畠山高国
畠山 高国(はたけやま たかくに、1305年~1351年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人、守護大名。
『尊卑分脈』での注記には「観応二二十二於奥刕(=奥州)為貞家被討四十七才」(=観応2(1351)年2月12日、奥州にて吉良貞家に討たれ、享年47才)と書かれており*1、逆算すると嘉元3(1305)年生まれと分かる。
これに基づき、紺戸淳氏の論考*2に従うと、元服の年次はおおよそ1314年~1319年と推定可能で、「高国」の名は元服当時の得宗・北条高時(14代執権在職は1316年~1326年)*3が烏帽子親となり、その偏諱を許されたものと考えて良いだろう。
(参考ページ)
脚注
*1:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.270。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照。尚、高国父子の自害については『大日本史料』6-14 P.724~736の各史料を参照のこと。
*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。元服の年齢を10~15歳とした場合。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
名越宗基
北条 宗基(ほうじょう むねもと)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。名越流北条時基の嫡男で名越宗基(なごえ ー)とも呼ばれる。
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各々注記の内容に若干の相違はあるものの、こちら▲の記事で紹介した『入来院本 平氏系図』『前田本 平氏系図』や、『正宗寺本 北条系図』等では、いずれも名越時基の長男とする。
父・時基については嘉禎2(1236)年生まれであることが判明しており*1、現実的な親子の年齢差を考えれば、宗基の生年は1256年頃より後とすべきであろう。
まず、前述3種系図での注記を確認すると次の通りである。
内容は各々異なってはいるものの、国守任官を果たしたことは認められるのではないかと思う。成立年代の古さからして『入来院本 平氏系図』の信憑性が高いだろう。前田本系図での「越後守」も誤記なのかもしれない。
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安達盛宗や大仏流北条貞房をはじめ、鎌倉時代の越前守任官者については、佐藤圭氏の論文*2が参照されるところである。同氏のまとめに従って鎌倉時代後期の越前守を掲げると次の通りである。
● 平惟輔:弘安2(1279)~同3(1280)年
**Ⅰ**
● 安達盛宗:弘安7(1284)年在任(~同8(1285)年11月没)
**Ⅱ**
● 藤原国房:弘安11(1288)~正応2(1289)年
**Ⅲ**
● 藤原経宣:永仁3(1295)~正安3(1301)年
● 藤原叙行:正安4(1302)年補任
● 平親景:嘉元4(1306)年3月30日補任
● 北条(大仏)貞房:嘉元4年7月19日補任(~延慶2(1309)年12月没)
● 源有頼:延慶2(1309)年2月19日~応長元(1311)年
**Ⅳ**
● 藤原重村:元享元(1321)年補任
宗基が越前守に在任し得る時期は、空白期間Ⅰ~Ⅳのいずれかであるが、弘安3(1280)年11月には父・時基が45歳にしてやっと遠江守に昇進しており、宗基が父親より先に国守に昇るとは考えにくいので、宗基の越前守任官はこれより後、ずなわちⅠではないだろう。
次いで早いⅡは、父・安達泰盛ら一門が滅んだ霜月騒動の余波で討たれた安達盛宗の後任として、弘安9(1286)年~同10(1287)年の間在任であったことになる。
【表A】鎌倉時代後期における主要御家人の叙爵・国守任官の年齢*3
氏 | 叙爵年齢 | 国守任官年齢 |
北条(得宗・赤橋) | 10代 | 20代 |
北条(金沢・大仏) | 10代後半 | 30歳前後 |
足利 | 10代後半? | 20代 |
安達 | 24? | 30歳前後 |
長井 | 18? | 30歳前後 |
宇都宮 | 30代前後 | |
二階堂 | 20代? | 20代後半~30? |
表に示した通り、前田治幸氏の研究によると、鎌倉御家人の国守任官の年齢は概ね早くとも30歳程度の傾向にあった。父・時基の場合は庶子であったために任官年齢が遅かっただけであり、その後多少低年齢化することは十分あり得たと思う。Ⅱの期間に30歳を迎えたとすると1257~58年の生まれとなるが、時基が国守任官を果たしてからさほど経っていない頃に息子が越前守になるという想定もあまり現実的でないのではと思う。
