Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

三浦高継

三浦 高継(みうら たかつぐ、1305年頃?~1339年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。三浦氏の庶流・佐原氏の一族から盛時が再興した "三浦介" 家(=相模三浦氏)の当主であり、歴史研究では佐原高継(さはら/さわら ー)とも呼ばれることもある*1

 

 

南北朝時代初期の三浦氏に関する史料群

まずは、三浦時継・高継父子の実在と活動が確認できる書状数点を紹介しておきたい。

 

建武元(1334)年4月10日『足利直義宛行状』(『葦名古文書』)*2

  可令三浦介時継法師法名道海、領知武蔵国大谷郷下野右近大夫将監跡
  相模国河内郷渋谷遠江権守跡、地頭職事
 
 右、為勲功賞所宛行也者、早守先例、可令領掌之状、依仰下知如件、
 
  建武元年四月十日
                  左馬頭源朝臣(直義花押)

この書状は足利直義が勲功の賞として三浦時継(道海)に、下野右近大夫将監の旧領=武蔵国大谷郷と、渋谷遠江権守*3の旧領=相模国河内郷の地頭職を宛行う旨を記したものである。 

 

建武2(1335)年? 9月20日『少別当朗覚書状案』「神奈川県史」所収『到津文書』)

 (前略)…一関東も足利殿御下向候、凶徒等悉被追落候、無為ニ鎌倉へ御下著候間、諸方静謐無為、返々目出候、三浦介入道一族廿余人大船ニ乗天、尾張国熱田浦ニ被打寄候處、熱田大宮司悉召捕之、一昨日京都へ令進候間、被刎首、被渡大路候後ニ、可被懸獄門之由、治定候、…(以下略) 

文中の「三浦介入道」は前年に登場した時継法師道海であろう。『太平記』によれば、北条時行の挙兵に加わった*4らしいが、冒頭にもある通り、関東に下向した足利殿(=尊氏)に敗れ(中先代の乱)、その後一族の者20数名と共に舟で尾張国に逃れようとしたところ、熱田大宮司(=昌胤か)に捕らえられ、京都に送られた後に首を刎ねられて獄門に懸けられたことが記されている。 

 

建武2(1335)年9月27日『足利尊氏袖判下文』(『宇都宮文書』)*5

       (花押:足利尊氏)  下    三浦介平高継
 
  可令早領知相模国大介職三浦内三崎、松和、金田、菊名網代、諸石名、大礒郷、在高麗寺俗別当職、東坂間、三橋、末吉、上総国天羽郡内古谷、吉野両郷、大貫下郷、摂津国都賀庄、豊後国高田庄、信濃国村井郷内小次郎知貞跡、陸奥国糠部内五戸、会津河沼郡蟻塚上野新田、父介入道々海本領事、

 右以人、為勲功之賞所宛行也者、守先例可致沙汰之状、如件、
 
    建武二年九月廿七日 

 

建武2(1335)年10月23日『三浦介高継寄進状』(『鶴岡八幡宮文書』)*6

  上総国眞野郡椎津郷内田地壹町事
  
 右、且為天長地久、現世安穏、子孫繁昌、至于子々孫々、
 於此料田者、不可致其煩、仍寄進状如件、
 
  建武二年十月廿三日   三浦介高継(花押)

③と④の書状によって、建武2(1335)年に「三浦介」であった人物として三浦高継の実在が確認できる。

③は①に同じく宛行状であり、足利尊氏が勲功の賞として高継に、記載の複数の領地を与えていることが記されている。中には「父 介入道々海跡」の記載があって、三浦介入道道海(=時継)が父であり、②も踏まえれば、斬首となった父の領地を子の高継が継承したことが分かる。 

 

 

高継の世代と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事にて、曽祖父の三浦頼盛が1240年頃の生まれと推定した。これに従えば、各親子間の年齢差を20とした場合、その曽孫である高継の生年は早くとも1300年頃と推定可能である。

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すると、元服は通常10代前半で行われることが多かったから、高継の場合1310年代前半より後に行ったと推測可能である。上記記事において盛の「頼」が5代執権・北条時からの一字拝領と推測したが、その後の「明―継」も北条氏の通字「時」を与えられた形跡が見られる。従っても、元服当時の得宗であった北条(1311年得宗家督を継承、1316~1326年の間14代執権)を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったとみなして問題ないだろう*7

 

ここで、この考察を裏付けるべく、高継の生年を推定してみたいと思う。

③より、建武2年の段階で高継が三浦介を名乗っていたことは確実であるが、①にある通り、父・時継が出家済みであった前年建武元年)の段階で "三浦介"(=③で「相模国大介職」と呼ばれているもの)の座が譲られていた可能性が高いと思われる。

