Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

三浦貞宗

三浦 貞宗(みうら さだむね、生年不詳(1280年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人三浦(杉本)宗明の次男。母は佐原光盛(宗明の伯父)の娘。異母兄に三浦時明(安芸守)。子に三浦行連(ゆきつら)三浦兼(かねつら)がいる。通称および官途は 二郎、左衛門尉、下野守。法名道祐(どうゆう)美作三浦氏の祖にあたる。

 

 

系譜について

まずは、前述の情報を裏付ける2つの系図を掲げたい。

系図1】『諸家系図纂』所収「横須賀系図」より抜粋

使 従五位下 六郎左エ門尉

時連  ―――――――┐

┌―――――――――┘

│ 正五位下 使 下野守 六郎左エ門尉

└―杉本―――――――┐

┌――――――――――┘
従五位下 使 安芸守 六郎右衛門
├―時明 母平左衛門頼綱―――貞連 始貞明
│ 二郎左エ門尉 下野守
└―貞宗 母遠江守光盛

▲【系図2】三浦和田氏一族惣系図新潟県立歴史博物館所蔵)*1より

 

系図1】の『家系図』は、江戸時代、水戸藩の『大日本史』編纂にあたり諸国から集まった情報の中の系図をまとめる形で、藩主・徳川光圀の命により丸山可澄らが編纂したものである。近世の成立ゆえ、氏族によっては複数の種類の系譜が伝わるケースもあり、情報の扱いには注意を要するが、【系図1】は他の史料と合致する情報が多く、かなり信憑性は高いとみて良いと思う。

そして、南北朝時代の成立とみられる【系図2】*2は、【系図1】に比べると記載は簡素だが、内容の齟齬はなく、むしろ貞宗の子に行連を載せるのは貴重な情報である。

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系図1】にもある通り父・宗明の代に一旦杉本氏を称したが、子の時明・貞宗兄弟の代に「三浦」に復した様子であることは後述の各史料をご参照いただきたい。兄・時明は長男でありながら「時連宗明」代々の仮名を襲名する形で「六郎」を名乗った嫡男で、貞宗はそれに次ぐ次男として「二郎」を称したと考えられよう。

 

系図1】での「遠江守光盛」とは、同じく『諸家系図纂』所収「三浦系図」でも「遠江守」と記される、時連の同母兄の佐原光盛に比定される。光盛は同系図にも記載の通り三浦義村の娘(=矢部禅尼禅阿)を母としており、『会津資料叢書』巻6所収「葦名系図」での記載から算出される1204年生まれでほぼ正しいとみられる。これについては次の記事で詳述しているので、ご参照いただければと思う。

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貞宗の活動や関係史料について

次に、鈴木かほるの先行研究*3の内容を交えつつ、南北朝遺文フルテキストデータベース東京大学史料編纂所HP内)での検索に基づいて、貞宗が登場する史料(書状等)を挙げてみたいと思う。

 

 鎌倉幕府滅亡の直前、元弘3(1333)年5月20日付「熊谷直経代直久軍忠状」(『長門熊谷家文書』)*4に「……十三日……同郡木津郷三浦安芸前司破却城畢……」とあり、幕府側に付いていた兄・時明の城が同月13日に攻め落とされたことが窺える。一方で、時明の嫡男で甥にあたる貞連は、細かい動向は不明であるが、母方の大多和氏に追随したのか、幕府滅亡に殉ずることなく生き残った。貞宗自身の動向も同じく不明だが、同様だったと思われる。

建武3(1336)年4月、貞宗は、足利尊氏の命により備中・美作両国の新田軍残党を鎮圧にあたった三浦高継の軍勢に加わり、その後美作国真島郡の地頭職を与えられたという。

建武4(1337)年6月19日、尊氏から越前国栗田島、越後国奥山庄関郷・鍬江村堰沢条、同国金山郷の地頭職を安堵された(『神奈川県史』資料編 3760号文書)。しかし、金山郷については、和田宗実の娘・津村尼*5から、娘・由比尼覚園→その娘・由比尼是心金沢顕時の娘を養女とした)を経て寄進されていた金沢称名寺と所有権を巡る争いが、子・行連の代まで続くこととなる。

【史料1】建武4(1337)年12月5日付「細川和氏奉書案」神奈川県立金沢文庫保管『称名寺文書』)*6:「三浦下野入道道

【史料2】暦応2(1339)年10月20日付「藤原(日野)有範奉書案」神奈川県立金沢文庫保管『称名寺文書』)*7:「三浦下野入道々祐

 

