名越宗教
北条 宗教(ほうじょう むねのり、1255年頃?~ 1333年?)は、鎌倉時代の武将。
北条泰時の弟・名越朝時を祖とする名越流の一門であり、名越宗教とも呼ばれる。父は名越教時(北条教時:朝時の六男)。
[目次]
北条時宗の烏帽子子
「教」の字は父・教時から継承したものであり*1、「宗」の字は得宗・北条時宗(得宗:1263~/執権在職:1268~ 1284年没)の偏諱を受けたものであろう。教時は嘉禎元(1235)年の生まれであり*2、現実的に考えてその嫡子である宗教は1250年代半ば以降の生まれであろうから、時宗の加冠により元服したことは確かと判断される。弟の名越宗氏(北条宗氏)も同様に時宗の烏帽子子であったとみられる*3。得宗が名越支流である教時の子とも烏帽子親子関係を結ぶようになったのは、名越教時が得宗への忠誠を示すために息子の加冠を時宗に依頼したというよりは、時宗が烏帽子親子関係を利用して名越の支流を統制下に置こうとしたと解釈するのが妥当なのかもしれない。
教時は、宮騒動(1246年)に加担した長兄・光時、四兄・時幸と同様、反得宗の強硬派であり、文永3(1266)年、6代将軍・宗尊親王の京都送還の際には、得宗(連署)・時宗の制止を無視して軍兵数十騎を率いて示威行動に出ている*4。時宗にとっては警戒すべき存在であった。
二月騒動 ~教時流の粛清~
文永9(1272)年、8代執権となっていた時宗は、自身に不満を持つ反対勢力であった庶兄の北条時輔、および名越時章・教時兄弟の粛清に踏み切った。
見西(時章)・教時兄弟の討伐については、同じ『続史料大成 51巻』(竹内理三編、臨川書店)に収められる『鎌倉年代記』の裏書や『鎌倉大日記』、ひいては『保暦間記』、『随聞私記』など多数の史料にも記されるところである*5が、この〔史料A〕だけは教時の息子・宗教が同時に誅殺されたと具体的に記しており、注目に値する。
▲【系図C】『入来院家本 平氏系図』*7の教時流を中心とした部分
その他、『前田本平氏系図』中の北条氏系図(【系図B】)においても、教時の項に「文永九二十一被打了」、宗教の項に「太郎 文永被打了」、宗氏の項にも「太郎(ママ) 同被打了」と注記されており、『入来院家本 平氏系図』(【系図C】)でもほぼ同様の内容の注記が見られる。両系図は成立年代から比較的信憑性の高いものとされ、〔史料A〕で宗教 "以下" と記される中に含まれる、同時に連座した者の1人が弟の宗氏だったのであろう*8。
また、【系図C】では、宗教以降、息子にその父と同名の「教時」を載せ、時躬(ときみ)と乱れた直線で結ぶ等、混乱して書かれた様子が窺える。しかし【系図B】と照合すれば、時躬は弟・八郎公教(きみのり)の子とするのが正しいと判断され、恐らく難を逃れ生き残った人物だったのであろう。
この当時、宗教・宗氏兄弟の年齢は20歳近くであったと推測される。【系図C】にある通り、宗教は従姉妹(伯父・時兼*9の娘)を妻に迎えていたようだ。
また、『尊卑分脈』や【系図B】等の系図類では円朝(えんちょう)という息子を載せるが、二月騒動と同年(騒動の直前)の生まれだったようで*10、宗教の当時の年齢を裏付ける根拠となる。
鎌倉時代末期までの生存説
ところで、『系図纂要』の北条氏系図(【系図D】)では、教時の傍注に「同(文永)九年二ノ十一於鎌倉被誅卅八」と、前述に同じ内容を記しておきながら、息子・宗教の項には「入道元心 於千早討死」とある。
「千早」とは、1333(元弘3/正慶2)年の千早城の戦いのことを指しており、軍記物語の『太平記』でこの合戦を描く箇所*11を見ると、「名越遠江入道」が甥の兵庫助と口論の末、刺し違えたとするエピソードを載せている。
●【表E】『楠木合戦注文』に基づく幕府軍の構成メンバー表
河内道(大手) | 大将軍 | 遠江弾正少弼治時 |
軍奉行 | 長崎四郎左衛門尉高貞 | |
