名越朝時
北条 朝時(ほうじょう ともとき、1194年~1245年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の次男。名越流北条氏の祖で名越朝時(なごえ ー)とも呼ばれる。
記載は、相州(相模守)=執権・北条義時の次男(13) が御所に於いて元服したという、実に簡素なものであるが、ここでいう「御所」は幕府御所で良いだろう*2。当然ながら、当時の将軍・源実朝が立ち会っていたことは想像の範囲内であり、「朝時」と名乗っていることから、その偏諱「朝」が許されたものと考えられる。実朝自らが加冠役を務めて名前の一字を下賜したのであろう*3。
但し、後にこの源実朝の勘気を蒙ることとなり一時謹慎処分を受けている。
以降の生涯・活動内容についての詳細や経歴については
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その18-名越朝時 | 日本中世史を楽しむ♪
を参照のこと。
脚注
名越朝貞
北条 朝貞(ほうじょう ともさだ、1287年頃?~1333年)は、 鎌倉時代後期から末期にかけての武将、御家人、歌人。名越流北条時基の子で名越朝貞(なごえ ー)、小町朝貞(こまち ー)とも呼ばれる。通称は七郎、中務権大輔(または中務大輔)。
生年と烏帽子親についての考察
新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その25-名越朝貞 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)による経歴表*1は次の通りである。
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№25 名越朝貞(父:名越時基、母:二階堂行久女)
生年未詳
01:正和4(1315).03. 在中務大輔
02:元弘3(1333).05.22 没
[典拠]
父:分脈。
母:『入来院平氏系図』(『入来院文書』<『東大写真』>)に「母常陸入道行日女」とあり*2、「行日」は行久の法名*3。
01:『公衡公記』正和4年3月16日条に載せる丹波長周注進状の3月8日鎌倉大火被災者の交名*4中に「遠江中務大輔<遠江入道道西*5子>」とあるのが、分脈の朝貞の官途と一致する。この交名の人々は当時の鎌倉政権要路者ばかりであり、朝貞も当時、評定・引付衆に在職していた可能性がある。
02:太平記・巻10「高時并一門以下於東勝寺自害事」の「小町中務太輔朝実」は朝貞の誤記か。
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historyofjapan-henki.hateblo.jp
「朝貞」の名は、「朝」が名越流の祖でもある祖父の名越朝時(北条朝時)から取ったものとみられるので、「貞」が烏帽子親からの偏諱と推測できるが、結論から言うとこれは得宗(第9代執権)北条貞時からの一字拝領とみられる。
中務大輔任官の年齢
まずは次の史料をご覧いただきたい。
【史料A】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状*6
上の経歴表でも取り上げられていた「丹波長周注進状」である。細川氏が述べられる通り、「遠江中務大輔」が朝貞に比定される。呼称は父親が遠江守で、その息子にして中務大輔であることを表す。すなわち、正和4(1315)年の段階で朝貞は正五位上相当の中務大輔*7にまで昇進していたのである(後述するが、正確には中務権大輔であったと思われる)。この時の年齢を考えてみたい。
父・時基は、『吾妻鏡』弘長元(1261)年9月20日条まで「遠江七郎(時基)」と呼ばれていたものが、同3(1263)年正月1日条からは「刑部少輔時基」で書かれているようになっている*8ので、この間に叙爵し、従五位下相当の刑部少輔*9になったことが分かる。
弘長2(1262)年正月19日に刑部少輔(建長6(1254)年20歳で任官、同時に叙爵)から中務権大輔(中務大輔の権官)に昇った、兄(朝貞の伯父)名越教時*10の後任として引き継いだのであろう。この当時、教時は28歳、時基は27歳であった。
これらを参考にすると、【史料A】当時の朝貞も20代後半には達していたと考えるべきであろう。
中務大輔任官の時期
山口隼正氏の研究によると、同系図は1316~1318年の間に作成・成立したとされる古系図である*11が、注目すべきは朝貞の注記である。
▲【系図B】『入来院本 平氏(北条)系図』より名越時基流の部分*12
母親については冒頭の細川氏の表で示した通りであるが、それ以外の注記としては「七郎」とあるのみである。父の輩行名を継承した可能性も考えられなくはないが、兄の名越宗基(むねもと)は、貞時の先代・北条時宗の偏諱を受けたとみられ、更に越前守(国守)にまで昇っているから、時基の嫡男は宗基で、それに次ぐ庶子(準嫡子)として扱われた朝貞は実際に7男であったと考えるのが良いかもしれない。
いずれにせよ、単に「七郎」と称されるのは『吾妻鏡』での父・時基の表記(前述参照)と同様、無官であった時である。
次に示す『前田本 平氏系図』は成立時期が室町時代前期を下らないとされるものである*13。
