宇都宮高貞
宇都宮 高貞(うつのみや たかさだ、1305年頃?~1340年?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。父は宇都宮貞綱で、宇都宮公綱(初め高綱)の弟にあたる。
史料上における高貞
『尊卑分脈』宇都宮氏系図(以下『分脈』と略記)の高貞の傍注に「兵庫助 弾正少弼 五郎 改公貞 又改綱世」とあり、のちに宇都宮公貞(きんさだ)、宇都宮綱世(つなよ)と改名したことが分かる。
【史料A】『鎌倉年代記』裏書*1(または『北條九代記』*2)より一部抜粋
今年嘉暦二……六月、宇都宮五郎高貞、小田尾張権守高知、為蝦夷追討使下向、……
今年嘉暦三、十月、奥州合戦事、以和談之儀、高貞、高知等帰参、……
これが史料上での初見と思われるが、嘉暦2(1327)年6月までに元服し、鎌倉幕府滅亡前「高貞」を称していたことが窺える。小田高知(のちの治久)と共に安藤氏の乱鎮圧にあたったと伝えており、この時点では無官のため「五郎」とのみ称されていたことが分かるが、これは元服からさほど経っていなかったためであろう。
兄・高綱(公綱)が乾元元(1302)年生まれと伝わる*3ので、弟である高貞の生年はこれ以後のはずである(高貞を貞綱の長男=すなわち高綱の兄とする系図もあるが、この信憑性が低いことは後述参照)。元服は通常10~15歳ごろに行われたので、仮に1303年生まれとしても、元服の年次は早くとも1312~1317年頃となり*4、これ以後であったと推定可能である。
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先学で既にご指摘のように、兄・高綱の名はこの当時の得宗・14代執権の北条高時(在職:1316~1326年)から偏諱を受けたものと考えられており、「高貞」の名も「貞」が父・貞綱の1字であるから同様に高時からの一字拝領であったとみなして良いだろう*5。
その後「公貞」に改名した時期は不明だが、鎌倉幕府滅亡の翌年、建武元(1334)年8月「(八番制)雑訴決断所結番交名」の一番に「宇津宮兵部少輔 公綱」とあり*6、この時までに兄・高綱が「公綱」に改名したことが窺えるので、高貞(公貞)も同じ「公」の字に変えていることからしてこれに連動したと考えて良いと思われる。
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『有造館結城古文書写』には、延元4/暦応2(1339)年4月12日、南朝方の春日中将顕国に攻められ、「兵庫助綱世子息金□□(欠字あり、幼名で金□丸か?)」が討ち取られたことを伝える書状が残っており、その直後にも「彼綱世妻舎弟御房丸」と書かれていて*7、当時の官途が「兵庫助(正六位下相当)*8」であったこと、最終的に「綱世」に改名したことが確認できる。またこの段階で息子が幼いながらも戦闘に参加できるくらいの年齢であったことも分かるので、高貞(綱世)が1310年頃までに生まれていたことが裏付けられよう。
同時期の史料として、『梅松論』には菊地武敏らと戦った多々良浜の戦い(1336年)に際し、足利方として「京都より供奉の人々、大友、島津、千葉大隅守(=胤貞)、宇都宮弾正少弼 三百余騎」が従軍したとあり*9、『観応二年日次記』(1351年)7月30日条にも「錦小路禅門(=足利直義)」*10が北国に下向した際の供奉人の中に「宇津宮弾正少弼」が含まれていて*11、『大日本史料』ではこれらを綱世に比定する。
前述史料との照合で兵庫助の前に「弾正少弼(正五位下相当)」*12だったことになる『梅松論』は元々軍記物ゆえ、のちの官途で記した可能性が考えられるが、『南方紀伝』に「二月……一品入道親房、遣勢、誅宇都宮綱世」とあり*13、暦応3/興国元(1340)年2月、南朝方の北畠親房が軍勢を派遣して綱世を誅殺したというので、『観応二年日次記』の「宇津宮弾正少弼」は綱世でない可能性が高い。
兄・公綱は一時期を除き、ほぼ一貫して南朝方であったのに対し、前述の通り、綱世父子は親房およびその幕僚であった春日顕国と戦って討たれており、北朝方であったことが窺える。箱根・竹ノ下の戦い(1336年)の後、一度は足利尊氏に降伏した公綱は、尊氏が京都で南朝方に敗れて一旦九州に落ち延びた際に南朝方に帰順したが、弟の綱世は兄と袂を分かち北朝方に残ったのであろう。
芳賀高貞との同一人物説について
