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偏諱に関するコラムを綴る。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。鎌倉幕府御家人などの名前に着目し、誰から1字を貰ったかについての個人的な見解も論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条高時滅亡後の改名現象・補

 

前回記事では、鎌倉幕府滅亡後、最後の得宗鎌倉幕府第14代執権)であった北条時からの偏諱」を棄てる形で改名する御家人が多く見られたことを取り上げた。
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本項は、この前回記事▲ に補足するものである(以下〔史料●〕〔表●〕と記すものの一部は前回記事に掲載のものであり、アルファベット記号を統一してある)

あわせてご参照いただければと思う。 

 

 

備考: 改名を行った家柄について

さて、北条時からの偏諱」を改めた御家人は〔表C〕の17例を数え、前項ではその理由について考察した。数多くある御家人の中でのごく一部に過ぎないが、他の御家人はそうしなかったのであろうか。幾つかピックアップして確認してみたいと思う。 

 

〔史料H〕『武家年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』より)

元徳三年元弘元年

九月上旬、為対治山徒等、被差上陸奥守貞直足利治部大輔高氏以下之軍勢、其後先帝御座于笠置城云々、

 

〔史料G〕『鎌倉年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』より)

今年元徳、…(中略)…八月…(略)…廿四日、主上竊出鳳闕、令寵笠置城給、仍九月二日、任承久例、可上洛之由被仰渡出、同五六七日、面々進発、大将軍、陸奥守貞直、右馬助貞冬、江馬越前入道、足利治部大輔高氏、御内御使長崎四郎左衛門尉高貞、開東両使秋田城介高景出羽入道道、此両使者践祚立坊事云々、此外諸國御家人上洛、圖合廿万八千騎、九月廿日、東宮受禅、同廿八日、笠置城破訖、先帝歩儀令出城給、於路次奉迎、十月三日遷幸六波羅南方、同日、於楠木城第一宮尊良親王奉虜、同廿一日、楠木落城訖、但楠木兵衛尉落行云々、十一月、討手人々幷両使下著、同月、長井右馬助高冬信濃入道々大、為使節上洛、為京方輩事沙汰也、同八日、以前坊邦良、第一宮康仁親王東宮、…(以下略)

 

元弘元(1331)年、後醍醐天皇笠置山、その皇子・護良親王が吉野、楠木正成が下赤坂城にてそれぞれ倒幕の兵を挙げると、9月初頭、幕府は承久の乱の先例に任せ(倣って)、討伐軍を差し向けることを決定。その幕府軍は、大仏貞直金沢貞冬江馬越前入道(時見?)*1足利高氏それぞれを大将軍とする4つの軍勢に分割・編成され、そのメンバーは以下の通りであった。 

 

〔表D〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)

楠木城 
一手東 自宇治至于大和道
  陸奥守(大仏貞直)   河越参河入道(貞重)
  小山判官(高朝[秀朝]    佐々木近江入道(貞氏)
  佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎(胤貞)
  武田三郎(政義)    小笠原彦五郎(貞宗
  諏訪祝(時継)   高坂出羽権守(信重)

  島津上総入道(貞久)

  長崎四郎左衛門尉(高貞)
  大和弥六左衛門尉   安保左衛門入道
  加地左衛門入道   吉野執行
   
一手北 自八幡于佐良□路
  武蔵右馬助(金沢貞冬)    駿河八郎
  千葉介(貞胤)   長沼駿河権守(宗親)
  小田人々(高知[治久]    佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
  伊東大和入道     宇佐美摂津前司(貞祐)
  薩摩常陸前司     □野二郎左衛門尉
  湯浅人々       和泉国軍勢
   
一手南西 自山崎至天王寺大
  江馬越前入道   遠江前司(名越宗教?)
  武田伊豆守(信武?)   三浦若狭判官(時明)
  渋谷遠江権守   狩野彦七左衛門尉
  狩野介入道   信濃国軍勢
   
一手 伊賀路
  足利治部大夫(高氏[尊氏]

  結城七郎左衛門尉(朝高[朝祐]

  加藤丹後入道   加藤左衛門尉
  勝間田彦太郎入道   美濃軍勢
  尾張軍勢  
   
同十五日
  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
同十六日
  中村弥二郎 自関東帰参

 