▲【系図C】『前田本 平氏(北条)系図』より名越時基流の部分*14
【系図B】とは違って【系図C】朝貞の注記には「中務権大輔」とあるが、その他弟として時有(左近蔵人)を載せること以外は、ほぼ記載の内容は一致している。ここから【系図B】が書かれた段階では朝貞はまだ中務権大輔に任官していなかったことが推測され、その任官時期は【史料A】よりそれほど遡らない時期に行われたと判断できよう。
▲【系図D】『尊卑分脈』〈国史大系本〉名越時基流の部分*15
もう一つ、【系図D】でも【系図C】に同じく「中務権大輔」とあるので、正確には中務権大輔*16であったとみられる。元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において砂金100両・銀剣1の供養を行う「中務権大輔殿」*17、および 正中2(1325)年正月日付「高野山蓮華乗院学侶等訴状」(『金剛峯寺文書』)*18にある「紀伊国南部庄地頭中務権大輔朝貞」も名越朝貞に比定されよう。
生年と元服時期の推定
以上の考察内容を踏まえると、伯父・教時とほぼ同じコースで昇進したと考えて良いのではないかと思われる。中務大輔任官から間もない【史料A】当時、朝貞が30歳手前であったことは前述の通りで、逆算すると1280年代後半の生まれとなる*19。正安3(1301)年8月まで執権であった北条貞時*20の加冠により元服を済ませたと考えて問題ないだろう。「貞」の偏諱を下(2文字目)に置いたのは、前述の通り嫡兄・宗基がいたからで、例えば同じ名越流だと名越公貞のように、鎌倉時代の庶子(準嫡子)にはよく見られた現象である。
小町家(小町流北条氏)について
ところで細川重男氏は、時基―朝貞の家系に「小町家」という名称を与えておられる*21。『正宗寺本 北条系図』時基の子・朝賢〔ママ、誤記または誤読であろう*22〕の注記に「中務大輔」「小町口 元弘三五自害」とあり、冒頭経歴表にも示されている通り『太平記』巻10に東勝寺合戦での自害者の一人として「小町中務太輔朝実〔ママ〕」と載せる*23ことを理由に掲げている。同系図によれば、息子に時香(ときか、左近大夫将監)、顕朝(あきとも、二郎)*24がいたとされ、父とともに鎌倉幕府滅亡に殉じたらしい。
小町(こまち)は某アニメのキャラクター名の由来にもなっている*25通り、現在も「小町通り」などの形で鎌倉市内に地名が残っている*26。先の【史料A】は鎌倉中心部で火災があったことを伝えるものであり、朝貞の居住地も含まれていたことが分かる。朝貞は小町地域を拠点としていたのである。
先に述べた通り、時基の本来の嫡男は宗基であったと考えられる。しかし同じく『正宗寺本 北条系図』によると、宗基の長男・維基(これもと)は得宗の偏諱を受けておらず、「上野介」まで昇ったものの「遁世」してしまったらしく、次男の基明(もとあき、左近大夫将監)も含め実際の史料上では表立った活動を確認できない。
それに比べ、【史料A】に掲載の人物は当時の鎌倉政権の有力者ばかりであり、朝貞もその要人の一人と認識されていたことが窺える。細川氏は評定・引付衆に在職していたか、それに準じる地位を認められ、父の地位を継承していたのではないかと考察の上で、この小町流は嫡流の名越時章系には出世の速さの面では劣るものの、引付頭人に至る家格であったと説かれている*27。 宗基が早世し、維基・基明兄弟が幼少のため、時基の準嫡子であった朝貞が兄の跡を継いだのかもしれず、故に『尊卑分脈』(【系図D】参照)や『諸家系図纂』では時基の子として朝貞と賢性(けんしょう)*28しか載せられなかったのであろう。
歌人として
『尊卑分脈』では朝貞の項に「中務権大輔」のほか、「玉作者」の注記がある(【系図D】参照)。「玉」とは『玉葉和歌集』のことであり*29、次の和歌が収められている。
一筋に 風のつらさに なさじとや 長閑なる日も 花の散る覧*30
平 朝貞 *31
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.25「名越朝貞」と同内容。
*2:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.7(または 本稿【系図B】) も参照。
*3:注1前掲「鎌倉政権上級職員表」No.175「二階堂(常陸)行久」の項より。
*4:本項【史料A】参照。
*5:時基の官職が遠江守、法名が道西であったことは 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その24-名越時基 | 日本中世史を楽しむ♪ を参照。
*7:中務の大輔(なかつかさのたいふ)とは - コトバンク より。
*9:刑部省 - Wikipedia より。
*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その23-名越教時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*11:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。
*12:注2同箇所より。
