Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小山宗朝

小山 宗朝(おやま むねとも、1270年頃?~没年不詳(1336年以前))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。父は小山時朝(時村)。子には小山貞宗と娘が一人。通称は出羽守(および 出羽前司、出羽入道)法名円阿(えんあ)か。

 

 

史料における小山宗朝

まずは関係する史料を以下に掲げておきたい。

 

【史料1】(元亨3(1323)年10月27日)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収):この日参加者の一人である「小山出羽前司」が「砂金百両」を進上*1

 ◆この間に出家法名:円阿)

【史料2】正中2(1325)年3月日付「最勝光院荘園目録案」(『東寺百合文書』ゆ)*2筑前国三原荘の領家として「関東備前守 小山出羽入道息女

【史料3】嘉暦3(1328)年8月8日付「沙弥某奉書」(『陸奥飯野文書』)*3:宛名に「小山出羽入道殿

【史料4】正慶元(1332)年8月10日付「中務大輔某施行状」(『陸奥飯野文書』)*4:宛名に「小山出羽入道殿

 

これら史料4点における「小山出羽前司(=前出羽守)」およびその出家後の姿である「小山出羽入道」については、次に掲げる『尊卑分脈』の小山氏系図により宗朝に比定されよう。

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▲【系図5】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*5

 

あわせて、次の史料2点も見ておきたい。

 

【史料6】元弘3(1333)年8月15日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*6

尾張国海東下庄
地頭職、可令知行
給者、
天気如此、以此旨可令洩
申給 範国誠恐頓首謹言、
 元弘三年八月十五日 式部少輔(花押 *岡崎範国)奉
進上 山城前司(=竹内仲治)殿

 

【史料7】延元元(1336)年3月30日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*7

尾張国海東中庄地□〔頭〕
 小山出羽入道 円阿、可令知行
給者、
天気如此、以此旨可令
洩申給、仍言上如件、宣□〔明〕
恐惶頓首謹言、
 延元々年三月卅日 左中弁(花押)
進上 大夫将監殿

【史料6】【史料7】鎌倉幕府滅亡後、建武政権下での史料になるが、後者では「小山出羽入道円阿(旧領)」である尾張国海東中荘の地頭職を久我家に与える旨が記されている。この円阿は、時期・通称名の一致からして冒頭史料4点での「小山出羽入道」と同人と見なされ、宗朝の法名であったと推測される。出羽守を退任して出家していたことを考えると、それなりの年齢には達していたと思われ、延元元年当時は既に故人であったのだろう。

寿永3(1184)年4月22日付の「源頼朝下文案」に「尾張国海東三箇庄」と見え、寛喜2(1230)年2月20日付「小山朝政譲状」(『小山文書』)には、以前朝政(下野入道生西)が「将軍家之御恩」として賜り、「嫡孫 五郎長村」へ譲られた「所領所職等」の中に「一. 尾張国 海東三箇庄 太山寺」が含まれている*8

そして海東中荘は、長村―時朝(時村)―宗朝と相伝されたのであろう。

 

生年と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事にて、父・時村(初名:時朝)については1240年代後半の生まれと推定した。『吾妻鏡』正嘉元(1257)年12月29日条では「小山出羽四郎時朝」と書かれており、当時父が元服から間もない段階で無官であったことが窺えるから、宗朝はまだ生まれていなかったと考えて良いと思う。父との年齢差を考慮すれば、早くとも1260年代後半の生まれになるだろう。

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一方、こちら▲の記事で紹介した、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵の「結城系図」には時村の子として宗朝の記載が見られる。すなわち、永仁2年の段階では既に元服済みであったことが読み取れる。そして注記が無いことから、元服からさほど経っていない段階で無官であったことも推測可能である。

 

これらの点を踏まえて「」の名に着目すると、父の初名から受け継いだ「朝」の通字に対し、「」は鎌倉幕府第8代執権・北条時(在職:1268年~1284年)*9偏諱を許されていることが窺える。恐らくは弘安7(1284)年4月までに、時宗を烏帽子親として元服したのであろう。元服は通常10代前半で行われることが多かったから、遅くとも1270年頃の生まれになるだろう。

よって、宗朝の生年は1260年代後半と推定される。永仁2年の段階で無官であった可能性が高いことを考慮すると、1270年前後の生まれ、時宗晩年期の元服になるのではないか。仮に1270年生まれとした場合でも【史料1】の元亨3年には54歳(数え年、以下同様)となり、出羽守を辞した後の年齢としては十分妥当である。

 

尚、延元元(1336)年4月に定められた建武武者所結番の一番衆の中に「藤原政秀小山五郎左衛門尉」の名が見られる*10。【系図5】と照合すると、通称名の一致や字の逆転から貞朝の子・秀政(小山秀政)の誤記とも考えられるが、宗朝の孫にも「藤井」を称した政秀(小山政秀)の名が確認できる。この政秀は元服済みで左衛門尉の官途を得ており、若くとも20代であったとみられるが、仮に後者であるならば、祖父である宗朝は60代に達していたとみるのが妥当である。同年前月に出された【史料7】を見る限り、宗朝は既に故人であったと考えられるが、1270年生まれとしてもこの当時67歳となり、辻褄が合う。【史料4】で1332年までの生存は確認できるから、宗朝は1333~1336年の間に、享年60代で亡くなったものと推測される。

 

備考

小山宗(小山七郎宗朝)」は、結城朝光元服の際に名乗った初名でもある*11。こちらは、外祖父・八田宗綱から取ったと思われる「宗」と、元服時の烏帽子親・源頼からの偏諱「朝」によって構成されている。

 

(参考ページ・論文)

南北朝列伝 #小山宗朝

 湯山学「小山出羽入道円阿をめぐってー鎌倉末期の下野小山氏」(所収:『小山市史研究』三号)

 

脚注