以上より、ⅢまたはⅣの期間に名越宗基が越前守に任ぜられた可能性が高いが、いずれの時期で30・40代であったとしても、文永3(1266)年に解任された6代将軍・宗尊親王*4から1字を拝領することは不可能で、「宗」の字はやはり8代執権・北条時宗(在職:1268~1284年*5) からの偏諱で間違いなかろう。
ちなみに、 『正宗寺本 北条系図』では、宗基の息子として維基(これもと、上野介・遁世)、基明(もとあき、左近大夫将監)を載せるが、所詮は名越庶流ゆえか、得宗の偏諱を受ける対象から外れている。維基の「維」は祖先と仰ぐ平維将または平維時に由来するものと思われるが、次の史料での「上野介」が維基に比定されるのかもしれない。
▲【史料B】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状*6
脚注
*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その24-名越時基 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*2:佐藤圭「鎌倉時代の越前守について」(所収:『立命館文学』第624号、2012年)。
*3:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第9巻〉、戎光祥出版、2013年)P.216~224の表 より作成。
*4:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)より。
安達貞泰
安達 貞泰(あだち さだやす、1280年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将・御家人。
『尊卑分脈』によれば、父は安達宗景、母は紙屋河顕氏の娘。通称は陸奥太郎。
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こちら▲の記事で紹介した通り、父・宗景については正元元(1259)年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考えれば、貞泰の生年は1279年頃よりは後と推測可能である。
但し、宗景は弘安8(1285)年11月の「霜月騒動」で討たれており、この時までに貞泰が生まれたと考えるのが自然であろう。
よって、貞泰の生年は1279~1285年の間と推定される。恐らく1280年代前半の生まれであろう。
紺戸淳氏の論文*2でも述べられている通り、元服は通常10~15歳ほどで行われることが多かったから、およその生年が分かれば元服の年次も推定可能である。
貞泰の場合、前述の生年に従うと1290年代半ば頃の元服と推測され、その実名は当時の得宗・執権であった北条貞時の偏諱を受けたものと考えて良いだろう*3(「泰」は祖父・安達泰盛の1字を取ったものであろう)。
脚注
安達宗長
安達 宗長(あだち むねなが、1270年頃?~1285年?)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。通称は九郎。
本項では、下図『尊卑分脈』に掲載の、安達泰盛の弟・安達長景の子について述べる。
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こちら▲の記事で父・長景の生年を1250年と推定した。これに基づいて親子の年齢差を考えると、宗長は1270年頃より後の生まれと判断される。
更に上図では母親を "信濃判官" 二階堂行忠(1221年~1290年)の娘と記しており*1、「行忠―女子(長景室)―宗長」各々の親子の年齢差を25歳位とすれば、宗長は1270年頃の生まれとなって辻褄が合う。
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こちら▲の記事で述べた通り、安達宗顕については生年が判明しており、弘安7(1284)年4月まで執権の座にあった北条時宗(同月逝去)の偏諱を賜ったものと判断される。その従弟にあたる長景の子・九郎宗長と、時景の子・盛宗も同じく時宗からの一字拝領とみられるが、宗長の場合、前述の生年に基づくと時宗の没年には15歳程度と元服を済ませていても良い適齢に達しており、時宗晩年期(1280年代前半)にその加冠を受けたと考えて問題ないだろう。