*13:注1前掲細川氏著書 P.45より。元は仁和寺に所蔵されていた系図の影写本であったといい、北条氏一門については他系図に比べ多くの人物を載せ、その傍註についても詳細で、他史料と比較できる部分についてはかなり正確な記述がなされているという。
*15:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』(吉川弘文館)P.19 より。
*16:権官については 権官 - Wikipedia を参照。
*17:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)において「●●殿」と付けられているのは、北条氏一門か、それに準じた足利・安達氏に限られているようである。
*18:『鎌倉遺文』第37巻28963号。
*19:この頃、父・時基が存命であったことは、注5同箇所を参照のこと。
*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*21:注1前掲細川氏著書 P.32 および P.49 注(21)。
*22:兄に宗基・時賢を載せる点では【系図B】・【系図C】に一致しており、「中務大輔」と注記することからしても朝貞を指していることは明らかである。兄・時賢のほか、叔父に朝賢(田伏十郎入道)を載せており、文字を混同したものとみられる。
*23:「太平記」高時並一門以下於東勝寺自害の事(その3) : Santa Lab's Blog 参照。
*24:「顕」の字は第15代執権・金沢貞顕からの偏諱とみられる。
*25:「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」キャラ名の由来? - たこわさ 参照。
*28:『諸家系図纂』または『続群書類従』所収の「北条系図」では朝貞の兄とし「俗名時賢」との注記がある。すなわち、【系図B】や【系図C】での朝貞の次兄・時賢の法名であったことになる。母親の出自によるものか、"準嫡子"朝貞に次ぐ庶兄であったため、家督継承者から外れたのであろう。特に得宗の偏諱を受けなかったのもそのためと思われる。
*29:北条朝貞 - Wikipedia より。
大仏宗宣
北条 宗宣(ほうじょう むねのぶ、1259年~1312年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人、北条氏一門。鎌倉幕府第11代執権。
大仏流北条宣時の子で、大仏宗宣(おさらぎ ―)とも呼ばれる。
主な活動内容・人物についての詳細は
を参照のこと。
以下、本稿では名乗りに関する内容を記す。
細川重男氏の研究によれば、生年は正元元(1259)年である*1。 従って、紺戸淳氏の考証方法*2に従うと元服の年次は1268~1273年頃と推定できる。
「宗宣」の名乗りは、「宣」が父・宣時からの継字であるのに対し、一方の「宗」は烏帽子親からの一字拝領と考えられる。言うまでもなく、当時の得宗(第8代執権)・北条時宗からの偏諱であろう。
以降「宗宣―貞宗(のち維貞)―高宣」は「時宗―貞時―高時」と代々得宗と烏帽子親子関係を結ぶこととなった*3。
(参考記事:宗宣以降の大仏流当主)
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脚注
大仏高宣
北条 高宣(ほうじょう たかのぶ、1305年頃?~1328年)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。大仏流北条維貞の子で、大仏高宣(おさらぎ ―)とも呼ばれる。
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以下本稿では、これまで未詳とされてきた高宣の生年や烏帽子親の推定を試み、それについての考察を述べたいと思う。
烏帽子親と没年齢について
まず「高宣」の名乗りを見ると、「宣」は、宣時(曽祖父)―宗宣(祖父、第11代執権)間で継承された字であり、一方の「高」は当時の得宗(第14代執権)北条高時の偏諱と考えられる。「宗宣―貞宗(のち維貞)―高宣」は「時宗―貞時―高時」と代々得宗と烏帽子親子関係を結んでいた*1。
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嘉暦2(1327)年9月7日に父・維貞が死去。これに伴い、大仏流北条家の家督を継承したものと思われるが、『尊卑分脈』によると、高宣も翌3(1328)年4月に亡くなったという。長弟(維貞次男)の大仏家時が元徳元(1329)年、18歳(→逆算すると正和元(1312)年生まれ)で評定衆に加えられている*2ことからも、この頃家督の交代があったことは裏付けられよう。
この時の没年齢(享年)は明らかになっていないが、『正宗寺本北条系図』での高宣の注記には「早世」と記されている*3。どのくらいの年齢に達していたのであろうか。