大和路 | 大将軍 | 陸奥右馬助 |
軍奉行 | 工藤次郎右衛門尉高景 | |
大番衆 | 新田一族 里見一族 豊島一族 平賀武蔵二郎跡 飽間一族 園田淡入道跡 綿貫三郎入道跡 沼田新別当跡 伴田左衛門入道跡 白井太郎 神澤一族 綿貫二郎左衛門入道跡 藤田一族 武二郎太郎跡 |
|
紀伊手 | 大将軍 | 名越遠江入道 |
軍奉行 | 安東藤内左衛門入道円光 | |
大番衆 | 佐貫一族 江戸一族 大胡一族 高山一族 足利蔵人二郎跡 山名伊豆入道跡 寺尾入道跡 和田五郎跡 山上太郎跡 一宮検校跡 嘉賀二郎太郎跡 伊野一族 岡本介跡 重原一族 小串入道跡 連一族 小野里兵衛尉跡 多桐宗次跡 瀬下太郎跡 高田庄司跡 伊南一族 荒巻二郎跡 |
(表は http://chibasi.net/soryo14.htm より拝借)
『楠木合戦注文』によって実際に「名越遠江入道」が「紀伊道」の大将軍であったことは認められ*12、建武4(1337)年には足利尊氏によって園城寺(=近江国三井寺、現・滋賀県大津市)に「尾張国枳頭子庄」内の「名越遠江入道跡」が寄進されている*13ことから、恐らくは遠江入道の死によって幕府滅亡後にその旧領が収公されたことが窺える。
上の【表E】における各軍勢の大将軍3名については、次の史料によって誰かを特定し得る。
〔史料F〕『保暦間記』より
同(元弘)三年葵酉春、此事ヲ聞テ、関東ヨリ、弾正少弼治時 時頼彦遠江守随時カ子也高時為子、陸奥守右馬権助高直 維貞子、遠江入道宗教法師 朝時孫教時子、彼等其外一族大将軍トシテ、関東ニサルヘキ侍多分差上ス。其勢五万騎上洛シテ、彼城ヲ責サス。
高直については、次兄の大仏家時が「陸奥右馬助」であった*14ようなので、この〔史料F〕の通り権官であったと考えて良いだろう。「陸奥(守)」は父・維貞がなっていた官職ゆえに付いたものである。【表E】には「陸奥右馬助」とあるだけなので家時の可能性も否めないが、この〔史料F〕が誤りであるとは考えにくく、高直で良いだろう。
従って、この〔史料F〕は【表E】と同内容を記したものと考えて問題ない。すると、「遠江入道」が何と、二月騒動で誅殺されたはずの宗教だというのである。 しかもわざわざ教時の子(朝時の孫)であることを注記しており、名越宗教と同人であることに疑いは無い。
ちなみに、【図D】では「遠江守 入道元心」篤時と、「兵庫助」時家が、千早城の戦いの際に「忿爭」(=紛争)を起こして互いに死んだとするが、『入来院本平氏系図』によれば、篤時は正応5(1292)年には亡くなったようであり*15、一方の時家もその官途は「兵庫 "頭" →美作守」であったことが判明している*16ので、これは明らかに誤りである。篤時には「苅田」とも記すが、「苅田式部大夫篤時」 は幕府滅亡(同年5月の東勝寺合戦)時に得宗・高時に殉じた1人*17なので別人とすべきであり、しかも法名が宗教と同じ「元心」であるというのも不自然である。恐らくこじつけであろう。
系図類では、後世の者による修正・改竄がなされたり、或いは誤記(誤写)によって誤う情報が伝えられてしまったりすることがあるため、古系図の方が信憑性が高いとされる。
そうした意味では名越宗教についても〔史料A〕(『武家年代記』裏書)にも合致する【系図C】の記載を信用したいところだが、一方【系図D】(『系図纂要』)は江戸幕末期の成立でありながら、その記載は前述してきた史料に基づいて修正された当時の研究成果として捉えられる。実は、多くの家柄を掲載する系図集としては比較的古く、信憑性も高いとされる『尊卑分脈』には宗教の項に何も記載されておらず、【系図C】での乱れも当時、宗教の生死について情報が錯綜していた可能性を窺わせるものといえよう。
