長井高広
長井 高広(ながい たかひろ、旧字:長井髙廣、1305年頃?~没年不詳(1352年以後)) は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての人物、御家人。長井氏の庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の当主。 官途は左近大夫将監、縫殿頭。法名は高阿(こうあ)か。
はじめに
長井貞重の嫡男
▲【図A】『尊卑分脈』より長井氏六波羅評定衆家(泰重流)の系図(一部抜粋)
上に示した『尊卑分脈』の系図には、長井貞重の子として掲載される。
父・貞重については、文永9(1272)年生まれと判明しているので、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、高広は早くとも1292年頃の生まれと考えるべきであろう。
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兄弟・長井勝深について
元亨3年12月21日(1324年1月18日)、長井静瑜(長井泰茂の子)が亡くなり、正中3(1326=嘉暦元)年には同じく貞重の子である勝深(しょうしん)が東大寺領美濃茜部荘の地頭職を継いだという*1。その典拠である、元徳4(1332=元弘2)年4月日付「茜部荘地頭代俊行陳状案」の文中に「…自嘉暦元年、申付縫殿頭子息勝深律師之間、…」*2とあり、のちに応永5(1398)年6月22日付で仏子(=僧*3)・隆宥が出した「伝法潅頂職衆請定案」にも「……勝深僧都入壇 嘉暦四〔=1329〕年丶丶云々、……左衛門督僧都勝深 長井縫殿頭子 丶丶丶丶〔経乗法印 か〕猶子……」*4も書かれているので、『常楽記』との照合を以って「長井縫殿頭」=貞重で良いだろう*5。
従って、「左衛門督僧都 勝深」は高広の兄弟ということになるが、同じく『常楽記』によると、貞和4(1348)年3月4日に腫れ物が原因で45歳(数え年)で亡くなったという*6。逆算すると1304年生まれ。
史料における長井高広
本節では、高広の史料上における登場箇所を紹介する。
・8月25日条:「廿五日。万里小路大納言宣房卿、侍従中納言公明卿、宰相成資〔成輔カ〕卿、別当右衛門督実世卿、以上四人、被召捕之。於宣房被預因幡左近大夫将監。……」
同年の元弘の変(倒幕運動)に2人の息子(藤房・季房)が関与したとして召し捕られた、万里小路宣房*8を「因幡左近大夫将監」が預かっており、高広に比定されている*9。通称名は父親が「因幡守」で、「左近大夫将監」となっている者を表すものであるが、ここでの「因幡」は、父・貞重が国守に任官しなかったためか、曽祖父・泰重または祖父・頼重の最終官途にちなんで付けられたものであろう。
・8月27日条:「…被向長井左近大夫将□〔監〕・加賀前司於西坂下…」
元弘の変に伴う、六波羅の比叡山攻めで西坂下方面の攻撃を指揮したこの2名は各々、長井高広・三善町野信宗に比定されている*10。
●『神明鏡』元弘元年10月13日条*11:
新帝登極の由にて、長講堂より内裏へ入らせ給り。先帝の御方の人々をは皆召取奉り、大名共に預らる。一宮中務卿の親王をは、佐々木の判官時信、好法院二品親王をは、長井左近大夫将監高広預り申。万里小路中納言藤房、六條少将忠顕、二人をは主上近侍奉るべしとて、六波羅に置る。
●『太平記』巻3「主上御没落笠置事」:「…妙法院二品親王をば長井左近大夫将監高広…」*12
●『太平記』巻4「一宮並妙法院二品親王御事」:「三月八日……同日、妙法院二品親王をも、長井左近大夫将監高広を御警固にて讚岐国へ流し奉る。…」*13
元弘の変の後処理として、好法院二品親王(=後醍醐天皇の皇子・尊澄法親王=のちの宗良親王)を長井高広が預かり、翌年3月に配流先の讃岐国へ移送された際にも高広が護衛に付いたと伝える*14。
● 建武元(1334)年8月付「雑訴決断所結番交名」:「長井左近大夫将監 高廣」*15
鎌倉幕府滅亡後に発足した建武新政下で、雑訴決断所の寄人三番の一人。
同年9月26日付の書状2点において雑訴決断所のメンバーとして書かれている「左近将監大江朝臣」も、次の史料との照合からして高広に比定される*16。
● 建武2(1335)年9月29日付「雑訴決断所牒」(『大徳寺文書』)の発給者「左近将監大江朝臣」の花押*17
後に出された複数の書状にもこの花押と同じ形のものが据えられているが、大江姓の人物であることを裏付けるものである。関連史料によって高広に比定されることは後述参照。
● 延元元(1336=建武3)年4月「武者所結番交名」(『建武記』所収)の三番:同族の「長井大膳権大夫広秀」(長井広秀)に次いで「長井因幡左近大夫将監 高廣」*18。
*「因幡」の部分は、異本によって「周防」とするものもあるというが、「因幡」が正しいだろう(前述参照)。父・貞重の最終官途は縫殿頭であり、周防守に任官した経歴はない。
● 康永3(1344)年3月21日付引付番文(『結城文書』)の三番:「長井縫殿頭」*20
● 康永3年11月21日付「長井高広奉加状」(『勝尾寺文書』)の発給者「縫殿頭」の花押*21
同年に「縫殿頭」を称することから大江姓長井氏であることは確実で、花押の一致から、建武2年書状(前述参照)の「左近将監大江朝臣」が昇進したことが分かる。
● 貞和4(1348)年8月11日付「東寺具書案」(『東寺百合文書』):「長井縫殿頭 高廣」*22。
弟・勝深の病死から5ヶ月後の史料となる。「高広」の実名が明記されており、以上に掲げたものが長井高広で確定する。尚、高広の縫殿頭任官について、上図『尊卑分脈』では記載が見られないが、その成立時期も考慮すれば「左近将監」止まりでも不思議ではないと思う。
● 貞和5(1349)年6月9日付「室町幕府御教書」(『長門忌宮神社文書』)の宛所「長井縫殿頭」
この文書は、長門二宮の造営が長門国守護・厚東入道(武実 [法名:崇西] カ)に命じてきたが全く行われていないため、武蔵守高師直が「縫殿頭」に対し厳密の沙汰を命じたものである。
この「縫殿頭」について『大日本史料』などでは重継とする*23が、こちらも正しくは高広*24。このことは前述の史料に加え、後述史料での花押とも一致することから裏付けられる。
尚、『長門国守護職次第』には記載が見られない*25が、この史料から、足利直冬が長門探題に補任されたこの頃の長門守護には高広が就いていたと考えられている*26(観応の擾乱時まで*27)。
● 観応元(1350)年3月12日付「室町幕府引付頭人奉書案」(『広橋家文書』)の差出人*28
幕府の引付頭人であった高広、「門真左衛門入道寂意」に対し、雀岐庄公文職名目畠等の返付を命令。
● 観応元年4月12日付「引付頭人奉書」(『三浦和田文書』)の差出人「縫殿頭」の花押*29
★この間に出家か(長井縫殿頭入道高阿)。
● 文和元(1352)年3月4日付「室町幕府引付頭人奉書」(『八坂神社文書』)の発給者「沙弥」の花押*30
● 文和元年11月18日付「室町幕府引付頭人奉書」(『東寺百合文書』)2通*31の発給者「沙弥」の署名と花押
「沙弥」とは「剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者」の意であり*32、花押の一致により観応元年の「縫殿頭」がこの時までに出家していることが分かる。11月18日付奉書について宇都宮蓮智(貞泰)とする説もあったが、以上史料群との花押の一致などから、出家後の長井高広であると分かる。尚、法名については「東寺光明真言講過去帳第二」の「沙弥高阿」「(同裏書)長井縫殿頭入道」の記載から「高阿(こうあ)」ではないかと考えられている*33。
以後、史料上で活動は確認できず、没年も不明である。
生年と烏帽子親の推定
紺戸淳氏は、長井氏では代々北条氏得宗家と烏帽子親子関係を結んできた(六波羅評定衆家では、泰重―頼重―貞重)として、高広についても、最後の得宗で第14代執権となった北条高時の偏諱を受けたと推定されている*34。
この裏付けとして、前節での官職の変化に着目してみたい。そして、各官職にはそれに相応の年齢で任官するものであり、次のように推定可能である。
● ~元弘元(1331)年:左近大夫将監(従六位上→従五位下)*35→ 20代半ば程度
● 延元元(1336)年~康永3(1344)年:縫殿頭(従五位下相当・長官級)→ 33~36歳?
