Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大仏貞房

北条 貞房(ほうじょう さだふさ、1272年~1309年)は、鎌倉時代末期の武将・御家人。大仏流北条氏の一族で、昨今の研究上では大仏 貞房(おさらぎ ー)、坂上 貞房(さかのうえ? / さかうえ? さだふさ)*1とも呼ばれるが、実際は佐介 貞房(さすけ ー)と呼ばれていたとみられる(後述参照)

 

詳しい活動経歴については

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その77-大仏貞房 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)*2

を参照のこと。

以下、この「職員表」に従って記述する。

 

父親については、宣時とする説(『武家年代記』延慶元年条、『関東開闢皇代并年代記事』、『前田本平氏系図*3『正宗寺本北条系図』、その息子・宗宣とする説(『尊卑分脈』、『佐野本北条系図』)とあるが、後者の場合だと宗宣14歳の子供となってしまい、比較的不自然である。

加えて、山口隼正の研究により鎌倉時代後期に成立したと推定される『入来院本 平氏系図*4でも宣時の子(宗宣の弟)として記載され、このことを裏付けている。 

 

また、宣時の息子は皆、得宗家と烏帽子親子関係を結んだことが窺えるが、次兄・が北条時偏諱を受けた(長兄・宗宣も同じ)のに対し、(および弟・貞宣は北条時の偏諱をもらっていることが分かる。時宗の死去により得宗および執権の座が貞時に継承されたのは弘安7(1284)年4月。これを境に、宗宣・宗泰はそれ以前、貞房・貞宣はそれより後の元服であったと推測可能である。

「職員表」によれば、貞房の生年は1272年と判明しており、1284年当時は13歳(数え年)元服の適齢である。貞時が執権を継いで間もない頃の元服であったと思われる。

実名は時からの偏諱」と、曽祖父・北条時房の「房」により構成されたものであろう。『前田本 平氏系図』には宣時の弟(『尊卑分脈』では兄)朝房の息子(房宣の父)にも同名別人の貞房(通称:四郎)を載せる*5が、名乗り方は同様であったと考えられる。

 

ここで次の史料も見ておきたい。

【史料】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*6

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

 

(略)

 七 番

  安東左衛門尉(重綱?貞忠?) 工藤右近将監

  佐介越前守     南條中務丞

  小笠原四郎     曾我次郎左衛門尉

  工藤左近将監    千竃六郎

 

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*7)」の結番を定めたものであるが、七番衆の一人「佐介越前守」も大仏貞房とされる。貞房は徳治元(1306)年7月19日に越前守に任官したと伝えられており、貞房が亡くなる約10ヶ月前の延慶2(1309)年2月19日に源有頼*8が越前守を兼ねるまで在任であったとみられ*9、上記【史料】はその間に書かれたものである。「佐介」の呼称からも北条氏一門であったことは確実と言えよう。

佐介」とは元々、大仏流の祖・朝直北条時房の4男)の長兄・時盛の家系の呼称である*10が、実際には時房の次男・時村も佐介氏で呼ばれる(3男・資時もか?)など、時房流北条氏の庶流にも用いられていた可能性が高い。上記【史料】により、大仏流後継者であった長兄・宗宣に対して、庶子貞房は実際「大仏」ではなく「佐介」で呼ばれていたことが窺えよう。但し貞房の系統はやがて「坂上」を称して分家したのであった*11

 

脚注

*1:貞房の息子・貞朝について、『正宗寺本 北条系図』では「遠江守」、『佐野本 北条系図』では「坂上遠江守。高時同時自害」と注記されており、『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」にある東勝寺合戦での自害者の一人「坂上遠江守貞朝」に一致する。故に細川重男氏は貞房の家系を「坂上家」坂上流北条氏)と呼称されている。同氏の著書『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.37、P.50 注(28) 参照。尚、「坂上」の読みについては 太平記 現代語訳 10-15 高時ら北条家一門、自害: 流れる水 に従ったが、或いは現在の鎌倉市内にある京急バスの停留所の名称「坂上(さかうえ)」がその名残とも考えられる。

*2:注1前掲細川氏著書 巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.77「大仏貞房」と同内容。

*3:注1前掲細川氏著書、P.379。

*4:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4 および 同「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.28。

*5:注1前掲細川氏著書、P.380。

*6:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*7:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。

*8:尊卑分脈宇多源氏系図中に「越前守」と注記される有頼の掲載がある(→ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。『公卿補任』元応2(1320)年条との整合性で若干疑問はあるが、同じく『分脈』での注記によると嘉暦4(1329)年7月18日に36歳で亡くなったといい、この宇多源氏有頼とみて良いだろう。

*9:佐藤圭「鎌倉時代の越前守について」(所収:『立命館文学』第624号、2012年)P.654(三六六)。

*10:北条氏 (佐介流) - Wikipedia より。

*11:注1参照。