この軍勢は「承久の乱の先例に倣って」編成されたらしいが、その際の軍勢統率者を次の史料で確認してみよう。  

〔史料I〕『吾妻鏡』承久3(1221)年5月25日条(※旧字体は適宜、新字に改めてある。)

承久三年五月大廿五日戊申。自去廿二日。至今暁。於可然東士者。悉以上洛。於京兆所記置其交名也。各東海東山北陸分三道可上洛之由。定下之。軍士惣十九万騎也。
 東海道大将軍、従軍十万余騎云々、
相州 武州 同太郎 武蔵前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱

 東山道大将軍、従軍五万余騎云々、
武田五郎信光 小笠原次郎長清 小山新左衛門尉朝長 結城左衛門尉朝光
 北陸道大将軍、従軍四万余騎云々、
式部丞朝時 結城七郎朝広 佐々木太郎信実


今日及黄昏。武州駿河国。爰安東兵衛尉忠家。此間有背右京兆之命事。籠居当国。聞武州上洛。廻駕来加。武州云。客者勘発人也。同道不可然歟云々。忠家云。存義者無為時事也。為棄命於軍旅。進発上者。雖不被申鎌倉。有何事乎者。遂以扈従云々。

 

①北条[大仏]時房 ②北条泰時 ③北条時氏 ④足利義氏 ⑤三浦義村 ⑥北条[名越]朝時

 

この〔史料I〕により、承久の乱には、北条氏一門や足利氏のほか、三浦・千葉・武田・小笠原・小山・結城・佐々木の諸氏(一門含む)が参加していたことが分かり、これらの氏族は、後世の元弘の乱(元弘の変)の際にも幕府軍に加わって上洛したことは〔表D〕を見れば明らかである*2

 

 

足利氏一門

前回記事 に掲げた〔表E〕では、元弘元(1331)年幕府上洛軍の編成表に部将として列記された人名中に「足利宮内大輔三河国」が含まれている。これについては、前掲D・G・Hの史料との関係で「足利治部大輔」(=高氏)の誤記ではないかとする説と、足利氏一門の吉良貞家に比定する説とある*3が、続いて「足利上総三郎」(=吉良満貞?*4)の名も確認できることから、後者の可能性が高い。いずれも吉良氏だが、鎌倉時代においては足利(屋号:足利上総)を称しており*5、(尊氏等の)嫡流家からは独立した御家人として捉えられていたようだ*6。吉良氏の場合、年代的に考慮して、満氏の子・氏が北条時の偏諱を受けた可能性も考えられるが、その兄弟または息子とされる貞義*7の嫡男は「満義」と名乗っており、基本的には得宗との烏帽子親子関係は持っていなかったと判断される。

 

同じく足利氏嫡流とは別個の御家人として幕府から遇されていた畠山氏*8では、国、国、国、国の名に得宗から偏諱を受けた形跡が見られる。特に国は尊氏と同じく嘉元3(1305)年の生まれであることが判明しており*9時からの一字拝領に間違いはないだろう。

系図類で見る限り、高国が改名したことは確認できない。一見すると、幕府滅亡後急ぎ改名した尊氏・直義兄弟とは対照的に思えるが、実のところ、高国は幕府の滅亡から僅か数年で出家していたのである。

 『南狩遺文』延元2(1337)年7月日付の書状には、南朝方の加藤定有が「朝敵人畠山上野入道同小松次郎」と合戦に及んだことが書かれているが、高国・直泰父子に比定されている*10。『積達古館弁』にも「畠山上野介源高國入道信元」とあって*11、俗名「高国」のまま出家して「信元(しんげん)」と号し、吉良貞家に討たれるまで改名するまでもなかったようである。

 

 

三浦氏一族

三浦氏は宝治合戦(1247年)にて本家筋の三浦泰村らが滅ぼされた後、傍流・佐原氏出身の盛時により三浦介家が再興され相模三浦氏と呼ばれる)得宗被官御内人化して活動していたことも考慮すると、その後の三浦介家当主(盛―明―継―継)は得宗偏諱を受けたものと推測される。時継・高継父子は最終的には足利尊氏に従って、倒幕側に傾いたが、その後は、時継が中先代の乱に際し再び北条氏(高時の次男・時行)に従い処刑され、対して高継は尊氏に従い明暗が分かれた。しかし、高継はその後も特に改名しなかったようで、むしろ以降の当主継―通―連―明……)は「」を代々の通字とするようになっている。

