Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安達盛宗 (越前守)

安達 盛宗(あだち もりむね、1255年頃?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人安達泰盛の庶長子。

 

 

史料における安達盛宗

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▲【図A】『蒙古襲来絵詞』より

弘安4(1281)年6月の「弘安の役」で、蒙古兵の首を差し出す竹崎季長(左)の戦功報告を受ける「肥後国守護人 城次郎 盛宗(右上)

肥後守護であった父・泰盛の代理(守護代)として肥後に下向していた。

 

これ以外に、安達盛宗についての史料は次の3点が確認できる。

 

【史料B】弘安7(1284)年11月25日付「関東御教書」(『新編追加』)*1に鎮西神領返付の相奉行(合奉行)の一人として「越前守盛宗」。 

(前略)

条々 弘安七。六。廿五。

一.鎮西為宗神領

甲乙人等。称沽却質券之地。猥管領之由有其聞。尋明子細。如旧為被返付。所差遣 明石民部大夫行宗長田左衛門尉教経兵庫助三郎政行 也。大友兵庫頭頼泰法師。越前守盛宗大宰少弐経資法師。可為合奉行。……(以下略) 

 

【史料C】(弘安7年?) 9月10日付「北条尚時書状」(『新編追加』)*2に「盛宗」。 

(前略)

条々。急速為有御沙汰。以前九州所領相分三方也。於博多可尋沙汰。頼泰法師行宗肥前 筑前 薩摩。盛宗教経豊後 豊前 日向。経資法師政行肥後 筑後 大隅。各守此旨可奉行。……(以下略) 

 九月十日 尚時 判

明石民部大夫殿

 

同年4月4日に亡くなった8代執権・北条時宗に代わって幕政を主導し始めた安達泰盛は烏帽子親でもある3代執権の北条泰時や、5代執権・北条時頼の政治を再現しようと、あらゆる政策を実行に移した。【史料B】はその一つとして、博多に明石行宗・長田教経・兵庫政行の3人を派遣し、息子の盛宗大友頼泰(道忍)少弐経資を合奉行とした(特殊合議制訴訟機関)ことを記すものである。鎮西の宗たる神領を回復させるべく、神領で売却または入質した土地を調査して神社へ返還させ、社殿の修復や神事の再興を行うほか、名主職の安堵による御家人の創出や、地頭職闕所地の調査による蒙古合戦恩賞の地の捻出といった業務に当たらせたという。

【史料C】はこの合奉行の管轄国の組み合わせを3つに分けたものであり、意図的に守護国を避けることで政務の公平を期している。

・ 大友頼泰 明石行宗  肥前筑前・薩摩
・ 安達盛宗 長田教経  豊後・豊前・日向
・ 少弐経資 兵庫政行  肥後・筑後大隅

 

 

【史料D】弘安8(1285)年12月18日付「千葉宗胤書下」(『坂口忠智氏所蔵文書』)に「越前々司盛宗追討騒動之間、……」*3

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(端裏書)「ゑちせん殿いくさの御かきくたし*1
越前々司盛宗追討騒動の間、折節訴訟に依って当参の刻、馳せ向わるるの条、神妙に候、今に於いては、世間無為、警固の当番衆に非ざれば、下国せしめ給うべく候、恐々謹言。

弘安八年十二月十八日  宗胤(花押)
 佐汰弥九郎 *2 殿

*1:ゑ(え)ちぜん殿 戦の御書き下し *2:佐多(建部)定親

「越前前司」*4であった盛宗は、前年の【史料B】における「越前守盛宗」と同人とみなして良いだろう。そして、この史料の前月(11月17日)には泰盛ら安達氏一族とその一派が討たれた「霜月騒動」という一大事件が起きており、同時期に追討を受けた盛宗も『尊卑分脈』に「越前守」「於鎮西同時被誅」と注記される安達盛宗に比定できる*5。この書状はいわゆる岩戸合戦を受けてのものと分かる。

 

 

