小田 貞知(おだ さだとも、生年不詳(1280年代か)~没年不詳(1336年頃?))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。仮名は二郎。官途は筑後守。
鎌倉時代末期の小田貞知
貞知は、『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)を見ると小田時家(高野時家とも、八田知家の子、知重の弟)の曽孫・知宗(ともむね)の次男として載せられ*1、「六波羅頭人 二郎 筑後守 近江守」との注記がある*2。この貞知が登場する主な史料を列挙していこう。
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まずは、鎌倉時代末期に書かれたとみられる北条(金沢)貞顕の書状4通に、既に筑後守を退任していた貞知が現れる。
●【史料1】(嘉暦4/元徳元(1329)年?)「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)より*3
顕茂(=貞顕の兄・甘縄顕実の子)青侍、上州(=上野介・波多野宣通:後掲【史料6】参照)使者等便、令申候了、 定参着候歟、
一、筑後前司帰洛之後、依引付事伊せ前司(=伊賀兼光か:後述参照)止出仕之由風聞候、事実候哉、若然者、相構々々出仕候之様、可有諷諫候、今度御沙汰雖不存知候、依次第候歟、無力事候、有出仕、一級事、忩可被申候乎、公方
●【史料2】「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)より*4
六波羅引付番文進之候、先々者御代官にて盛久候之間被付候か、今度者筑後前司貞知に被付候云々、眉目あらせんのために、奉行人如此沙汰候歟之由推量候、
頭人事、加賀前司(=町野信宗)理運之由、雖令申候、不及御沙汰候、背本意候、雖然無力事候、後闕を可被待候歟之由、可有御物語候、
評定衆事、両人可被加之旨、御沙汰之間、
●【史料3】(元徳元年)12月22日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)より*5
(前略)
一 常陸前司・伊勢前司(=伊賀兼光か)・佐ゝ木隠岐前司等、一級所望事、為宮内大輔奉行、其沙汰候。被訪意見候之間、皆可有御免之由、申所存候了。而城入道(=安達時顕 入道延明)、常陸・隠岐両人者、可有御免、伊せ〔伊勢〕ハ難有御免之由被申候云ゝ。刑部権大輔入道同前候歟之旨推量候。伊勢者常陸前司よりも年老、公事先立候。丹後(=長井宗衡)・筑後日来座下候。近此頭人にてこそ候へ、伊せハ十余年頭人候。器量御要人候之間、一級御免不可有其難候歟之由、再三申候了。宮内大輔披露いかゝ候らん。不審候。あなかしく。
十二月廿二日
(切封墨引)
「元徳二正二、北方雑色帰洛便到」
●【史料4】(元徳元年9月8日?)「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*6:
<冒頭下段>
祭に、春日社・長谷寺(ともに大和国)等 参詣之由承候了、特㐂〔=喜〕思給候也、
<冒頭上段>
北方(=常葉範貞)春日社へ参詣之旨承候、実事候哉、可承存候、八月十四日両通御状、菊地入道下向之便、一昨日 六日 下着候了、
一、筑後前司貞知一瓶持参之間、常陸前司・伊勢前司・斎藤左衛門大夫(=斎藤基明〈帯刀左衛門尉〉)・松田掃部允(=松田頼済)等参入之由、承候了、悦思給候、
一、縫殿頭同持参之時、出羽左近大夫入道(=長井頼秀か)・丹後前司・小早川安芸前司(=宣平)・水谷兵衛蔵人(=秀有)・佐々木源太左衛門尉(=加地時秀か)等、同参之旨、承候了、縫殿頭所存不審候、
(*以下 金沢貞顕書状 400号 に接続)
【史料3】・【史料4】における「常陸前司」や「伊勢前司」は各々同一人物と判断して問題なかろう。【史料4】より両名は六波羅評定衆のメンバーであったことが伺える。
網野善彦氏は、元亨4(1324)年3月日付の大和国般若寺の康俊・康成作の文殊菩薩像墨書銘に見える「大施主 前伊勢守 藤原兼光」*7を伊賀兼光に比定されており*8、これに追随して「伊勢前司」=兼光とされたのであろう。