逆算すると、高広の生年は勝深のそれ(=1304年、前述参照)とさほど変わらない時期となる。紺戸氏の論考に従うと、元服は通常10~15歳ほどで行われたので、北条高時が得宗の地位にあった期間 (1311~1333年、うち14代執権在職は1316~1326年) 内の元服であることが確実となる。よって高時を烏帽子親として元服し、「高」の偏諱を受けたと推測される。尚、もう片方の字には歴代当主の通字「重」ではなく、更に遡った祖先・長井時広(大江広元の子)に由来するものであろうか、「広」を用いているが、この頃においては珍しくもない現象である。
脚注
*1:長井静瑜(ながい せいゆ)とは - コトバンク。小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.717。
*2:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.161 (五九〇号)。『鎌倉遺文』第41巻31745号。
*3:仏子(ブッシ)とは - コトバンク より。
*4:『大日本古文書』家わけ第十九 醍醐寺文書之十三 P.234(三〇五二号)。『徳禅寺文書』の系図では経乗法印の子として記載されており(→『大日本史料』6-13 P.81)、その猶子であったとみられる。
*5:注1前掲小泉氏論文 P.729 および『常楽記』元徳3年2月12日条(→ 長井貞重 - Henkipedia【史料A】)を参照のこと。
*7:注1前掲小泉氏論文 P.726。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*8:万里小路宣房 - Wikipedia 参照。
*9:下沢敦「『太平記』の記述に見る京都篝屋」(所収:『共栄学園短期大学研究紀要』第18号、2002年)P.189~190、および P.180 注(69)。
*10:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.417 註(10)。
*12:「太平記」主上御没落笠置事(その8) : Santa Lab's Blog。
*13:「太平記」一宮並妙法院二品親王の御事(その2) : Santa Lab's Blog。
*14:注9前掲下沢氏論文 P.183 注(7)。
*17:東京大学史料編纂所 編『花押かがみ 第6冊 南北朝時代2』(吉川弘文館、2004年)P.170 No.3611「長井高広」の項。
*19:縫殿の頭(ぬいどののかみ)とは - コトバンク より。
*20:田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」(所収:『立命館文學』624号、立命館大学、2012年)P.713(四二五)。注1前掲小泉氏論文 P.733。
*21:注17同箇所。
*23:『大日本史料』6-12 P.675。小林定市「知られぎる長和庄地頭(寄稿)」(所収:『山城志』第10集、備陽史探報の会、1991年)P.34。『南北朝遺文 中国四国編』1713号。
*24:岩元修一「南北朝期防長守護覚書(三)」(所収:『宇部工業高等専門学校研究報告』第60号、2014年)注(20)。貞和五年の防長守護1: 資料の声を聴く。
*25:田村哲夫「長門守護代の研究」(所収:『山口県文書館研究紀要 1』、1972年 / → 長門守護代の研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。
*26:貞和五年の防長守護1: 資料の声を聴く および 貞和五年の防長守護2: 資料の声を聴く。
*27:長井氏 - Wikipedia #長門長井氏 より。
*28:『兵庫県史 史料編 中世8』「広橋家文書」14。駒見敬祐「南北朝期鎌倉府体制下の犬懸上杉氏 ー上杉朝房の動向を中心にー」(所収:『文学研究論集』第39号、明治大学大学院、2013年)P.100。田中誠「室町幕府奉行人在職考証稿(2)―貞和元年(1345)~文和元年(1352)― 付奉行人氏族研究(安富氏)」(所収:『立命館文学』653、2017年)P.21(P.110) 表No.633。
*29:注17同箇所。佐藤進一「室町幕府開創期の官制体系」(所収:『中世の法と国家』、東京大学出版会、1960年)。
*30:注17同箇所。
*31:レ函/52/1/:室町幕府引付頭人奉書|文書詳細|東寺百合文書。レ函/52/2/:室町幕府引付頭人奉書|文書詳細|東寺百合文書(または 『大日本古文書』家わけ第十 東寺文書之十三 P.131(二号))。
*32:沙弥(しゃみ)とは - コトバンク 参照。
*33:『東京大学史料編纂所報』第38号(2003年)刊行物紹介 ー 大日本古文書家わけ第十 東寺文書之十三 より。
*34:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図、P.16~17。
*35:左近の大夫将監は、左近衛将監(従六位上相当)で五位に叙せられた者。左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク/左近大夫(サコンノタイフ)とは - コトバンク より。
長井貞重
長井 貞重(ながい さだしげ、1272年~1331年) は、鎌倉時代後期の人物、在京御家人。長井氏の庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の当主。官途は掃部助、縫殿頭。
北条貞時の烏帽子子
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辞書によっては生年不詳とするものもある*1が、次の史料によって明らかにすることが出来る。
▲【系図B】『尊卑分脈』より長井氏六波羅評定衆家(泰重流)の系図(一部抜粋)
貞重の名と縫殿頭(ぬひどののかみ)の官途が【史料A】・【系図B】双方で一致することから、長井貞重のことで間違いない*3。【史料A】には、元徳3(1331)年2月12日に60歳(数え年、以下同様)で亡くなったとあり、逆算すると文永9(1272)年生まれとなる。
紺戸淳氏は、このことを紹介の上で、元服は通常10~15歳程度で行われたとして、生年に基づく貞重の元服の年次を1281~1286年と推定し、弘安7(1284)年4月から9代執権となった北条貞時の偏諱を受けたと説かれている*4。同氏が述べるように「祖父泰重―父頼重」も泰時、時頼から一字を拝領した形跡が見られ、その慣例に倣ったのであろう。
貞重に関する史料の紹介
★『実躬卿記』永仁3(1295)年5月26日条:東大寺八幡宮神輿の動座のため延期されていた新日吉小五月会(同月9日条)をこの日に開催。同会における流鏑馬勤仕者の三番に「長井掃部助大江貞量〔ママ〕」*6。前掲【系図B】や次に示す他史料との照合から、「貞重」の誤記であろう。すなわち、長井貞重(当時24歳)の初見史料となり*7、掃部助(従六位上相当)*8に任官済みであったことが窺える。
*この当時も鎌倉幕府の執権は北条貞時であり、貞時執権期間内に「貞」の偏諱が許されたこと確実である。
●『六波羅守護次第』「前□〔上〕野介平宗宣 陸奥守宣時一男」(=大仏宗宣)の項:「…永仁五・七・廿七、入洛、着于長井掃部助貞重宿所六条車大路、……同六・正・廿八、自貞重宿所、移□□〔徙新カ〕殿。……」*9
●『鎌倉大日記』永仁5年条・上野介宗宣(宣時男)項:「七月十日宗宣立鎌倉、同廿七日入洛、住南、先落着掃部助貞重屋形」*10
