Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安達頼景

安達 頼景(あだち よりかげ、1229年~1292年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人安達義景の長男。関戸頼景(せきど ー)とも。

 

 

安達泰盛の庶兄

頼景の活動経歴については、『吾妻鏡』のほか、主に『関東評定衆伝』弘長3(1263)年条にあるプロフィールで確認ができる。それによると、正応5(1292)年1月9日に64歳(数え年)で亡くなったといい、逆算すると寛喜元(1229)年生まれと分かる。 

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こちら▲の記事で紹介した通り、当初「城九郎」を称し、安達義景から秋田城介を継承した安達泰盛については同3(1231)年生まれと判明しており、頼景はその庶兄であったことになる。 

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尊卑分脈』によると、頼景の母は武藤頼佐の娘、泰盛の母は小笠原時長の娘で、異母兄弟であった。各々義景の側室、正室であったことから、泰盛が嫡子に定められたのであろう。 

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尊卑分脈』等の系図類では安達義景の長男とするが、泰盛の次に義景の4男として生まれた時盛が「四郎」を名乗り、以下弟たち(五郎重景、弥九郎長景、十郎時景など)も出生順の輩行名を称した可能性が高いので、その記載通りで良いと思う。 

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頼景の通称は「次郎」であったが、頼景元服の段階では僅か2歳下の泰盛が嫡子に決まっていたので、父が当初称していた「太郎」は避けられたのであろう*1。これに伴って義景の次男・景村は「三郎」と称し、3男でありながら嫡子となった泰盛は盛長―景盛の通称であった「九郎」を名乗ることとなったのである。

 

烏帽子親の推定

本節では「景」の名乗りについて考えたい。「景」は父・義景から引き継いだものであるから、わざわざ上(1文字目)にしている「」が烏帽子親からの一字拝領であろう。

 

上記各記事にてそれぞれ景が北条時、盛が北条時から1字を受けたことについて言及した。更に北条・安達両氏は縁戚関係などで連携を強化していたことから、準嫡子格の安達盛が北条頼、末弟の景も北条宗から1字を賜った様子がみられる。

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▲【系図】安達氏略系図*2

 

それもあってか、鈴木宏景が北条時から1字を受けたとする見解を出されている。しかし、『吾妻鏡』では時頼が執権となる前から「頼景」の名で登場しており*3、かつ泰盛より先に生まれながら泰時の孫(4代執権経時の弟)である時頼の1字を受けるというのは不可解である。

よって、烏帽子親は時頼ではない別の人物であったと考えられる。母方の武藤氏から受けた可能性も考えられないことはないが、『尊卑分脈』等によれば頼景以降「長義―義」と名乗っている*4ことを踏まえると、将軍から賜った可能性が高いのではないか*5景の「」は元服当時の4代将軍・九条からの偏諱ではないかと思う。

 

 

(参考ページ)

 安達頼景 - Wikipedia

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その81-関戸頼景 | 日本中世史を楽しむ♪

wallerstein.hatenadiary.org

 

脚注

*1:義景元服の段階では「九郎」を称すことが特に慣例となっていなかったのか、(景盛の)長男ということで「太郎」と名付けられたのであろう。但しその後も泰盛の庶長子・盛宗が「次郎」を称したのに対し、その弟で嫡子となった九郎宗景の子・貞泰は「(陸奥)太郎」を称しており、この通称名(輩行名)は「九郎」と並んで嫡子格の者しか称することのできない特別なものであったと思われる。

*2:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。

*3:吾妻鏡』での初見は仁治2(1241)年1月23日条城次郎」、実名付きで最初に記されるのは寛元2(1244)年8月15日条城次郎頼景」(翌16日条にも「流鏑馬 五番 城介(=義景) 射手 子息次郎」)である。御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.421~422「頼景 安達」の項 より。