冒頭の『尊卑分脈』において、宗顕や叔父・時景の項に記載があるように、安達氏一門の多くが翌8(1285)年の霜月騒動で誅殺されたが、父の "美濃入道" 長景もこれに連座したことは史料で明らかとなっている*2。宗長も元服時に名乗った通称「九郎」が書かれるのみで、他の近親者のように「左衛門尉」等に昇った形跡が確認できないことからすると、やはり父たちと運命を共にした可能性が高いのではないかと思われる。
脚注
安達盛宗 (右衛門尉)
安達 盛宗(あだち もりむね、1273年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。
本項では、下図『尊卑分脈』に掲載の、安達泰盛の末弟・安達時景の子について述べる。泰盛の子については 安達盛宗 (越前守) - Henkipedia を参照のこと。
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こちら▲の記事で父・時景の生年を1253年頃と推定した。これに基づいて親子の年齢差を考えると、盛宗は1273年頃より後の生まれと判断される。
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こちら▲の記事で述べた通り、安達宗顕については生年が判明しており、弘安7(1284)年4月まで執権の座にあった北条時宗(同月逝去)の偏諱を賜ったものと判断される。その従弟にあたる長景の子・九郎宗長と、時景の子・盛宗も同じく時宗からの一字拝領とみられるが、盛宗の場合は、前述の生年に基づくと時宗の没年には12歳程度と元服の適齢を迎え、時宗晩年期にその加冠を受けたと考えて問題ないだろう。
尚、上図では「右衛門尉」の注記が見られるが、その任官年齢を考えた場合、父・時景ら安達氏の大半が討たれた翌8(1285)年の霜月騒動より後であったと判断すべきであろう。宗顕や時景のようにこの系図では弘安8年に討たれた者については漏れなく記載があるので、特に書かれていない盛宗については何とか難を逃れたようであるが、それでも冷遇されたためか、その後表舞台に現れた様子は確認できず、死没までの事績は分からない。
安達盛宗 (越前守)
安達 盛宗(あだち もりむね、1255年頃?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。安達泰盛の庶長子。
史料における安達盛宗
▲【図A】『蒙古襲来絵詞』より
弘安4(1281)年6月の「弘安の役」で、蒙古兵の首を差し出す竹崎季長(左)の戦功報告を受ける「肥後国守護人 城次郎 盛宗」(右上)
*肥後守護であった父・泰盛の代理(守護代)として肥後に下向していた。
これ以外に、安達盛宗についての史料は次の3点が確認できる。
●【史料B】弘安7(1284)年11月25日付「関東御教書」(『新編追加』)*1に鎮西神領返付の相奉行(合奉行)の一人として「越前守盛宗」。
(前略)
条々 弘安七。六。廿五。
一.鎮西為宗神領事
甲乙人等。称沽却質券之地。猥管領之由有其聞。尋明子細。如旧為被返付。所差遣 明石民部大夫行宗。長田左衛門尉教経。兵庫助三郎政行 也。大友兵庫頭頼泰法師。越前守盛宗。大宰少弐経資法師。可為合奉行。……(以下略)
●【史料C】(弘安7年カ?) 9月10日付「北条尚時書状」(『新編追加』)*2に「盛宗」。
(前略)
条々。急速為有御沙汰。以前九州所領相分三方也。於博多可尋沙汰。頼泰法師行宗肥前 筑前 薩摩。盛宗教経豊後 豊前 日向。経資法師政行肥後 筑後 大隅。各守此旨可奉行。……(以下略)
九月十日 尚時 判
明石民部大夫殿
同年4月4日に亡くなった8代執権・北条時宗に代わって幕政を主導し始めた安達泰盛は烏帽子親でもある3代執権の北条泰時や、5代執権・北条時頼の政治を再現しようと、あらゆる政策を実行に移した。【史料B】はその一つとして、博多に明石行宗・長田教経・兵庫政行の3人を派遣し、息子の盛宗と大友頼泰(道忍)・少弐経資(浄恵)を合奉行とした(特殊合議制訴訟機関)ことを記すものである。鎮西の宗たる神領を回復させるべく、神領で売却または入質した土地を調査して神社へ返還させ、社殿の修復や神事の再興を行うほか、名主職の安堵による御家人の創出や、地頭職闕所地の調査による蒙古合戦恩賞の地の捻出といった業務に当たらせたという。
【史料C】はこの合奉行の管轄国の組み合わせを3つに分けたものであり、意図的に守護国を避けることで政務の公平を期している。
・ 大友頼泰 明石行宗 肥前・筑前・薩摩
・ 安達盛宗 長田教経 豊後・豊前・日向
・ 少弐経資 兵庫政行 肥後・筑後・大隅
●【史料D】弘安8(1285)年12月18日付「千葉宗胤書下」(『坂口忠智氏所蔵文書』)に「越前々司盛宗追討騒動之間、……」*3。
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(端裏書)「ゑちせん殿いくさの御かきくたし*1」