北条(大仏)宗宣が六波羅探題南方に任ぜられ、永仁5(1297)年7月27日に京都入り(『鎌倉大日記』によると同月10日に鎌倉を出立)したことは上記2つも含め複数の史料で伝わる*11が、この宗宣が翌年の正月28日に「新殿(=南殿 六条大和大路。時房旧跡。)」に「移徙(わたまし)*12」するまで長井貞重の宿所を評定の場としていたという*13。
★『実躬卿記』嘉元2(1304)年5月29日条:延期によりこの日に行われた新日吉小五月会における流鏑馬勤仕者の七番に「長井掃部助大江貞重」*14。
●『実躬卿記』嘉元4(1306)年10月17日条:「又去十三日所差進両使貞重宗康、参会彼飛脚之条、勿論」*16。
● 徳治2(1307)年4月28日付「長井貞重施行状」(『摂津勝尾寺文書』)*17:「縫殿頭貞重」の署名と花押
*同じく『勝尾寺文書』に所収の、同年の史料とされる、「摂津菩提寺別当職支証文書目録」にある「徳治二年四月廿八日縫殿頭貞重判□□十通」*18、および 4月27日付「近衛家御教書」の宛名「縫殿頭殿」*19は、いずれも長井貞重に比定される。
★『武家年代記』裏書・正和4(1315)年6月27日条:「正和四六廿七、八幡神人成仏法師被解却神職、即被預長井縫殿頭、依新日吉社并山内馬上役事也、……(以下略)」*20
(読み下し:八幡神人成仏法師神職を解却せらる。即ち長井縫殿頭に預けらる。新日吉社並びに山門馬上役の事に依ってなり。……)*21
★『公敏卿記』文保2(1318)年2月21日条:「廿一日 天晴伝聞六波羅使縫殿頭貞重向北山云々、……(以下略)」*22
六波羅の使者として西園寺家に赴き、公武折衝の任に当たったと伝える。
★ 元応2(1320)年8月日付「金剛峯寺衆徒等解状」(『紀伊金剛峯寺文書』)*23の文中に「備後国守護縫殿頭貞重」。
●(元応2年?)9月24日付「東寺長者法務道順書状」(『高野山文書 宝簡集』六〈大塔御下知二〉所収)*24:
●(元応2年?)10月13日付「備後国 尾道浦 守護 縫殿頭貞重書状」(『高野山文書』)*25:上の史料と「貞重」の実名と花押が一致することから長井貞重に同定される。
●(元応2年?)10月22日付「東寺長者法務御教書」(『高野山文書 宝簡集』七 所収):文中に「高野山大塔領備後国太田庄間事、縫殿頭貞重状……」とあり、日付の上に「元應二(=元応二)」の追筆がある*26。
●(元応2年?、日付不詳)「円覚申詞記」(『高野山文書 又続 宝簡集142』)*27:
●(元亨3(1323)年)『北條貞時十三年忌供養記』:元亨3年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において、「長井縫殿頭」が銭100貫文を進上*28。この行為からも貞時との関係が窺える。
★(元徳元(1329)年?)11月21日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』):「……治部少輔高秀京着之後、何様事等候哉。貞重以下一門、定もてなし候らんと覚候……」*29
同年とされる10月28日付の崇顕書状にも「…治部少輔由緒も候時に、いか程もふるまひ候らんと存候、長井一門いかにもてなし候らん、可承存候、…」とあり*30、関東(鎌倉)から東使として上洛してきた高秀を、六波羅評定衆として在京の長井貞重の一族がもてなしたことがわかる。小泉宜右・細川重男両氏は、この高秀を貞重と同族の、長井関東評定衆家の人(長井高秀)と推定されており*31、筆者は長井貞秀の子・広秀の初名ではないかと推測する*32。
● 元徳2(1330)年9月3日付「長井貞重御教書写」(『毛利文書』)*33の花押 … 上記の花押との一致から、この書状の発給者は長井貞重に比定される。
★『常楽記』元徳3(1331)年2月12日条(貞重逝去)→ 前掲【史料A】
*次の史料は、死後間もない頃に書かれたと思われる「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*34である。
□□□□□匠御札、昨日□□、到来、
□□□□□事 先日承候之間、
□□□□□候き、貞重凶害事、
□□□□□を出羽入道*1に申請預候之間、
あらわれ候、よし承候ぬ、誠言語道断事候歟、
信意*2内々令申候之趣、委細承候了、可存其旨候、
執□□□〔達如件の類カ*35〕
*1: 二階堂出羽入道道蘊(貞藤)。
*2: 前年のものとされる8月21日付「東寺長者御教書案」(『東寺百合文書』)にある「権大僧都信意」か。
『鎌倉遺文』では「貞重凶害事」を元徳3年2月12日に貞重が亡くなったことと解釈しており、死因はどうやら他殺のようである*36。生前の高野山とのトラブルがエスカレートした可能性もある。
● 元徳4(1332=元弘2)年4月日付「茜部荘地頭代俊行陳状案」(『東大寺文書』):「…自嘉暦元年、申付縫殿頭子息勝深律師之間、…」*37
この部分は、かつて正中3(1326=嘉暦元)年3月、長井入道道雄(宗秀)から継ぐ形で「縫殿頭」の子息・勝深(しょうしん)律師が茜部庄地頭職を継いだ(元徳元年まで同職を知行)*38ことを記したものである。のちに応永5(1398)年6月22日付で僧・隆宥が出した「伝法潅頂職衆請定案」にも「……勝深僧都入壇 嘉暦四〔=1329〕年丶丶云々、……左衛門督僧都勝深 長井縫殿頭子 丶丶丶丶猶子……」*39と書かれているので、勝深は「(長井)縫殿頭」=貞重の子(高広の兄弟)と分かる*40。
(参考ページ)
脚注
*2:『常樂記』(龍門文庫蔵古写本)。『常楽記』(群書類従本・翻刻版)ー 慶応義塾大学Google図書館プロジェクト)。『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘元年正~三月 P.23。
*3:小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.727 註(12)。紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.16~17。
*5:注3前掲小泉氏論文 P.725~726。
*6:『大日本古記録 実躬卿記』。『実躬卿記』10(国立公文書館 デジタルアーカイブ)P.57。
*7:長井貞量(貞重)の流鏑馬勤仕は、かつての新日吉小五月会に在京人として参加していた祖父・泰重(→ 長井泰重 - Henkipedia)を彷彿させるものである。
*8:掃部寮 - Wikipedia より。
*9:熊谷隆之「<研究ノート>六波羅探題任免小考 : 『六波羅守護次第』の紹介とあわせて」(所収:京都大学文学部内・史学研究会編『史林』第86巻第6号)P.103(867)。
*10:竹内理三編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.212。佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について (上)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第41号、2014年)P.18 注(21)。
*11:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.72「大仏宗宣」を参照のこと。
*12:「場所を変える(移す)こと、転居すること」の意。移徙/渡座(ワタマシ)とは - コトバンク/移徙・渡座(わたまし)とは - コトバンク 参照。
*13:注9前掲熊谷氏論文 P.112~113 より。新たに建てた「南殿」については P.115までを参照のこと。
*14:『実躬卿記』15(国立公文書館デジタルアーカイブ)P.18。