ところで、宇都宮高貞については芳賀高貞と同一人物とする説がある。これは『下野国誌』10巻所収「芳賀系図」(以下『国誌』と略記)の高貞の注記に「初名公貞、宇都宮貞綱長男」*14、或いは『真岡市史 古代中世史料編』所収の「清原朝臣芳賀氏之系図」(以下「清原芳賀系図」と略記)に「(朱書)「宇都宮貞綱三男」 本性院殿徹山道覚大居士(朱書)「永和貳年七月十四日」 伊賀守高貞」*15とあることから唱えられたものと思われる。
芳賀高貞に関する史料としては、軍記物語にはなるが『太平記』巻34「畠山道誓上洛事」の文中に「延文四年(=1359年)十月八日、畠山入道々誓、武蔵の入間河を立て上洛するに、相順ふ人々には、……(中略)……宇都宮芳賀兵衛入道禅可(=芳賀高名)、子息伊賀守」*16、同巻39「芳賀兵衛入道軍事」にも「芳賀兵衛入道禅可……(中略)……嫡子伊賀守高貞、次男駿河守(=芳賀高家)ニ八百余騎ヲ差副テ、…」*17とあるのが確認できる。
前節で紹介した史料と照らし合わせれば、兵庫助→弾正少弼となった後で国守任官を果たしたという考えは十分可能であるが、名乗りに関して兵庫助時代「綱世」であったものが、伊賀守となってから「高貞」になっているのは『分脈』の記載と矛盾する。
しかも【史料A】より元服から間もない頃「高貞」と名乗っていたことは明らかであるから、『分脈』の記載通り「高貞→公貞→綱世」(或いは『国誌』に従えば「公貞→高貞→綱世」)と改名していった後、元の実名に戻すという理解は、事実上高時からの偏諱「高」を "復活" させることにもなり、前述の『南方紀伝』とも矛盾するので、あり得ないと言って良い。
『国誌』や「清原芳賀系図」ですら、宇都宮貞綱の「長男」・「三男」と意見が分かれており、特に後者では朱書(追筆)で書かれているから、後世の研究において、同じ宇都宮氏一族・実名の上に活動時期が重なっていたことから誤って同一人物とみなされたのであろう*18。よって芳賀高貞に関しては『太平記』の記載通り、芳賀高名(法名:禅可、父の芳賀高久が宇都宮氏から養子入りしたという)の嫡子(実子)とみなされる。
それぞれの名乗りに関しては、宇都宮高貞(公貞・綱世)が父・貞綱の「貞」と得宗・北条高時からの「高」により構成されたもの、芳賀高貞の「高」は単に芳賀氏の通字*19を用いたものと考えられる*20。
(参考ページ)
脚注
*1:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.63。年代記嘉暦2年、年代記嘉暦3年。
*2:『史料稿本』後醍醐天皇紀・嘉暦2年4~8月 P.25。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)での手法に倣った。
*6:『大日本史料』6-1 P.753、『高根沢町史 通史編Ⅰ』P.403。
*8:兵庫の助(ひょうごのすけ)とは - コトバンク、兵庫寮 #職員 より。
*10:錦小路禅門(にしきこうじのぜんもん)とは - コトバンク より。
*12:弾正少弼とは 一般のブログ記事を集めました - はてな より。
*13:『大日本史料』6-6 P.107。日本歴史文庫. 〔1〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*14:注5同箇所 および 『大日本史料』6-25 P.180。
*17:『大日本史料』6-25 P.182。「太平記」芳賀兵衛入道軍事(その2) : Santa Lab's Blog。太平記巻第三十九(その一)。
*18:注5同箇所。
*19:芳賀氏は、清原業恒の子・吉澄(一説に高澄)の息子である高重が寛和元(985)年、花山天皇の勅勘を蒙って流罪となり、その地である下野国芳賀郡大内荘にちなんで苗字としたのに始まると伝えられ、以来「高」が代々の通字となっている(→ 芳賀氏 - Wikipedia、芳賀氏(はがうじ)とは - コトバンク、武家家伝_芳賀氏を参照)。北条高時在世時には同じく北条氏一門の伊具時高が「斎時」に改名するといった事例はあった(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その53-伊具斎時 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)が、恐らくはこれは自主的なもので、芳賀氏(高久―高名―高貞)に対し「高」字を避けることを強制しなかったものとみられる。
*20:注5同箇所。
宇都宮公綱
