Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

三浦泰連 (遠江七郎)

三浦 泰連(みうら やすつら、生年不詳(1220年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。通称は七郎(遠江七郎)。系図上での位置は不明だが、三浦(佐原)盛連の7男か。

 

『吾妻鏡』建長6(1254)年正月2日条に「遠江十郎頼連 同七郎泰連」として確認できる人物である*1。『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月22日条にある宝治合戦での戦死者のリストに挙げられている「佐原十郎左衛門尉泰連*2および「佐原七郎左衛門太郎泰連*3と同族同名になるが、同合戦で惣領・三浦泰村らと運命を共にせず生き永らえた "泰連" が別に存在したことになる。

遠江十郎頼連」は、前年の建長5(1253)年正月16日条に「三浦遠江十郎頼連」とあることから三浦氏であることは明らか*4なので、「同七郎泰連」も三浦氏で通称が "遠江七郎泰連" であったと解釈できる。

 

この場合の「遠江」は通常、父が遠江守であったことを表すものであり、三浦氏一門で該当し得るのは三浦盛連である。盛連自身は素行が悪く、天福元(1233)年5月22日に殺害されてしまった*5が、死後も、例えば建長2(1250)年正月1日条遠江次郎左衛門尉光盛 同六郎左衛門尉時連」などのように、息子たちが「遠江」を付した通称で呼ばれている。また、前述の宝治合戦では、北条時氏泰時の長男)の異父弟(母が矢部禅尼)であった光盛・盛時・時連三兄弟を中心に、盛連の息子たちが三浦宗家と敵味方分かれて生き残っている。

 

よって、前述の泰連も系図上では確認できないが、六郎時連に次ぐ盛連の遺児であった可能性が考えられよう。

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こちら▲の記事で、「連」の名が第3代執権・北条泰(在任: 1224年~1242年)*6偏諱を受けたものと推測した。よって、がこの時連の次の弟なのであれば、時の「」の方の1字を受けたと考えられよう。元服は通常10代前半で行われることが多く、泰時が亡くなる1242年までに済ませたとすると、遅くとも1230年頃には生まれていただろう。

 

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ところで、こちら▲の記事で三浦氏一門が20代で兵衛尉や左衛門尉に任官する傾向にあったことを示した。前述の三兄弟もその例外ではない。

しかし、建長6年当時泰連は「七郎」と記されるのみで無官であったことが分かる。1230年頃の生まれであれば20代半ばになるので、単に相応の年齢に達していなかった可能性もある。ただ、この場合、時連といささか年齢が離れ過ぎる感じも否めない。

ここで冒頭の記事を見ると、順番として十郎頼連の後に書かれていることから、何かしらの理由で頼連より下位に置かれていたとも解釈し得る。考えられるのは、①嫡流筋の頼連に対して庶流であった、②(母親の身分等の理由で)頼連の庶兄であった、のいずれかになると思うが、同じ「遠江」の通称を持つので、やはり②なのではないか。

連が1230年代の生まれで、当時の第5代執権・北条時偏諱」を受けたと考えられるので、泰連がその庶兄であれば生年は1220年代にまで遡っても良いかもしれない。

系図的な裏付けが困難であるため、生年の推測もやや難しいが、後考を俟ちたいところである。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.333「泰連 三浦(盛連七男,盛時弟か))」の項 より。

*2:『大日本史料』5-22 P.82

*3:『大日本史料』5-22 P.83 

*4:吾妻鏡人名索引』P.441「頼連 三浦」の項 より。

*5:『大日本史料』5-9 P.63

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。