その目安として、同じく『尊卑分脈』の中から他氏での例を挙げると、京極流佐々木氏の系図には、宗綱(頼氏の弟)の次男・佐々木時綱(京極時綱)の項に「先父早世 十七才」と注記されていて、また足利氏系図における足利家時の項には「早世 廿五才」と書かれている。後者、家時の享年については他史料での裏付けが可能であり*4、『前田本源氏系図』を見ると家時の孫・足利高義(足利尊氏の兄)の項に「左馬助、従五位下、早世廿一、」と注記される*5が、これも『尊卑分脈』での高義の注記「左馬助 早世」に一致する。
北条氏でも『正宗寺本 北条系図』上で「早世 廾二(廿二=22)」と注記される北条貞規の例がある*6。
『尊卑分脈』における高宣の場合は「嘉暦三四卒 式部大輔」とあるのみで特に「早世」とは記されていないが、時綱のすぐ下の弟・佐々木貞宗(京極貞宗、「嘉元三五八死十九才」)や、家時の父・足利頼氏(「弘安三四七日〔ママ〕卒 廿三才」)のように、17歳より年長、或いは25歳より若い年齢での死去であっても「早世」と記されない例もあることから、10代後半~20代前半での若さでの死去は皆、「早世」として扱って良いと考えられる。前述の足利高義の例を踏まえて言い換えれば、単に「早世」と記し没年齢を載せていない場合でも、その享年は20代前半以下であったと解釈して良いだろう。
父・維貞の生年は弘安8(1285)年であったといい、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、高宣は1305年頃よりは後に生まれたと考えるべきである。そして、前述の通り、高宣逝去の翌年に評定衆となった弟の家時が18歳であったから、これを超えていたことも推測できる。1305年生まれとすると24歳で没したことになり、前述での「早世」の範囲内である。得宗・高時が執権に就任した1316年の段階でも数え12歳と元服の適齢期となり、先に高宣の「高」が高時からの偏諱と述べたのもこのためである。
高宣の任官年齢について
最後に考えてみたいのが「式部大輔」という最終官途である。
系図類でしか確認できない情報だが、諸家の系図集としては最古の『尊卑分脈』に記載があり、逆にこれを否定し得る史料も無いことから、一応信ずることとしたい。
そして、式部大輔は正五位下相当の官職である*7が、これまでの当主が正五位下となった年齢は、宣時(48)→宗宣(42)→維貞(30)と低年齢化傾向にあった。更に、叙爵(従五位下)から正五位下への昇進にかかった年数も、宣時・宗宣(18年)→維貞(13年)と縮まっていた*8。恐らく高宣の場合は、叙爵から10年程度、20代で式部大輔に昇る形で正五位下となった可能性が高いのではないかと思う。
当時における北条氏一門の叙爵年齢は、得宗・高時が9歳、それに次ぐ赤橋流の北条守時(第16代執権に就任)でも13歳であったから、これより早くなることは考えにくい。従って、高宣の叙爵年齢も父・維貞と同じか、それより若干早い15歳程度であったと考えて良いだろう*9。
(参考)
<祖父・宗宣 の官職歴>
- 雅楽允〔正七位下〕・式部少丞〔従六位上〕・叙爵〔従五位下〕(24)
- 上野介【国介】〔※正六位下相当〕(30)
- 従五位上(36)
- 正五位下(42)
- 陸奥守【国守】〔※従五位上相当〕(43)
- 従四位下(50)
<父・維貞 の官職歴>
従って、式部大輔任官時の年齢は25歳前後と推定できる。亡くなった嘉暦3年での任官とすれば、1305年生まれとした場合享年24歳とした前述の内容に一致する。よって次のように推定され、本稿の結論としたい。
脚注
*1:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、P.15系図・P.21)、山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、脚注(27) (山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、ISBN 978-4-7842-1620-8) p.182)。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その74-大仏家時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:『正宗寺本北条系図』 より。
*4:鎌倉時代の成立で信憑性が高いとされる「滝山寺縁起」温室番帳に「同(六月)廿五日 足利伊与守源ノ家時、弘安七年逝去、廿五才、」とある。田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)P.402 を参照。
*5:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:前注田中氏著書)P.191。
*6:『正宗寺本 諸家系図』より。北条貞規 - Henkipedia も参照のこと。
*7:式部の大輔(しきぶのたいふ)とは - コトバンク より。
*8:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末により算出。