宇都宮 公綱(うつのみや きんつな、1302年~1356年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。宇都宮氏第9代当主。父は宇都宮貞綱、母は長井時秀の娘。初名は宇都宮高綱(たかつな)。
系図類を見ると、公綱の傍注に「本 高綱」(『尊卑分脈』)、「元 高綱」(『諸家系図纂』)、「始 高綱」(『下野風土記』上)と書かれている他、『正宗寺蔵書』の系図では同じく貞綱の子で氏綱の父を「高綱(兵部大輔〔ママ〕 備前守 理蓮)」と載せている*1。すなわち当初は「高綱」を名乗っていたということである。
先学で既にご指摘のように「高綱」の名は、それまでの嫡男(泰綱、経綱、貞綱)が「綱」を通字とし、得宗「北条泰時・経時・貞時」より一字拝領してきた慣例に倣い、得宗・北条高時から偏諱を受けたものとされる*2。
ここで生没年や享年について調べてみると、系図によって様々だが、細川重男氏のまとめによれば、延文元(1356)年10月20日に55歳で亡くなったとする『続群書類従』所収「宇都宮系図」の記載が正しいのではないかとされる*3。逆算すると乾元元(1302)年生まれ。高時が得宗家家督を継承した応長元(1311)年には10歳、14代執権に就任した正和5(1316)年*4には15歳と、元服の適齢を迎える。異説では享年を45、或いは51(『佐野本宇都宮系図』:逆算すると徳治元(1306)年生まれ)と伝えるものもあり*5、これらの場合だと尚更、高時執権期間(1316~1326年)内の元服が確実となる。よって高時と高綱(公綱)は烏帽子親子関係にあったと判断して良いだろう。
管見の限り「(宇都宮)高綱」の名が確認できる史料は見つかっていないと思われるが、弟が「高貞」を名乗ったことは『尊卑分脈』等の系図類のほか、実際の史料でも確認ができる*6ので、兄である公綱が初め「高綱」を名乗っていたという系図類での記載に疑いは無いと思う。
建武元(1334)年8月「(八番制)雑訴決断所結番交名」の一番に「宇津宮兵部少輔 公綱」とあるのが確認でき*7、これが改名後の初見と思われるので、鎌倉幕府滅亡後まもなく改名したものと判断される。
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(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)
● 宇都宮公綱
● 宇都宮公綱
脚注
*1:『大日本史料』6-20 P.883~885 に拠る。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)。江田郁夫 編著『下野宇都宮氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉(戎光祥出版、2011年)P.9。宇都宮経綱 - Henkipedia。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*5:注3同箇所。
*6:『北條九代記』(『鎌倉年代記』裏書と同内容)嘉暦2(1327)年6月条に「宇都宮五郎高貞」とある(→『史料稿本』後醍醐天皇紀・嘉暦2年4~8月 P.25)。
宇都宮泰綱
宇都宮 泰綱(うつのみや やすつな、1203年~1261年)は、鎌倉時代前・中期の武将、御家人。宇都宮氏第6代当主。『尊卑分脈』*1等によれば、父は宇都宮頼綱、母は北条時政の娘。
この史料により、在京であった泰綱が亡くなった弘長元年の段階で享年59(数え年、以下同様)であったことが分かり、逆算すると建仁3(1203)年生まれとなる。
藤原定家の日記『明月記』嘉禄2(1226)年7月6日条では、3代執権・北条泰時(武蔵守)の意向により、「武蔵太郎(=北条時氏)嫡男(=経時)」が「修理亮泰綱聟(むこ)」になるとの約束が成されたと伝えており、『吾妻鏡』でも、寛喜元(1229)年9月17日条に「修理亮泰綱」とあるのが初見とされ、その後も「宇都宮修理亮」「修理亮泰綱」と6回現れて、嘉禎3(1237)年6月23日条に「宇都宮修理亮泰綱」とあるのが確認できる*2。
前述の生年に基づくと史料における初見の嘉禄2年当時24歳となるが、この時までに元服を済ませ、官職を得ていたことは確実である。「泰綱」の名は執権泰時(在職:1224~1242年)*3の偏諱「泰」が許されたものと見受けられるので、泰時が元服時の烏帽子親となって直接一字を与えたものと考えて良いだろう*4(父・頼綱についても年代や両者の関係性を考慮すると源頼朝からの一字拝領と考えられる*5)。
