Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

山河貞重

山河 貞重(やまかわ さだしげ、生年不詳(1270年代?)~没年不詳(1320年代後半?))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。表記は山川貞重とも。父は山河重義(山川重義)、母は網戸朝村あじと ともむら/十郎、法名:蓮忍)の娘。結城朝光は父方・母方双方で曽祖父にあたる。同母弟に山河光義(山川光義)。子に山河親重(山川親重)、女子(小田知貞室)*1。通称は三郎左衛門尉、判官入道。法名暁尊(ぎょうそん)か。

 

 

生年と烏帽子親の推定 

f:id:historyjapan_henki961:20210613235414j:plain

▲【系図1】山河貞重周辺関係図

 

父・山河重義

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事で紹介した系図のうち、『尊卑分脈(【図A】)では貞重の項に「実父時光」と注記されるが、それより遡る鎌倉時代後期の成立とみられる『結城小峯文書』所収「結城系図(【図I】)では、貞重の父・重義(しげよし)の項に「養時光子(時光の子を養う) 母同時村」と書かれているので、「実父時光」の注記は誤って重義の息子(貞重)の所に挿入されてしまったものと考えられよう。すなわち、重義の実父が寒河時光(寒川時光)で、叔父(時光弟)山河重光(山川重光)に養子入りしたことになる。

後者「結城系図」を見ると、重義の伯父・寒河四郎時光の子に次郎時村寒河時村)の記載があり、「母信乃民部大夫行盛女」の注記がある。よって、時村の同母弟にあたる重義も、同じく二階堂行盛(1181-1253)*2の娘が母親であったことになるが、行盛の嫡男・行泰が建暦元(1211)年*3、次男・行綱が建保4(1216)年*4、3男・行忠が承久3(1221)年*5生まれであるから、行盛女子もほぼ同じ位の世代だったのではないかと思われる。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

よって、父・重義の生年はおよそ1240~1250年代位であったと推定される。

 

母・網戸朝村の娘

母方についても確認しておこう。外祖父・朝村は「十郎」という輩行名の通り、朝光の10男だったのであろう。時光や重光の弟ということになる。

吾妻鏡』では暦仁元(1238)年5月16日条に「上野十郎朝村」として初出する。仁治元(1240)年3月12日条に「結城上野十郎」、同2(1241)年11月29日条に「上野十郎朝村 朝広舎弟」、康元元(1256)年11月23日条に「前大蔵権少輔朝広 法名信仏上野四郎左衛門尉時光 法名□□暍名*6同十郎朝村 法名蓮忍、以上結城、各兄弟」とあるから、結城(網戸)朝村に相違ない*7。暦仁元年の段階で元服を済ませていたことが窺えるので、遅くとも1220年代半ばの生まれであろう。

1190年生まれとされる長兄・朝広*8は、『吾妻鏡』での表記の変化に従うと貞応2(1223)年頃に兵衛尉(当時34歳)、文暦元(1234)年に左衛門尉(当時45歳)、仁治2年に大蔵権少輔(当時52歳)と昇進を重ねている*9。嘉禎3(1237)年に初出の時光は仁治元(1240)年から「上野弥四郎左衛門尉時光」*10、寛喜元(1229)年初出の重光も仁治元年から「上野五郎兵衛尉重光」*11と呼ばれているから、各々朝広と同じような昇進を遂げたと考えられ、それは末弟たる朝村にも該当し得たと思われるが、康元元年の段階でも兵衛尉或いは左衛門尉に任官していないのは、年齢がまだそれ相応に達していなかったからであろう。

よって、朝村の生年は1220年代半ば位であったと推測され、その娘は夫・重義とほぼ同世代だったのではないか

 

貞重の生年と烏帽子親の推定

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事で紹介した系図のうち、白河集古苑所蔵「結城系図(【図H】、結城錦一氏旧蔵)は、端裏書への記載や、結城貞広が幼名の「犬次郎丸」で記されていること、他の系統もそれまでの記載で途切れていることから、永仁2(1294)年の成立と考えられている。この系図で山河氏の部分を見ると、重義の子に貞重(三郎左衛門尉)・光義(五郎)と書かれている。すなわち、永仁2年の段階で兄弟が元服済みであったことが窺え、兄の貞重は左衛門尉任官を果たしていたことも分かる