*15:縫殿の頭(ぬいどののかみ)とは - コトバンク より。
*16:『実躬卿記』17(国立公文書館デジタルアーカイブ)P.15。注11前掲細川氏著書 P.416 註(8) では貞重・町野宗康がともに六波羅評定衆であったと説かれている。
*17:『鎌倉遺文』第30巻22953号。『箕面市史 史料編1』276号。
*18:『鎌倉遺文』第30巻22954号。
*19:『鎌倉遺文』第30巻22951号。
*20:『増補 続史料大成』注10同書 P.156。
*23:『鎌倉遺文』第36巻27558号。
*24:『大日本古文書』家わけ第一 高野山文書之一 P.59(六〇号)。
*25:『大日本古文書』家わけ第一 高野山文書之一 P.68(七一号)。
*26:『大日本古文書』家わけ第一 高野山文書之一 P.94(九八号)。『鎌倉遺文』第36巻27603号。
*27:『鎌倉遺文』第36巻27604号。『大日本古文書』家わけ第一 高野山文書之八 P.633(一九六九号)。
*28:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.707。
*29:『鎌倉遺文』第39巻30779号。『金沢文庫古文書』第1輯443号。
*30:『鎌倉遺文』第39巻30765号。『金沢文庫古文書』第1輯404号。
*31:注3前掲小泉氏論文 P.720。注11前掲細川氏著書・同職員表No.138「長井高秀」の項(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№138-長井高秀 | 日本中世史を楽しむ♪)。
*32:長井高秀 - Henkipedia および 北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔表C〕注(15) 参照。
*33:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之四 P.403(一五〇七号)。尚、この箇所では文書の奉者を「貞宗」とするが、恐らくは「貞重」の誤読と思われる。
*34:『鎌倉遺文』第40巻31350号。
*35:「執達如レ件」については、執達件の如し(しったつくだんのごとし)とは - コトバンク 参照。破損等による欠字があるが、書状の末尾と思われるので、ここは書き止め文言の類であろう。
*36:「凶害」は「人を殺す事」の意(→ 凶害/兇害(キョウガイ)とは - コトバンク/凶害・兇害(きょうがい)とは - コトバンク)であり、この場合は貞重が「凶害」された事と解釈している。
*37:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.161 (五九〇号)。『鎌倉遺文』第41巻31745号。
*38:注3前掲小泉氏論文 P.717・728・729。
*39:『大日本古文書』家わけ第十九 醍醐寺文書之十三 P.234(三〇五二号)。
*40:注3前掲小泉氏論文 P.729。
長井頼重
長井 頼重(ながい よりしげ、1243年頃?~没年不詳(1295年頃?)) は、鎌倉時代中・後期の人物、御家人。長井氏庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の第2代当主。
長井泰重の嫡男。子に長井貞重。通称および官途は左衛門尉(左衛門大夫)、因幡守。法名は実円(じつえん)か。
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こちら▲の記事で、父・泰重の生年が1220年頃であることを紹介した。よって親子の年齢差を考慮すると早くとも1240年頃の生まれとなる。
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また、こちら▲の記事で紹介の通り、嫡男・貞重については1272年生まれであることが判明している。こちらも親子の年齢差を考慮すれば、頼重は遅くとも1252年頃に生まれているはずである。
以上より頼重の生年は1240年~1252年の間と推定される。これを踏まえた上で、史料上での登場箇所を見ていこう。
●【史料1】建治3(1277)年のものとされる『摂津勝尾寺文書』所収の書状2通
・11月29日付「長井頼重施行状」に「頼重(花押)」の署名*2
●『建治三年記』(同年)*3より
【史料2-a】12月19日条*4:
【史料2-b】12月25日条*5:
廿五日、晴。評定老。
一、山門事。
(略)
一、遠江十郎左衛門尉、杉本六郎左衛門尉郎従を殺害する事、武州の御領たる津軽に流さるべきの由評しをはんぬ。
一、諸亭事。
先度因幡守可奉行之由、雖被仰、改其儀、下野前司(=藤原親定)可奉行。
●【史料3】弘安4(1281)年2月日付「東大寺学侶等申状土代」(『東京大学文学部所蔵文書』)*6に「長井因幡守」。
この頃に、父・泰重が没したためか、その嫡男である頼重の活動が見られるようになる。生前泰重は、正嘉元(1257)年には「長井因幡前司泰重」と呼ばれ、因幡守を辞したことが確認できる*7ので、弘安4年書状における「長井因幡守」が泰重でないことは明らかで、翌弘安5(1282)年、南都(興福寺)の強訴により越後国に配流されたことを伝える次の史料群と照らし合わせれば、父と同じ官職に就いた頼重に比定される。
●【史料4】『勘仲記』弘安5年12月6日条:「…伝聞、因幡守頼重、弾正忠職直(もとなお?)*8可被流罪之由、関東下知武家云々、…」*9
●【史料5】『一代要記』弘安5年12月14日条:「十二月十四日依南都訴訟嗷嗷因幡守頼重配流越後国」*10
●【史料6】『弘安五年御進発日記』:「……頼重・職直罪科事、任申請処流刑云々、…同礼紙状云、配流国、頼重越後、・職直土左〔佐〕、如此候也、…」*11
●【史料7】『祐春記』弘安5年8月12日条に引用の「亀山上皇院宣」*12:
院宣案文
興福寺訴訟間事、大隅・薪両庄之界〔堺〕連々確論、度々珍事、職而由斯、仍云大隅庄云薪園、以関東一円之地、〔共脱カ〕可被立替、可為永代静座神木、可遂行寺社仏神事之由、可有御下知之旨、謐之基歟、頼重・職直罪科事、任申請処流刑云々、此上不日奉帰院宣所候也、以此趣可被申関白殿之状、如件、
十二月七日 権大納言経任奉
権右中弁殿
追申、配流国、頼重、越後、職直、土左〔同前〕、如此候也、
●【史料8】徳治3(1308)年5月日付「興福寺奏状」弘安度*13:
弘安四年十月四日御入洛、初着御稲荷宮、後遷御法城寺、是大隅・薪園両庄堺相論事也、武士奉防御示、神木令触穢給、衆徒・神人被疵失命、或児童被面縛、或僧綱及恥辱、粗検其凶悪、相同今度儀、仍致狼籍之輩、佐藤四郎兵衛尉同五年正月晦日、・恩〔岡〕田四郎左衛門尉同二月七日、・阿〔河〕原口入道同八日、・三浦介十郎*14同十四日、・宗像四郎兵衛尉、同日、以上五人不知実名、蒙神罰立トコロニ死已〔亡〕畢、然間関東御使上洛、委被執申 公家、於相論之堺者、任申請預裁許、於濫吹之輩者、殊有沙汰、被処遠流、頼重越後、・職直、土佐〔同前〕、仍同五年十二月廿一日御帰坐、
従って、「左衛門大夫」であった頼重の因幡守任官は1277~80年頃であったと考えられるので、その頃、国守任官に相応の30代には達していたと推測できる。
ここで、あわせて「真言宗全書」に所収の次の史料2点も確認しておきたい*15。
②『野沢血脈集』:「第二十六 覚雅 号蓮蔵院法印、俗姓大納言雅忠ノ猶子。因幡前司大江頼重子……寛元元年誕……正応五年八月二十一日入滅五十歳」