ところで、前述の生年に基づいて通常10~15歳で行う元服の年次を推定すると、およそ1212~1217年となる。泰綱にとって泰時とは母方の従兄弟関係にあり、畠山泰国(母方の従兄弟)や三浦泰村*6と同様、縁戚関係にあったため泰時が執権となる前でも烏帽子親子関係が結ばれたケースだったのであろう。
前述の通り、泰綱の娘は4代執権・北条経時に嫁ぎ、当初の嫡男であったと考えられる経綱もまた、その偏諱を受けたようである。経綱は男子に恵まれず、代わって景綱が家督を継承するが、その後の「貞綱―高綱(幕府滅亡後は公綱)」も先例に倣って「貞時―高時」と烏帽子親子関係を結んだのであった*7。
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(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№104-宇都宮泰綱 | 日本中世史を楽しむ♪
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.318「泰綱 宇都宮」の項 より。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)より。
*4:江田郁夫 編著『下野宇都宮氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉(戎光祥出版、2011年)P.9。
*5:宇都宮頼綱と牧氏の変: 夢幻と湧源 より。
*7:注4同箇所。
大内宗重
大内 宗重(おおうち むねしげ、1250年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。
系図類によれば、結城氏第3代当主・結城広綱の子。結城氏家督を継いだ兄弟・時広の配分を受けて下野国大内荘に入部し、その荘名を苗字として「大内弥三郎」を称したと伝わる。
結城時広の庶兄
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こちら▲の記事に、多くの種類が伝わる結城氏の系図をご紹介しているが、『尊卑分脈』(同記事【図A】)などでは、広綱の跡を継いだ時広の兄として書かれている。まずはこれについて検証してみたい。
同記事に【図H】として紹介したものであるが、永仁2(1294)年成立とされる「結城系図」では、時広の子(のちの貞広)が「犬次郎丸」と幼名で記されるのに対し、宗重の子は「彦三郎 時重」と元服後の実名で記されている。これについて市村高男氏は、宗重が時広の庶兄であり、時重が従弟の犬次郎丸より年長であったからであると説かれた*1。
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この見解については筆者も賛同である。時広は文永4(1267)年以後の生まれで、「時」の字が執権・北条時宗からの偏諱であることは先行研究で指摘されている通りであり、一方6代将軍・宗尊親王が同3(1266)年に解任されるまでに宗重はその偏諱を受けたはず(後述参照)だから、時広誕生の段階で宗重は既に元服を済ませていたことは確実である。
それどころか、永仁2(1294)年までに宗重の子・時重も元服を遂げたことになり、やはり弘安7(1284)年までに北条時宗の1字を受けたとみられるので、叔父―甥の間柄ではあるが恐らく時広とほぼ同世代人であろう。1270年頃の生まれと推定される。
宗尊親王の烏帽子子
この図は『続群書類従』所収の結城氏系図のうちの一種、上記記事では【図E】として紹介した系図の一部であるが、「宗尊親王、諱の字を賜う」との注記があり、宗重の「宗」字は鎌倉幕府第6代将軍・宗尊親王からの偏諱であるという*2。特に初名が伝わっていないことから、烏帽子親も宗尊親王であろう。以下この記載について、宗重の生年を推定しながら検証する。
宗重の父・広綱の没年および享年については諸説伝わるが、弘安元(1278)年*3に52歳(数え年)*4で亡くなったとするのが妥当なようで、逆算すると安貞元(1227)年生まれとなる*5。系図の中には承久3(1221)年生まれと記載するものもあり*6、とりあえず1220年代の生まれであることは確かなのではないか。
従って、親子の年齢差を考えて、宗重の生年は早くとも1240年代後半と推定される。或いは広綱が1227年の生まれであれば、1250年頃としても良いだろう。前節で宗重の息子・時重の生年を1270年頃と推定したのと辻褄が合う。