元々、時の命名は、父の貞時の主導によるものと思われるが、祖先の平高望王にあやかったものであるとされる。『尊卑分脈』等の系図類では、高望は三浦氏にとっても祖先にあたる。継が時の代にわざわざ「高」字を許されていることから、高時からの一字拝領に間違いは無いとは思われるが、結果として祖先と仰ぐ高望の字を用いることとなったので、そのまま使用することにしたのではないかと判断される*12

 

前掲〔史料D〕にて江馬越前入道の軍に加わっている「三浦若狭判官」は、頼盛の甥(弟・宗義の子)若狭守景明の子の明に比定される*13。"三浦介入道"時継とは "はとこ"の関係にあり、その父とは同名別人である。しかし「」の字は同じく北条氏から受けたものではないかと思われる。

時明も時継に同じく*14、幕府滅亡時には足利高氏方に寝返って相模国三浦郡山口の北条氏残党を退治し*15、その功によるものかその後の鎌倉将軍府において関東廂番の1人に抜擢されたが、中先代の乱では北条時行側についてそのまま死への道へ進んだ*16天正本『太平記』には、懐島郷(現・神奈川県茅ヶ崎市へ逃れた時明を憐れんだ浦人が、彼を大壷の中に隠し入れて砂浜に埋めたが、そのまま放置されてしまい、気が籠った挙句自害するという壮絶な最期が描かれている*17

 

継については、『太平記』に、紫宸殿において後醍醐天皇が北条氏残党の鎮圧と天下安鎮の法を催す際、予め警護に応ずることを承知していたにもかかわらず、時に及んで「三浦介」が「千葉大介貞胤」と上座を争ったために天皇の勘気を蒙り、出仕を止められたという話が載せられており*18、これが天皇からの離反に繋がったと考えられている*19。 また、6月12日付で北畠顕家の意を受けた大蔵権少輔清高が代官・南部師行宛てに認(したた)めた書状*20には、三浦介入道(時継:法名道海)と結城七郎(朝祐)元弘の乱の恩賞として久慈郡、糠部郡東門(現・岩手県)の地頭代を新給される予定であったが、両名ともその給人を辞退したことが記されている。これは建武年間のものとされており*21、前述の『太平記』のエピソードと照合すれば辞退の理由も察しが付く*22明の場合は動機が不明だが、同様に離反するきっかけがあったか、もしくは惣領である時継に追随したかのいずれかであろう。幕府滅亡からさほど年数が経っておらず、両者とも「時」字を改めないまま北条氏方に転じたのである。むしろ北条氏の通字であった「時」を棄てないところにその思いが感じられる

 

 

同じく得宗から偏諱を受けていた三浦氏一族だと、葦名盛系図類では盛員とする)盛父子がいる。『太平記』には元弘2年9月、幕府が発した軍の中に「葦名判官」(盛貞)・「三浦若狭五郎」(頼盛の弟・盛氏の孫、氏明)の名が見え*23、当初は幕府方であったが、やはり同じく足利高氏方になびいたようである*24

そして、この父子は中先代の乱に際し、建武2(1335)年8月17日、相模国辻堂、片瀬原の合戦で戦死した*25。当時盛貞40歳、高盛18歳*26盛は元服から数年の年齢であり、時が執権を退任する頃に一字を拝領していたものとみられる。

太平記』では「葦名判官入道」が「三浦介入道」(時継入道道海)・「同若狭五郎」(氏明)とともに北条時行方について敗死した*27と伝えるが、実際の史料で確認できる限り、追討側の足利軍に属しての戦死だったようである*28。前者の通りであれば改名しないのも当然であるが、幕府滅亡から数年しか経っていないことを考えれば後者であったとしてもおかしくはない。或いは、北条氏からの偏諱を棄てないままの戦死であったために、軍記物である『太平記』において北条方に変えられてしまったのかもしれない。跡を継いだ高盛の弟・盛は当時10歳*29で、まもなく足利義の加冠により元服したのではないかと思われる。

 

 