『尊卑分脈』には頼重の子(貞重の弟)に運雅(うんが)が載せられており、①の「因幡守」は頼重に比定される。一方②では、運雅を弟子とした覚雅(かくが)も頼重の子とするが、『尊卑分脈』や年代的な観点から「頼重」は「泰重」の誤りとされる。しかしそのように混同されること自体が、頼重が父と同じ因幡守となったことの証左とも捉えられよう。
従って覚雅は、頼重にとっては兄弟ということになるが、②には寛元元(1243)年に生まれたとの記載があり、正応5(1292)年に50歳(数え年)で亡くなったという記述との整合性も問題ない。頼重も覚雅と同じ頃に生まれたと仮定すれば、前述の因幡守任官時期には30代となる。
また「頼重」の名乗りは、北条時頼を烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと推測されている*16が、覚雅と同時期の生まれとすれば、元服は通常10~15歳程度で行われたので、時頼執権期 (在職:1246~1256年)*17の元服となり、この観点からも生年が裏付けられよう。
弘安8(1285)年12月のものとされる「但馬国太田文」(『中野栄夫氏校訂本』)において朝倉庄の地頭として「長井因幡入道実円」の掲載があり*18、翌9(1286)年閏12月28日付「六波羅施行状」(『高野山文書宝簡集』七)*19にも同名の記載が見られるが、出家した頼重であろう*20。時期からすると、弘安7(1284)年4月の得宗・北条時宗(時頼の子、8代執権)逝去に伴って出家したのかもしれない。
(参考記事)
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▲少し後の弘安11(1288)年に因幡守在任が確認できる。
以後の活動は没年も含め不明であるが、永仁3(1295)年には嫡男・貞重の活動が初めて確認でき、徳治2(1307)年には縫殿頭に昇進した貞重が書状を発給している(▼下記記事参照)ことから、この頃に頼重の死に伴う貞重の家督継承があったものと思われる。
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(参考ページ)
脚注
*1:『鎌倉遺文』第17巻12921号。
*2:『鎌倉遺文』第17巻12926号。
*4:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.351~352。
*6:『鎌倉遺文』第19巻14260号。『大日本古文書』家わけ第十八「東大寺文書別集一」六七号。
*7:『経俊卿記』正嘉元年5月11日条。
*8:この「弾正忠職直」については姓氏不詳だが、正応5(1292)年7月18日付「荒河保地頭代等連署和与状」(『鎌倉遺文』第23巻17971号)に越後国荒川保の保司として見える北条時村の被官と同人であろう。熊谷隆之「鎌倉幕府支配の北陸道における展開」(所収:『富山史壇』第168号、越中史壇会、2012年)P.4 参照。
*9:勘仲記. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*10:一代要記 10巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ より。
*11:藤原重雄「史料紹介 春日大社所蔵『弘安五年御進発日記』(下)」P.101(1ページ目)。
*12: 『鎌倉遺文』第19巻14751号。前注藤原氏論文 P.108。
*13:前注藤原氏論文 P.109。千鳥家蔵『春日神主祐賢〔ママ〕記』(東京大学史料編纂所所蔵影写本)にもほぼ同文が収録。
*14:「三浦介」の「十郎(10男)」を表す通称名であり、父親である「三浦介」は三浦頼盛またはその子・時明に比定される。但し正応3(1290)年には「三浦介入道」を称する頼盛(→ 三浦頼盛 - Henkipedia 参照)がこの頃既に出家していた可能性もあり、その場合後者の可能性が高くなる。
*15:この部分については、服部英雄『景観にさぐる中世 変貌する村の姿と荘園史研究』(新人物往来社、1995年)P.418 参照。
*16:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図、P.16~17。
*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)より。
*18:『鎌倉遺文』第21巻15774号。
*19:『鎌倉遺文』第21巻16131号。『大日本古文書』家わけ第一 高野山文書之一 P.87 九三号。
長井泰重
長井 泰重(ながい やすしげ、1220年頃?~没年不詳(1270年代半ば頃?)) は、鎌倉時代前・中期の人物、御家人。長井氏の庶流、六波羅評定衆家の初代当主。
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こちら▲の記事で、兄・泰秀の生年が1212年であることを紹介した。よって弟である泰重はこれより後に生まれているはずである。
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また、こちら▲の記事で紹介の通り、孫の貞重については1272年生まれであることが判明している。祖父―孫の年齢差を考慮すれば、泰重の生年はおよそ1232年以前とすべきである。
以上の内容を踏まえながら、以下史料での登場箇所を見てみよう。
●『民経記』(広橋経光の日記)天福元(1233)年5月9日条:新日吉小五月会および後堀河天皇臨幸における流鏑馬の勤仕者の、一番「駿河守重時(=北条重時)」に次ぐ二番「長井次郎泰重」*1。
*通称名が「次郎」と称するのみであることから、この当時はまだ無官であったことが分かるが、元服からさほど経っていなかったからであると考えられよう。従ってこの頃は10代後半~20歳前後の年齢であったと推定される。
●『平戸記』(平経高の日記)寛元2(1244)年9月9日条に「長井左衛門大夫泰重」*2。
⇒ 以上2点より1220年頃の生まれと推定される。これを踏まえて他の史料も確認してみよう。
●『葉黄記』(葉室定嗣の日記)宝治元(1247)年5月9日条:新日吉小五月会における流鏑馬勤仕者の七番に「長井左衛門大夫泰重」*4。
●『吾妻鏡』建長4(1252)年4月1日条:新将軍(6代将軍)就任のため鎌倉に下向する宗尊親王に随行するメンバーを記した「(次)自京供奉人々」の中に「長井左衛門大夫泰重」*5。
● 建長5(1253)年4月日付「新日吉小五月流鏑馬定文案」(『厳島野坂文書』)の文中に「長井左衛門大夫殿」*6。
*この4年の間に因幡守任官を果たし、辞したことが分かる。前述の推定生年に基づけば30代半ばの年齢だったことになるが、国守任官の年齢としては相応である。
●『経俊卿記』(吉田経俊の日記)正嘉元(1257)年5月11日条:「去九日依洪水(洪水に依り)延引」されてこの日に行われた新日吉小五月会において、流鏑馬勤仕者の七番に「長井因幡前司泰重」*7。
● 文永元(1264)年4月26日付「関東御教書」(『新編追加』所収)の「因幡前司殿」を泰重に比定*8。この当時の泰重は備前・備後両国の守護であったという*9。
紺戸淳氏は、元服は通常10~15歳程度で行われたとして、御家人を例に取り上げて、北条氏得宗家と連続的に烏帽子親子関係を結んでいたとする論考を出されているが、生年が不明な長井泰重についても北条泰時の偏諱授与者と推定されている*10。
改めて、前述の推定生年に基づくと、元服の年次は1230年前後と推定可能で、1233年に「長井次郎」の通称名で初出するのと辻褄が合う。この当時の執権・北条泰時 (在職:1224~1242年)*11が元服時の烏帽子親を務めたと考えられ、紺戸氏の見解が立証できよう(一方の「重」字は、祖先と仰ぐ大江重光に由来するのではないかと思われる)。