従って、元服は通常10~15歳程度で行われたから、宗尊親王の将軍在任期間(建長4(1252)年~文永3(1266)年)内に行われたことは確実で、上図「宗尊親王賜諱字」の信憑性も証明できよう。同系図にも記されている通り、父・広綱が宗尊親王に近侍していた*7ことが契機になったと思われる。
宗尊親王が烏帽子親として「宗」字を下賜した例としては、他に北条時宗が確認でき、弟の北条宗政や母方の従弟・赤橋義宗、更に他氏では時宗の家督継承前に元服を済ませている京極宗綱や二階堂行宗もその候補に挙がっている。
「宗尊親王賜諱字」はこの系図独自の貴重な情報であるが、わざわざ書く以上信憑性を否定する必要は無いと思われる。すると、烏帽子親の面だけで判断すれば、宗重は執権の北条氏得宗家を加冠役にした一般御家人よりも、将軍の烏帽子子たる得宗や赤橋流北条氏と同格であったと言うことができる。
しかし結城氏でも嫡子に指名されたのは、北条時宗の偏諱を受けた弟の時広であり、実際得宗専制期において、赤橋流北条氏(義宗―久時―守時)の他に、一般御家人で7代・源惟康(惟康親王)以降の親王将軍から一字拝領した者は確認できず、将軍との烏帽子親子関係は家督継承において効力を持たなかったと言えよう。
*一方で、『甲斐信濃源氏綱要』や『系図纂要』によれば、第8代執権の時宗が武田信宗の加冠を務めたといい、「宗」字が下げ渡されている。その他にも宗尊親王解任後に元服の適齢を迎えた安達宗景、河越宗重、千葉宗胤・胤宗兄弟、長井宗秀など、同様の例とみられる例は少なくない。これらの者は皆、各家の嫡子またはそれに準ずる庶子(=準嫡子)であり、得宗家との烏帽子親子関係が家督継承の資格を持つ者の特権であったという紺戸淳氏の説は強ち間違ってもいないと思われる。この観点から、家督を継いだ京極宗綱・二階堂行宗の両名についても家督継承前の時宗から一字を拝領した可能性を考えて良いのではないかと思う。
結城系大内氏について
「親鸞聖人正統伝」*8には、宗重が大内荘に入部する以前の嘉禄元(1225)年、親鸞に帰依した人物として「真岡城主大内国行」なる武士が確認できるという。荒川善夫氏は、兄時広〔ママ〕からの譲りばかりではなく、この大内氏との婚姻関係ないしは養子関係を媒介として、宗重の大内荘入部がなされた可能性を指摘している*9。
結城系大内氏と思しき者の活動は史料上で少なからず散見される。荒川氏の研究に従って掲げると次の通りである*10。
● 元弘元(1331)年の元弘の変(笠置山攻め)に際し、幕府軍の一員として「大内山城前司」 が従軍(『太平記』*11)。
大将軍 | 大仏陸奥守貞直 | 大仏遠江守 | 普恩寺相摸守基時 | 塩田越前守 | 桜田参河守 |
赤橋尾張守 | 江馬越前守 | 糸田左馬頭 | 印具兵庫助 | 佐介上総介 | |
名越右馬助 | 金沢右馬助 | 遠江左近大夫将監治時 | 足利治部大輔高氏 | ||
侍大将 | 長崎四郎左衛門尉 | ||||
侍 | 三浦介入道 | 武田甲斐次郎左衛門尉 | 椎名孫八入道 | 結城上野入道 | 小山出羽入道 |
氏家美作守 | 佐竹上総入道 | 長沼四郎左衛門入道 | 土屋安芸権守 | 那須加賀権守 | |
梶原上野太郎左衛門尉 | 岩城次郎入道 | 佐野安房弥太郎 | 木村次郎左衛門尉 | 相馬右衛門次郎 | |
南部三郎次郎 | 毛利丹後前司 | 那波左近太夫将監 | 一宮善民部太夫 | 土肥佐渡前司 | |
宇都宮安芸前司 | 宇都宮肥後権守 | 葛西三郎兵衛尉 | 寒河弥四郎 | 上野七郎三郎 | |
大内山城前司 | 長井治部少輔 | 長井備前太郎 | 長井因幡民部大輔入道 | 筑後前司 | |
下総入道 | 山城左衛門大夫 | 宇都宮美濃入道 | 岩崎弾正左衛門尉 | 高久孫三郎 | |
高久彦三郎 | 伊達入道 | 田村刑部大輔入道 | 入江蒲原一族 | 横山猪俣両党 |
(表は http://chibasi.net/rekidai43.htm より拝借)
● 小山下野守秀朝が下野守護であった建武元(1334)年、「大内山城入道」が守護使として東茂木保の相論に関与(『茂木文書』*12)。
● 延元2(1337)年6月25日、南朝方の白河結城宗広と行動を共にし、陸奥国白河荘にいたと思われる「大内三郎左衛門尉」が陸奥国司・北畠顕家から恩賞を約す旨を報ぜられる(『伊勢結城文書』「北畠顕家御教書写」)*13。