千葉氏

千葉氏は頼胤の後から2つの系統に分かれている。 

宗胤流(千田氏)では、『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』に肥前国小城郡の代々の地頭として、千葉太郎胤貞の次代に「胤」の名が書かれており、中山法華経寺文書』所収の寄進状によって実在が確認できる。この寄進状がいつのものかは不明だが、建武元(1334)年には胤貞が次男の胤平に小城郡地頭と下総国の千田荘・八幡荘の総領職を譲っている書状も残されているので、幕府滅亡前に時の偏諱を受けていた胤が早世し、胤貞が一旦家督を再承していたものと推測される。 

一方、胤宗流の千葉介貞胤には一胤、氏胤の二子がおり、一胤も初め時の偏諱を受けて「胤」を名乗っていたようだ(前回記事参照)胤は一胤の死後1337年の生まれとされ*30室町幕府初代将軍・足利尊の烏帽子子であったと考えられる。

 

武田氏

嫡流家では、信―信綱―信得宗を烏帽子親として元服したようだ(『系図綜覧』所収「甲斐信濃源氏綱要」)*31が、信宗はのちに一族の若狭守護*32と争論をして没落・流浪したようで*33、晩年に本国甲斐に足を踏み入れるまでの間に安芸で生まれたとされる息子の信武が得宗偏諱を受けていないことは見て明らかである*34

北条時宗の代を境にするかのように、得宗偏諱を受ける家柄は信時の弟・政綱の系統に移っている。すなわち、政綱の子・信家は別名「信」とも伝わるが、時偏諱を受けて改名したのではないかとされ*35、信家(宗信)の子・信も時から一字を拝領した形跡がある*36。しかし、貞信の息子は政義、貞政と命名された(『尊卑分脈』)

嫡男の政義は『建武記』(『建武年間記』)に、建武元(1334)年10月14日、北山殿笠懸射手の1人に「武田石禾三郎政義(石禾は石和(いさわ)の別表記)としてその名が確認できる*37ので、前掲〔表D〕(1331年)における「武田三郎」も政義と推測される*38が、この通称名からすると、当時無官だった可能性があり*39、それは政義の元服がこれよりさほど遡らない時期に行われたからではないかと思われる。恐らく政義の元服当時、得宗・高時は既に引退していたので偏諱を受けなかったのだろう。政義・貞政の名は祖先武田信義、武田信政―政綱)にあやかって付けられたものと思われる(貞政の「貞」は父からの継承)。 

一方、信武の嫡男・信の烏帽子親は足利貞であったらしい*40系図類にのみ見える情報なので信ずるには慎重になるべきだが、年代的に矛盾は無いし、「」が足利氏からの偏諱と考えることにも何ら問題は無く、むしろ早くから足利氏と繋がりを持っていた可能性を疑うべきであろう。貞氏については、その最初の嫡子が(「高氏」ではなく)「高義」と名付けられていることに着目し、清和源氏の通字「義」の使用を認められていることから、足利氏嫡流得宗から「源氏嫡流」としての公認を受けていたという指摘があり*41、同じく清和源氏の武田氏が "源氏嫡流" たる足利氏と結び付こうとしたという解釈でその証左になり得るものである*42

 

 

小笠原氏

小笠原氏では「於祖神社」での元服を慣例とする(『系図綜覧』所収「甲斐信濃源氏綱要」)一方で、「長―長―長」(『尊卑分脈』)得宗偏諱を受けた形跡がある。他家とは異なり、加冠状等の方法で得宗偏諱を申請したのかもしれない。(長とも)時からの一字拝領とみられるが、特に改名していないようで、その子孫は稙盛に至るまで足利将軍家偏諱を受けている(『尊卑分脈』)

貞長の弟*43宗も同じく時からの一字拝領とみられる*44が、息子は元弘元(1331)年の元服で「政長」と名乗っている。前述の武田政義に同じく、高時は既に引退しているので偏諱を受けなかったのであろう*45。 

 

佐々木氏一門

六角流では、綱―綱―信と代々北条氏からの偏諱を受けていた*46。時信は正和3(1314)年12月14日に元服した(『尊卑分脈』)が、「時」が得宗・高時の偏諱であった*47かどうかは再考を要する。当時は高時までの中継ぎとして北条煕時が執権(12代)の座にあったが、有力御家人(執権ではなく)あくまで得宗との烏帽子親子関係を重視したのであり、足利高義や長崎氏一門など高時が執権となるまでの期間(1311~1316年)に「高」字を受けたとみられるケースも確認できるので、「高」字が与えられていない理由を考えると、北条氏一門の他の人物が烏帽子親であった可能性も考えるべきである*48。父・頼綱は徳治2(1307)年に興福寺と領土を巡る問題を起こし、同寺の衆徒が強訴する事態にまで発展したため、翌年尾張国流罪となっており*49、近江守護職を継いだ時信自身も六波羅探題に従った活動が多かった。このような経緯から得宗との関係がやや疎遠になっていた可能性も考えられる。