*9:得宗家時宗系・赤橋流・金沢流顕時系・大仏流宗宣系はいずれも(引付衆~引付頭人の要職に至る「評定衆家」22家より家格が高く)惣領が執権・連署・寄合衆にまで至る高い家格を有していた「寄合衆家」8家に含まれている(前注細川氏著書 P.42)が、烏帽子親の違いに着目すると、将軍を烏帽子親とする得宗・赤橋両流に対して、得宗の一字拝領を受けていた金沢・大仏両流はそれに次ぐ家格であったと考えられる(注1前掲山野氏論文 同箇所)。ちなみに、1302年頃の生まれとされる金沢貞将は正和4(1315)年に父・貞顕が連署となった頃に従五位下・左馬助に任じられたとみられており(→ 南北朝列伝 - 金沢貞将)、叙爵年齢はおよそ14歳であったことになる。
北条貞規
北条 貞規(ほうじょう さだのり、1298年~1319年)は、鎌倉時代後期の御家人、北条氏得宗家一門。第10代執権・北条師時の嫡男。官途は左近大夫将監、右馬権頭。主な通称は相模左近大夫。
まずは、細川重男氏のブログ記事*1による貞規の経歴は次の通りである。
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№13 北条貞規(父:北条師時、母:北条貞時女)
右馬権頭(『前田本平氏系図』*2。『正宗寺本北条系図』*3)
左近大夫将監(『前田本平氏系図』。『正宗寺本北条系図』)
従四位上(『前田本平氏系図』)
01:永仁6(1298). 生(1)
02:文保1(1317).12.27 一番引付頭人(20)
03:元応1(1319).06.14 没(22)
[典拠]
父:『前田本平氏系図』。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。
母:『佐野本北条系図』。
01:没年齢より逆算。
02:鎌記・文保元年条*4。
03:『正宗寺本北条系図』に「早世廿二」、武記裏書・元応元年6月14日条に「貞規卒、相ー左近大夫、号西殿」とある*5に拠る。
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父・師時の生年が建治元(1275)年とされる*6ことから、現実的な親子の年齢差を考えても上記の貞規の生年は妥当であると言えよう。
しかし、母親が貞時の娘とするのには疑問がある。確かに師時は貞時の娘を妻に迎えた*7が、貞時は師時の従兄でもあり、僅か4歳年長の文永8(1271)年生まれ*8で、貞規がその外孫であったというのは祖父―孫の年齢差の点から言って現実的でないように思う(その差27はむしろ親子の年齢差である)。
貞規については元服の記録は特に残されていない。ただ得宗家では低年齢化の傾向にあったので、得宗代々の7歳とほぼ同じ位の年齢で行ったと推測される。前述の生年から算出すると1304年頃の元服となる。貞規の「貞」の字は、出家のため既に執権職を師時に譲ってはいるものの得宗(副将軍*9)の座にあった貞時から偏諱を受けたものであろう。貞時(法名:崇演)は出家(執権辞任)後もしばらくは、俗名からの一字付与を行っていた可能性が高い。
次の史料は、『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状である*10。同月8日に鎌倉を襲った大火の被災者として「相模左近大夫貞規」の名が見られ、これが史料上での初見である。
【史料B】丹波長周注進状
前述の生年に基づけば当時貞規は18歳。この段階で既に叙爵を済ませ、左近大夫将監*11となっていたことが分かる。通称は「相模」守・北条師時(当時は故人)の子で「左近大夫将監」を表すものである。
若くして早世した故に、その後の活動は冒頭の経歴表に示した、20歳での一番引付頭人就任が確認されるくらいである。 これについて細川重男氏は、祖父宗政、父師時と同様に引付衆は経なかったと推測の上で「信じ難い若年での登用である」と評価されている*12が、それだけに期待されていた若手のホープだったのであろう。
その2年後に貞規が亡くなった後は、『尊卑分脈』に師時の子として載せられる時茂(北条重時の子である常葉流北条時茂とは同名の別人)が宗政系北条氏の家督を継いだようである。細川氏が述べられる通り、貞規の弟であろう。当時の史料では確認できないが、祖父や父に同じく「評定衆」、兄に同じく「一番(引付)頭人」に就任したことが『尊卑分脈』に記されており、同氏は時茂が歴代の当主と同様、得宗家に次ぐ高い家格に見合った待遇を受け、元弘元(1331)年正月23日以降、鎌倉幕府滅亡までの期間に就任したのではないかと推測されている*13。
最後に、【史料B】に同じく火災があったことを伝える次の史料を見ておきたい。
【史料C】(元徳元(1329)年?)11月11日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*14
一去月十九日夜、甘縄の城入道*1 の地の南頬いなかき左衛門入道*2 宿所の候より、炎上出来候て、其辺やけ候ぬ、南者越後大夫将監時益*3 北まてと承候、彼家人糟屋孫三郎入道*4 以下数輩焼失候、北者城入道*1 宿所を立られ候ハむとて、人を悉被立候程ニ、そのあきにてとゝまり候ぬ、南風にて候しほとニ、此辺も仰天候き、北斗堂計のかれて候之由承候、目出候々々、一去夜亥刻計ニ、扇谷の右馬権助家時*5 門前より火いてき候て、亀谷の少路へやけ出候て、土左入道*6 宿所やけ候て、浄光明寺西頬まてやけて候、右馬権助*5・右馬権頭貞規後室・刑部権大輔入道*7 宿所等者、無為に候、大友近江入道*8 宿所も同無殊事候、諏方六郎左衛門入道*9 家焼失候云々、風始ハ雪下方へ吹かけ候き、後ニハ此宿所へ吹かけ候し程ニ、驚存候しかとも、無為候之間、喜思給候、火本ハ秋庭入道右馬権助*5 家人と高橋のなにとやらん同前か諍候之由聞□〔候か〕、あなかしく、
