大友 氏宗(おおとも うじむね、生年不詳(1320年代後半か)~没年不詳(1356年以後))は、南北朝時代の武将。
大友貞宗の6男で、足利尊氏の猶子。母は兄・大友氏泰、弟・大友氏時に同じく少弐貞経の娘か(或いは異母兄弟ともされる)。幼名は亀松丸。仮名は孫次郎か。のち大友行宗(- ゆきむね)に改名し、兵部大輔に任官か。

このうち、後に生まれた氏泰・氏宗・氏時の三兄弟は足利尊氏から「源姓」や「諱字(=「氏」の偏諱)」を賜ったとあり、特に氏宗には「尊氏公賜諱字」と明記されている。
氏泰の項に「尊氏将軍之猶子」とあるが、三兄弟揃って尊氏の猶子として認められたことは次の書状により裏付けられる。
●【史料2】建武3(1336)年2月15日付「足利尊氏袖判御教書」(『大友文書』)*2:
この書状は、京都周辺・摂津で後醍醐天皇方との戦闘に敗れ、九州へと落ち延びてきた足利尊氏から、"忠節が特に優れているので、「大友千代松(丸)」の兄弟は皆、猶子の関係を認める" とした内容である。そして、千代松丸(=氏泰)は、翌建武4(1337)年5月22日付「足利尊氏袖判御教書」(『大友文書』)*3に「大友孫太郎源氏泰」と書かれるまでの間に15~16歳で元服したのであった。
一方、氏宗は、同じく建武4年6月19日付「足利尊氏下文」(『筑後大友文書』)*4の冒頭に「下 近江亀松丸」と書かれているのでこの時はまだ元服を遂げていないことが分かるが、これ以後に将軍・尊氏の加冠による元服で「氏」の偏諱を受けて「氏宗」を名乗ったと思われる。
正平2(1347)年6月1日付「大友氏宗起請文」(『肥後阿蘇家文書』)*5に「氏宗」の署名と花押、文中にも「日本国中大小神祇の御罰於、氏宗まかりかうふるへきもの也、」とあり、この起請文は、大友一門の戸次朝直(貞直の兄弟)・戸次頼時(貞直の子)らに同心して南朝方につくにあたり阿蘇大明神に捧げたものである。この時までに元服を済ませていたことは確実だが、恐らく元服からさほど年数を経ていないこの時期に、【図1】にも「後対大友嫡家有叛心」とある通り、大友氏嫡流(家督)に対して反逆的な姿勢を取るようになっていたことが窺える。翌貞和4(1348=正平3)年2月18日「大友氏宗書下」(前田家所蔵『野上文書』)*6にも「源」の署名と花押を据えている。
ここで、次の史料に着目したい。
●【史料3】正慶2(1333)年3月13日付「沙弥具簡(大友貞宗)譲状」(『大友文書』)*7

遡って、鎌倉幕府滅亡の2ヶ月前に出された父・貞宗(具簡)の譲状である。鎮西探題攻めを前にし、次郎貞順・三郎貞載を戦場に同行させ、万一自分たちが敗死してもその後、幕府から咎められて取り潰される可能性は低いとみたため、幼少の千代松丸(=氏泰)を家嫡(家督継承者)に指名し、豊後守護職以下すべての所職を譲るとしている。また、千代松丸に跡取りが出来なかった場合は、その舎弟・亀松丸(=氏宗)が継ぐべきであることも記されている。病没であろうか、貞宗は同年末に亡くなった(『東海一漚集』)*8ため、事実上の遺言書にもなった。
ところが、氏泰がその後、貞和4(1348)年8月に所領や守護職を譲った相手はもう一人の弟「大友孫三郎氏時」であった*9。恐らく前年(1347年)の段階で氏泰が家督を譲る準備を進める中で、氏泰と氏宗の間に何かしらのトラブル(氏泰より、父の遺言に反し氏時を後継者にする意向が示されたか)が生じ、これに腹を立てたことが前述の「大友氏宗起請文」に繋がっているのかもしれない。南朝方についた氏宗は廃嫡され、氏時が代わって後継者に指名されたというわけである。
以後も氏宗・氏時兄弟の抗争は続いたようである。
貞和6(1350)年11月16日付「少弐頼尚書状写」(『肥後阿蘇家文書』)にある「大友兵部大輔殿」について、『南北朝遺文』*10では氏時に比定するが、これは誤りである。なぜなら、氏時は観応3(1352)年9月22日付の足利義詮安堵状においてまだ無官で「大友孫三郎氏時」と呼ばれ*11、27日には義詮から刑部大輔への推挙状を出されている*12からである。すなわち、氏時より2年先立って兵部大輔に任官していた同族が別にいたと考えるべきなのである。
この頃の少弐頼尚は、一色範氏(道猷)を九州探題や肥前守護に任命したことで、尊氏に反感を持つようになり、やがて観応の擾乱が起こると、貞和5/正平4(1349)年10月に九州に落ち延びてきた足利直冬を娘婿に迎えて、南朝方へ転じていた*13。