幕府滅亡後の時信は建武政権下で「雑訴決断所」の奉行人に「佐々木備中判官時信」として名を連ねており*50、翌建武2(1335)年には家督および近江守護を幼少の嫡男(のちの氏頼)に譲って出家したらしい*51ので、改名に至らなかったのだろう。

 

京極流でも、氏信の子が綱と名乗り、宗綱の子(時綱・貞宗)、満信の系統(宗氏―貞氏)と、幅広く得宗偏諱を受けた形跡がある。貞氏・氏兄弟の場合、既に時に追随して出家していたので、幕府滅亡後に特に改名する理由も無かったのだろう。高氏こと導誉は幕府滅亡時に天皇方に寝返り、前述の六角時信に降伏を促すとともに、六波羅探題の軍勢を自害に追い詰んだ。この中で隠岐前司清が殉じている(『近江国番場宿蓮華寺過去帳』)

導誉の子は綱、宗、高といい(『尊卑分脈』)、祖先の佐々木義にあやかっての命名とみられる。このうち高秀の系統が「高」を一時的に通字としているが、秀義の子の経高・高綱など、佐々木氏一族で幅広く用いられていたこともあり使い続けることに支障は無かったとみられる。そのような理由からも導誉が俗名を改めることは無かったと思われる。

 

佐々木氏一族では他に塩冶貞も時の偏諱授与者とみられる*52が、1341(興国2/暦応4)年に自害するまで「高貞」を称しており*53改名しなかった。こちらも前述と同じ理由で特に「高」字を使い続けることに支障は無かったと判断される。

 

 

その他の氏族 

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その他前回記事▲で取り上げたものを中心に、他の氏族についても確認しよう。

 

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前回記事冒頭で紹介した二階堂氏では多くの者が改名したが、『尊卑分脈』を見ると、盛綱の甥(政雄の子)(初名雄)の注記に「元弘三五ゝ死」とあり、幕府滅亡と同年に亡くなっている。行宗の甥(盛忠の子)忠貞の項に「元弘三五八 於江州馬場自害」、行頼流の行朝の項にも「元弘三五八自害」とあってともに近江番場宿で殉じていることを考えると、行高が同じく幕府滅亡に殉じた可能性もあり得る。行頼の弟・行実流の二階堂実には「遁世法名周琮」と注記されるが、〔史料A〕に登場しないことを考えると「遁世」は幕府滅亡以前だったかもしれない。行高・高実と〔図B〕②盛高以外に「高」を持った人物は全員改名に至っているのである。

 

宇都宮小田小山葛西長井結城といった有力御家人の各氏も幕府軍に属する形で一度後醍醐天皇に刃向かった過去があり、各々の意志で改名に至ったとみられる。特に、宇都宮・小山両氏は得宗とは烏帽子親子関係を結ぶだけでなく、婚姻関係でも繋がりがあった(→ 宇都宮経綱小山時長の項を参照)。

 

高時政権の双璧を成した安達長崎両氏は、安達時顕法名:延明)の2人の息子(景・顕)や一門の安達茂をはじめとする一族、および円喜(綱)以下の長崎氏一族が幕府滅亡に殉じている*54

 

1333年5月22日、足利高氏後醍醐天皇方に寝返り、天下の形勢が幕府側に不利であるのを察した大友(近江入道具簡)少弐筑後入道妙恵)島津(上総入道道鑑)は、鎮西探題北条英時を攻めて敗死させた*55。この3名はいずれも得宗時の偏諱を受けていたとみられるが、彼らの息子は高時の偏諱を受けなかったようである。大友氏では一門にまで範囲を広げれば、早世した戸次貞が時を烏帽子親にした例はある*56ものの、安芸に移った毛利氏も「親―親」が「宗―時」と烏帽子親子関係を結んだとみられるが、少なくとも貞親の跡を継いだ親衡(初め親茂)は高時の偏諱を受けていない*57