● 康永4(1345)年8月29日、将軍・足利尊氏の天龍寺供養参詣に際し、「結城大内三郎」が直垂を着て供奉(『結城家文書』*14)。
● 文和4(1355)年正月十九日、「結城大内刑部大輔 重朝」が「結城中務大輔 直光」らと共に京都に出陣しようとする足利尊氏軍の「御馬廻り」を務める(『源威集』*15)。
● 康暦2(1380)年5月16日、小山義政の乱の緒戦となった宇都宮裳原(もばら)の合戦にて、"義政一族" であった「大内入道父子」が小山方について討死(『花営三代記』*16・『迎陽記』*17)。
最初の2つに掲げた「大内山城前司」と「大内山城入道(殿)」は時期の近さと官途の一致からして、出家前と後の同一人物ではないかと思われる。一度山城守(国守)に任官し、元弘年間では既に辞していることが窺えるので、若くとも40代には達していたと思われ、宗重またはその子・時重の可能性があり得よう*18。
また、結城大内重朝の名が現れているように、宗重―時重と続いた家系は「重」を通字としてそのまま存続したことが窺える。また弥三郎宗重と同じ「三郎」を称する者も見られ、荒川氏は「大内三郎左衛門尉」を大内氏の庶子とされたが、この者は嫡流の当主であった可能性が高いのではないか。
また、それから僅か8年後の「結城大内三郎」はその名からして元服してさほど経っていない段階と思われ、三郎左衛門尉の嫡子として「三郎」の仮名を継承し、更に10年後に官途を持って史料に現れる重朝と同一人物の可能性もあり得よう。
脚注
*1:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 ―系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.74。
*2:荒川善夫「鎌倉期下総結城一族の所領考 ー結城郡・寒河郡・網戸郷を中心としてー」(所収:同編著『下総結城氏』<シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻>、戎光祥出版、2012年)P.72。
*3:注1前掲市村氏論文 P.73。典拠は『結城御代記』。
*4:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図B】参照。
*5:結城広綱 - Wikipedia 参照。
*6:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図E】参照。
*7:広綱の注記の文中に「近侍宗尊久明両親王」 とある。但し広綱は弘安元年には没したとされ、「久明」(8代将軍) は「惟康(親王)」(7代将軍) の誤記であろう。
*9:注2同箇所。
*10:注2荒川氏論文 P.74~75 注(2)。
*12:詳しくは、小山秀朝 - Henkipedia【史料D】を参照のこと。
*13:市村高男「鎌倉末期の下総山川氏と得宗権力 ―二つの長勝寺梵鐘が結ぶ関東と津軽の歴史―」(所収:『弘前大学國史研究』100号、弘前大学國史研究会、1996年)P.24。
*14:『白河市史 第五巻資料編2 古代・中世』P.273~278。『大日本史料』6-9 P.250・276・288。
*15:『大日本史料』6-19 P.443。尚、同書では翌年にも「結城中務大輔、太内刑部太輔〔ママ〕」の名が見られる(同前 P.633)。
*17:迎陽記︵康暦元年∼応永八年︶翻刻 P.46。
*18:南北朝列伝 ー 大内山城前司 より。
畠山国氏 (奥州管領)
畠山 国氏(はたけやま くにうじ、1325年頃?~1351年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。室町幕府奥州管領。畠山高国の嫡男。
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『尊卑分脈』を見ると、高国の項に「観応二二十二於奥刕(=奥州)為貞家被討四十七才」と書かれており、その子である国氏の項にも「父同時被討」の注記があって、観応2(1351)年2月12日、奥州に於いて吉良貞家により父と同時に討たれたことが分かる*1。このことは実際の書状類でも確認ができる*2。前述の通り、この時父・高国が享年47(数え年、以下同様)であったというから、親子の年齢差を考えれば国氏はおよそ27歳以下で亡くなったと推測できよう。逆算すると生年は1325年頃以後となる。