*4:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*5:「長」は安達盛長、「義」は安達義景に由来すると思われるので、「宗」「貞」が烏帽子親からの偏諱と判断される。関戸義貞の「貞」は北条貞時からの偏諱とみられるが、その前に「宗」字を持った人物が2代続いており(長宗―宗義)、特に関戸長宗については6代将軍・宗尊親王から賜った可能性が考えられると思う。

赤橋義宗

北条 義宗(ほうじょう よしむね、1253年~1277年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。赤橋流北条氏第2代当主で赤橋義宗(あかはし ー)とも。

第6代執権・北条長時の嫡男(長男)。六波羅探題北方や第2代連署などを歴任した北条重時の嫡孫にあたる。

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▲赤橋流北条氏略系図https://www.yoritomo-japan.com/kamakura137/jyokomyoji-moritoki.html より拝借)

 

『関東評定衆伝』*1六波羅守護次第』*2鎌倉年代記』『武家年代記』『尊卑分脈』等によれば、建治3(1277)年8月17日に25歳(数え年、以下同様)の若さで亡くなったといい、逆算すると建長5(1253)年生まれとなる*3

 

吾妻鏡』建長8(1256=康元元)年9月19日条に「今日。武州嫡男四歳労赤斑瘡云々。」とあり、年齢からしてのちの義宗とみなして良いだろう*4。これが史料上での初見となる。この当時は将軍・宗尊親王得宗(前執権)北条時頼らも発症するなど、「赤斑瘡(あかもがさ)」と呼ばれる、いわゆる麻疹の病気*5が流行っており、当時の執権であった「武州」=武蔵守長時*6の幼き嫡男・義宗もこの病にかかったと伝えている。

 

その後『吾妻鏡』では、文永2(1265)年11月20日条に「陸奥孫四郎」、同3(1266)年正月3日条に「陸奥孫四郎義宗」と2回登場しており(弘長3年正月1日条の「陸奥左近大夫将監義宗」は(塩田流北条)義政の誤記)*7、当時の年齢が10代半ば位であることに加え、16歳となった文永5(1268)年末には左近将監となって叙爵している*8ことから、この頃までには元服を済ませていたと分かる。

実名「」の「」は、文永3年まで第6代将軍の座にあった*9を烏帽子親としてその偏諱を受けたものとされ*10、時期的にも妥当な推測だと思う。赤橋流北条氏の歴代当主では例外的に「時」の通字を用いていないが、義宗がまだ5歳であった康元2(1257)年2月には既に、同じく宗尊の加冠により元服した時頼の嫡子が「(=北条時宗」と名乗っていた*11ので、同名を避けるために曽祖父・北条義時の「」字を用いたからであろう。

元々、赤橋流北条氏は本家筋の得宗家に次ぐ家格を有していたといい、名乗りの面でも以降の「時―時」が各々、親王将軍(8代・親王、9代・親王と烏帽子親子関係を結んだ様子が窺える*12

 

(参考ページ)

 北条義宗 - Wikipedia

 赤橋義宗(あかはし よしむね)とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その28-赤橋義宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)

 赤橋流北条氏 ー  北条義宗

 

脚注

*1:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:熊谷隆之「<研究ノート>六波羅探題任免小考 : 『六波羅守護次第』の紹介とあわせて」(所収:京都大学文学部内・史学研究会編『史林』第86巻第6号)P.101(865)~102(866)。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その28-赤橋義宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:吾妻鏡入門第四十六巻九月赤橋流北条氏 ー  北条義宗 より。

*5:赤疱瘡(アカモガサ)とは - コトバンク 参照。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その27-赤橋長時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.63「義宗」の項。『六波羅守護次第』(→注2同箇所)の駿河守平義宗の注記に「長時一男 (あざな)陸奥孫四郎」とあることから、赤橋義宗に比定される。

*8:注3同箇所。典拠は『関東評定衆伝』建治3年条、『六波羅守護次第』(→注2同箇所)など。

*9:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*10:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』、思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27)。

