南条高直
南条 高直(なんじょう たかなお、1300年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、御内人(得宗被官)。南条貞直の嫡男か。
梶川貴子氏の研究*1により、南条高直については実名の書かれた史料類が幾つか残されていることが判明している。以下に列挙しながら解説する。
●【史料1】『御的日記』元徳2(1330)年1月14日条:的始の一番筆頭の射手「南条新左衛門尉高直」*2。
鎌倉時代当時の(物語などではない)一等史料の中で、唯一「高直」の実名でその実在が確認できる貴重なものである。この頃までに元服を済ませ、左衛門尉に任官済みであったことも窺えよう。
そして「新左衛門尉」という呼称は、それ以前の史料で確認できる「南条左衛門尉貞直」が左衛門尉在任中に同じ官職を得たため区別されたものと考えられる。梶川氏もご指摘のように、「次郎」・「三郎」などの仮名が付かず単に「左衛門尉」と称していることから、「直」字の共通からしても貞直・高直は南条氏嫡流の人物であり、また得宗「貞時―高時」の偏諱を受けた形跡があることからして「貞直―高直」は親子であったと判断される。
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こちら▲の記事でも紹介の通り、南条氏嫡流においては元服から左衛門尉任官までに25~30年ほどかかったと考えられるが、時代が下るにつれ低年齢化した可能性はあるだろう。よって左衛門尉に任官して間もないと思われる【史料1】当時、高直は30歳前後だったのではないかと思われ(上記記事にて推定した父・貞直との年齢差も考慮)、北条高時の治世期間(1311年~得宗家当主/1316年~1326年:14代執権在職)*3内の元服はほぼ確実であろう。高直は得宗・高時の加冠により元服し「高」の偏諱を賜ったと判断される。
●【史料2】『太平記』巻2「俊基朝臣再関東下向事」:文中に「……(元徳二年)*4七月二十六日の暮程に、鎌倉にこそ着玉けれ。其日軈て、南条左衛門高直請取奉て、諏防〔諏訪〕左衛門に預らる。……」*5
この『太平記』は元々軍記物語であるが、二度目の討幕計画(元弘の変)が発覚して逮捕された日野俊基が鎌倉に送られてきた際、鎌倉に到着した俊基を受け取り、諏訪左衛門(諏訪左衛門入道直性の子か?)に預けさせた人物として南条高直の名が明記されている。
●【史料3】(1331年?)正月10日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*6
御吉事等、於今者雖事旧候、猶以不可有尽期候。
抑自去六日神事仕候而、至今日参詣諸社候。仍不申候ツ。今暁火事驚入候。雖然不及太守禅閤(=北条高時[崇鑑])御所候之間、特目出候。長崎入道(=円喜)・同四郎左衛門尉(=高貞)・同三郎左衛門入道(=思元)・同三郎左衛門尉(=高頼)・尾藤左衛門入道(=演心)・南條新左衛門尉等宿所炎上候了。焼訪無申計候。可有御察候。火本者、三郎左衛門尉宿所ニ放火候云々。兼又御内御局数御返事、昨日被出候。進之候。又、来十二日無御指合候者、早旦可有入御候。小點心可令用意候。裏可承候。恐惶謹言。
正月十日 崇顕
方丈進之候
「(切封墨引)
方丈進之候 崇顕
長崎高頼の宿所(邸宅)で放火があり、幸い得宗(元執権)高時の御所には及ばなかったが、他の長崎氏一族や尾藤演心・南条新左衛門尉の邸宅にまで燃え広がってしまったと伝えている。この「南条新左衛門尉」も時期の近さからして【史料1】の高直に同定され、その実在が示せるもう一つの一等史料となる。
●【史料4】『太平記』巻10「赤橋相摸守自害事付本間自害事」*7
懸ける処、赤橋相摸守、今朝は州崎へ被向たりけるが、此陣の軍剛して、一日一夜の其間に、六十五度まで切合たり。されば数万騎有つる郎従も、討れ落失る程に、僅に残る其勢三百余騎にぞ成にける。侍大将にて同陣に候ける南条左衛門高直に向て宣ひけるは、「…(略)…今此戦に敵聊勝に乗るに以たりといへ共、さればとて当家の運今日に窮りぬとは不覚。雖然盛時〔ママ、守時〕に於ては、一門の安否を見果る迄もなく、此陣頭にて腹を切んと思ふ也。其故は、盛時〔同前〕足利殿に女性方の縁に成ぬる間、相摸殿を奉始、一家の人々、さこそ心をも置給らめ。是勇士の所恥也。…(略)…」とて、闘未半ざる最中に、帷幕の中に物具脱捨て腹十文字に切給て北枕にぞ臥給ふ。南条是を見て、「大将已に御自害ある上は士卒誰れが為に命を可惜。いでさらば御伴申さん。」とて、続て腹を切ければ、同志の侍九十余人、上が上に重り伏て、腹をぞ切たりける。……(以下略)
正慶2/元弘3(1333)年5月18日、新田義貞率いる大軍が鎌倉に迫ると、16代執権でもあった赤橋守時は巨福呂坂から鎌倉北西部の洲崎へ出撃して新田軍と交戦。この【史料4】が伝えるところによると、激戦の末に守時は侍大将として同じ陣にあった高直を呼び寄せ、「妹が足利高氏(のちの尊氏)の妻だから、高時殿以下北条氏一門は私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と語り自害。これを見とどけた高直も「大将が既にご自害された上は、士卒は誰のために命を惜しもうか。ではお供仕ろう」と言って直ちに腹を切り、90余名の兵たちも一斉に後に続いて切腹したという。
前述したように、この『太平記』は元々軍記物語ではあるが、ある程度史実に基づいた部分も多く、同様の内容は以下の史料2点によっても伝えられる*8。
●【史料5】『梅松論』:「武蔵路は相模守守時、すさき(洲崎)千代塚において合戦を致しけるが、是もうち負けて一足も退かず自害す。南條左衛門尉并びに安久井入道一所にて命を落とす。」
●【史料6】『将軍執権次第』:「同十七日相模守守時南條左衛門尉以下各向武州山内離山合戦満山野云云 十八日守時以下自害畢……」
「新左衛門尉」ではなく「左衛門尉」と呼ばれていることから、父・貞直が直前に亡くなった可能性が高いが、南条氏家督を継承した高直も間もなく鎌倉幕府滅亡への流れに殉じたのであった。以後の史料で確認できず、これを以て得宗被官・南条氏の嫡流は滅亡したとみられる。
(参考ページ)
脚注
*1:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格―『吾妻鏡』から『太平記』へ―」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、2012年)。
*2:前注梶川氏論文 P.390。『新編埼玉県史 資料編7 中世3 記録1』(埼玉県、1985年)P.642。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*5:「太平記」俊基朝臣再関東下向の事(その6) : Santa Lab's Blog。
*6:『鎌倉遺文』第41巻32185号、『金沢文庫古文書』(武将編456号)、『神奈川県史』(資料編2古代・中世(2)3038号)に収録。年については1331年または1333年という説がある。文章および人物比定は、注1前掲梶川氏論文 および 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.211 注(3) に拠った。