畠山国氏に関する史料は多数残されているが、その初見は、貞和元/興国6(1345)年のものとされる7月2日付書状において署名と花押を据えて発給した「中務大輔国氏」とされ*3、この時までに元服を済ませていることが分かる*4。1325年頃の生まれとすれば、この時21歳位となるが、元服を済ませ中務大輔に任官した後の年齢としては、足利氏一門であることも考慮すれば十分妥当だと思う。通常10代前半で行う元服の年次も1330年代後半~1340年頃と推定可能であり、「国氏」の実名に着目すると「国」が畠山泰国以来代々の通字であるから、「氏」の字は1338年に征夷大将軍となって室町幕府を開いた足利尊氏を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったものと考えて良いだろう。
*高国・国氏父子の自害から3年経った、文和3(1354)年のものとされる5月22日付の書状では、発給者である「平石丸」が自身を「幼少」と言いながら奥州管領としての立場を主張していることが確認でき、これは国氏の遺児であった、のちの畠山国詮(くにあきら)に同定される*5。この点からも国氏の享年が20代半ばであったとするのが妥当である。明徳2(1391)年6月27日付の右京大夫(=伊達政宗とされる)の書状の文中に「畠山修理大夫国詮」とあってこの時までの元服および修理大夫任官が確実なので*6、その実名は2代将軍・足利義詮在職期間(1358年~1367年逝去)に元服してその一字を拝領したものと考えて問題ないだろう。
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(参考ページ)
● 二本松畠山年表
脚注
*1:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.270。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション、『大日本史料』6-14 P.729 も参照。
*2:『大日本史料』6-14 P.724~736の各史料を参照のこと。
*4:翌貞和2(1346)年閏9月17日にも「右馬権頭国氏」が奥州管領として「右京大夫貞家(=吉良貞家)」と連名で発給した書状が残っている(→『大日本史料』6-9 P.920)。
牧政親
牧 政親(まき まさちか、1170年頃?~没年未詳)は、平安時代末期の駿河国大岡牧(現在の静岡県沼津市)の豪族。北条時政の継室となった牧宗親の娘・牧の方の一族(牧の方の弟か?)。通称は六郎。
政親については、次の史料で確認ができる*1。
奥州藤原氏との合戦の折、藤原泰衡に通じていたとして政親が源頼朝の不興を買って北条時政に預けられたと伝える。『吾妻鏡』に見える「牧三郎宗親」、建久3年に「六波羅探題」としてみえ、『閑谷集』作者の父ともされる「牧四郎国親」*3の近親者には間違いないだろう。「六郎」とのみ称することから、元服からさほど経っていなかったので無官であったと考えられ、「政親」の「政」も時政が加冠役(=烏帽子親)を務めて偏諱を与えたものと考えられよう*4。冒頭で記した通り、時政は牧氏から妻を迎えており、それが契機となったものと推測される。
(参考ページ)
● 宝賀寿男:杉橋隆夫氏の論考 「牧の方の出身と政治的位置」を読む
脚注
大岡時親
大岡 時親(おおおか ときちか、1160年頃?~没年未詳)は、平安時代末期の駿河国大岡牧(現在の静岡県沼津市)の豪族。牧宗親の子、北条時政の継室となった牧の方とは兄弟 とされ、牧時親(まき ー)とも呼ばれる。
まず、『明月記』や『吾妻鏡』での登場箇所は次の通りである*1。
●『吾妻鏡』建仁3(1203)年9月2日条:いわゆる「比企能員の乱」の終了後、時政の命により派遣された「大岡判官時親」が比企一族の死骸等を実検。
●『明月記』元久2(1205)年3月10日条:後鳥羽院の八幡御精進が行われ、院より「歌十五首」を進上することを命じられた者の中に「備前守藤時親」*2。「藤」の字から藤原姓であったことが分かる。
●『吾妻鏡』同年6月21日条:牧の方と時政が畠山重忠父子の誅殺を計画して子の義時、時房に諫められた際、牧の方の使者として「備前守時親」が義時邸を訪問。
●『吾妻鏡』同年8月5日条:「大岡備前守時親出家、是依遠州(=北条遠江守時政)被落飾事也、」*3。
そして、この大岡時親が牧宗親の息子であったことは次の史料によって分かる。