*ちなみに、同系図では貞重の傍注に「下総守」ともあるが、冒頭で掲げた『分脈』や『結城小峯文書』所収「結城系図」等により、これは父・重義に書かれるべき官途であったと分かるので、永仁2年当時貞重は下総守在任でなかったと判断できる(後述するが、貞重は国守に任官しまいまま出家している)。

結城氏における左衛門尉任官年齢は、前述した通り当初は40代ほどであったが、次第に低年齢化し、ともに20代で亡くなった時広・貞広父子でさえもが左衛門尉任官を果たしていた。貞広の子・朝高(のちの朝祐)もやはり10代後半~20代の間で左衛門尉に任官していたことが判明している。

系図を見る限り、それは結城氏宗家に限らず、庶流でも同じ傾向にあったと判断されるので、貞重も永仁2年当時20代には達していたと判断されるが、前節までに考察してきた父母との年齢差を考慮すれば、1270年代の生まれとするのが妥当と思われる。

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

ちなみに、重光の外孫にあたる安達時顕は、霜月騒動(1285年)当時、父・宗顕が21歳で一門に殉じ、難を逃れた自身は "襁褓(むつき)を出たとはいえ、未だに乳母の懐の中を離れない" ほどの幼児であったと判明しており、1282年頃の生まれであったと推定されている。

貞重はこの時顕とは、形の上では従兄弟、実際の血縁関係でもはとこ(又従兄弟)の関係にあたるから、年齢的に大幅に離れない、1270年代の生まれとして十分自然であると思う。

そして、先行研究において重の「」は得宗北条偏諱と考えられてきた*12が、これについての考証的な研究は無かったように思う。しかし、1270年代の生まれとすれば、通常10代前半で行う元服が貞時の執権就任(1284年)*13から永仁2年までであったことが確実となり、立証可能である。「」の字は初代当主・光が北条時から1字を受けたものとされ*14北条貞時と山河貞重はそれ以来となる烏帽子親子関係にあったと判断される。

 

 

"山河判官入道暁尊" の活動

まずは、『金沢文庫文書』に収録されている、元亨元(1321)年8月に書かれた次の史料2点をご覧いただきたい。 

【史料2】元亨元年8月日付「沙弥暁尊(山河貞重寄進状案」*15

寄進 下総国結城郡下方内毛呂郷西毛呂河農西岸次、限北大町界、武井界於毛呂河農堰面江堀界、限東加々間堀於上仁、但水面者、半分進退、自毛呂中村原江越、□〔小〕堤東□小橋下与利溝堀於上仁、彼小橋東爪界、其与利久田留、大町農香取宮森於直仁見充天、大界郷界万天堀於保留、限南屋崎与志目波・毛呂二ケ郷乃加々間堀乃橋与利西江六尺杖定弐町捌段四杖者、鎌倉大道於限、自其毛呂与志目波田乃界江見充天、毛呂河江堀於堀、但堰代仁武井郷内田弐段加之、委細絵図并坪付別紙在之、此内自余分無之、

右、所者、暁尊相伝所領也、而且為関東御祈祷、且為先祖仏事報恩、限永代、為不輸免之地、所奉寄進称名寺也、若於彼所仁致違乱兄弟子孫等者、為不孝仁、不可知行暁尊之跡、仍状如件、

 元亨元年八月 日 沙弥暁尊 在判

 