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建治3(1277)年には嫡子である「長井左衛門大夫頼重」の活動が見られ始め*12、弘安4(1281)年の書状(『東京大学文学部所蔵文書』)にある「長井因幡守」も父と同じ官職に就いた頼重に比定される*13。この頃には頼重が家督を継承していたと考えられるが、父である泰重の死によるものではないかと思われる。よって泰重の正確な没年を明らかにすることは困難だが、1270年代半ば頃ではないかと推測される。
(参考ページ)
● 齋藤拓海「新日吉小五月会の構造と変遷」(所収:『史人』第4号、広島大学大学院教育学研究科下向井研究室、2012年)
脚注
*1:『大日本史料』5-8 P.891。森幸夫『北条重時』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2009年)P.45~48。
*3:左衛門大夫(サエモンノタイフ)とは - コトバンク より。
*4:『大日本史料』5-22 P.10・P.20。『鎌倉遺文』第45巻51366号。注1前掲森氏著書 同箇所。
*6:『鎌倉遺文』第10巻7550号。
*7:古記録フルテキストデータベース(東京大学史料編纂所HP内)より。
*8:『鎌倉遺文』第12巻9080号。
*9:西ヶ谷恭弘『国別 守護・戦国大名事典』(東京堂出版、1998年)P.209・215。
*10:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図、P.16~17。
*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)より。
*12:同年のものとされる『摂津勝尾寺文書』所収の書状2通、11月25日付「近衛家御教書」(『鎌倉遺文』第17巻12921号)に「長井左衛門大夫殿」、11月29日付「長井頼重施行状」(『鎌倉遺文』第17巻12926号)に「頼重(花押)」の署名が見られる。
*13:弘安4年2月日付「東大寺学侶等申状土代」(『鎌倉遺文』第19巻14260号 または 『大日本古文書』家わけ第十八「東大寺文書別集一」六七号)。
長井貞秀
長井 貞秀(ながい さだひで、1280年頃?(1280年代前半)~1308年3月12日)は、鎌倉時代後期の御家人、幕府官僚。大江貞秀(おおえ ー)とも。父は長井宗秀、母は北条(金沢)実時の娘。主な通称および官途は、新蔵人、左衛門少尉、中務少輔(中書)、兵庫頭(武庫)。
▲「貞秀」の署名と花押
史料における貞秀
初見:六位蔵人時代 ― 烏帽子親の推定
史料上において長井貞秀は、永仁2(1294)年、公家の日記に初めて登場する。以下関連のものを紹介する*1。
●【史料1-a】『勘仲記』永仁2年3月5日条*2:
関東甲斐宮内権大輔宗秀子息蔵人左衛門少尉貞秀、今夕初参遂従事、……件貞秀任廷尉、……
●【史料1-b】『実躬卿記』永仁2年3月5日条*3:
東使子息六位初参事
抑東使甲斐宮内大輔宗秀子息貞秀昇殿、今夜初参云々、……
●【史料2-a】『勘仲記』永仁2年3月6日条*4:
今日蔵人貞秀行殿上台盤、……貞秀取両貫首次酌、……
●【史料2-b】『実躬卿記』永仁2年3月6日条*5:
●【史料3】『勘仲記』永仁2年3月10日条*6:
●【史料4】『実躬卿記』永仁2年3月18日条*7:
蔵人貞秀畏事
今夜新蔵人大江貞秀 東使宗秀子息、廷尉之後申畏、仍為見物密々遣出見之、其儀、先直垂・切烏帽男帯剣、廿人前行、次〔看 脱字か?〕督長二人、烏帽、如木、取松明、次貞秀乗馬、…
*翌19日条にも「宗秀子、蔵人左衛門尉検非違使大江貞秀」とあり*8。
●【史料5】『実躬卿記』永仁2年3月22日条*9:
●【史料6】『実躬卿記』永仁2年4月8日条*10:
潅仏条々事
六位蔵人判官説藤・新蔵人判官貞秀 東使子息、参候、今夜申大尉拝賀、……
大江姓であること、弘安5(1282)年10月29日に宮内権大輔に任ぜられた長井宗秀*11が永仁2年2月に東使として上洛していたことが確認できる*12こと、『尊卑分脈』の大江氏系図に一致すること*13 などから、上記史料での宗秀・貞秀父子が長井氏であることは確実である。
【史料1】での「甲斐宮内権大輔宗秀」という通称名は、父が甲斐守で、宗秀が宮内権大輔であったことを表すものであるが、弘安5年の宮内権大輔任官時まで「備前太郎」と称していた*14通り、宗秀の父・時秀は備前守であり、この点では奇妙に感じられる。しかし、『勘仲記』『実躬卿記』がともに公家(各々作者は、広橋 [勘解由小路] 兼仲 / 正親町三条実躬)の日記であることも考慮すれば、最終官途が甲斐守であった長井泰秀と混同された可能性は十分あり得よう。或いは、特に誤りではなく泰秀の子孫ということでそう呼称されていたのかもしれず、かえって大江長井氏の人物であることが裏付けられよう。
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従って上記史料当時、1265年生まれと判明している長井宗秀は30歳で、元服を済ませ「貞秀」と名乗る息子がいたことになる。その名は、これまでの歴代当主に倣って、当時の執権・北条貞時 (在職:1284~1301年) の偏諱を受けたものであることが窺え*15、父・宗秀との年齢差も考慮すると、この頃元服の適齢である10~15歳程度であったと判断される。そして、この頃の貞秀は父に同行して上洛し、六位・蔵人・左衛門少尉(左衛門尉)・検非違使となっていたことが分かる。
尚、同族で六波羅評定衆となっていた大江茂重(長井茂重,時秀の従兄弟で、上山宗元・長井宗衡兄弟の父にあたる)の私家集『茂重集』180・181号の詞書には、
「新蔵人貞秀、あづま(東)へた(発)ち侍(はべ)りてまたの日、あめ(雨)のふ(降)り侍りければ、大江宗秀のもとへ申し送りける」
とあり、父・宗秀が東使として在京の最中に、貞秀は一足先に鎌倉へ下向したようである*16。
五位叙爵後・中務少輔時代 ー 生年の推定
乾元元(1302)年12月7日の北条実政(鎮西探題、貞顕の叔父にあたる)逝去を伝える金沢貞顕の書状(『金沢文庫文書』)に「就中(なかんづく)、々〔=中〕書一級御免御教書一昨日十四日到来」の一文がある*17。「中書」とは、貞顕の従兄弟(貞秀母が金沢実時の娘=貞顕の叔母)にして親交のあった長井貞秀で、当時中務少輔(従五位上相当・次官*18)に在職中だったのでその唐名で呼ばれていた*19。位階一級の昇進をしたと伝えており、この時従五位上に昇叙したと考えられる*20。
『実躬卿記』嘉元2(1304)年3月20日条に「関東中務少輔貞秀・越中前司時藤法師等上洛」とあり、東使として上洛した長井貞秀がこの当時も中務少輔であったことが窺える*21。
前田治幸氏は、曽祖父・泰秀、父・宗秀がともに18歳で叙爵していることから、
● 永仁2(1294)年、六位・蔵人・左衛門少尉・検非違使(14)
● 永仁6(1298)年、叙爵(=従五位下)(18)
● 乾元元(1302)年、従五位上に昇叙(23〔ママ、22の誤りか?〕)
と推定されている*22。次節で述べるが、26歳頃には長官級の兵庫頭に昇進しており、各々の昇進・任官年齢は概ね相応であると言えよう。逆算すると1280年頃の生まれとなる。
"兵庫頭" 貞秀の死没について
