千竈貞泰
千竈 貞泰(ちかま さだやす、1290年頃?~没年不詳(1334年以後か))は、鎌倉時代後期の武士、御家人、御内人(得宗被官)。千竈時家の嫡男。通称は千竈六郎。
千竈氏は桓武平氏高望流秩父氏の末裔とされ*1、鎌倉時代を通じて、尾張国千竈郷(現・名古屋市南区千竈通)を本貫とした御家人であると同時に、得宗領である薩摩国河辺郡の地頭代官という側面では得宗被官として、海上交通を掌握したとされる。
【史料A】嘉元4(1306)年4月14日付「千竈時家処分状」(『千竈文書』)*2より一部抜粋
ゆつりわたす(譲り渡す) そふん(処分)の事
合
ちやくし(嫡子)六郎貞泰かふん(貞泰が分)
(省略)
次男 弥六経家 かふん
(省略)
三男 くまやしや丸 かふん(熊夜叉丸が分)
(省略)
女子 ひめくま かふん(姫熊が分)
一さつまのくに(薩摩国)、かハのへのこほり(河辺郡)の内、ふるとのゝむらはんふん(古殿村半分)、ならひにようさくふん(並びに用作分)、大みとう(大御堂?)、次とくのしま(徳之島)たゝし一このゝちハちやくし六郎さたやすかふんたるへし(但し一期の後は嫡子六郎貞泰が分たるべし)
女子 いやくま かふん(弥熊が分)
一さつまのくに、かハのへのこほりの内、ふるとのゝむらはんふん、ならひにようさくふん、ミやした(宮下)のしやうくわうハう(しょうこう房 ※漢字不明)かあと(が跡)の田壱丁(田一丁)、次やくのしまのしものこほり(屋久島下郡) たゝし一このゝちハちやくし六郎さたやすかふんたるへし
一さつまのくに、かハのへのこほりの内、きよミつのむら(清水村)、ミやしたのむら、ならひにようさくふん、かミやまたのその田(上山田の薗田) たゝし一このゝちミな(但し一期の後皆)ちやくし六郎さたやすかふんたるへし
一するかのくに(駿河国)、あさはたのしやう(浅服庄)の内、きたむらのかう(北村郷)のかうし(郷司)職 たゝし一このゝちハちやくし六郎さたやすかふんたるへし
右そふん、くたんのことし(件の如し)、めんヽのゆつりしやう(面々の譲状)にまかせて、ゐろんなくちきやうすへし(異論無く知行すべし)、かきりある御ねんく・御くうし(限りある御年貢・御公事)けたい(懈怠)あるへからす(有るべらかず)、もしわつらひをなさんともから(患いを成さん輩)におきてハ、時家かあと一ふん(時家が跡一分)も知行すへからす(知行すべらかず)、領内にもなかくけいくわいせさすへからす(長く経廻せさすべらかず)、そのあとハそうりやうさたやすちきやうすへし(惣領貞泰知行すべし)、そうりやう又へちなうのふん(別納の分)をゐらんいたさハ(違乱致さば)、次男経家・三男くまやしや丸、そのあとをことヽ くとうふん(悉く等分)に〔←※欠損部分〕わけ知行すへし(分け知行すべし)、
(中略)
嘉元四年四月十四日 時家(花押)
こ入道とのゝしひち(故入道殿の自筆)のいましめのしやう(誠状)一つう(一通)これあり、ちやくしたるうへハ(嫡子たる上は)六郎かもとにをきて(六郎が許に於きて)、もしのわつらひもあらん時ハ、いつれの子とも(いずれの子供)の方へもこれをわたすへし(渡すべし)、
この状ハ、三つうおなしやうにかきおく(三通同じ様に書き置く)ところなり、六郎・弥六・熊夜叉丸一つうつゝわかちとるへし、(花押)
【史料B】嘉元4(1306)年4月14日付「千竈時家譲状」(『千竈文書』)*3
ゆつりあたふ(譲り与ふ)ちかまの弥六経家に、おハりの国(尾張国)ちかまの郷内ふとうのきうち(地頭垣内*4)の田畠、弥六経家にゆつりあたふるところなり、安堵御下文ハ嫡子六郎貞泰か方へつけわたす、要用之時ハ、可借用之、仍譲状如件、
嘉元四年四月十四日 左衛門尉時家(花押)
上の史料2点は鎌倉時代後期の得宗被宮・千竈時家による譲状である。嫡男・貞泰に「きかいしま(鬼界島)、大しま(大島)」等を、次男・経家に「えらふのしま(沖永良部島)」を、3男・熊夜叉丸に七島を、女子ひめくまに「とくのしま」をと、分割して譲るとしている。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
ここで注目してみたいのが、各人物の名乗りである。
時家の嫡男で惣領の座を約束された「六郎貞泰」は、のちに父と同じく左衛門尉に任官したことが確認される(後述参照)が、この当時は「六郎」*5と称するのみで無官であったことが窺える。これは元服からさほど経っておらず若年であったためであろう。