【史料3】天龍寺造営記録』・『天龍紀年考略』暦応4(1341)年7月13日条*8:「三浦下野入道

【史料4】康永2(1343)年12月26日付「足利尊氏下文」(反町英作氏所蔵『三浦和田文書』)*9:「三浦下野守法師 法名道祐

【史料5】康永3(1344)年正月29日付「高師直奉書」(反町英作氏所蔵『三浦和田文書』)*10:「三浦下野入道々祐

【史料6】康永3年5月2日付「長尾景忠打渡状」(反町英作氏所蔵『三浦和田文書』)*11:「三浦下野入道々祐

【史料7】『園太暦』康永4(1345=貞和元/興国6)年8月17日条*12:「去夜(=前日16日の夜)除目聞書」の中に「遠江守平行連 天龍寺造営功」・「平行連 遠江」とあり。『師守記』にも「八月……十六日…被行(=行われ)小除目、……十七日……今朝聞書支配……」と書かれる*13この除目において遠江守に任じられた「平行連」は、同月29日「天龍寺供養日記」(『結城文書』)にある「三浦遠江 行連*14に比定される。【系図2】より、貞宗の息子である。

【史料8】貞和2(1346)年7月19日付「足利直義下知状案」(反町英作氏所蔵『三浦和田文書』/『色部文書』)*15:「三浦下野前司貞宗法師 法名道祐

 

【史料9】文和3(1354)年2月28日付「三浦道祐寄進状案」(『土佐吸江寺文書』)*16:端裏書に「三浦下野入道殿道祐寄進状案文」、署名部分に「三浦下野守道祐

【史料10】文和3年2月晦日付「三浦貞宗寄進状案」(『土佐吸江寺文書』)*17:端裏書に「三浦下野入道殿道祐寄進状案文」、署名部分に「三浦下野守

【史料9】・【史料10】は、重代相伝の所領である土佐国吾川山庄上谷川村を、夢窓国師の旧庵である土佐吸江庵に寄進したという内容で、その替地として美作国西高田庄甘波村・安名を得たという。鈴木氏は、それまで横須賀を本拠としていた貞宗美作国入部はこれ以前、前述の新田軍残党鎮圧からそう遠くない時期であったと推測され、また福岡彰憲の論考*18に基づき、この寄進は越前・越後・土佐に散在する自領を高田庄内に集中させ、一族の結集を図ったものであったと説かれた上で、次の史料も紹介されている。

 

【史料11】貞治3(1364)年6月15日付「妙円寺鰐口裏銘」岡山県真庭郡勝山町)*19:「……美作国真島郡高田庄如意山城主三浦下野守貞、貞治三年甲辰六月……」

データベース上では「宗貞」としているが、鈴木氏の著書に従い訂正した。

鈴木氏の紹介によると、同寺は高田城の山麓にあり、同じく山麓にある高田神社の棟札にも「……三浦下野守貞宗封……応永五(=1398)年九月」、貞宗が帰依した上河内村の瑞景寺の文書(『瑞景寺文書』)には「永徳年中(=1381~1384) 三浦下野守 在本州高田」と、美作における貞宗の足跡を物語る史料が残されている。

貞宗の正確な没年については不明であるものの、『日本史総覧』3に掲載の三浦氏系図での貞宗の注記に「応永年中」とあり、これは亡くなった時期についての記載と思われるが、これらの棟札や文書から一応辻褄は合っている。ただ、次節にて推定する生年からすると大変長寿であったことになり、筆者としては疑問も残る。これについては後考を俟ちたいところである。

以後、女系で三浦義村の血をひく貞宗の子孫は美作三浦氏として、戦国時代・安土桃山時代の尼子氏・毛利氏・宇喜多氏との抗争に至るまで続くこととなる。

▲【系図12】美作三浦氏略系図*20

 

 

生年と烏帽子親の推定

以上の内容を踏まえた上で、貞宗の世代を推定したみたいと思う。

とは言っても、管見の限り、貞宗建武4(1337)年の史料上初見の段階では下野守任官の上、出家済みであるから安易に生年の推測はしづらい。

しかし、ここでポイントになるのが【史料7】になると思う。康永4(1345)年に息子の行連が「天龍寺造営功」によるものとはいえ、ある程度相応の年齢に達していなければ遠江守になれない筈である

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こちら▲の記事で、三浦氏の国守任官に相応の年齢を30代後半~40歳程度と判断した。宝治合戦で三浦宗家が滅ぼされ、北条時氏の異父弟でもあった光盛盛時時連三兄弟の代より事実上得宗被官化していた関係で、左衛門尉からなかなか昇進できない立場だったのである。鎌倉幕府滅亡により被官の立場から解放されてはいるが、行連の代にいきなり大幅な低年齢化は考えにくいので、1310~1320年代には生まれていたのではないかと思う。

すると、現実的な親子の年齢差を考慮して、貞宗の生年は遅くとも1290年代になると推測できる。仮に1290年生まれとすると、初見の1337年当時40代にして国守任官の上、出家していたということになるが、年齢的にも十分適しているのではなかろうか。1280年代生まれで50代としても良さそうであり、貞宗の生年は1280~1290年代であったと推定される。前述した1204年生まれの外祖父・光盛とも、少し年齢差は開くが、決しておかしくはなく妥当である。

そうした観点から「」の名前に着目すると、「宗」が父・宗明からの1字とみられる一方で、「」の字は元服当時の得宗である9代執権・北条(在職:1284年~1301年/1311年逝去)*21偏諱を賜ったものと考えて良いと思う。