十一月十一日(切封墨引)
*1:安達時顕(法名:延明)。
*2:稲垣左衛門入道と読むのだろうか、人物の詳細は不明。
*3:北条時益*15。 *4:糟屋入道道暁*16。実名は不詳。
*5:北条(大仏)家時*17。 *6:不詳。
*7:摂津親鑒(法名:道準)*18。 *8:大友貞宗(法名:具簡)。
この文書により『前田本平氏系図』・『正宗寺本北条系図』での記載通り、貞規は最終的に右馬権頭(従五位上相当・右馬頭*21の権官)に昇進していたことが窺える。逝去の記事を載せる『武家年代記』裏書で「相模左近大夫」と記されているのは、単に過去の呼称で記してしまっただけなのであろう*22。
尚、「貞規後室」*23については、『正宗寺本北条系図』により、貞規が正室に迎えていた赤橋久時(最終官途:武蔵守*24)の娘に比定される*25。第16代執権の赤橋守時や、最後の鎮西探題・赤橋英時らとは兄弟(貞規にとっては義兄弟)であったことになる。
(参考ページ)
*[付記]本当に偶然だが、本稿は(旧暦・新暦の点では異なるが日付的には)貞規が亡くなって700年後の投稿となった。
脚注
*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その13-北条貞規 | 日本中世史を楽しむ♪。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.13「北条貞規」と同内容。
*4:『史料稿本』花園天皇紀・文保元年十一月~十二月 P.14。
*5:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元応元年五月~六月 P.51。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その12-北条師時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*7:注1前掲細川氏著書 P.287。典拠の『保暦間記』に「貞時……イトコ相模守師時于時右馬権頭……時頼ノ孫、武蔵守宗政子也。彼師時ハ、貞時聟也。」と書かれているほか、系図類でも、『正宗寺本北条系図』でも貞時女子の一人に「師時妻」を載せ、同系図師時の注記にも「貞時ノ聟」とある。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*9:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、注1前掲細川氏著書 P.263~264 注(55)を参照のこと。
*11:左近衛将監(従六位上相当)で五位に叙せられた者の呼称。左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク、左近大夫(サコンノタイフ)とは - コトバンク を参照のこと。
*13:前注同箇所、および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その14-北条時茂 | 日本中世史を楽しむ♪ を参照のこと。
*14:『鎌倉遺文』第39巻30775号。
*15:通称名は父・時敦(1320年逝去)が越後守で、その息子にして「左近大夫将監」であったことを表す。最後の六波羅探題南方としても知られるが、京都へ向けて鎌倉を出立したのは翌元徳2(1330)年7月20日頃であり、この頃はまだ鎌倉に在住していた。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。
*16:同じく『金沢文庫文書』に所収の、元徳元(1329)年12月2日付「伊勢宗継請文案」(『鎌倉遺文』第39巻30788号-1)、および同年のものとされる「金沢称名寺雑掌光信申状案」(『鎌倉遺文』第39巻30792号)に「糟屋孫三郎入道々暁」とあるによる。東氏 ~上代東氏~ も参照のこと。
*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その74-大仏家時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*18:注1前掲細川氏著書 巻末職員表 No.128「摂津親鑒」の項より。
*19:注1前掲細川氏著書 P.197 注(13)に言及されている通り、『円覚寺文書』に所収の史料2点、徳治2(1307)年5月付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『鎌倉遺文』第30巻22978号)の一番中に「諏方六郎左衛門尉」、『北條貞時十三年忌供養記』(『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号)には、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において、「銭十貫文」を進上する人物として「諏方六郎左衛門尉」(同前『神奈川県史』P.710)の記載がある。
