二階堂高雄
二階堂 行高(にかいどう ゆきたか、1299年~1333年)は、鎌倉時代末期の御家人。幼名は若寸丸。初名は二階堂高雄(たかお / たかたけ)*1。法名は行淳(ぎょうじゅん) または 行凉(ぎょうりょう)。父は二階堂政雄(頼綱の弟)、母は二階堂行藤の娘(時藤・貞藤の姉妹にあたる)*2。通称は四郎左衛門尉。
『尊卑分脈』二階堂氏系図(以下『分脈』と略記)の行高の項には次のように書かれている。
【史料A】
使 四郎左衛門尉 従五下 若寸丸
行高 本名高雄 叙留
正中三三出行淳 廿八
元弘三五ゝ死
正中3(1326)年3月に28歳(数え年)で出家したと書かれており、逆算すると1299年生まれと分かる。
これに基づき、紺戸淳氏の手法に従って元服の年次を推定すると、およそ1308~1313年となるが、「高雄」の名は1311年から得宗家家督となった北条高時が烏帽子親となり、その偏諱を受けたものと考えて良いと思う。理由は不明ながらのちに二階堂氏通字の「行」を用いて「行高」と改名したが、「高」の字は残しており、下(2文字目)に置くことについても高時の許容範囲であったことが窺える。若い年齢ながら正中3年に出家したのも、同月の高時出家*3に追随したことに間違いないだろう。『分脈』によれば兄・貞雄も同じくこの時に出家したという。
細川重男氏のまとめによると『続群書類従』所収「二階堂系図」では法名を「行凉」とし(下記参考文献参照)、『分脈』の国史大系本にも『仁和寺文書』では「行凉」と書かれているとの注記が見られる*4(筆者の方では未確認)。「淳」と「凉」は(特に崩し字にすると)字が類似することから誤読・誤写などが生じたのであろう。
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【史料A】にあるように、元弘3(1333)年5月に亡くなったといい、享年は35と若かった。その死因については明らかにされていないが、5月12日には追討の綸旨を賜った熊谷氏の軍勢が、「朝敵」の一人で兄・貞雄(法名:行源)と思われる「二階堂因幡入道」のいる丹後国熊野郡に攻め入っており*5、行高(行淳)の死もこれに無関係ではないだろう。
日にちの部分にあたる「ゝ」について、細川氏は(5月)5日と解釈されているが、『分脈』における「ゝ」は必ずしも繰り返しを意味するとは限らない(数字等不詳の場合に付す場合がある)。
行高が貞雄と同地に居たかどうかは分からないが、少なくとも同様に在京だった可能性はあり、5月7日には足利高氏(のちの尊氏)らに攻め込まれて六波羅探題が滅ぼされているので、これに殉じた可能性も考えられよう。
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いずれにせよ、35歳での早死にであることも踏まえれば、最期まで幕府(六波羅探題)側に付いての "殉死" であったとみられる。
(参考文献)
● 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.156「二階堂(伊勢)行高」の項
脚注
*1:「雄」の由来 および 読み方については 二階堂貞雄 - Henkipedia 注4を参照。
*2:参考文献・細川氏著書より。典拠は『佐野本二階堂系図』。『分脈』でも行藤の娘の一人に能登守政雄妻が確認できる。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.506。
*5:『大日本古文書』家わけ第十四 第一 熊谷家文書 P.61(三六号)。『鎌倉遺文』第41巻32176号。