尚、【史料4】での「伊勢前司」を『鎌倉遺文』*9では正中2(1325)年のものと推定の上で二階堂忠貞に比定するが、忠貞は翌3(1326)年の得宗・北条高時剃髪に追随して出家し「(伊勢入道)行意」と号しており、少なくとも【史料3】は安達時顕(延明)が"城入道"と呼ばれていることから、高時(崇鑑)・忠貞(行意)・時顕(延明)らの出家以後のものであることは明らかである。そして【史料3】で忠貞とは明らかに別人の「伊勢前司」が「常陸前司よりも年老」であったというのである。
『尊卑分脈』の伊賀氏系図によると、系譜は「光宗―宗義―光政―兼光」となっており、1178年生まれと判明している光宗との現実的な年齢差を考えると、伊賀兼光の生年は早くとも1240年頃と推定可能で、北条時頼の偏諱を受けたと思われる、はとこの伊賀頼泰とほぼ同世代、もしくはそれより若い世代であることが確実となる。
よって、小田時知、そしてその弟である貞知はそれより更に若い世代であったことがわかる。
その後の元弘の変に際して、貞知の動向を追える史料は僅かだが、鎌倉幕府方としての活動が確認できる。元弘元(1331)年、倒幕の挙兵の計画が露見し、8月24日に後醍醐天皇が御所を脱出すると、翌25日に京に残っていた後醍醐腹心の公家たちが一斉に捕縛されたが、その一人である洞院実世の身柄を貞知が預かったと伝えるのが次の【史料5】である。
●【史料5】『光明寺残篇』元弘元(1331)年8月25日条*10:「廿五日。万里小路大納言宣房卿、侍従中納言公明卿、宰相成資〔ママ〕卿、別当右衛門督実世卿、以上四人、被召捕之。於宣房被預因幡左近大夫将監。公明者被預波多野上野前司。成資〔ママ〕者被預丹後前司。実世卿者筑後前司被預之。……」
●【史料6-a】『光明寺残篇』元弘元(1331)年8月27日条*11:「被差向佐々木大夫判官・海東備前左近大夫・波多野上野前司等。於山門東坂下(=東坂本)。被向長井左近大夫将監(=長井高広)。加賀前司(=町野信宗)於西坂下(=西坂本)。被向常陸前司於勢多。其後春宮自持明院殿有行啓六條殿。即御入于六波羅。北方。供奉軍兵。丹後前司。筑後前司。備後民部大夫(=町野貞康の子・康世)等。数百騎也。」
●【史料6-b】『太平記』巻2「師賢登山事付唐崎浜合戦事」*12:「……搦手へは佐々木三郎判官時信・海東左近将監・長井丹後守宗衡・筑後前司貞知・波多野上野前司宣道(=波多野宣通)・常陸前司時朝に、美濃・尾張・丹波・但馬の勢をさしそへて七千余騎、大津、松本を経て、唐崎の松の辺まで寄懸たり。……」
【史料6】2点は、同月27日、比叡山の麓、唐崎浜で護良親王率いる比叡山勢と六波羅探題軍との間で戦闘が繰り広げられた際に、兄・時知と思しき「常陸前司時朝」らと共に貞知も探題側の軍勢に加わっていたと伝える。 尚、この戦いでは海東備前左近将監(実名不詳)・幸若丸父子が討ち取られるなどして探題側が敗北している。
建武政権下での小田貞知
その後、貞知がいつ後醍醐天皇側に帰順したのかなど、1333年の鎌倉幕府滅亡前後の動向は分からないものの、何とか生き延びたようで、建武政権の雑訴決断所の職員としての活動が確認できる。
●【史料7】元弘3(1333)年『雑訴決断所結番交名』(『比志島文書』)*13:職員四番衆の一人に「貞知 筑後」が任ぜられる。また、二番衆の一人に兄「時知 奉行常陸」も名を連ねている。
●【史料8】建武元(1334)年8月『雑訴決断所結番交名』:職員八番衆の一人に「小田筑後前司貞知」が任ぜられる*14。また、二番衆の一人に兄「時知 小田」も名を連ねている*15。
そして、以下に紹介の通り、 藤原道兼の末裔たる貞知*16が主に西海道方面の訴訟を担当し「前筑後守藤原朝臣」名義で署名者の一人となった書状が多数残されている。
●【史料9】建武元(1334)年8月29日付「雑訴決断所牒」(『深江文書』):「前筑前〔ママ〕守藤原朝臣」*17
●【史料10】建武元年9月10日付「雑訴決断所牒」(『台明寺文書』/『薩藩旧記』前集12所収):「前筑後守藤原朝臣」*18
●【史料11】建武元年10月11日付「雑訴決断所牒」(内務省本『宗像文書』):「前筑後守藤原朝臣」*19
●【史料12】建武元年10月21日付「雑訴決断所牒」(内務省本『宗像文書』):「前筑後守藤原朝臣」*20
●【史料13】建武元年12月21日付「雑訴決断所牒」(『阿蘇文書』):「前筑後守藤原朝臣」*21
●【史料14】建武元年12月27日付「雑訴決断所牒」(内務省本『宗像文書』):「前筑後守藤原朝臣」*22
●【史料15】建武2(1335)年2月20日付〔宇都宮冬綱宛て〕/ 5月19日付〔島津貞久(道鑑)宛て〕「雑訴決断所牒」(『大悲王院文書』):「前筑後守藤原朝臣」*23