【史料3】元亨元年8月7日付「鎌倉将軍家御教書案」*16

奉寄 称名寺

 下総国結城郡下方毛呂郷

右、任山河判官入道暁尊申請、所被寄進也者、依鎌倉殿(=将軍・守邦親王仰、奉寄状如件、

 元亨元年八月七日 相模守平朝臣(=執権・北条高時在判

          前武蔵守平朝臣(=連署金沢貞顕在判

これらの史料において、下総国結城郡下方毛呂郷(現・茨城県結城市北南茂呂一帯)武蔵国称名寺に寄進することを幕府に申請した「山河判官入道暁尊」は貞重法名とされ*17、近世成立とされる正宗寺本「結城系図」の貞重の注記に「判官入道」とあることもその裏付けとなる。そもそも「判官(ほうがん/じょう)」とは、長官(かみ)・次官(すけ)に次ぐ、律令官制における四等官の三位の官職のことであり*18、中世になると "九郎判官"源義経、"佐渡大夫判官"佐々木高氏(導誉)、"塩冶判官" 佐々木高貞 など、左衛門尉となった者の呼称としても使われていた*19。すなわち入道(出家)前の暁尊の最終官途が左衛門尉であったことを暗示しており、山河氏では嫡流の人物にしか該当しない。やはり暁尊=貞重と見なして良かろう。「」の字は北条貞時の当初の法名「崇」に由来する可能性もあり、正安3(1301)年8月の貞時の剃髪または逝去の際に出家したのかもしれない。

*言うまでもなく重光はこの当時故人であろう。重義については実際の史料で、息子とみられる人物が「下総五郎禅門道暁」(茨城県長勝寺焚鐘の銘文より=山川光義か)*20、「山河下総七郎殿」(延元2年6月25日付書状の宛名)*21と名乗っていることから、系図類での記載通り「下総守」であった可能性は濃厚で、出家後「判官入道」と呼ばれることはない(「下総入道」と称される筈)。

貞重の子・重は、前述の『結城小峯文書』所収「結城系図」(1320年前後成立か)に「使(=検非違使) 左衛門尉 親重 三郎」と加筆されており、少なくとも元亨元年当時出家していなかったと判断される。同じく結城朝光の玄孫にあたる白河結城親広(親朝)親光兄弟(宗広の子)と同様、「」は北畠房の偏諱ではないかと思われる。

また、元弘3(1333)年8月には 「山川五郎入道、同三郎」が、同年5月の鎌倉幕府滅亡後の混乱に乗じて、毛呂郷への狼藉(侵入・横領)を働いたとする史料が伝わっており(後述【史料5】参照)、光義法名道教または道暁)・景重父子に比定される。すなわち貞重の弟・光義は無官のまま出家していたことになり、景重も当時無官であったことが窺える。

この頃の結城郡では、北部を結城氏宗家、南部を山河氏がそれぞれ支配していたが、暁尊が所領の一部である毛呂郷を寄進したのである。これについては、武蔵国の金沢称名寺が元々貞顕の祖父・金沢実時が建立した寺院であり、貞顕と共に高時政権を支えていた、はとこの安達時顕を介して、北条氏から寄進の働きかけがあったか、または貞重の方から寄進を願い出る動きがあったのではないかと考えられている。 

翌元亨2(1322)年のものとされる「阿日書状」金沢文庫蔵『伝授次第裏文書』)の文末「山河はんくわん(=判官)□□〔入道*22および 次の【史料4】での「山河判官入道殿」も同じく暁尊(貞重)に比定されよう。  

【史料4】正中2(1325)年6月6日付「鎌倉幕府奉行連署奉書」(『鹿島大祢宜家文書』)*23

常陸国大枝郷給主能親与地頭野本四郎左衛門尉貞光和泉三郎左衛門尉顕助等相論、鹿島社不開御殿仁慈門造営事、丹塗格子之外者、悉可為給主役之由、元亨三年八月晦日注進之間、依被急遷宮、任注申之旨、加催促可造畢、於理非、追可有其沙汰之由雖被仰下、遷宮于今遅引、而当郷地頭・給主折中之地也、任先規両方可勤仕之旨、云度々御教書、云木田見・大王・藤井・田子共等之例、炳焉之由、能親所申有其謂、爰国奉行人成敗雖区、下地平均課役可随分限之条、相叶理致、然地頭・給主共可造進之旨加催促、急速可被終其功之条、依仰執達如件、

  正中二年六月六日 散位(花押)

           前長門介(花押)

           左衛門尉(花押)

           前加賀守(花押)