こうして生まれた「名越遠江入道」=宗教 説は、北条宗教 - Wikipedia をはじめ、一部の先行研究*18で採用されている。鎌倉時代後期には尾張守護であったとし(後述参照)、千早城合戦に至るまでの他史料での「名越遠江入道」も宗教とするのが有力になりつつある。
但し【系図D】で「名越遠江入道」=篤時 とこじ付けたのも無理は無いと思う。「名越遠江入道」というのは、出家前に遠江守であったことを示す通称名であるが、宗教が父と同じ遠江守に任官したということは書状などの一次史料ではおろか、系図類でさえ確認できず、仮に「名越遠江入道」=宗教としても、系図類で宗教の弟・宗氏または公教の息子に"名越兵庫助"なる人物が確認できない*19のである。
故に〔史料F〕での「遠江入道宗教法師」は〔史料A〕の内容を信用して「公教」の誤記ではないかと思うこともあったが、【系図C】で見る限り公教の弟たちは早世しているか、僧籍に入っているかのいずれかで、公教の甥になり得る、宗教・宗氏の息子に"名越兵庫助"なる人物はやはり確認できない。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
こちらの記事▲で述べた通り、『太平記』巻七で「名越遠江入道」と口論の末、刺し違えたその甥を「兵庫助」とするのは誤りではないかと思われる。『太平記』を読み進めると、同年5月17日に「越中の守護名越遠江守時有」が「甥の兵庫助貞持」とともに自害したとある*20。【系図D】では若干の誤りはあるが、『尊卑分脈』にも掲載があることから、時有は公貞の子で良く、貞持についても僅かに残る史料で実在は認められる。それによれば、貞持は前年(1332年)から「名越兵庫助」を称していたようで、同じ通称名を持った別人がいたとは考えにくい。
よって、以上の考察からあり得るのは、「名越遠江入道」=宗教 で、甥は公教の子・時躬という推定であろう。時躬については、最終官位を従五位下・式部丞(式部大夫)と伝えるが、兵庫助(正六位下相当)から昇ったのかもしれない。生没年不詳であり*21、人物比定は可能だと思う。
名越宗教の出家時期についての考察
さて、二月騒動で誅されたと思われていた名越宗教(北条宗教)は、実は生き永らえていた可能性が高いことが分かった。しかし、その間どのように逃げ切り、過ごしていたのか、また高時政権に入ってから、まるで亡霊のように突如現れ、復帰できた理由も全く不明である。〔史料F〕に従うなら、宗教は出家前、父・教時の最終官途でもある遠江守に任ぜられていたことになる。この時期も探る必要があるだろう。
ここでまず、「元亀本刀剣目利書」に写しを載せる『上古秘談抄』という史料を紹介しておきたい。奥書には次のように記載される。
〔史料G〕『上古秘談抄』奥書の記載
正和三甲寅年二月初八日書之
名越遠江入道崇喜 在判
応安二年八月日、故遠江禅門以自筆本書写之猶当道可為明鏡者也
宇都宮参河入道 在判
元は正和3(1314)年に名越遠江入道崇喜(すうき)が記したもので、それを応安2(1369)年に宇都宮三河入道が写したとのことである*22。原本の所在は不明とされるものの、成立年代の古さから、一定の信憑性はあると思われる。ここに「名越遠江入道」が現れるのである。
この「崇喜」は、応安2年の段階でわざわざ故人の旨が記されているから、正和3年当時存命であったことは確かであろう。一説に篤時に比定するものがある*23が、前述の通り、当時の段階では既に亡くなっているから誤りである。
奇しくも正和3年というのは名越宗教が尾張守護に任命された年とされる*24が、この「遠江入道崇喜」とは誰なのであろうか。
▲〔史料H〕『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状*25
一方、同じく正和年間の史料である〔史料H〕中に「遠江入道道西」とある。これは名越時基であることが明らかとなっている*26。宗教の叔父にあたる人物である。