……時正〔ママ、時政〕ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウトゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ。其宗親、頼盛入道ガモトニ多年ツカイテ(仕えて)、駿河国ノ大岡ノ牧ト云所ヲシラセケリ(知/領(し)らせけり=治めた)。武者ニモアラズ、カゝル物ノ中ニカゝル果報ノ出クル(フ)シギノ事也。……
男子2名や娘を多くもうけたという、北条時政の若き妻は牧宗親の「ムスメ」であり、その「せうと」(=しょうと・兄人:女性から見て男の兄弟をさす)*5であった大岡時親が五位尉となったと書かれている。
この「ワカキ妻」=牧の方については、『吾妻鏡』により、寿永元(1182)年11月10日の段階で時政と結婚していたことが分かる*6。宇都宮泰綱の母となった娘が文治3(1187)年生まれ、息子・北条政範が同5(1189)年生まれであることなどを考慮すれば、1160年頃までに生まれていたと考えるのが妥当であろう。婚姻は寿永元年からさほど遡らない時期であったと思われ、先学に同じく1150年代後半~60年頃の生まれとすればその当時20代の「ワカキ妻」であったというのと辻褄が合う*7。
そして、その兄弟であったという時親もさほど年齢は離れていなかったと考えて良いのではないか。既にご指摘もあるように「時親」の「時」は北条時政の偏諱と考えられ、「牧武者所宗親」が偏諱を受けて改名したとする説もある*8が、1181年頃の時政と牧の方の婚姻をきっかけに、時政が元服する時親の加冠役(=烏帽子親)を務めた可能性も考えられるのではないか*9。牧の方がその頃20歳くらいであるという前述の想定が正しければ、時親がその弟であった場合ちょうど元服の適齢であったと推測できるからである。1181年当時、元服適齢の10代前半とすれば、1204年頃に備前守となった時30代半ば程度であったことになるが、国守任官年齢としては十分妥当だと思う。
細川重男氏の見解では、時政の長男・北条宗時(1180年戦死)の「宗」を牧宗親の偏諱と推測されており*10、文治5(1189)年11月2日に奥州藤原氏との戦いで源頼朝の不興を買って時政に預けられた「牧六郎政親」*11も時親の弟で、同じく時政の烏帽子子であったとみられる。
また時親自身も時政の義弟・烏帽子子であるだけでなく、その娘婿にもなっており、牧・北条両氏は婚姻や烏帽子親子の関係を重ねて連携を深めていったことが窺える。時親の備前守任官も、当時の執権(政所別当)であった時政の後押しがあって実現したものなのかもしれない。しかし前述の通り、その時政は畠山重忠の討伐や牧氏事件をきっかけに北条政子・義時らと対立して落飾(出家)し、伊豆へと追放され、時親も同時に出家して表舞台から遠ざかったのであった。
(参考ページ)
● 宝賀寿男:杉橋隆夫氏の論考 「牧の方の出身と政治的位置」を読む
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.194「時親 大岡」の項 より。
*2:明月記. 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション。上横手雅敬「書評 佐藤進一『日本の中世国家』〔中世史研究者の立場から〕」P.178。
*4:宝賀寿男:杉橋隆夫氏の論考 「牧の方の出身と政治的位置」を読む。上総平氏 千葉常秀 #牧氏について。野口実「伊豆北条氏の周辺 ー時政を評価するための覚書ー」(所収:『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』第20号、2007年)P.77。愚管抄 第六巻。
*5:せうとの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典 より。
*6:『吾妻鏡』同日条に「北条殿室家牧御方、密々令申之給故」に頼朝の愛妾・亀の前が匿われていた伏見広綱邸への襲撃事件が起こされたとある。
*7:上記参考ページ双方を参照のこと。
*8:前注に同じ。
*9:執権就任前の時政が烏帽子親を務めた例としては、『吾妻鏡』建久元(1190)年9月7日条に時政の御前で曾我時致が元服を遂げた記事が確認できる(→ 曾我時致 - Henkipedia 参照)。
*10:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。
*11:『吾妻鏡』同日条(→『大日本史料』4-2 P.833)参照。