 山河判官入道殿

 小田常陸太郎左衛門尉殿

 大瀬次郎左衛門尉殿

 下郷掃部丞殴

市村高男によると、この史料は常陸国鹿島社不開殿仁慈門造営をめぐる同国大枝郷の給主・中臣能親と地頭の野本貞光和泉顕助らとの相論に際し、幕府が「当郷(=大枝郷)は地頭・ 給主折中之地」であるから、「下地平均課役可随分限」そして「地頭・給主共に造進すべきの旨、催促を加」え、速やかに遷宮を実現させるよう、山川・ 小田氏ら4名に対して命じたものであるという*24。この書状は、貞重(暁尊)常陸国の有力な在地領主並に扱われていたと同時に、北条氏被官たる大瀬・下郷両氏(大瀬は得宗被官)と同様の立場にあったことを明示している、と市村氏は説かれている*25

 

(参考記事) 

tochigi-burg.com

 

合わせて次の史料も見ておきたい。 

【史料5】元弘3(1333)年8月3日付「弾正忠某施行状案」(『金沢文庫文書』)*26

(端裏書)「毛呂郷可打渡執行案 元弘三年八月三日并建武・元弘之御執行案文渡状等具書

金沢称名寺下総国結城郡内茂呂〔=毛呂〕事、山川五郎入道同三郎已下之輩、致濫妨狼籍云々、早莅彼所追出之、可沙汰付寺家之雑掌、若不承引、任法可有其沙汰、使節緩怠、可処罪科之由候也、仍執達如件、

 元弘三年八月三日 弾正忠 判

阿曾沼四郎次郎入道(=阿曽沼公郷殿

前述したように、「山川五郎入道同三郎」は山川光義法名道教または道暁)・景重父子に比定され、この両名はこの年5月の鎌倉幕府滅亡後の混乱に乗じて、以前貞重(暁尊)称名寺に寄進した毛呂郷に侵入し、乱暴狼藉を働いたことが分かる。貞重は【史料2】の文末で「もし彼(か)の所において兄弟子孫等が違乱致さば、不孝の仁(ひと)であるから、暁尊の跡(=旧領)を知行すべからず」と記していたが、この約束が破られた形となる。もし貞重がこの頃存命であれば、弟・光義らを止めていたと思うが、恐らくこの当時貞重は故人だったのではないか。従って貞重は【史料4】以後、1320年代後半から1330年前後の間に亡くなったものと推測される

 

 

正宗寺本「結城系図」には貞重の子・景重に「三郎 実 光義子也」、光義の子・景重に「三郎 貞重養子トナル」との注記があり、貞重に男子が無かったので、甥の景重がその養子となって「三郎」の仮名を継承した可能性がある。前述『結城小峯文書』の系図上で加筆された貞重の子・親重(三郎左衛門尉)も実は景重と同一人物かもしれず、検討の余地を残しているが、山河(山川)氏の嫡流が光義の系統に移ったことは認められよう。貞重死後の光義は、後世の島津久光*27のような立ち位置にあったと思われ、家督の景重と共にかつての旧領を横領したと見なされる。【史料7】の「山川判官」は景重であろう。 

【史料6】「山川氏系図(山川泰 氏所蔵)*28

 重義

下総前司 弘安三年正月廿日譲を受く、同五年十二月安堵を給う、

 

 光義

山川五郎、法名道教

永任〔ママ、永仁〕五年正月七日譲を受く、嘉元元年十二月十一日安堵を給う、

 

 景重

三郎判官 法名道勝

 

【史料7】康永4(1345)年「造営所役注文」『千葉県史料』所収『香取文書』)

(*http://chibasi.net/osuga2.htm#zouei より)