*11:北条時宗 - Henkipedia 参照。

*12:注10前掲山野氏論文 同箇所。

六角時信

佐々木 時信(ささき ときのぶ、1306年~1346年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。のちの六角氏となる家系に生まれ、六角時信(ろっかく ー)とも呼ばれる。父は佐々木頼綱(六角頼綱)

 

尊卑分脈*1での注記は次の通りである。

 使 三郎 叙留 従五上 左衛門尉

 時信

 法名玄派 貞和二八廿六死 四十一才

 

時信事 家記曰徳治元生 正和三十二十四元服九才 元徳元十一廿四使宣 同二三一従五下使如元 同八日春日行幸 同廿九日従五上橋渡賞春日行幸同橋行事淀浮橋爪被扣鳳輿 申刻 龍頭鷁首於河水伶人参向奏一曲于時大理権中納言右衛門督藤房卿等下馬行事廷尉時信 朱紼帯弓箭 剱進出植松前平伏折敷皮突膝大理直弓有礼節尋其例嘉禎四同行幸之時山階左大臣実雄公于時大理供奉下馬対橋行事官人大江能行有此礼云々被准彼例尤以為眉目也 

正和3(1314)年12月14日に元服。時信の「」は曽祖父の佐々木綱に由来するものであろうから、「」が烏帽子親からの偏諱と推測されるが、北条氏から通字を賜ったものであろう。これについては当時の得宗・北条高からの一字拝領とみる向きもある*2が、14代執権就任前の高時から、しかも「高」でない方の字を与えられるという点でやや疑問も残る。或いは当時の12代執権・北条煕時の一字拝領を想定しても良いのかもしれない。 

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ところで、父・頼綱とはかなり年齢差があり、頼綱64歳の時の子となる。それゆえに、実は頼綱の子・盛綱(孫三郎:『尊卑分脈』)の子で、祖父の養子という形で家督を継承したとする説もある*3

盛綱について、「徳源院本 佐々木系図*4では「成綱」とするが、その注記には永仁5(1297)年に誕生し、時信が生まれた翌年の徳治2(1307)年正月15日に12歳で元服(計算が合わないので徳治3年の誤りか?)したと書かれており、仮にこれが正しいとして、元服前で幼少の成綱の息子とするのは不可能である。同系図によると成綱は建武2(1335)年8月25日に討ち死に(享年30とするが計算が合わず誤りか?)するまで存命であったといい、この成綱(盛綱)を超越して時信が嫡男に指名されたことになる。

一方、『諸家系図纂』によると、成綱(孫三郎 左衛門尉)は兄・定信(宗信の誤記か)に同じく正応5(1292)年11月24日に富士川にて戦没した*5といい、時信が生まれる14年前には亡くなっていたことになる。

いずれにせよ、裏付けの史料も無いため、系図類によって孫三郎盛綱の息子と断定するのは不可能である。のちの史料で、建武元(1334)年8月付「雑訴決断所結番交名」*6および『東寺塔供養記』同年9月23日条*7に「佐々木備中大夫判官時信」とあり、通称名は父親が備中守であり、検非違使庁の尉(六位相当)でありながら五位に任ぜられた者*8を表すものであるが、これによっても、備中守であった頼綱の子である可能性が高いと判断される。 

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父・綱が5代執権・北条時の邸宅で元服したことは『吾妻鏡』で確認でき*9、弘安2(1279)年4月15日に元服したという兄・信も当時の8代執権・北条時を烏帽子親とした形跡がある。 

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時信は通称「三郎」を称したが、信綱の3男であった泰綱(時信の祖父)から頼綱、宗信と代々「三郎」の仮名を継承しており、正応5(1292)年に早世した宗信に代わって頼綱の後継者に定められていたことが窺えよう。

 

