小山宗朝
小山 宗朝(おやま むねとも、1270年頃?~没年不詳(1336年以前))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。父は小山時朝(時村)。子には小山貞宗と娘が一人。通称は出羽守(および 出羽前司、出羽入道)。法名は円阿(えんあ)か。
史料における小山宗朝
まずは関係する史料を以下に掲げておきたい。
●【史料1】(元亨3(1323)年10月27日)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収):この日参加者の一人である「小山出羽前司」が「砂金百両」を進上*1
◆この間に出家(法名:円阿)
●【史料2】正中2(1325)年3月日付「最勝光院荘園目録案」(『東寺百合文書』ゆ)*2:筑前国三原荘の領家として「関東備前守 小山出羽入道息女」
●【史料3】嘉暦3(1328)年8月8日付「沙弥某奉書」(『陸奥飯野文書』)*3:宛名に「小山出羽入道殿」
●【史料4】正慶元(1332)年8月10日付「中務大輔某施行状」(『陸奥飯野文書』)*4:宛名に「小山出羽入道殿」
これら史料4点における「小山出羽前司(=前出羽守)」およびその出家後の姿である「小山出羽入道」については、次に掲げる『尊卑分脈』の小山氏系図により宗朝に比定されよう。
あわせて、次の史料2点も見ておきたい。
●【史料6】元弘3(1333)年8月15日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*6:
●【史料7】延元元(1336)年3月30日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*7:
【史料6】・【史料7】は鎌倉幕府滅亡後、建武政権下での史料になるが、後者では「小山出羽入道円阿跡(旧領)」である尾張国海東中荘の地頭職を久我家に与える旨が記されている。この円阿は、時期・通称名の一致からして冒頭史料4点での「小山出羽入道」と同人と見なされ、宗朝の法名であったと推測される。出羽守を退任して出家していたことを考えると、それなりの年齢には達していたと思われ、延元元年当時は既に故人であったのだろう。
寿永3(1184)年4月22日付の「源頼朝下文案」に「尾張国海東三箇庄」と見え、寛喜2(1230)年2月20日付「小山朝政譲状」(『小山文書』)には、以前朝政(下野入道生西)が「将軍家之御恩」として賜り、「嫡孫 五郎長村」へ譲られた「所領所職等」の中に「一. 尾張国 海東三箇庄 除太山寺定」が含まれている*8。
そして海東中荘は、長村―時朝(時村)―宗朝と相伝されたのであろう。
生年と烏帽子親の推定
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こちら▲の記事にて、父・時村(初名:時朝)については1240年代後半の生まれと推定した。『吾妻鏡』正嘉元(1257)年12月29日条では「小山出羽四郎時朝」と書かれており、当時父が元服から間もない段階で無官であったことが窺えるから、宗朝はまだ生まれていなかったと考えて良いと思う。父との年齢差を考慮すれば、早くとも1260年代後半の生まれになるだろう。
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一方、こちら▲の記事で紹介した、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵の「結城系図」には時村の子として宗朝の記載が見られる。すなわち、永仁2年の段階では既に元服済みであったことが読み取れる。そして注記が無いことから、元服からさほど経っていない段階で無官であったことも推測可能である。
これらの点を踏まえて「宗朝」の名に着目すると、父の初名から受け継いだ「朝」の通字に対し、「宗」は鎌倉幕府第8代執権・北条時宗(在職:1268年~1284年)*9の偏諱を許されていることが窺える。恐らくは弘安7(1284)年4月までに、時宗を烏帽子親として元服したのであろう。元服は通常10代前半で行われることが多かったから、遅くとも1270年頃の生まれになるだろう。
よって、宗朝の生年は1260年代後半と推定される。永仁2年の段階で無官であった可能性が高いことを考慮すると、1270年前後の生まれ、時宗晩年期の元服になるのではないか。仮に1270年生まれとした場合でも【史料1】の元亨3年には54歳(数え年、以下同様)となり、出羽守を辞した後の年齢としては十分妥当である。
尚、延元元(1336)年4月に定められた建武武者所結番の一番衆の中に「
備考
「小山宗朝(小山七郎宗朝)」は、結城朝光が元服の際に名乗った初名でもある*11。こちらは、外祖父・八田宗綱から取ったと思われる「宗」と、元服時の烏帽子親・源頼朝からの偏諱「朝」によって構成されている。
(参考ページ・論文)
● 湯山学「小山出羽入道円阿をめぐってー鎌倉末期の下野小山氏」(所収:『小山市史研究』三号)
脚注
*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.710。
*2:『鎌倉遺文』第37巻29069号。『東寺百合文書』ゆ之部-三 P.22。
*3:『鎌倉遺文』第39巻30334号。
*4:『鎌倉遺文』第41巻31806号。古典籍の会(代表:宮﨑肇)「早稲田大学図書館所蔵『諸家文書写』の紹介」(所収:『早稲田大学図書館紀要』第60巻、2013年)P.69~70 二ノ十三文書。
*5:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.401~402。
*6:國學院大學博物館「中世の古文書をよむ」展に行ってきました - 南北朝についての日記? 8-1 より。
*7:國學院大學博物館「中世の古文書をよむ」展に行ってきました - 南北朝についての日記? 8-2 より。
*8:『大日本史料』5-5 P.630。『角川日本地名大辞典(旧地名編)』「海東荘(中世)」解説ページ。
*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*11:結城朝光 - Henkipedia。結城朝光とは - コトバンク。『吾妻鏡』治承4(1180)年10月20日条。