Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大曾禰宗長

大曾禰 宗長(おおそね むねなが、1252年頃?~1285年)は鎌倉時代中期~後期の武将、御家人安達盛長の次男・時長を始祖とする大曾禰氏の第4代当主。

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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尊卑分脈』には「弘安八自害」とあるのみで、詳しい生年は不明であるが、父の長経との年齢差を考えれば、おおよそ1252年頃よりは後と推測できよう(長泰―長経と同じ年齢差であれば、建長3(1251)年の生まれとなる)。長泰・長経の元服は12, 3歳で行われたと推測されるので、(むねなが)の「」は、文永3(1266)年に解任された6代将軍・宗尊親王*1ではなく、元服当時の得宗北条時(父・時頼の死去により1263年~家督継承)からの偏諱で間違いないだろう(同じく盛長の玄孫の安達宗景安達宗顕なども同様)。 

「弘安八自害」とあるのは弘安8(1285)年の霜月騒動のことであり、その際のメンバーを記した他の史料によって裏付けられる*2。 竹内理三編の『鎌倉遺文』では、熊谷直之所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』に収録の「安達泰盛乱聞書」(第21巻15736号)での「上総介」「大曾祢太郎左衛門入道」、「安達泰盛乱自害者注文」(第21巻15734号)での「前上総守 大曾祢左衛門入道」を宗長に比定している。同じ人物を2人(2回)も書かないと思うので、最終官途の「上総介」で書かれていない「大曾祢左衛門入道」は別人と判断すべきだが、鎌倉年代記』裏書・弘安8年条には連座したメンバーとして「大曾祢上総前司」の名が見られ、既に亡くなった先代の長経ではあり得ないので、これが宗長であることが認められよう。

上総前司(=前上総守の意)という記載については、騒動までに上総介を辞していたとも受け取れるし、死後のためそう書かれた可能性もあるが、いずれにせよ「大曾禰氏の世襲官職上総介に任官したのに、1周年を目前に霜月騒動で討たれた(前述職員表:細川重男氏)のであった。この時の享年はおおよそ30歳程度であったと推定される。 

 

(参考ページ)

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№95-大曾禰宗長 | 日本中世史を楽しむ♪

 

 

脚注

*1:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*2:年代記弘安8年(外部リンク)も参照のこと。