次弟・経家も元服は済ませて「弥六」を称しているが、三弟はまだ幼名の熊夜叉丸を名乗っていた。熊夜叉丸は室町時代初期に現れる「千竈彦六左衛門入道本阿」のこととされており*6、これが正しければ系図*7上に見える筆時が俗名となる(「時」は父・時家の1字を継承か)が、筆時(本阿)の子は忠家を名乗っており、その後千竈家徳氏に至るまで時家―経家間で継承された「家」が千竈氏の通字であったことが窺える。
それに対し、貞泰は嫡男であったにもかかわらず父・時家の字を継承していないが、「時家―貞泰」の名乗りは、得宗「時宗―貞時」から連続的に偏諱を受けていることが分かる。北条貞時は正安3(1301)年8月に出家して9代執権を辞したものの、嘉元4年当時も「得宗家当主・副将軍」として健在であった。次弟・経家までもが元服を済ませていたことを考えると、恐らく千竈貞泰は執権在任であった貞時(在職:1284年~1301年)*8を烏帽子親として元服を遂げたのではないか。
約1年後にあたる次の史料において、貞時の下、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*9)」の結番の一人となっている「千竃六郎」 も貞泰に同定される*10。
【史料C】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*11より一部抜粋
(前略)
七 番
安東左衛門尉 工藤右近将監
佐介越前守 南條中務丞
小笠原四郎 曾我次郎左衛門尉
工藤左近将監 千竃六郎
(以下略)
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
以後、しばらく史料上でその名を確認することは出来ないが、村井章介氏によると次の書状の宛名「千竈六郎左衛門入道殿」が年代的に貞泰ではないかとしている*12。これが正しければ【史料C】の後、父・時家と同じく左衛門尉に任官して出家し、鎌倉幕府滅亡後も存命であったことになる。
【史料D】建武元(1334)年6月26日付 観忍 書下写(『旧記雑録前編』1-1699号)
薩摩国河辺郡内黒嶋郡司職事、以円覚如本所被返付也、可被存其旨之由、依仰執達如件、
建武元年六月廿六日 観忍 奉
千竈六郎左衛門入道殿
(参考ページ)
脚注
*1:『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ六』(1996年)P.425~426『千竃文書』二四号「平氏系図」より。
*2:前注『鹿児島県史料』P.411~413『千竃文書』一号。『鎌倉遺文』第29巻22608号。
村井章介「中世国家の境界と琉球・蝦夷」(所収:村井章介・佐藤信・吉田伸之 編『境界の日本史』 山川出版社、1997年)P.109~111。
鈴木勝也「中世尾張千竃氏に関する一考察 ー惣領制の観点からー」(所収:『皇學館論叢』第43巻第1号、皇学館大学人文学会、2010年)P.3~6。
*3:注1前掲『鹿児島県史料』 P.413『千竃文書』二号。『鎌倉遺文』第29巻22609号。注2前掲鈴木氏論文 P.7。
*4:この部分について、注2前掲鈴木氏論文 P.7~8によると『鎌倉遺文』での「ち(ぢ)とうかきうち」の判読が正しいとする。
*5:弟の経家、筆時(本阿)も「弥六」「彦六」を称しており、この場合は必ずしも6男を意味するものではない。弘安2(1279)年4月11日付「六波羅御教書案」(『大隅台明寺文書』、『鎌倉遺文』第18巻13550号)の宛名「千竈六郎入道殿」は当時の千竃氏嫡流の当主であったとみられ、【史料A】における「故入道殿」と同人で、恐らくは時家の先代(父親)にあたる人物ではないかと思われる(→ 注2前掲村井氏論文 P.120、同鈴木氏論文 P.20 注(14))。
*6:注2前掲村井氏論文 P.108。
*7:注1前掲『鹿児島県史料』P.425~426『千竃文書』二四号「平氏系図」。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。
*10:注2前掲鈴木氏論文 P.15。
*11:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*12:注2前掲村井論文 P.120~121。