越前守任官と生年について

鎌倉時代の越前守任官者については、佐藤圭の論文*6が参照されるところである。それによれば、弘安2(1279)年4月6日~同3(1280)年11月3日の間、平惟輔(これすけ)の越前守在任が確認できるという*7。従って、盛宗の任官はこれ以後【史料B】(6月25日)までの間に行われたこととなる。冒頭で紹介した通り、同4年6月の弘安の役当時は「城次郎」を名乗っていた可能性があり、恐らく惟輔の後任の次が盛宗ではないかと思う。

 

ここで考えたいのが安達氏における国守任官の年齢である。 

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判明している事例として、安達義景の息子たちが参考になるだろう。すなわち、頼景が29歳で丹後守正六位下相当)*8、父・泰盛が52歳で陸奥従五位上相当、秋田城介と兼務)*9顕盛が30歳で加賀守従五位下相当)*10長景も30代前半以下で美濃守従五位下相当)*11に任官しているのである。

この他、加賀守師景美濃守高茂 父子も同様であった可能性が高い。

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従って、弘安4~7年の任官時に盛宗が30歳位(数え年、以下同様)であったのだとすると、1252~1255年頃の生まれと推定可能で、父・泰盛が寛喜3(1231)年生まれである*12ことから考えても妥当だと思う。ちなみに同じく泰盛の子で秋田城介を継承した安達宗景については正元元(1259)年生まれと判明している*13が、同年の生まれとすると22歳というかなり早いタイミングでの越前守任官となってしまうので、やはり宗景より前に生まれたと考えるべきだろう。よって『尊卑分脈』等の系図類での記載通り、盛宗が兄で庶子宗景が弟で嫡子とみなして良いだろう。

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▲【系図E】安達氏略系図*14

 

前述の生年に基づき、紺戸淳の論考*15に従って元服の年次を推定するとおおよそ1264~1269年となる。婚姻などの安達・北条得宗両家の親密な関係を踏まえても「」の「」は、1263年に得宗家督を継いだ北条時(1268年~ 8代執権)からの偏諱と考えて問題ないと思う。時宗からの偏諱の位置が景と逆で下(2文字目)になっているが、これは千葉兄弟、平綱・飯沼資兄弟などと同様に、嫡子・庶子の違いによって違えたためであった。

詳細は明らかになっていないが、盛宗が兄でありながら庶子(或いは準嫡子)となったのは、母親の違いによるものであろう。前述の通り、盛宗の元服の段階では、既に宗景が生まれていて嫡子に指名されていたので、そのような名乗り方になったと考えられる。 

 

(関連記事)

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(参考ページ)

 安達盛宗 - Wikipedia

 安達盛宗(あだち もりむね)とは - コトバンク

 蒙古襲来絵詞

 

脚注

*1:続群書類従. 第23輯ノ下 武家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第20巻15218号。

*2:続群書類従. 第23輯ノ下 武家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第20巻15302号。『豊津町史 上巻』第四編 中世 P.607(または PDF)。

*3:『鎌倉遺文』第21巻15764号。本文に掲げた書き下しは 年代記弘安8年 より引用し、適宜新字体に改めた。

*4:「前越前守」の意。但し、亡くなった(在任者が不在となった)が故にそう呼ばれた可能性も考えられ、生前に越前守を辞していたかどうかの判断は難しいが、いずれにせよ、これが盛宗の最終官途であったことになる。

*5:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*6:佐藤圭「鎌倉時代の越前守について」(所収:『立命館文学』第624号、2012年)

*7:前注P.361 表2 および P.365。惟輔は『兵範記』の作者でもある平信範の7世の後胤にあたり、近衛家の家司であった。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その81-関戸頼景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№88-安達顕盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№91-安達長景 | 日本中世史を楽しむ♪ によれば、弘安2(1279)年に任官。【図A】に示したが如く『尊卑分脈』では顕盛のすぐ下の弟として載せられ、顕盛と同年の生まれとしても当時35歳となり、これより若年での任官であること確実である。

*12:注9同箇所より。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その83-安達宗景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*14:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*15:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。10~15歳での元服とした場合。