  注進 下総国香取太神宮廿一ヶ年一度造替諸社役所雑掌人事
 一当国諸御家人勤仕役所
 
  一宇 正神殿 千葉介貞胤
  一宇 同大床舞殿 当国上猿嶋郡役所 地頭常陸前司跡
  一宇 𡡛殿 当国大戸神崎両庄役所
  一宇 同大床舞殿 同役所
  一宇 仮𡡛殿 同役所
  一宇 内院中門 同北条庄南北役所 地頭飯高彦二郎以下
  一宇 楼門 同埴生印西庄役所
  一宇 東廻廊五間 同風早庄役所
  一宇 脇門 印西庄役所
  一宇 二間廻廊
  一宇 西廻廊五間 同矢木庄役所
  一宇 脇門 印西庄役所
  一宇 不開殿 同小見郷役所 地頭小見四郎左衛門入道跡
  一宇 佐土殿 同北条庄役所 地頭飯高彦二郎
           小鮎猿俣役所 地頭伊豆四郎入道
  一宇 財殿 西伊豆入道明蓮跡
  一宇 勢至殿 仁保代枝役所 地頭千葉大隈守
  一宇 若宮社 吉橋郷役所 地頭千葉介
  一宇 日御子社 同役所
  一宇 勢至殿 仁保代枝役所 地頭千葉大隈守
  一宇 息洲社 同役所
  一宇 南庁 結城山川庄役所 地頭結城七郎跡 山川判官
  一宇 北庁 大須賀保役所 地頭大須賀下総前司入道跡
  一宇 酒殿并高倉 遠山形役所
  一宇 外院中門 印西所役
  一宇 忍男 千田庄役所
  一宇 瞻男
     印東庄役所
  一鳥居 千葉介役所
  二鳥居 西伊豆入道明蓮跡
  三鳥居 当国大方庄役所
    已上廿九ヶ所
 
 一大行事造進所々
   …【中略】…
 
  色々御神宝物以下調進物 大行事所役也、

 右大概粗注進如件、
 
     康永四年三月   日

 

(参考ページ)

 山川氏 - Wikipedia

 武家家伝_山川氏

● 『角川地名大辞典(旧地名)』「山河荘」解説ページ

 

脚注

*1:知貞(手野知貞)は小田貞宗の庶兄(→ 小田貞宗 - Henkipedia)。正宗寺本「結城系図」によれば、山川貞重の娘が「小田手野四郎左衛門妻」であったといい、市村高男はこの「小田手野四郎左衛門」を小田知貞とする(→ 市村高男「鎌倉末期の下総山川氏と得宗権力 ―二つの長勝寺梵鐘が結ぶ関東と津軽の歴史―」(所収:『弘前大学國史研究』100号、弘前大学國史研究会、1996年)P.42 註(9) 参照)。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.144「二階堂行盛」の項 より。

*3:前注同基礎表 No.144「二階堂行泰」の項 および 二階堂行泰 - Henkipedia より。

*4:前注同基礎表 No.144「二階堂行綱」の項 より。行綱は二階堂頼綱の父。

*5:前注同基礎表 No.157「二階堂行忠」の項 より。

*6:寒河時光の法名については 【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図I】を参照のこと。

*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.368「朝村 結城(小山)」の項。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*8:結城朝広とは - コトバンク より。

*9:吾妻鏡人名索引』P.358~359「朝広 結城(小山)」の項。

*10:吾妻鏡人名索引』P.190「時光 結城(小山)」の項。

*11:吾妻鏡人名索引』P.237「重光 結城」の項。

*12:結城市史 第四巻 古代中世通史編』(結城市、1980年)P.297。樋川智美 「鎌倉期武家社会における婚姻の意義 ー小山・結城氏の事例による考察ー」(所収:荒川善夫編 『下総結城氏』 戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉、2012年)P.142~143。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。正安3(1301)年8月の出家まで執権在任。

*14:注1前掲市村氏論文 P.26。

*15:『鎌倉遺文』第36巻27851号。

*16:『鎌倉遺文』第36巻27825号。P.143。

*17:P.74。『結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.294~298。

*18:判官とは - コトバンク より。

*19:判官 - Wikipedia 参照。

*20:注1前掲市村氏論文 P.30。

*21:注1前掲市村氏論文 P.24。

*22:『鎌倉遺文』第36巻28151号。

*23:『鎌倉遺文』第37巻29132号。注1前掲市村氏論文 P.26。

*24:注1前掲市村氏論文 P.27。

*25:前注同箇所。

*26:『鎌倉遺文』第41巻32442号。注1前掲市村氏論文 P.29。

*27:兄・斉彬の死後、その養嗣子として薩摩藩主を継いだ茂久(忠義)の実父として「国父」と称され、藩政の実権を掌握した(→ 島津久光とは - コトバンク)。

*28:結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.295 より。