故人を表す「故 …」の記載が無いことから、この当時もまだ存命であったと考えれば数え80歳となるが、前年に実在が確認できる「名越遠江入道崇喜」と照らし合わせた場合、どのように捉えれば良いのであろうか。
〔史料H〕においてわざわざ「道西」と書いたのは、〔史料G〕で確認できる通り、同じ通称名を持った「崇喜」がいたためであったからと考えられる。但し、名越時基流は「小町」を家号としたらしく*27道西(時基)には単に「遠江入道」と記すことで、「名越遠江入道崇喜」と区別されたのではなかろうか。
この当時、宗教は60歳ほどであったと推定される。同じく北条時宗の烏帽子子とみられる、長崎円喜(盛宗)・諏訪直性(宗経)も老齢にして法体(ほったい)であった。宗教もこの頃、出家していてもおかしくはないのではないか。〔史料F〕が誤っていなければ、「名越遠江入道崇喜」は宗教出家後の姿で良いかと思う。『系図纂要』に掲載の「元心」は実際の史料で確かめられず(典拠不明であり)、「崇喜」が正確な法名なのかもしれない。
(追記:『常楽記』元徳2(1330)年条に「二月十二日名越遠江入道殿他界」とあるのが確認できた。これを信ずれば、〔史料F〕での「遠江入道宗教法師(名越宗教)」はこれより後のことであるため、"崇喜" なる別人近親者が亡くなってからの出家であった可能性が考えられる。これについては後日再考の機会を設けたいと思う。)
すると、高時が執権となる前には出家していたことになり、その時期は前得宗・貞時(~1311年)の死後まもない頃となる*28。従って遠江守任官は貞時政権下で行われたと推測できよう。貞時執権期では霜月騒動や平禅門(平頼綱)の乱など、主に当該期の「源氏将軍観」を背景とした事件が起こり、わざわざ足利貞氏を「源氏嫡流」として公認するなどの対策をとってそのような動きを封じ込めたとされるが、この動きに名越流北条氏が加担した形跡は確認できない。時頼・時宗の代とは状況が異なり、名越流に対して比較的穏便であった貞時*29の下で、宗教の復帰が許されたのかもしれない。かつて父・教時がなっていた遠江守に昇ることも許されており、むしろ待遇を受けていたとも言える。
但し、管見の限り、貞時得宗期に「名越遠江守宗教」の活動は確認できない。この点については今後史料による検討が必要と思われるが、あまり表立って活動をしなかったのかもしれない。
しかし、鎌倉幕末期においては【表E】にて幕府軍の大将を任される等、「名越遠江入道宗教法師」が北条氏一門の長老的存在として不可欠な人物であったのだろう。老齢でありながらも父譲りの血気盛んな性格は健在であったが、それ故に甥(名越式部丞時躬?)との諍いを起こし「自爆」の形で生涯を終えてしまったのである。
宗教の子息について
宗教の子としては、前述した通り、まず円朝(えんちょう)が確認できる。『尊卑分脈』以下、多くの系図で「法印」や「寺」(【系図D】) と注記され、園城寺の僧として一生を送ったらしい。二月騒動の直前の生まれだったようで、難を逃れたものの、僧籍に入ることを条件に助命されたと推測される。「朝」は祖の朝時に由来するものであろう。
『系図纂要』(【系図D】)では、宗教の子として円朝のほかに時治(ときはる)を載せるが、「左近大夫将監」とあるのみで、その活動情報は読み取れない。幕府滅亡時(1333年)の東勝寺合戦で高時に殉じたとする説がある*30ものの、『太平記』巻十「高時並一門以下於東勝寺自害事」の殉死(自害)者のリストに「名越左近大夫将監時治」の名は無く、「名越一族三十四人」の一人と捉えたのであろうが、果たしてその中に本当に "時治" なる者がいたかどうかは疑問である。もちろん、逆に実在を否定し得る史料も無いが、これについては検討が必要であろう。或いは、宗教が流浪中、または貞時政権下での復帰以後に生まれた息子かもしれない。
脚注