*20:これについては、大村拓生「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」(所収:『都市文化研究』3号、大阪市立大学大学院文学研究科 都市文化研究センター、2004年) P.75 を参照。
*22:文保元(1317)年7月29日には第12代執権・北条煕時(1315年逝去、最終官途:相模守)の嫡男・茂時が叙爵および左近将監に任官しており、嘉暦元(1326)年の一番引付頭人就任および右馬権頭任官までの通称は「相模左近大夫将監」だった筈である。依然として貞規が左近将監であれば、区別のため茂時は「相模新左近大夫将監」と呼称されたと思われるが、この段階で貞規が右馬権頭に転任した可能性も考えられよう。近い時期で、注19前掲『北條貞時十三年忌供養記』には、元亨3(1323)年の貞時(最終官途:相模守)13年忌供養への参列者に「相模左近大夫将監殿」と「相模新左近大夫将監殿」の掲載があるが、これについては 北条泰家 - Henkipedia を参照のこと。
*23:後室とは「身分の高い人の未亡人」の意(→ 後室(コウシツ)とは - コトバンク)。
*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その29-赤橋久時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*25:『正宗寺本北条系図』貞規の注記に「武刕(武州)久時ノ聟也 高氏将軍ハアイムコ(相聟)也」(也は u2ceff-j (𬻿) - GlyphWiki の異体字で表記される)とあり、同系図には久時の女子として「足利高氏郷〔ママ、卿〕御䑓(台)所」と「貞規室」の2名を載せる(前者はいわゆる足利尊氏の正室・赤橋登子である)。
大仏家時
北条 家時(ほうじょう いえとき、1312年~1333年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。
鎌倉時代末期に、北条時房系の嫡流・大仏流の当主を務め、大仏家時(おさらぎ ー)とも呼ばれる。父は大仏流北条維貞。
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主な活動内容・生涯については
等を参照のこと。
以下本項では、元服と名乗りに関する考察を述べることとする。
まずは、細川重男氏がまとめた「基礎表」*1で経歴を確認しよう。
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№74 大仏家時(父:大仏維貞、母:未詳)
01:正和1(1312). 生(1)
02:年月日未詳 右馬権助
03:元徳1(1329).11.11 評定衆(18)
04:元弘3(1333).05.22 没(22)
[典拠]
父:分脈
01:金文443に、評定衆就任時18歳とあるにより、逆算。
02:金文443。
03:金文443。
04:分脈。太平記・巻10「高時井一門以下於東勝寺自害事」。
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上記生年に基づくと、1320年代前半ごろに元服したと推定できる*2。家時が15歳となる正中3(1326=嘉暦元)年のいわゆる「嘉暦の騒動」で北条泰家が出家するまでには済ませていたであろう(詳しくは後述)。
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維貞の子は、高宣・家時・貞宗・高直の4名が確認できる*3。鎌倉時代の成立とされる『入来院本 平氏系図』によれば、宣時の子が宗宣(維貞の父)、宗泰、貞房、貞宣*4と全員が得宗と烏帽子親子関係を結んでいる様子が窺え、長男・高宣と末子・高直は、得宗・北条高時から偏諱を受けたと考えて問題ないだろう。
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家時の場合、高宣に次ぐ "準嫡子" の立場にあったと思われ、実際、嘉暦3(1328)年4月に家督を継いだばかりの高宣が早世する*5とその跡を継いでいるが、末弟の高直とは異なって高時の偏諱を受けていない。では、家時は得宗家と烏帽子親子関係を持たなかったのであろうか。
「家時」の名乗りは、「時」が北条氏の通字であるから「家」が烏帽子親からの一字拝領の可能性が考えられる。恐らく高時の弟・北条泰家の偏諱ではないか。維貞一族と泰家は婚姻関係によって繋がりがあった可能性があり*6、その交流の中で泰家が家時の加冠を務めたと考えられなくはない。
実際、泰家は高時出家後の嘉暦の騒動で、第15代執権の候補に担ぎ上げられたこともあり、将来を期待されていた人物と言える。大仏流北条氏にとって、次期執権候補の泰家と結び付きを持っておくことは歓迎すべきことであったと考えられる。