●【史料16】建武2年4月8日付「雑訴決断所牒」(内務省本『宗像文書』):「前筑後守藤原朝臣」*24
●【史料17】建武2年6月1日付 / 9月30日付「雑訴決断所牒」(『詫磨文書』):「前筑後守藤原朝臣」*25
●【史料18】建武2年8月4日付「雑訴決断所牒」(『集古文書』):「前筑後守藤原朝臣」*26
●【史料19】建武2年8月11日付「雑訴決断所牒」(『水引執印文書』/『薩藩旧記』前集13所収):「前筑後守藤原朝臣」*27
●【史料20】建武2年9月29日付「雑訴決断所牒」(『大悲王院文書』):「前筑後守藤原朝臣」*28
●【史料21】建武2年10月4日付「雑訴決断所牒」(『河上山古文書』)2通:「前筑後守藤原朝臣」*29
●【史料22】建武2年10月17日付「雑訴決断所牒」(内務省本『宗像文書』):「前筑後守藤原朝臣」*30
●【史料23】建武2年10月21日付「雑訴決断所牒」(『河上山古文書』):「前筑後守藤原朝臣」*31
●【史料24】建武2年閏10月29日付「雑訴決断所牒」(『大悲王院文書』):「前筑後守藤原朝臣」*32
●【史料25】建武2年12月10日付「雑訴決断所牒」(『松浦党山代文書』):「前筑後守藤原朝臣」*33
その後は、建武3/延元元(1336)年正月に足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、京都へ攻め込んだ際に、貞知が後醍醐方として足利軍と戦ったことが『太平記』に見えるという*34。実際に『大日本史料』で確認してみると、『太平記』巻14「節度使下向の事」の文中「嶋津上総入道(=貞久)・同筑後前司」の後者についての注釈で、『参考太平記』によれば、複数伝わる諸本のうち、西源院本・神宮徴古館本・毛利家本・天正本では小田氏(小田筑後前司)としているらしい*35。系図等を見る限り島津氏一族で筑後守任官者は確認できない*36ので、小田氏(貞知)の可能性が高いかもしれない。巻15「正月二十七日合戦事」文中の「嶋津上野入道(ママ、※諸本によって「上総入道」とするものあり)・同筑後前司」*37にも同様のことが言えるだろう。建武政権下で雑訴決断所の職員だった貞知が、そのまま後醍醐方につくことは何も不思議ではない。
建武年間以降の史料上に貞知は現れず、間もなく亡くなった可能性もあるが、死因も含め今のところは不明である。
世代と烏帽子親の推定
そして、その曽孫である知宗は、各親子間の年齢差を20とした場合で早くとも1260年頃の生まれと推測可能で、次の書状の発給者とされる。
●【史料26】嘉元2(1304)年2月8日付「六波羅奉行人奉書」(『若狭安倍武雄氏文書』)*39
同年12月13日付「六波羅引付頭人奉書案」(『醍醐寺文書』)*40での「前伊賀守」も含め、『分脈』で「六波羅頭人 伊賀守」と注記される知宗に比定されるが、45歳以下で伊賀守となっては退任していたことになり、任官時の年齢も時家の39歳を下回ると考えて良いのではないかと思う。
そして、知宗の次男・貞知の生年も親子の年齢差を考慮すれば、早くとも1280年と推定できるが、【史料1】以前に筑後守になり得た時期を推測してみたい。
その参考に当該期の筑後守を思いつく限りで挙げていこうと思う。
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同じく小田氏では宗家の小田宗知が、亡くなってから僅か12年後の文書に「筑後前司宗知」とあることから、正安3(1300)年末に書状を出した当時42歳にして、奇しくも同じ筑後守に在任もしくは退任済みであったとみられる。宗知は貞知よりもむしろ、逆字名でもある父・知宗とほぼ同世代人であり、貞知が本家筋の宗知を差し置いて先に筑後守に任官されることはないと思う。この頃はまだ知宗の活動期間であったことは前掲【史料26】が証明してくれている。
【史料1】に近い時期だと、元亨元(1321)年7月21日付「佐々木有綱打渡状」(『越後三浦和田文書』)*41の発給者「前筑後守有綱」*42、元亨4(1324)年11月18日「筑前守護少弐貞経書下案」・元亨5(1325=正中2)年正月9日「筑前国守護少弐貞経書下案」(ともに『肥前青方文書』)*43の発給者「筑後守」および 正中3(1326)年正月23日付「関東御教書」(『宇住記』)*44文中の「筑後守貞経」が確認できる。