前述に掲げた、安芸に移った武田氏本家(信宗以降)の例に倣えば、西国に移った御家人得宗との関係が薄れたのかもしれない。

 

 

総括

得宗・北条時は、幅広い層に「」の偏諱を与えていた。同時に高時の滅亡後、「高」字を棄てる形での改名を行う御家人も少なくはなかった。但しそれは建武政権が強要したものではなく、各々の意志によって行われていたというのが事実のようで、全ての御家人がそうしたわけではなかった。

改名を行った御家人は概ね、元弘の乱の際に幕府方の主戦力として参加した家柄であったが、そうしなかった家柄については以下の理由が考えられる。

① 幕府滅亡の年までに亡くなった(幕府滅亡に殉じた者含む)か、出家した。

(例)足利高義 安達氏 京極導誉 長崎氏 二階堂高雄 二階堂高実 戸次高貞

② 貞時の偏諱授与者の息子が、元服当時、高時が執権を既に引退していた(または幕府滅亡後に元服)。

(例)小笠原政長 武田政義 千葉氏胤

③ 祖先が使用していた「高」字を改めなかった。

 a.北条氏と同じく桓武平氏より分かれた家柄

  (例)三浦・河越・相馬・大掾・真壁

 b.佐々木氏一族 (例)京極導誉 塩冶高貞

④ 西遷御家人は高時の偏諱を受けていない。

(例)大友 少弐 島津 毛利 菊地 阿蘇

 

従って、高時滅亡後の改名事例数(17)は、有力御家人全体に対する割合としてはやや少ない気がするが、上に掲げた理由で改名を行わなかった家柄も少なくなく、有力御家人全体で高時の偏諱を避ける風潮が広まっていたと認められよう。 

  

脚注

*1:永井晋『金沢貞顕』(吉川弘文館、2003年)P.136。

*2:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年))P.193~197。

*3:谷俊彦「鎌倉期足利氏の族的関係について」(所収:前掲田中氏著書)P.147。

*4:同前。

*5:前掲小谷論文(前掲田中氏著書 P.135)、および 吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(同 P.169)。

*6:前掲小谷論文。前掲田中氏著書 P.147。

*7:尊卑分脈』では貞氏の兄として載せ、これが正しければ貞氏に同じく貞時の偏諱を受けた可能性も出てくるが、前掲吉井論文では年代的な問題から、貞義を貞氏の子とする見解を述べられている(前掲田中氏著書 P.169)。

*8:前掲小谷論文。前掲田中氏著書 P.150。

*9:尊卑分脈』での注記に「観応二二十二、於奥州為貞家被討、四十七才」とあり、逆算すると1305年の生まれとなる。

*10:『大日本史料』6-4 P.325。高国は『尊卑分脈』に「上野介」および出家して信元と号した旨の注記があり、国氏の弟として「次郎」を称する息子に直泰の記載がある。直泰は足利直義の加冠で元服したばかりの青年であったと推測される。

*11:『大日本史料』11-22 P.31。前注で示した『尊卑分脈』での注記とも一致する。

*12:同様の傾向は同じく桓武平氏より分かれた河越氏に見られる。〔表D〕の河越三河入道(貞重)六波羅探題に殉じたが、建武政権下の関東廂番の1人に「河越次郎高重」の名が確認できる。高重は貞重の子とされ(→鎌倉時代の河越氏 - Henkipedia参照)、「高」は高時の偏諱に間違いないと思われるが、特に改名した史実は伝わっていない。同史料には相馬高胤の名も見られ、大掾高幹・真壁高幹も同様の理由で改名しなかったものと推測される。

*13:鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.289

*14:太平記』によると、笠置山の戦い(1331年)の際の幕府軍に「三浦介入道」も加わっており(→前回記事〔表F〕参照)、当初は幕府方であった可能性が濃厚である(前注鈴木氏著書、P.288)。

*15:『鎌倉遺文』32810号。

*16:前掲鈴木氏著書、P.302~303。

*17:前注鈴木氏著書、P.305。

*18:太平記』巻十二「安鎮国家法事付諸大将恩賞事」。但し、時継は既に出家した可能性が高く、ここに出てくる「三浦介」は息子の高継と考えるべきであろう。

*19:前掲鈴木氏著書、P.302。前注にある通り天皇の勘気を蒙った「三浦介」=高継であれば、息子への対応に憤ったということになるが、当事者である高継もあくまで足利尊氏に従ったので結果的には後醍醐天皇から離反しており決して矛盾ではない。