嘉元4(1306=徳治元)年4月25日、第8代将軍・久明親王の代官として鶴岡八幡宮、伊豆・筥根二所権現に参詣するが、この時には兵庫頭(従五位上相当・長官*23)への任官が確認できる。典拠は次の史料2点*24。
●【史料7-a】『北条九代記』(または『鎌倉年代記』裏書)徳治元年条:
「今年四月廿五日将軍二所御参詣、御代官長井兵庫頭貞秀」
●【史料7-b】『武家年代記』裏書・嘉元4(=徳治元)年条:
「嘉元四年四廿五将軍二所御参詣御代官長井兵庫頭貞秀」
兵庫頭任官後には兵庫寮の唐名「武庫署」*25にちなんで、金沢貞顕などから「(長井)武庫」とも呼ばれていたが、次の貞顕書状が出された時、「武庫」=貞秀が既に亡くなっていたことが確認される。
去月廿三日禅札今月四日到来、条々承り候ひ了(おわ)んぬ、武庫の事、内外に就(つ)き、殊に憑み奉り候き、また、関東譜代の重臣、其(そ)の性 家を稟(う)く、尤(もっと)も、君がため、家がため、器用相(あい)叶い候か、就中(なかんづく)、南殿・谷殿の御悲歎察し申し候の際、いよいよ愁吟に添い候、無常の然らしむるの理、中眼涙を催し候、存生の間は、一向心安く罷り過ごし候のところ、……(以下略)
貞顕の叔母(実時の娘)とされる南殿*27や谷殿永忍(やつどのえいにん)*28が歎き悲しんだというから、「武庫事」の内容は "貞秀の死去" と考えられ、この書状はそれを伝える第一報が発せられた後のものとされる*29。
別の書状でも貞顕は、洒掃禅門=父である長井宗秀(掃部頭入道道雄)のご悲嘆は比類なき事と察すると述べており、貞秀の急死が周囲の人々に大きな衝撃を与えたことが伝わってくる。
永井氏の研究によると、『諷誦願文集』に菩薩戒尼が延慶2(1309)年と翌3(1310)年の3月12日に供養を行ったことが書かれており、3年の諷誦文に「過去亡息武庫幽儀」などとあることから、菩薩戒尼=貞秀の母(金沢実時の娘)と考えられ、各々一周忌、三回忌として貞秀の命日に行われたものと説かれている*31。すなわち、徳治3(1308=延慶元)年3月12日に貞秀が亡くなったことになるが、次の【史料10】・【史料11】によって裏付けられる。
【史料10】『徳治三年春日神木上洛日記』4月4日条より*32
……大方近日風聞説云、関東ニモ奇異事等在之間、今度可令上洛東使兵庫頭頓死、又頼綱入道無双者平井去比死去、又南殿からすこの入道子息頓死云々、……
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佐々木備中入道頼綱が晩年に尾張国へ流罪となった、徳治3年の春日神木入洛事件に関する史料であるが、近年関東にも奇異の事があったという中に、「東使」として上洛する予定であった「兵庫頭」が「頓死」したことが挙げられており、前年にあたる【史料7】2点と照らし合わせても、兵庫頭=貞秀 に比定される*33。春日明神の神威によって起きた怪異であったといい、あわせて六波羅探題南方であった貞顕(当時)の被官・烏子入道の子息も頓死したと伝える*34が、同年4月4日の段階で貞秀が既に亡くなっていたことになる。
あわせて次の史料も見ておきたい。
永井氏によると、この書状は、称名寺長老・禅恵が上総国夷隅(いすみ)郡(現・千葉県いすみ市長志)の千光寺に遷ったことを伝えたものであるという。釼阿が二世長老に就任したのは延慶元年11月であり、この頃はまだ貞顕が禅恵を説得するよう釼阿に促しているので、それ以前のものと推定される*36が、それにもかかわらず「武庫」のことに関連して「歎き入り候」「歎き存じ候」などと書かれているので、武庫=貞秀が同月の段階で既に亡くなっていたことが分かる。
以上【史料10】【史料11】により、前述の貞秀の没年月日が裏付けられる。
ところで【史料8】における冒頭下線部について、永井氏は「釼阿が書状を書いたのが2月23日、鎌倉への到着が3月4日」と解釈されている*37が、『鎌倉遺文』の推定通り延慶元(1308)年のものであれば、貞秀が亡くなる直前に書かれたことになってしまい矛盾する。但し貞秀死去についての第一報が発せられた後であれば、その知らせを聞いた釼阿が11日後の3月23日までに書き上げ、その書状が4月4日に届いたとするのが正しいのではないかと思う。
故長井武庫之十三年、当今年候哉、三月にて候しと覚候、何日にて候しやらん、委細可承候、若御覚悟候ハすハ、田中□〔殿カ〕なと(など)ニ内々被尋申候て可承候、中書仏事ハ何所にてせられ候哉らん、又前々進入候心経百巻、令進
この書状で貞顕は、当時称名寺長老であった釼阿に、今年が貞秀の13回忌にあたるかどうか、またその場合3月だったと思うが何日であるかの確認をとっており、記憶が不確かであれば「田中殿」などに確認して欲しいと述べている*39。この書状により、貞秀の命日が3月12日であることが裏付けられよう。前述の没年に従えば、【史料12】は元応2(1320)年初頭に書かれたものということになる*40。
【史料8】と同年のものとされる別の「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)には「武庫御早世、□□□□□併成幻夢□……」とあり*41、若い年齢での死去であったことが窺える。
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こちらの記事▲で「早世」の年齢については10代後半~20代前半であるケースが多いことを紹介した。永井・前田両氏は享年を30歳程度と推定するが、30歳であれば国守任官を果たしても良い気がするし、また父・宗秀との年齢差がやや気になるところで、少々ずらして27, 8歳位としても良いのかもしれない。
参考文献・ページ
参考図書
① 永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)
② 永井晋「長井貞秀の研究」(所収: 永井晋『金沢北条氏の研究』〈八木書店、2006年〉/初出:『金沢文庫研究(第315号)』〈金沢文庫、2005年〉)
*下記脚注内では、各々「永井①」「永井②」と略記する。
外部リンク
● 長井貞秀書状
脚注
*1:永井② P.196。
*2:史料大成. 第28 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.120 より。
*3:『大日本古記録 実躬卿記』 より。
*4:史料大成. 第28 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.120。
*5:『大日本古記録 実躬卿記』 より。
*6:史料大成. 第28 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.122。『史料総覧』5編905冊 P.407。
*7:『大日本古記録 実躬卿記』 より。
*8:『大日本古記録 実躬卿記』 より。
*9:『大日本古記録 実躬卿記』 より。
*10:『大日本古記録 実躬卿記』 より。
*11:『関東評定衆伝』弘安5(1282)年条(→ 群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション)より。
*12:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.135「長井宗秀」の項 より。
*13:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』(吉川弘文館)P.101(→ 長井宗秀 - Henkipedia に掲載)または 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 12 - 国立国会図書館デジタルコレクション を参照。