よって、貞知が筑後守になり得る時期は、1310年代から、倉田有綱が退任済みであった1320年代初頭の間に推定できよう。その当時、かつての時家や知宗と同様の30代~40代を迎えていたとすれば、やはり1280年代の生まれとするのが辻褄が合う。尚、鎌倉時代において多くの御家人が任官に際し次第に低年齢化する傾向にあったことを踏まえると、貞知の筑後守任官は20代後半~30代と少し早い段階でも良いのだろう。
ところで、貞知の「貞」の字は得宗・北条貞時から下されたものとされる*45が、元服は通常10代前半で行われることが多かったから、前述の生年に基づけば、北条貞時執権期間(1284~1301年)*46内に貞時を烏帽子親とし、その偏諱「貞」を賜ったと考えて良いだろう。
(参考ページ)
脚注
*1:系譜は「道兼―兼隆―兼房―兼仲―八田宗綱―知家―時家―景家―知員―知宗―貞知」。
*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*3:『鎌倉遺文』第37巻29180号。金沢貞顕書状341号 · 国宝 金沢文庫文書データベース。
*4:『鎌倉遺文』第37巻29181号。金沢貞顕書状347号 · 国宝 金沢文庫文書データベース。
*5:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.326より引用。『鎌倉遺文』第39巻30829号。金沢貞顕書状414号 · 国宝 金沢文庫文書データベース。
*6:『鎌倉遺文』第37巻29177号。金沢貞顕書状348号 · 国宝 金沢文庫文書データベース。
*7:『鎌倉遺文』第46巻52032号「木造文殊菩薩騎獅像願文」(奈良般若寺安置)。
*8:網野善彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー、1993年(初版 1986年)P.202。
*9:『鎌倉遺文』第37巻29177号。
*10:小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.726。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*11:群書類従 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*12:「太平記」師賢登山の事付唐崎浜合戦の事(その3) : Santa Lab's Blog より。
*13:雑訴決断所 - Wikipedia および 『比志島文書』4所収「雑訴決断所結番交名」(活字版は、山家浩樹「比志島文書にみる建武政権と草創期の室町幕府」(2017年、鹿児島県歴史資料センター黎明館 調査報告)第四図(典拠:『鹿児島県史料』一五五号文書)を参照。
*16:注1参照。
*34:南北朝列伝 ー 小田貞知 より。
*36:ちなみに、大日本史料総合データベースの検索で確認できたのは、『大日本史料』5-3 P.873に掲載の『系図纂要』の島津氏に関する記述の中の「筑後守忠徹(=島津忠徹)」だが、江戸時代後期の日向佐土原藩第10代藩主であり時代が合わない。また、水島の変直後の永和元(1375)年8月28日に今川了俊が島津氏久(貞久の子)に対し筑後守護職に推挙する旨の書状を出しているが、その宛名(氏久の呼称)は「嶋津越後守殿」であって筑後守ではない(→『大日本史料』6-44 P.130)。
*38:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№124-小田時家 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*39:『鎌倉遺文』第28巻21742号。文章は https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/02/text/O007800001009.txt より引用。
*40:『鎌倉遺文』第29巻22054号。『醍醐寺文書之四』P.22 六四九号文書。
*41:『鎌倉遺文』第36巻27816号。
*42:『分脈』によると、系譜は「佐々木(加地)盛綱―信実―倉田義綱(高実)―章綱―有綱(左門尉・筑後守)」。
*43:『鎌倉遺文』第36巻28882号・28913号。
*44:『鎌倉遺文』第38巻29334号。
*45:南北朝列伝 ー 小田貞知 より。