その頼尚から「一. 大友兵部大輔殿方へも、豊後国凶徒等対治事、被成御教書候、……」と書かれる兵部大輔は、同じく南朝方の大友氏であったと見なされ、1347年より南朝方に転じていた氏宗に相応しいのではないかと思う。
一方で、正平11(1356)年正月14日付「大友氏時書下写」(『大友家文書録』)に
田北彦次郎入道*14子息六郎次郎・同大郎蔵人(=頼氏)子息六郎太郎等令与〔同 脱字か〕兵部大輔行宗之由、有其聞、所詮、於分領者、押置之、至其身者、随見会、可被退治也、仍執達如件、
正平十一年正月十四日 刑部大輔
とあるが、『南北朝遺文』*15では行宗=氏宗としている。すなわち、氏宗が後に改名していたことになる。また、同(延文元)年11月2日付「大友行宗軍勢催促状」(早稲田大学図書館所蔵『後藤文書』)*16の発給者「兵部大輔」も行宗に比定されている。
この兵部大輔行宗は少なくとも、南朝方として同9(1354)年12月7日に阿蘇社への寄進状を発給している「兵部大輔平行宗」*17および(年不詳)2月12日の「行宗」(ともに『阿蘇文書』所収)*18と同人であると思われ、後者については『南北朝遺文』*19で「大友行宗書状写」の文書名を与えて大友氏と見なしている。
尊氏の猶子・烏帽子子であった氏宗は前述の通り「源」の署名で書状を出したことがあったにもかかわらず、「行宗」へ改名と同時に「平」に改姓していることが窺える。『公方様当家条々要目』にも「大友三姓申慣事、御当家之秘密也」とある*20ように、大友氏は本来藤原姓でありながら、頼泰の代に北条時頼の一字を拝領し、恐らくその猶子となったことで平姓に(実際に「前出羽守平頼泰」と署名した書状あり)*21、そして前述の通り氏泰ら三兄弟が尊氏の猶子として認められたことによる源姓に、それぞれ改めた経緯があった。氏宗(行宗)の場合、大友嫡家(源氏)に対抗する意図で平氏を名乗ったのかもしれないが、元々曽祖父・頼泰の代にも名乗っていた「平」を使用することに抵抗は無かったのであろう。
また、改名に際しては、尊氏からの偏諱「氏」を棄てて「行」の字に改めていることも窺えるが、この字は祖先と仰ぐ「藤原文行―脩行―行景」*22三代での通字に由来するのではないかと思われる。
その後の消息は詳しくは分からないが、長門に逃れてその国府で自害したと伝えるものがあるという(下記参考ページ参照)。
(参考ページ)
脚注
*1:渡辺澄夫『増訂 豊後大友氏の研究』(第一法規出版、1982年)P.9 より。
*2:前注渡辺氏論文 P.8 より。
*5:『南北朝遺文』九州編第2巻2330号。『大日本史料』6-10 P.682。
*7:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘三年三~六月 P.31。
*10:『南北朝遺文』中国四国編第2巻1895号・九州編第3巻2923号。
*13:少弐頼尚(しょうによりひさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。尚、頼尚は1358年に征西府から守護職を解任されたことで、のちに武家・北朝方に復帰している。
*14:武家家伝_田北氏に掲載の系図によると、大友親秀の曽孫(親秀―田北親泰〈頼泰の弟〉―親元―彦次郎)であるという。通字により「親〇」という名前ではあったと推測されるが、実名・法名ともに不詳。
*16:『南北朝遺文』九州編第4巻3925号。大友行宗軍勢催促状 ― 早稲田大学 古典籍総合データベース。
*17:熊本大学HP内にあるこの書状の写真(→ 115 第9巻 - 3 平行宗寄進状 刊本151号 - 文書詳細 | 熊本大学附属図書館 貴重資料 阿蘇家文書)を見ると、書状の下部が紙の劣化か何かで破損してしまっており、その影響で署名「兵部大輔平行宗」の下にある花押が一部欠けてしまっているが、僅かに見える上部の形が、大友行宗軍勢催促状 ― 早稲田大学 古典籍総合データベース にある「兵部大輔」の花押と同じように見える。よって花押の一致の可能性が高く、同一人物とする根拠としたい。
*21:詳しくは 大友頼泰 - Henkipedia を参照のこと。
*22:『尊卑分脈』によると、「文行―脩行―行景―景親(※実は猶子で『分脈』後藤氏系図(→ こちら)上の島田惟重と同人か)―景頼(改め貞成)―能成―能直―親秀―頼泰―親時―貞親―貞宗」という系譜となっている(正しくは貞宗は親時の子で貞親の実弟)。