*尚、前述『日本史総覧』3の系図に見える息子、行連の兄弟については、「行」や「兼」が誰かからの偏諱なのか全く見当が付かないが、祖父・時連以前の通字である「連」を"復活"させている。ちなみに玄孫・三浦持理の「持」は足利義偏諱ではないかと思われる。

 

ところで、元応元(1319)年のものと考えられている北条(金沢)貞顕(顕時の子、のち15代執権)の書状(『金沢文庫文書』)*22には次のようにある(一部の抜粋)。

……道明御房*23今日秋元御下向之旨承候了、

安芸下野守之由承候者、三浦安芸前司、……

 

【読み下し例】

(そもそも)道明御房今日秋元(=上総国周淮郡)御下向の旨承り候ひ了(おわ)んぬ、

安芸下野守の(よし)承り候わば三浦安芸前司の事

永井晋によれば、伝存する貞顕の書状は、称名寺二世長老・明忍房剱阿(釼阿)か嫡男の北条(金沢)貞将に宛てたものがほとんどで、宛先が明記されていない書状は当面この二人を受取人と想定して読んでみると良いという*24。永井氏は更に、正安から嘉暦までは剱阿宛て、嘉暦から元徳の時期の書状は六波羅探題として在京の貞将宛てが多いという特徴を挙げておられ*25、上記書状は『鎌倉遺文』の推定通り1319年のものであれば、前者ということになる。

この書状を書く前に書状か伝聞等で情報を得ていたのであろうか、それに対し承知したという返答として書いたもののようである。上記部分では「さて、道明房が今日秋元へ下向なさる旨は承知いたしました。」と述べたのに対し、次いで「安芸下野守のことは、もし承ったならば、三浦安芸前司(=時明)のことであろうか?」と少し曖昧な返事である。「安芸下野守」について、書いている貞顕ですら「三浦時明関係のことか?」とはっきり分かっていない様子だが、もし時明の弟である貞宗下野守任官の話がこの頃持ち上がっていたとすれば、1319年頃にはその任官の適齢に達していた可能性がある。その場合1280年代生まれの可能性が濃厚になってくるだろう。

 

脚注

*1:『新横須賀市史 資料編 古代・中世Ⅱ』(横須賀市編、2007年)P.1024~1027 より。

*2:高橋秀樹「三浦氏系図にみる「家」の創造神話」〈所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上(高志書院、2007年)〉および 前注『新横須賀市史』P.1132での解説(同じく高橋氏執筆)によると、この「三浦和田氏一族惣系図」は越後黒川(和田)氏に伝来した『三浦和田氏文書』中の一点で、中身は佐原系三浦氏が高通世代まで、黒川氏は政義時実までと、南北朝時代の人物までの記載となっており、高橋氏は1372~1375年の間に政義が「政資」と改名する以前の成立と考えられている。尚、同論文はのちに高橋氏著『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016年)第一章にも収録されている。

*3:鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.317~320。

*4:『鎌倉遺文』第41巻32176号。

*5:系図2】において「重茂の にょうほう(女房)、とうえん(道円=高井時茂)の母」(※現代的仮名遣いに訂正、濁音(゛)は省略されている)との注記がある。呼称は仁治2(1241)年の「津村尼譲状」2通(『出羽中条家文書』所収、『鎌倉遺文』第8巻5801号・5962号)による。

*6:南北朝遺文』関東編第1巻771号。

*7:南北朝遺文』関東編第2巻1014号。

*8:大日本史料』6-6 P.858859

*9:南北朝遺文』関東編第2巻1465号。

*10:南北朝遺文』関東編第2巻1470号。

*11:南北朝遺文』関東編第2巻1495号。

*12:大日本史料』6-9 P.224226

*13:『大日本史料』6-9 P.226

*14:『大日本史料』6-9 P.287。『南北朝遺文』東北編第1巻745号。

*15:南北朝遺文』関東編第3巻1639号。『大日本史料』6-9 P.974

*16:南北朝遺文』中国四国編第3巻2575号。

*17:南北朝遺文』関東編第4巻2535号。

*18:福岡彰憲「三浦道祐寄進状案について」(『土佐史談』163号、1983年)。

*19:南北朝遺文』中国四国編第4巻3295号。

*20:注3前掲鈴木氏著書 P.321に掲載の系図、それが典拠とする『日本史総覧』3 および 武家家伝_美作三浦氏に掲載の系図により筆者作成。

*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*22:『鎌倉遺文』第35巻27161号。金沢貞顕書状 · 国宝 金沢文庫文書データベース

*23:この道明御房は、福島金治「中世鎌倉律院と海上交易船 一熱海船の性格と鎌倉大仏造営料唐船の派遣事情―」(所収:『鎌倉大仏史研究』創刊号、1996年)P.15 注(16)にて紹介されている、貞顕の命により(中国)入りを志しながらも果たせなかった道明房に、尊称の「御」を付した同一人物であろう。

*24:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.217。

*25:前注に同じ。