横溝高貞
横溝 高貞(よこみぞ たかさだ、1310年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、得宗被官(御内人)。通称は八郎(横溝八郎)。
横溝氏は、元は伊豆国を本貫とする、藤原姓工藤氏一族の御家人であった。「南家 伊東氏藤原姓大系図」によると、工藤景光の弟・時澄が「横溝四郎」を称したことに始まり、息子の横溝五郎資景(資重)・七郎時忠の2系統に分かれたようである*1が、陸奥国糠部郡内の各地で得宗領の給主として確認され、次第に得宗被官化していたことが知られる。
鎌倉幕府の年頭行事の一つである的始(まとはじめ)の記録である『御的日記』には、この横溝氏の一族とみられる者が散見される中、以下の箇所で「横溝八郎高貞」の名が確認できる*2。
① |
日程 |
試合番号 |
対戦相手 |
勝敗 |
②成績 |
399 |
正中3(1326)年正月9日 |
3 |
本間山城四郎泰忠 |
勝利 |
9/10 |
409 |
嘉暦2(1327)年正月11日 |
2 |
本間孫八為頼 |
引き分け |
9/10 |
443 |
元徳3(1331)年正月12日 |
1 |
合田余一高遠 |
引き分け |
9/10 |
①:下記太刀岡氏論文の表での通し番号。 ②:(的中数/射数)で示した。
的始は、弓矢に堪能な御家人を射手に選び、2人一組で弓矢を射させて的中数で勝負を競ったものである。高貞の場合、毎回的中率が9割と好成績を残しており、同等に強い相手と良い勝負を繰り広げていた様子が窺える。弓の才があったのだろう。
初出当時の執権・得宗は北条高時(在職期間:1316年~1326年)*3であり、同年3月に出家するまでに高貞がその偏諱「高」を許されていたことが窺える。亡くなる1333年まで無官で「八郎」とのみ名乗っていることからしても、弓始参加時は元服からさほど経っていなかったと考えられ、高時と高貞は烏帽子親子関係にあったと判断される(ちなみに、3回目の対戦相手、合田高遠も同様であろう)。
元弘3(1333)年5月16日、関戸の戦いで「横溝八郎」が安保氏(安保入道道潭父子)らと北条泰家(高時の弟、左近大夫入道恵性)を大将とする軍勢に属して倒幕勢力と戦い戦死したことが次の史料2点に見えるが、通称名の一致から高貞に比定されよう。
●『太平記』巻10「三浦大多和合戦意見事」*4:「大将左近大夫入道も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。」
●『梅松論』:「翌日十五日分配〔ママ、分倍か〕・関戸河原にて終日戦けるに命を落とし疵を蒙る者幾千万といふ数を知らず。中にも親衛禅門の宗徒の者ども、安保左衛門入道道潭・粟田・横溝ばら最前討死しける間、鎌倉勢ことごとく引退く処、則ち大勢攻めのぼる間、鎌倉中の騒ぎ、只今敵の乱入たらんもかくやとぞおぼえし。」
『太平記』の方では、泰家に追い縋る敵兵に対し、横溝八郎(高貞)がそれを庇う形で踏み止まり、時の間に射落とした後に主従三騎で討ち死にしたと伝える。前述の弓始での好成績を髣髴とさせる活躍ぶりで、自身の命と引き換えに大将を逃がす忠義を貫いたのであった。
尚、下記の『多摩市史』では、久米川の戦いでの幕府軍の敗戦を受け、急遽分倍河原に派遣された泰家の軍勢の中の「安東左衛門尉高貞」*5と横溝八郎高貞を同一人物ではないかとする。その書きぶりからすると、恐らく同じ得宗被官であることや「高貞」という実名の共通からの判断によるものと思われるが、左衛門尉への任官が確認できる安東高貞と、無官で「八郎」と名乗ったままで討死した横溝高貞とでは、通称の観点からそれには無理があると思うし、前述『御的日記』と合わせれば「横溝八郎」→「安東左衛門尉」→「横溝八郎」となぜか一時的に通称を変えたことになって現実的と言えないだろう。
*当該期に「高貞」の名を持つ人物は他にも、宇都宮高貞、塩冶高貞、戸次高貞(早世)、二階堂高貞と少なからず確認できる。戸次については系図に明記されているように、彼らは自身が烏帽子親・北条高時から受けた「高」と、父が北条貞時から受けた「貞」とで実名を構成しており、安東・横溝も同様だったのではないか(特に安東の方は安東左衛門尉貞忠の子ではないかと筆者はみている)。
一方で、前述の『御的日記』には元亨4(1324)年正月14日の的始にて原孫六郎資頼に勝利した「猿渡八郎高貞」なる人物が確認でき、「八郎」の仮名と10/10という好成績の共通から、まだこちらと同一人物とする方が良いかと思うが、同じく根拠に弱いため、筆者は養子入りの可能性も低いと判断の上で、同名の別人として扱う。ただ、猿渡八郎も同じく高時の偏諱を受けた烏帽子子であろう。
(参考ページ)
●『多摩市史 通史編1』(多摩市史編集委員会 編、多摩市、1997年)
①P.622~623「横溝八郎と安保道潭」
②P.626~627「横溝八郎の墓」
● 橋場万里子「関戸合戦と関戸の地域性」(第5回多摩川流域歴史セミナー、2017年)開催報告資料 P.2
脚注
*1:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67 より。
*2:太刀岡勇気「政治力を示す場としての弓場始」(2006年)。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:「太平記」三浦大多和合戦意見の事(その4) : Santa Lab's Blog。
*5:『太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」。尚、時系列としては久米川の戦い→分倍河原の戦い→関戸の戦い(横溝高貞ら戦死) の順である。