*20:『南部文書』所収。『大日本史料』6-1 P.619 に掲載あり。

*21:前注『大日本史料』6-1 P.619では建武元(1334)年とするが、前掲鈴木氏著書、P.304では翌建武2(1335)年と推定されている。後者が正しければ中先代の乱の前月のものということになるし、紹介した『太平記』の記事は建武元年春の出来事(→こちら参照)なので前者(同年6月12日)の考えでも矛盾は起きない。いずれにせよ、中先代の乱で北条氏方に転じた動機に結び付くことは間違いないだろう。

*22:前掲鈴木氏著書、P.304~305。

*23:前掲鈴木氏著書、P.290。典拠は『太平記』巻六「関東大勢上洛事」。

*24:但し、『太平記』巻十によると三浦若狭五郎氏明だけは引き続き幕府に与したらしい(前掲鈴木氏著書、P.292)。 

*25:前掲鈴木氏著書、P.306。

*26:前注同箇所。

*27:太平記』巻十三「中前代蜂起事」および「足利殿東国下向事付時行滅亡事」。『系図纂要』等系図類でもこの説が採用されている。

*28:前掲鈴木氏著書、P.306。典拠は『神奈川県史 資料編』3231号。

*29:前掲鈴木氏著書、P.306。

*30:安田元久編『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年)P.389「千葉氏胤」の項(執筆:岡田清一)。

*31:高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)。

*32:前掲高野氏著書、P.29によれば、信政の弟として安芸で生まれた信綱が若狭武田の祖・同国守護と書かれ「若狭三郎」を称したことが『続群書類従』所収「武田系図」に見えるという。『尊卑分脈』に信政の子(信時の末弟)として載せる六郎信綱のことであろうか、恐らく信時弟を祖とする武田氏分家のいずれかに相当すると思われる。

*33:前掲高野氏著書、P.59~62。

*34:前掲高野氏著書、P.66。代々の加冠役(烏帽子親)を記す「甲斐信濃源氏綱要」には、信武の加冠を務めた人物を特に記しておらず、「武」字を持つ御家人も確認できないので、父・信宗の手で加冠・命名が行われたものと考える。

*35:前掲高野氏著書、P.51。

*36:前注に同じ。

*37:『大日本史料』6-2、P.36

*38:前掲高野氏著書、P.57。曽祖父・政綱は五郎信政の子として「五郎三郎」(『吾妻鏡』・『尊卑分脈』)、祖父信家(宗信)も「石禾三郎」を称したらしく(『尊卑分脈』)、「三郎」は政綱流の家督継承者代々の通称であったようである。

*39:尊卑分脈』の政義の傍注に「駿河守」とあり、1336(建武3/延元元)年に「甲州守護武田駿河守」として現れる(『大日本史料』6-2、P.917)のが初出と思われる。駿河守および甲斐守護職となったのは建武年間のことであろう。

*40:前掲高野氏著書、P.72。「甲斐信濃源氏綱要」によれば元亨2(1322)年3月15日の元服で、当時の足利氏家督は貞氏(讃岐入道義観)で間違いない。

*41:田中大喜「総論 中世前期下野足利氏論」(所収:前掲田中氏著書)P.24~25。田中氏は、時宗の代における7代将軍・惟康の源氏賜姓をきっかけに高まった源氏将軍観の中で霜月騒動平禅門の乱が起きたが、その後源氏将軍を擁立する動き(反乱)が抑えられていることから、貞時が何かしらの対策を講じたと説かれている。

*42:甲斐国志』には、武田信武足利尊氏の姪を妻にしたことが「生山系図」に見られると記載される(『甲斐国志』下 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.677(コマ番号340)参照)が、『尊卑分脈』以下の系図類を見る限り、尊氏の兄弟は高義・直義が伝えられるのみ(貞氏に娘がいたことも確認できない)で、もし父が直義であれば「(尊氏の姪ではなく)直義の娘」と書けば良いと思われるので、高義の遺児だった可能性が高い。前掲高野氏著書、P.66では「氏信や信成の生母である二階堂行藤の女のことであろうか」としているが、いずれにせよ足利氏と血縁関係のある女性を妻に迎えたことの信憑性はこの問題に関連して裏付けられるものと思われる。

