Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安達宗長

安達 宗長(あだち むねなが、1270年頃?~1285年?)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。通称は九郎。

本項では、下図『尊卑分脈』に掲載の、安達泰盛の弟・安達長景の子について述べる。

 

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こちら▲の記事で父・長景の生年を1250年と推定した。これに基づいて親子の年齢差を考えると、宗長は1270年頃より後の生まれと判断される。

更に上図では母親を "信濃判官" 二階堂行忠(1221年~1290年)の娘と記しており*1、「行忠―女子(長景室)―宗長」各々の親子の年齢差を25歳位とすれば、宗長は1270年頃の生まれとなって辻褄が合う。

 

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こちら▲の記事で述べた通り、安達顕については生年が判明しており、弘安7(1284)年4月まで執権の座にあった北条時(同月逝去)偏諱を賜ったものと判断される。その従弟にあたる長景の子・九郎長と、時景の子・盛も同じく時宗からの一字拝領とみられるが、宗長の場合、前述の生年に基づくと時宗の没年には15歳程度と元服を済ませていても良い適齢に達しており、時宗晩年期(1280年代前半)にその加冠を受けたと考えて問題ないだろう。

 

冒頭の『尊卑分脈』において、宗顕や叔父・時景の項に記載があるように、安達氏一門の多くが翌8(1285)年の霜月騒動で誅殺されたが、父の "美濃入道" 長景もこれに連座したことは史料で明らかとなっている*2。宗長も元服時に名乗った通称「九郎」が書かれるのみで、他の近親者のように「左衛門尉」等に昇った形跡が確認できないことからすると、やはり父たちと運命を共にした可能性が高いのではないかと思われる。

 

脚注

*1:二階堂行忠 - Wikipedia より。

*2:霜月騒動に関するものである、熊谷直之所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』所収の史料3点、「安達泰盛乱自害者注文」に「前美濃入道」、「安達泰盛乱聞書」に「美乃入道」「三乃入道」とあるほか、『武家年代記』に「美濃入道長景」とあるのが確認できる。年代記弘安8年 参照。