日(=1351年12月29日)に(足利直義派勢力として)上野介以下の軍勢が七覚寺で退治されたとあるが、降伏して生き延びたのか、同年2月25日の笛吹峠の戦いについて描く『太平記』巻31「笛吹峠軍事」には、武田氏一族に加わって参戦した、貞政と思しき「武田上野守〔上野介か〕」の名が確認できる*15。但しこれ以後の動向は不明である。

そして福寿丸は、父・政義討死の影響であろう、南北朝時代初期に没収された石和御厨の還付を願い出たが、その後は特に史料上に現れていない。元服後の名前が確認できないことからすると、死因は不明ながら夭折した可能性が考えられよう。

貞信が亡くなる前年の段階で既に武田信武が武田氏惣領として扱われていたことが確認され*16得宗との結び付きによって惣領格を得ていた政綱(石和)流武田氏は次第に衰退の一途を辿り、やがて貞信の血筋そのものも恐らくは断絶してしまったものと思われる。

 

備考

『分脈』以下系図類における貞信の注記には「建武武者所」の記載が見られ、一部異本では「信貞」と記すことから、先行研究において『建武記』延元元(1336)年4月日条にある建武政権武者所結番の六番筆頭「武田大膳権大夫信貞(又は 武田大膳大夫信貞とも)*17貞信と見なすものがあるが、これが誤りで同族別系統に武田信貞が確認できることは下記記事を参照。尚、信貞とは別に貞信の掲載は確認できず、貞信の「建武武者所」注記は信貞と混同されたものとみられる。

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脚注

*1:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】参照。

*2:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.101。

*3:韮崎市の地名 甘利庄(あまりしょう) : 山梨県歴史文学館

*4:甘利荘 - Wikipedia より。典拠である、秋山敬『甲斐の荘園』(甲斐新書刊行会、2003年)P.112~113「甘利荘」の項 では政綱か信家(宗信)のいずれかとするが、政綱の方が当てはまるのではないかと思う。

*5:『大日本史料』6-2 P.36

*6:『鎌倉遺文』第41巻32135号32136号

*7:『大日本史料』6-2 P.917

*8:『大日本史料』6-2 P.526によると、『太平記』金勝院本の巻13「足利殿東国下向事付時行滅亡事」には、建武2(1335)年8月2日、中先代の乱に際し鎌倉に向けて進発した足利尊氏の軍勢の中に「武田駿河守政義」が含まれているとし、駿河守任官は建武2年の前半期であった可能性が高いと思われる。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*10:注1前掲高野氏著書 P.51。

*11:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本史料』6-2 P.37『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘3年 P.6

*12:武田信貞 - Henkipedia【史料A】、『編年史料』後二条天皇紀・嘉元3年5~6月 P.3 参照。

*13:『分脈』貞信の注記に「甲斐守」とあるが、それを裏付けられる史料は今のところ確認されていない。むしろ本文で述べているように伊豆守であった可能性がある。南北朝時代においては同族の武田盛信が甲斐守となっており、当時引退していたと思われる貞信がその前後に同守を得ていたとは考えにくい。ただ、わざわざ付されている以上、「甲斐守」の注記を完全に否定・無視することも出来ない。そこで、上手いこと辻褄を合わせるとすれば「甲斐守」を「甲斐守護」の誤記(脱字)と考えるのが良いのではないか。あくまで推測ではあるが、政綱の系統が甲斐在国のままで同国守護を得ていた可能性は十分に高く、一説として掲げたい。

*14:『大日本史料』6-15 P.741~742『信濃史料』巻6-2 P.118~121

*15:『大日本史料』6-16 P.298「太平記」笛吹峠軍の事(その3) : Santa Lab's Blog

*16:『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録事」の文中に「一.同国一条郷蓬澤内田地一町七段 武田惣領源信武寄進、貞和二年十月十三日」とある(→『大日本史料』6-26 P.567)。

*17:『大日本史料』6-3 P.333