越前々司盛宗追討騒動の間、折節訴訟に依って当参の刻、馳せ向わるるの条、神妙に候、今に於いては、世間無為、警固の当番衆に非ざれば、下国せしめ給うべく候、恐々謹言。
弘安八年十二月十八日 宗胤(花押)
佐汰弥九郎 *2 殿
*1:ゑ(え)ちぜん殿 戦の御書き下し *2:佐多(建部)定親
「越前前司」*4であった盛宗は、前年の【史料B】における「越前守盛宗」と同人とみなして良いだろう。そして、この史料の前月(11月17日)には泰盛ら安達氏一族とその一派が討たれた「霜月騒動」という一大事件が起きており、同時期に追討を受けた盛宗も『尊卑分脈』に「越前守」「於鎮西同時被誅」と注記される安達盛宗に比定できる*5。この書状はいわゆる岩戸合戦を受けてのものと分かる。
越前守任官と生年について
鎌倉時代の越前守任官者については、佐藤圭氏の論文*6が参照されるところである。それによれば、弘安2(1279)年4月6日~同3(1280)年11月3日の間、平惟輔(これすけ)の越前守在任が確認できるという*7。従って、盛宗の任官はこれ以後【史料B】(6月25日)までの間に行われたこととなる。冒頭で紹介した通り、同4年6月の弘安の役当時は「城次郎」を名乗っていた可能性があり、恐らく惟輔の後任の次が盛宗ではないかと思う。
ここで考えたいのが安達氏における国守任官の年齢である。
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判明している事例として、安達義景の息子たちが参考になるだろう。すなわち、頼景が29歳で丹後守(正六位下相当)*8、父・泰盛が52歳で陸奥守(従五位上相当、秋田城介と兼務)*9、顕盛が30歳で加賀守(従五位下相当)*10、長景も30代前半以下で美濃守(従五位下相当)*11に任官しているのである。
この他、加賀守師景―美濃守高茂 父子も同様であった可能性が高い。
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従って、弘安4~7年の任官時に盛宗が30歳位(数え年、以下同様)であったのだとすると、1252~1255年頃の生まれと推定可能で、父・泰盛が寛喜3(1231)年生まれである*12ことから考えても妥当だと思う。ちなみに同じく泰盛の子で秋田城介を継承した安達宗景については正元元(1259)年生まれと判明している*13が、同年の生まれとすると22歳というかなり早いタイミングでの越前守任官となってしまうので、やはり宗景より前に生まれたと考えるべきだろう。よって『尊卑分脈』等の系図類での記載通り、盛宗が兄で庶子、宗景が弟で嫡子とみなして良いだろう。
前述の生年に基づき、紺戸淳氏の論考*15に従って元服の年次を推定するとおおよそ1264~1269年となる。婚姻などの安達・北条得宗両家の親密な関係を踏まえても「盛宗」の「宗」は、1263年に得宗家家督を継いだ北条時宗(1268年~ 8代執権)からの偏諱と考えて問題ないと思う。時宗からの偏諱の位置が宗景と逆で下(2文字目)になっているが、これは千葉宗胤・胤宗兄弟、平宗綱・飯沼資宗兄弟などと同様に、嫡子・庶子の違いによって違えたためであった。
詳細は明らかになっていないが、盛宗が兄でありながら庶子(或いは準嫡子)となったのは、母親の違いによるものであろう。前述の通り、盛宗の元服の段階では、既に宗景が生まれていて嫡子に指名されていたので、そのような名乗り方になったと考えられる。
(関連記事)
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(参考ページ)
● 蒙古襲来絵詞
脚注
*1:続群書類従. 第23輯ノ下 武家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第20巻15218号。
*2:続群書類従. 第23輯ノ下 武家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第20巻15302号。『豊津町史 上巻』第四編 中世 P.607(または PDF)。
*3:『鎌倉遺文』第21巻15764号。本文に掲げた書き下しは 年代記弘安8年 より引用し、適宜新字体に改めた。
*4:「前越前守」の意。但し、亡くなった(在任者が不在となった)が故にそう呼ばれた可能性も考えられ、生前に越前守を辞していたかどうかの判断は難しいが、いずれにせよ、これが盛宗の最終官途であったことになる。
*5:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*6:佐藤圭「鎌倉時代の越前守について」(所収:『立命館文学』第624号、2012年)。
