Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安達宗顕

安達 宗顕(あだち むねあき、1265年~1285年)は、鎌倉時代の武将、御家人

 

 

プロフィール:人物・生涯 

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▲【図1】『尊卑分脈』〈国史大系本〉より、安達氏顕盛流の系図

 

安達顕盛(1245~1280年、加賀守)の子、輩行名が「太郎」であることから長男であろう。母は第7代執権(のち連署北条政村の娘。通称は 太郎左衛門尉、加賀太郎左衛門尉。

「弘安八被誅廿一」とある通り、弘安8(1285)年の霜月騒動に際し誅伐され、遠江で自害*1。享年21。

実際の書状でも、熊谷直之所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』所収の「安達泰盛乱聞書」*2や同年12月2日付「安達泰盛乱自害者注文」*3中に「加賀太郎左衛門尉(=加賀守の子で太郎左衛門尉の意)とあるのが確認できる*4

 

宗顕の元服北条時宗

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▲【図2】安達氏略系図*5

 

」の実名は「顕」の字が父・顕盛から継承したもの*6であるから、「」の字が烏帽子親からの偏諱と考えられるが、在世当時の第8代執権・北条時 (在職:1268~1284) から一字を許されたものに間違いない。『尊卑分脈』を見ると、本家筋の盛(越前守)景兄弟、大室泰・義兄弟(景村の子)、長景の子・長、時景の子・盛(右衛門尉)など同じく義景の孫の代の人物はほとんど「宗」字を拝領していることが分かる。元服は通常10数歳で行われたので、その時期は1270年代後半と推定される。

 

 

息子・時顕の誕生と成長

弘安3(1280)年2月8日に父の顕盛が亡くなったことは【図1】に書かれている通りである。この当時、宗顕は16歳(数え年)。既に成人し、元服も済ませていたとは思われるが、実際には若年であり、細川重男はその後の保護者として2人の候補を挙げられている*7

一人目は、伯父で惣領の安達泰盛で、父を亡くした後の甥を養子として保護した可能性を指摘している。二人目は母方の政村流北条氏で、鎌倉在住の伯父・北条政長がその候補になり得ると説かれている。

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▲【図3】安達宗顕 周辺関係図*8

 

宗顕には山河重光(山川重光)の娘との間に時顕という息子がいた(【図1】参照)。後にこの安達時顕により捧げられた「安達宗顕三十三年忌表白文」*9には「適雖出襁褓之中、未離乳母之懐中、纔雖遁戦場之庭、未離懐飽之膝上(襁褓(むつき)を出たとはいえ、未だ乳母の懐の中を離れず、辛うじて戦場を遁れたが、まだ抱きしめてくれる膝の上を離れていなかった)」とあり、父が霜月騒動連座した時、時顕はまだ幼児であったことが窺える。当時宗顕が21歳であったから間違いなかろう。

従って、細川氏は、顕はその数年前、父の宗顕が安達泰盛や北条政長の庇護下にあった時期に生まれたものと推測されており、霜月騒動までは泰盛の孫に準ぜられていた可能性もあるが、その後も政村流北条氏の庇護下で成長し、その当主・北条(政長の兄、1287年鎌倉に帰還)を烏帽子親として元服し「」の偏諱を受けたと説かれている。

やがて時顕は、安達氏嫡流世襲の役職「秋田城介」を継承。娘は得宗北条に嫁ぎ、息子のがその偏諱を受ける形で、顕盛流安達氏と得宗家の烏帽子親子関係が宗顕の死から約20数年ぶりに復活したのである。

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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脚注

*1:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.174。

*2:『鎌倉遺文』第21巻15736号。

*3:同上15738号。

*4:年代記弘安8年(外部リンク)を参照。

*5:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。

*6:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.3では、貞顕の父・顕時(1248年~1301年、初め時方)が、自身が仕えていた6代将軍・宗尊親王の後見・土御門顕方から1字を受けた可能性を指摘しており、ほぼ同世代である顕盛の「顕」もこれに関係するのではないかと思われる。顕時に改名したのは1260年頃らしく、当時顕盛は16歳で元服済みであったと思われるので、同様に顕方からの偏諱かもしれない。

*7:以下、細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)第二節「出自」P.142~145 に従って解説する。

*8:前注細川氏著書、P.144 より。

*9:『鎌倉遺文』第34巻26431号。