*14:注11同箇所。
*15:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図、P.16~17。
*16:永井② P.197。
*17:『金沢文庫古文書』7号。『鎌倉遺文』第28巻21322号。
*18:中務の少輔(なかつかさのしょう)とは - コトバンク より。
*19:中書令(チュウショレイ)とは - コトバンク。永井① P.64 には他の例として、「中書常に会合し、心緒を述べ候なり」(『金沢文庫古文書』63号/同書P.35にも掲載)、「毎事、中書の計にしたかひて(=従ひて)御沙汰候へく(=べく)候」(同前96号)を挙げている。
*20:永井② P.197・200。
*21:永井② P.200。
*22:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」 別表1 註釈(15)。田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)P.227~228。
*23:兵庫の頭(ひょうごのかみ)とは - コトバンク より。
*24:『史料総覧』5編905冊 P.546。注15前掲紺戸氏論文 P.16。永井② P.201。
*25:兵庫頭とは - Weblio辞書 より。
*26:『鎌倉遺文』第31巻23550号(原文:漢文)。読み下し文は、永井① P.65 による。
*27:永井① P.21では、実時の夫人または娘と推定。
*28:『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その3) - 学問空間 より。典拠は、小川剛生『兼好法師』(中公新書、2017年)P.35。貞顕の養母でもあったという。
*29:永井① P.65。
*30:『鎌倉遺文』第31巻23553号。洒掃禅門之御悲嘆・・・ | Japanese Medieval History and Literature | 4706 も参照のこと。
*31:永井② P.203。
*32:藤原重雄「春日大社所蔵『徳治三年神木入洛日記(中臣延親記)』」(所収:東京大学史料編纂所 編『東京大学史料編纂所研究紀要』第25号、2015年)P.66。
*33:前注同箇所。永井② P.201・202。
*34:永井① P.50・172。
*35:『鎌倉遺文』第31巻23552号。
*36:永井② P.204。釼阿の長老就任時期については、百瀬今朝雄「明忍房釼阿の称名寺長老就任年代」(所収:『三浦古文化』13号、1973年)による。
*37:永井① P.65。
*38:『鎌倉遺文』第31巻23554号。
*39:永井② P.202~203。
*40:前注同箇所。
*41:『鎌倉遺文』第31巻23551号。
長井時秀
長井 時秀(ながい ときひで、1242年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代中期の御家人、幕府官僚。大江時秀(おおえ ー)とも呼ばれる。通称および官途は太郎、宮内権大輔、備前守。子に女子(北条政長室、時敦母)*1、長井宗秀、長井貞広、女子(宇都宮貞綱室、公綱母)*2、女子(斯波宗氏室、高経母)*3。
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生没年未詳だが、父・泰秀が1212年生まれ、嫡男・宗秀が1265年生まれであるから、おおよそ1232年~1245年の間には生まれているはずである。 『尊卑分脈』には佐々木信綱(1181-1242*4)の娘が母であったとの記載があり(長井宗秀 - Henkipediaの記事参照)、こちらも生年を推定する根拠になるだろう。
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また『吾妻鏡』での初見は、宝治元(1247)年11月15日条、この日に開催された鶴岡八幡宮放生会の参列者の中で後陣の随兵の一人として挙げられている「長井太郎」であり*5、「太郎」の仮名は元服の際に称するのが普通であることから、この時までに元服を済ませた可能性が高い。
前田治幸氏は、父・泰秀、子・宗秀がともに18歳で叙爵していることから、五位相当の宮内権大輔に任官した正元元(1259)年*6当時、18歳であったと推定された*7。これに従って逆算すると1242年生まれ。前述の内容と照らし合わせると、『吾妻鏡』初見までに6歳程度で元服を済ませたのかという疑問は残るが、ほぼ問題なく整合性はとれ、生年が1230年代後半~1242年の間であることは確実と言って良いだろう。文永8(1271)年に備前守となった*8時、30代前半ということになるが、こちらも国守任官の年齢として相応である。
以上の考察に基づくと、元服当時の執権は5代・北条時頼 (在職:1246~1256年) である*9。「時秀」の名は、「秀」が父・泰秀からの継字であるから、「時」が時頼が烏帽子親となって偏諱を与えたものと考えて良いだろう*10。泰秀―時秀と続いた得宗家との烏帽子親子関係は、嫡男・宗秀以降も続くことになる。
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(参考ページ)
脚注
*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その50-北条時敦 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪より。
*3:『尊卑分脈』斯波氏系図 より。
*4:佐々木信綱(ささきのぶつな)とは - コトバンク より。
*5:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.16。尚『吾妻鏡』における実名の初見は、正嘉元(1257)年10月1日条「長井太郎時秀」である。
*6:『関東評定衆伝』正元元年条。『史料総覧』5編905冊 P.39。
*7:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」 別表1 註釈(8)。田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)P.226。
*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)より。
*10:注5前掲紺戸氏論文 P.15系図、P.16~17。尚、「時」は元々北条氏の通字であるが、時頼がこの字を下賜した例としては、武田時綱(『甲斐信濃源氏綱要』)、平賀惟時(『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」)などが確認できる。
長井泰秀
長井 泰秀(ながい やすひで、1212年~1254年)は、鎌倉時代中期の御家人、幕府官僚。大江泰秀(おおえ ー)とも呼ばれる。
この史料により、建長5(1253)年12月21日(西暦では1254年1月11日)に泰秀が42歳(数え年、以下同様)で亡くなったことが分かる。他にも『関東評定衆伝』などで同様の記載が確認でき*1、逆算すると建暦2(1212)年生まれとなる。
この生年に基づくと、元服は通常10~15歳で行われることが多かったので、泰秀はおよそ1221~1225年の間に元服したと推定され*2、貞応3(1224)年に執権職を継いだ北条泰時*3を烏帽子親としてその偏諱「泰」を賜ったと考えられている*4。
(参考ページ)