*7:前注P.361 表2 および P.365。惟輔は『兵範記』の作者でもある平信範の7世の後胤にあたり、近衛家の家司であった。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その81-関戸頼景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№88-安達顕盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№91-安達長景 | 日本中世史を楽しむ♪ によれば、弘安2(1279)年に任官。【図A】に示したが如く『尊卑分脈』では顕盛のすぐ下の弟として載せられ、顕盛と同年の生まれとしても当時35歳となり、これより若年での任官であること確実である。
*12:注9同箇所より。
*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その83-安達宗景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*14:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。
*15:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。10~15歳での元服とした場合。
安達宗景
安達 宗景(あだち むねかげ、1259年~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。安達泰盛の嫡男。
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『関東評定衆伝』弘安4(1281)年条には、引付衆の一人に「城九郎藤原宗景」の記載があり、その注記を見ると、この時23歳だったので父の例に倣い2月に加えられたと書かれている*1。逆算すると正元元(1259)年生まれと分かる*2。
歴代の秋田城介(景盛―義景―泰盛―宗景)の名乗りが「●盛」「●景」型で交互に名付けられていることは既に指摘されている通りである*4が、●は烏帽子親となった得宗からの偏諱であったことが窺える。
前述の生年に基づき、紺戸淳氏の論考*5に従って元服の年次を推定するとおおよそ1268~1273年となる。婚姻などの安達・北条得宗両家の親密な関係を踏まえても「宗景」の「宗」は、1266年に解任された6代将軍・宗尊親王*6からではなく、8代執権・北条時宗からの偏諱と考えて問題ない。
「城九郎」とは、秋田城介の「九郎(9男)」を表す通称である*7が、第何子かにかかわらず、安達盛長以来の秋田城介を継ぐべき嫡男(家督継承者)に与えられる称号と化していた。実際、安達泰盛の嫡男であった宗景も、弘安5(1282)年10月16日に秋田城介を父から継承している*8。
上記系図にある通り、安達盛宗という庶兄がいたことが明らかとなっているが、時宗からの偏諱の位置が宗景と逆である。千葉宗胤・胤宗兄弟、平宗綱・飯沼資宗兄弟などと同様に、嫡子・庶子の違いによって偏諱の位置を違えた例であった。すなわち、宗景が嫡男、盛宗が庶子であったことがこの点からも裏付けられよう。
(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その83-安達宗景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事、以下同じ)
● 安達氏なのに「安達さん」と呼ばれない。 | 日本中世史を楽しむ♪
脚注
*1:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その83-安達宗景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*3:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。
*4:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.153。
*5:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。10~15歳での元服とした場合。
*6:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。
*7:安達氏なのに「安達さん」と呼ばれない。 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。
*8:『関東評定衆伝』同年条(→ 群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション)より。