三浦泰連 (遠江七郎)
三浦 泰連(みうら やすつら、生年不詳(1220年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。通称は七郎(遠江七郎)。系図上での位置は不明だが、三浦(佐原)盛連の7男か。
『吾妻鏡』建長6(1254)年正月2日条に「遠江十郎頼連 同七郎泰連」として確認できる人物である*1。『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月22日条にある宝治合戦での戦死者のリストに挙げられている「佐原十郎左衛門尉泰連」*2および「佐原七郎左衛門太郎泰連」*3と同族同名になるが、同合戦で惣領・三浦泰村らと運命を共にせず生き永らえた "泰連" が別に存在したことになる。
「遠江十郎頼連」は、前年の建長5(1253)年正月16日条に「三浦遠江十郎頼連」とあることから三浦氏であることは明らか*4なので、「同七郎泰連」も三浦氏で通称が "遠江七郎泰連" であったと解釈できる。
この場合の「遠江」は通常、父が遠江守であったことを表すものであり、三浦氏一門で該当し得るのは三浦盛連である。盛連自身は素行が悪く、天福元(1233)年5月22日に殺害されてしまった*5が、死後も、例えば建長2(1250)年正月1日条「遠江次郎左衛門尉光盛 同六郎左衛門尉時連」などのように、息子たちが「遠江」を付した通称で呼ばれている。また、前述の宝治合戦では、北条時氏(泰時の長男)の異父弟(母が矢部禅尼)であった光盛・盛時・時連三兄弟を中心に、盛連の息子たちが三浦宗家と敵味方分かれて生き残っている。
よって、前述の泰連も系図上では確認できないが、六郎時連に次ぐ盛連の遺児であった可能性が考えられよう。
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こちら▲の記事で、「時連」の名が第3代執権・北条泰時(在任: 1224年~1242年)*6の偏諱を受けたものと推測した。よって、泰連がこの時連の次の弟なのであれば、泰時の「泰」の方の1字を受けたと考えられよう。元服は通常10代前半で行われることが多く、泰時が亡くなる1242年までに済ませたとすると、遅くとも1230年頃には生まれていただろう。
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ところで、こちら▲の記事で三浦氏一門が20代で兵衛尉や左衛門尉に任官する傾向にあったことを示した。前述の三兄弟もその例外ではない。
しかし、建長6年当時泰連は「七郎」と記されるのみで無官であったことが分かる。1230年頃の生まれであれば20代半ばになるので、単に相応の年齢に達していなかった可能性もある。ただ、この場合、時連といささか年齢が離れ過ぎる感じも否めない。
ここで冒頭の記事を見ると、順番として十郎頼連の後に書かれていることから、何かしらの理由で頼連より下位に置かれていたとも解釈し得る。考えられるのは、①嫡流筋の頼連に対して庶流であった、②(母親の身分等の理由で)頼連の庶兄であった、のいずれかになると思うが、同じ「遠江」の通称を持つので、やはり②なのではないか。
頼連が1230年代の生まれで、当時の第5代執権・北条時頼の偏諱「頼」を受けたと考えられるので、泰連がその庶兄であれば生年は1220年代にまで遡っても良いかもしれない。
系図的な裏付けが困難であるため、生年の推測もやや難しいが、後考を俟ちたいところである。