*軍記物であるが、『太平記』巻3「笠置軍事付陶山小見山夜討事」には、元弘元(1331)年9月20日に上洛した幕府軍の「相従う侍」の筆頭に「三浦介入道」とあり、これが事実に基づくものであればこの時すでに父・時継が出家していたことになる*8。1330年代には時継から高継へ「三浦介」の継承がなされたと考えて良いだろう。

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この記事▲でも紹介の通り、頼盛の場合、12歳頃に元服を済ませて「三浦介六郎(=三浦介盛時の6男の意)」、19歳頃には任官して「三浦介六郎左衛門尉」と呼ばれ、24歳頃から「三浦介」を名乗るようになったことが『吾妻鏡』から窺える。

これらを参考にすれば、1330年頃には高継も20代半ば以上の年齢であったと推測できよう。逆算すると1305年前後の生まれとなり、高時執権期間の元服であることが裏付けられる。 

*『葦名古文書』には、建武4(1337)年4月20日付で「平高通」を左衛門少尉、同年8月28日付「従五位下平高連」を従五位上に叙す旨の宣旨が収録されており、各々三浦高通(たかみち)・高連(たかつら)父子に比定される*9。すなわち、この時孫の三浦高連が叙爵済みであったことが分かるが、従五位上に昇進していることから20代位には達していた可能性があり、その場合高継の年齢をもう少し上げる必要が生じるが、今度は頼盛との年齢差で辻褄が合わなくなる。1300年代前半に父・時継が三浦介であったことを踏まえると、高継もやはり1300年代初頭生まれであることは動かし難いだろう。或いは、高通と高連が兄弟であった可能性を考えても良いかもしれないが、この辺りは改めて後考を俟ちたい。

 

一説に高時は祖先と仰ぐ平高望にあやかって命名されたとする見解があるが、同じく桓武平氏(高望)の末裔を称する三浦氏にとっては奇しくもゆかりの字を拝領した形となり、上記【三浦氏系図】で示した通り、高継以降の三浦介家は「」を通字とするようになったのである(のち上杉氏から養子入りした三浦義同の代に、今度は「義」字が復活した)。 

 

『正木家譜』によれば、高継は暦応2(1339)年5月18日に亡くなったという*10。同年12月17日付の足利直義の書状(『南部晋 所蔵文書』)に「…三浦介高継侍所管領之時、…」と回想する形で書かれている部分があり*11、この年までの三浦介が高継であったことが窺えよう。

*『伊豆山神社文書』には、この後 明徳元(1390)年8月6日付で相模守護であった「大介高連」が発給した請文が収録されており*12、暦応2年から51年の間に三浦介(相模国大介職)の座は孫の高通に渡っていたことが分かる。

 

(参考ページ)

三浦惣領家 #三浦高継

 27 三浦高継 三浦介父と子の争い: 黒船写真館

 相模三浦氏 - Wikipedia

 

脚注 

*1:『大日本史料』6-4 P.958

*2:『大日本史料』6-1 P.516

*3:『伊勢光明寺残篇』に所収の、元弘の変に際しての幕府軍のリスト「関東軍勢交名」2通に掲載される「渋谷遠江権守」と同人であろう。片方のリストには「渋谷遠江権守一族」とあり、相模国(現在の高座渋谷駅辺り)を発祥・拠点とする得宗被官・渋谷氏の一族をまとめる惣領的な立場にあったと推測される。実名は明らかにされていないが、『若狭国今富名領主次第』「渋谷遠江守重光」が正中元(1324)年9月2日から元弘2(1332)年9月まで得宗の代官を務めたとの記載があり、『太平記』巻6「関東大勢上洛事」にも幕府軍のメンバーの一人に「渋谷遠江守」が含まれている(→ 大仏高直 - Henkipedia【表A】)ので、遠江権守=重光の可能性が考えられる。

*4:太平記』巻十三「中前代蜂起事」。

*5:『大日本史料』6-2 P.609

*6:『大日本史料』6-2 P.660

*7:三浦介高継 ー  千葉氏の一族 より。

*8:「太平記」笠置軍事付陶山小見山夜討事(その12) : Santa Lab's Blog三浦惣領家 #三浦介時継 より。

*9:『大日本史料』6-4 P.205

*10:27 三浦高継 三浦介父と子の争い: 黒船写真館系図綜覧. 第二 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。ちなみに正木氏は、戦国時代から江戸時代にかけて活動がみられるが、三浦氏より分かれた氏族と伝えられる(→ 安房正木氏 - Wikipedia房総の正木氏の系譜)。

*11:『大日本史料』6-5 P.851

*12:鎌倉以後の三浦氏 参照。