*43:貞長については『尊卑分脈』に「一男也」とある一方、『寛政重修諸家譜』では貞宗の弟とするが、江戸時代成立の後者より、わざわざ長男であることを記す前者の方を採用すべきだろう。確かに信濃を引き続き本拠としたのは貞宗の系統ではあるが、貞長の子・高長が得宗偏諱を受けていることを踏まえると、本来は貞長の系統が嫡流であったと考えるべきではないかと思われる。通称名で見ても、源二長忠―孫二郎長政―彦二郎長氏―弥二郎宗長―彦二郎貞長と代々「二郎」を名乗っている。すると、貞長の子「二郎六郎」高長の家系が代々「又六」を名乗るようになったのに対し、政長の子・長基の家系が代々「二郎」を名乗るようになっている(『尊卑分脈』)のは、嫡流の地位が移ったことの証左ではないかと推測される。

*44:鈴木由美「御家人得宗被官としての小笠原氏 -鎌倉後期長忠系小笠原氏を題材に-」(所収:『信濃』第64巻第12号 (通巻755号、信濃史学会、2012年12月))脚注24。

*45:小笠原政長・武田政義は同族の関係にあり「政」字が共通するが、これは恐らく偶然で烏帽子親子関係には無かったと判断する。武田政義はあくまで祖先の信政―政綱の1字を使用しただけであり、小笠原政長についても高祖父・長政にあやかって命名されたと考えるのが自然と思われる。

*46:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15・17。頼綱については、北条時頼の邸宅で元服したことが『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条より明らかとなっている。

*47:前注紺戸論文、同箇所。

*48:例えば、霜月騒動で滅んだ安達宗顕は北条時宗偏諱授与者とみられるが、細川重男氏の説によれば、難を逃れた幼き遺児(=安達時顕)はその後政村流北条時村の庇護下にあって元服時に「時」字を受けたとされ(細川「秋田城介安達時顕―得宗外戚家の権威と権力―」(所収:『白山史学』第24号、1988年)P.27。)、時顕の息子、高景・顕高(『尊卑分脈』)の時には再び得宗(高時)の偏諱を受けるようになった。前回記事で改名現象の一例に加えた斯波時家についても同様に検討は必要であろう。

*49:尊卑分脈』に「備中守」と注記され、『武家年代記』裏書・徳治3年条に「□□木〔=佐々木〕備中入道流罪尾張国、依南都訴也、」とある。

*50:『大日本史料』6-1、P.756

*51:佐々木哲氏の説(大夫判官氏頼(入道崇永) 佐々木哲学校/ウェブリブログ)による。

*52:高時が執権職を辞して出家した嘉暦元(1326)年以来、高貞が出雲国守護の地位にあったらしく(『朝日日本歴史人物事典』)活動が確認できる。『尊卑分脈』によると系譜は「泰清―頼泰―貞清―高貞」であり、この家系は代々得宗を烏帽子親にしていたとされる(前掲紺戸論文、P.15・21)。

*53:大日本史料』6-6 P.6946-8 P.7

*54:太平記』巻十「高時並一門以下於東勝寺自害事」では摂津道準(親鑑)、諏訪直性(宗経)長崎円喜・高重・新右衛門、北条高時に続く自害者の中に「城加賀前司師顕〔高茂の父師景の誤記か〕・秋田城介師時系図上で該当人物なし、師顕のことか〕・城越前守有時」(師顕・師景については、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「基礎表」P.66による)、「城介高量〔ママ〕・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明」や「長崎三郎左衛門入道思元(『系図纂要』では俗名「高光」とする)」も含まれている。高時の偏諱授与者では他に「相摸右馬助高基(時房流北条高基)」「陸奥式部太輔高朝(大仏流北条高直の子)」「摂津宮内大輔高親(道準の子)」も殉死している。

*55:『大日本史料』6-1、P.7

*56:続群書類従』所収 「大友系図」に「太郎高時賜一字早世」、同 「立花系図」に「北條相模守高時爲烏帽子親。授一字ト云々。」、『入江文書』(『大分県史料10』所収)の「大友田原系図」に「相模守高時加元服」とある。

*57:対して、時親の兄の系統(越後毛利氏)は「基親(初め基頼)―時元―経高」と続き、得宗と烏帽子親子関係を結んでいた可能性がある。