*1:朝時の子は長男・光時を除き、その弟たちは「時○」型の名乗りであるが、六男・教時だけは例外である。恐らく「教」を烏帽子親から受けたものと思われるが、当時鎌倉にあって将軍に仕えていた飛鳥井教定(二条教定)の偏諱ではないかと推測される。
*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末・鎌倉政権上級職員表(基礎表)No.23「名越教時」の項より。
*3:名越流の嫡男となった次兄の時章は教時より20歳も年長であり、その嫡男・公時は教時と同年の生まれである。従って、宗氏の弟・公教は公時の烏帽子子と推測される。
*4:『吾妻鏡』文永3年7月4日条。川添昭二『北条時宗』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2001年)P.111。
*5:前注川添氏著書、同箇所。
*7:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)より。
*8:厳密には、名越宗氏については【系図C】に従い、鎌倉からの逃亡先である美濃国で自害したとするのが正しいのかもしれない。追手が差し向けられたのであろう。
*9:時兼は『吾妻鏡』建長4(1252)年5月22日条に逝去の記事がある。『系図纂要』に「於北国大聖寺討死」とあるが、これは中先代の乱に際して加賀大聖寺で戦死した名越時兼(『大日本史料』6-2 P.540)と混同したもののようで、誤りである。
*10:名越流教時系北条氏 ― 円朝 より。
*12:堀内和明「楠木合戦と摂河泉の在地動向―悪党の系譜をめぐって―」(所収:『立命館文學』617号、立命館大学人文学会 編、2010年)P.44。
*13:『大日本史料』6-4 P.102。水野智之「尾張守護と智多郡主に関する覚書―分郡守護論の現状―」(所収:『知多半島の歴史と現在』20号、日本福祉大学知多半島総合研究所、2016年)P.151。
*15:注7前掲山口論文、P.29。
*16:詳しくは 名越高家 - Henkipedia を参照。
*18:佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』、注13前掲水野氏論文 同箇所、小学館『日本大百科全書』「名越家」の項(執筆:杉橋隆夫)、古城の歴史 長尾城 など。
*19:公教の子・時躬が「式部丞(式部大夫)」であることは【系図B】の如し。
*21:名越流教時系北条氏 - 北条時躬 より。
*22:福田博同「刀匠信国系図の総合的研究:山城信国を中心に」(所収:『跡見学園女子大学文学部紀要』第52号、2017年)P.97。
*23:上古秘談抄 - 名刀幻想辞典 より。
*24:郷土誌かすがい 第6号|春日井市公式ホームページ「中世 武士と農民の社会」の項(執筆:重松明久)より。佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』が典拠であろうか(→こちら参照)。
*26:注2細川氏著書、巻末・鎌倉政権上級職員表(基礎表)No.24「名越時基」の項 および 同No.25「名越朝貞」の項 より。
*27:注2前掲細川氏著書、P.49 注(21)。『正宗寺本北条系図』には時基の子・朝賢〔ママ〕の項に「小町口 元弘三五自害」の注記があり、『太平記』巻十「高時井一門以下於東勝寺自害事」にも高時に殉じた者の中に「小町中務太輔朝実」の掲載があって、これらは時基の子・朝貞(『尊卑分脈』)のこととされる。前注の 「名越朝貞」基礎表 を参照。
*28:この頃出家した者としては、尾藤時綱(演心)が例に挙げられる。
*29:〔史料H〕に掲げた遠江中務大輔朝貞や、名越高家の叔父・公貞、兄・貞家らに「貞」の偏諱を与えた形跡があり、烏帽子親子関係を利用してうまく統制できていたと考えられる。
*30:名越流教時系北条氏 ― 北条時治 より。