Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】鎌倉時代末期の安達氏一族 -師顕と師景-

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本項では、鎌倉時代末期に現れる安達氏一族について紹介したいと思う。

まずは、扱う史料3点を年代順に挙げておこう。

 

【史料A】(正和4(1315)年3月)「施薬院使・丹波長周注進状」(『公衡公記』同月16日条)*1:同月8日、鎌倉で起きた火事の被災者の中に「城介 時顕」、「城加賀守 師景」、「城越後権介 師顕」が含まれる。

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【史料B】(元亨3(1323)年10月)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収:同月に挙行された故・北条貞時13回忌供養の際、「秋田城介時顕朝臣」のほかに「城越前〻司殿」が「銀剱一 馬一疋 置鞍、栗毛、」を進上*2

 

【史料C】(元弘3(1333)年5月22日)『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」*3より

去程に高重(=長崎高重)走廻て、……(中略:高重→摂津道準諏訪直性長崎円喜新右衛門の順に自害)……此小冠者に義を進められて、相摸入道(=北条高時 入道崇鑑)も腹切給へば、城入道(=時顕)続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、……城加賀前司師顕秋田城介師時城越前守有時…………城介高量〔ママ、高景〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明(=時顕)…………、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

 

上記3点における安達氏一族の大半は系図上でも確認ができる。

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▲【図D】『尊卑分脈』〈国史大系本〉安達氏系図より一部抜粋

 

彼らは、【図D】のみならず他の書状でも弘安8(1285)年の霜月騒動で惣領・安達泰盛に殉じたことが明らかになっている*4宗顕(加賀太郎左衛門尉)重景(城五郎左衛門入道、法名不詳)時長(四郎左衛門尉)それぞれの子や孫であったことが分かる。

ちなみに、師顕については【図D】に「九郎兵衛」と記されるのみであるが、同系図に従えば時顕は左兵衛尉・(秋田)城介を歴任したらしく、師顕も同様に兵衛尉から越後権介に昇進した可能性は十分に考えられるので、同一人物とみなして問題ないと思う。

ここで【史料C】について『参考太平記』を確認してみたい。【史料C】の該当部分*5では次のようになっており、それぞれ比較・考察を掲げる。

*凡例:【古写本系】西源院本…『西』、南都本…『南』/【流布本系】毛利家本…『毛』、今出川家本…『今』、北条家本…『北』、金勝院本…『金』、天正本…『天』

 

城加賀前司師顕:諸本で表記は一致。『参考太平記』では「時長子」と注記。

→ 加賀守師景と混同か。但し師顕は後述の通り「城越前守有時」に比定される可能性があり、官途から判断するに、むしろここは「師景」とするのが正しいのかもしれない。

秋田城介師時:実名について、『金』では「祐時」、『今』・『毛』・『北』・『西』・『南』では「時顕」とする。後者は宗顕の子・時顕に比定。

→ 安達氏系図上で「祐時」・「師時」なる者は確認できず、北条氏の通字「時」を下(2文字目)にする名乗り方にも疑問を感じるので、一応は「時顕」とすべきところなのだろう。但し後述の通り当時の「城介」(=秋田城介)は息子の高景であり、また時顕=延明であるから、単に重複して書かれてしまったものと思われる。

城越前守有時:『北』・『金』・『西』・『南』では「」の記載なし。『今』・『北』・『南』では「越守」とする。

→「城」の無記載からすると安達氏一門かどうかも慎重に判断すべきであるが、【史料B】より「城越前前司(=前越前守)」の実在そのものは認められるので、同人の可能性は極めて高い。但し「有時」なる人物は安達氏系図上に無く、名乗り方としても前述と同様の理由で奇妙に感じる。一部で「越後」と書かれることからすると、【史料A】の「城越後権介師顕」のことではなかろうか。前述の通り「師顕」の名を載せていることからすると、有時と同人か否かにかかわらず、【史料C】で亡くなったメンバーの中に師顕も含まれていた可能性は十分に高いと思われる。

城介高量系図により高景のこととす。

同式部大夫顕高:時顕子、高景弟。

同美濃守高茂:加賀守師景の子。

秋田城介入道延明:『天』での「延時」は誤り。『毛』・『北』・『金』・『西』・『南』の各本では記載なし。

→ 冒頭での自害者「城入道」と同人にして重複記載か。或いはその法名を明かすために書かれたものかもしれない*6

 

【史料C】の『太平記』は元々軍記物語ゆえ、その情報の正確さについては慎重な判断を要する。繰り返しになるが、特に安達師時安達有時なる人物は安達氏の系図上で見られない。【図D】での系統以外では、泰盛時盛重景顕盛らの次兄・景村頼景の弟)の系統である大室氏でも、泰宗が「城大室太郎左衛門」、その弟・義宗が「城三郎二郎」と呼ばれていたことが史料上で確認できるが、そうした他の系統を含めて確認はできないし、やはり安達氏における名乗り方として奇妙である。

 

【史料A】での師顕の官職「越権介」が「越権介」、或いは【史料B】が「城越前司」の誤記であった、いずれの可能性も考えられるが、明確にできる史料がもう1点でも出てこない限り、現時点でその判断は難しい。ただ、【史料B】・【史料C】での「越前守」はかつて安達盛宗が得ていたゆかりのある官職であるから、こちらの方が有力かもしれない。或いは師顕が(兵衛尉→)越後権介→越前守と昇進した可能性も考えられよう。

 

以上、推論も多いので、まだまだ検討の余地を残してはいるが、鎌倉幕府滅亡時、安達時顕父子だけでなく、同様に幕府の要人であったとみられる師景高茂(高義とも)父子や師顕も運命を共にした可能性は十分に高いと考えられよう。

は恐らく父・重景が亡くなった1285年に生まれたか、或いは腹の中にいて死後の誕生かで、1301年に10代執権となったばかりの北条時の偏諱を受けて元服し、【史料A】よりさほど遡らない時期に20代後半~30歳ほどで加賀守に任官、【史料C】当時50歳手前で自害したと思われる。その際、息子・高茂(高義)安達長景(顕盛の弟)にゆかりのある美濃守に任官済みで30歳前後であったと思われるので、辻褄が合うと思う。

もやはり父・時長との年齢差を踏まえて1285年頃に生まれた同世代であろう。同様に時の「師」字を受けて元服したとみられる。【図D】と同じ『尊卑分脈』によると、師顕の子・師之の子孫が鎌倉幕府滅亡後も存続したようである。

 

(参考ページ)

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№85-安達師顕 | 日本中世史を楽しむ♪

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№86-安達師景 | 日本中世史を楽しむ♪

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.19 より引用。

*2:【史料C】に拠ってであろう、『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709 では「安達有時」とする。

*3:太平記. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション「太平記」高時並一門以下於東勝寺自害の事(その1) : Santa Lab's Blog

*4:年代記弘安8年 参照。

*5:参考太平記. 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*6:安達時顕 或いは「城入道」の法名が「延明」であったことは 安達時顕 - Henkipedia【史料14】・【史料15】を参照のこと。