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ここで北条泰家について確認しておこう。生年は明らかとなっていないが、高時(嘉元元年12月2日〈1304年1月9日〉生まれ)が元服を遂げた延慶2(1309)年1月21日*7より後に元服し「相模四郎時利」(初名)を名乗ったことは確かだろう。上記記事では1307年頃の生まれと推定している。恐らくは兄・高時の執権就任(1316年)或いは翌1317年の左近将監任官のタイミングで改名したのではないか。その名は、北条泰時(第3代執権)、北条時家(北条四郎大夫、『尊卑分脈』では時政の祖父)という祖先2人の各々1字で構成されたものとみられる。
泰家と家時では僅か数年ほどの年齢差であったと思われるが、「北条高時(17)―足利高氏(のちの尊氏)(15)」のように、本来は(実際の)親子関係に準ずるものであった烏帽子親子関係はこの当時形骸化していたといい*8、特に問題視する必要は無いだろう。
[付記]
『吾妻鏡』によると、金沢実時が北条泰時、その嫡男・顕時(初め時方)が北条時宗の加冠により元服したといい、各々の「時」字は烏帽子親である得宗からの一字拝領と考えられる。これと同様に、得宗・高時から「時」字を与えられ、前述の祖先・北条時家にあやかって「家時」を名乗った可能性もあり、別説として掲げておきたい。但しこの場合、何故「高」ではなく「時」の字を与えたのかという疑問が残る。
下掲系図で明らかな通り、宣時の系統では概ね、得宗から偏諱を受けるか、父から1字を継承したり、時政の「政」、時房の「房」、朝直の「朝」「直」、そして宣時の「宣」といった祖先から1字を取ったりして実名を構成している者がほとんどであるが、家時だけはいずれにも当てはまらない。この点から言っても、わざわざ上(1文字目)にしている「家」の字に重要な意味合いがあるように思える。故に泰家からの偏諱と推測した次第である。
脚注
*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その74-大仏家時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*2:参考までに、今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.42~50には、『吾妻鏡』を中心に、北条氏一門も含めた各御家人の元服についての紹介があり、その年齢は、早くとも北条時宗の7歳、遅くとも北条時房や足利高氏(尊氏)の15歳である。
*3:『尊卑分脈』、『正宗寺本北条系図』、『保暦間記』など。
*4:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について (下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.28。
*5:『尊卑分脈』。『正宗寺本北条系図』にも「早世」の記載が見られる。
*6:『正宗寺本北条系図』には維貞の女子(高宣・貞宗の妹)に「𣳾時室〔ママ〕」(*𣳾は泰の異体字)と記載があるが、年代的に当然ながら北条泰時ではなく、当該期「泰時」を名乗った人物も見当たらない。この系図では、嫁いだ相手の記載が(苗字無しで)実名のみの場合は北条氏一族に限るようで、当該期類似した名前を持つのは「泰家」くらいしか見当たらない。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*8:注2前掲今野氏論文、P.50。
頼助
頼助(らいじょ、1244年~1296年)は、鎌倉時代の僧。
鎌倉幕府4代執権・北条経時の次男。経時の菩提所である鎌倉佐々目の遺身院を拠点としたので、佐々目頼助とも呼ばれる。
経時の遺児である隆政(りゅうせい)・頼助兄弟については、吉田通子氏の研究*1に詳しく、それに沿って述べる。
生まれて間もなく父・経時が亡くなり、その弟・北条時頼が執権職を継いだ。恐らく兄弟諸共、経時の遺児は当初、叔父である時頼の庇護下にあったと思われるが、経時派の復権を恐れた彼の意向により両者とも僧籍に入ることになったという。
頼助は当初「頼守(らいしゅ)」といったが、文永6(1269)年に仁和寺流・法助の弟子となり「頼助」に改名した。吉田氏は「頼」が時頼からの偏諱であり、時頼が頼助の外護者であったのではないかと説かれており、平雅行氏は実際に時頼の猶子であったと述べられている*2。
*尚、吉田氏は兄・隆政の初名「隆時」についても時頼が「時」の1字を与えたのではないかと説かれている。
関連人物
吉田氏は「北条氏出身の僧侶はそのほとんどの場合、父親から一字、伝法灌頂を受けた師から一字をもらって法名としている」と説かれている。
● 政助 … 1265~1303年。北条宗政(時頼の子)の子。*3
● 有助 … 1277~1333年。伊具流北条兼義(有時の子)の子。*4
● 頼仲 … 初め頼助死没の前年に頼助に入室し授法したと伝えられる*5。
参考リンク
● 鶴岡社務記録 #頼助 - 国立国会図書館デジタルコレクション
● 鶴岡社務記録 #政助 - 国立国会図書館デジタルコレクション
● 鶴岡社務記録 #有助 - 国立国会図書館デジタルコレクション
● 鶴岡社務記録 #頼仲 - 国立国会図書館デジタルコレクション
● 『鶴岡八幡宮寺社務職次第』(群書類従. 第參輯) - 国立国会図書館デジタルコレクション