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尚、こちら▲の記事で紹介の通り、暦応元(1338)年11月15日に時信の嫡男・氏頼足利尊氏の加冠によって元服したという記録では「佐々木六角近江守 従五位時信」と記されており*10、当時33歳で近江守在任であった可能性が高い。近江守は曽祖父・信綱にゆかりのある官職で、祖父・泰綱の国守任官年齢が28歳、父・頼綱のそれも20代後半~30代前半であったを踏まえると、時信も同じ年齢を迎える、前述の建武元年から間もない頃に近江守任官が認められたのではないかと推測される

 

(参考ページ)

 六角時信 - Wikipedia

 佐々木時信(ささき ときのぶ)とは - コトバンク

佐々木時信 ー 南北朝列伝

 備中判官時信: 佐々木哲学校(佐々木哲のブログ記事)

 

脚注

六角氏頼

六角 氏頼(ろっかく うじより、1326年~1370年)は、南北朝時代の武将・守護大名。父は六角時信(佐々木時信)佐々木氏頼(ささき ー)とも。

 

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氏頼の名乗り・元服については次の史料が確認できる。 

【史料】『瑞石歴代雑記』より一部抜粋*1

(暦應元年)

十一月十五日、江州観音寺城主、佐々木六角近江守 従五位時信嫡男、母長井宮内少輔時守〔ママ、長井宮内大輔時千〕女也、歳十三、元服加冠尊氏公、乃賜諱字號氏頼、且賜太刀鎧等、依有永補綸旨、即日任左衛門佐、叙従五位下

下線部にある通り、暦応元(1338)年11月15日に時信の嫡男(13歳、近江国観音寺城主)元服を行ったが、足利尊が加冠役(=烏帽子親)を務めたのでその偏諱を受けて「」と命名されたという*2(「頼」は亡き祖父・頼綱の1字を取ったものであろう)。この頃の足利尊氏は同年に征夷大将軍室町幕府初代将軍)となったばかりで、その立場から加冠を務めたと判断され、佐々木哲氏頼が尊氏の猶子になったのではないかと説かれている*3。 上記史料ではこの時太刀・鎧なども与えられ、間もなく叙爵して左衛門佐に任じられたとも伝える。

 

(参考ページ)

 六角氏頼 - Wikipedia

 六角氏頼(ろっかく うじより)とは - コトバンク

 佐々木氏頼(ささき うじより)とは - コトバンク

佐々木氏頼 ー 南北朝列伝

 

脚注

*1:『大日本史料』6-32 P.122

*2:大夫判官氏頼(入道崇永): 佐々木哲学校(佐々木哲のブログ)。

*3:前注同箇所。

安達泰盛

安達 泰盛(あだち やすもり、1231年~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人

 

 

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▲【系図】安達氏略系図*1

 

泰盛の生年と烏帽子親について

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『関東評定衆伝』弘安4(1281)年条によると、同年2月「城九郎藤原宗景」が23歳(数え年、以下同様)となったので、父の例に倣い引付衆に加えられたという*2。この記載により、父である「城九郎藤原泰盛」が建長5(1253)年に引付衆となった時*323歳だったことが分かるので、逆算すると寛喜3(1231)年生まれとなる。

 

これに基づき、紺戸淳の論考*4に従うと、元服の年次はおおよそ1240~1245年と推定可能であるが、吾妻鏡』での初出が寛元2(1244)年6月である*5からこの時までに済ませたはずである

」の名は、「盛」が「兼盛―盛長―景盛(泰盛祖父)」と続いた字であるから、貫達人のご推測通り、一方の「」字が仁治3(1242)年まで3代執権の座にあった北条*6からの偏諱であろう*7。奇しくも父・義景と同様に、泰盛も北条泰時晩年期に元服を遂げたことになる。

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泰盛の一字付与について

泰盛の在世中には、その偏諱を受けたとみられる人物が少なからず確認される。泰盛が烏帽子親を務めたとする確証となる史料は無く、あくまで推測となってしまうが、本節ではその候補者を紹介したいと思う。

玉村泰清

まずは山野龍太郎*8が紹介されている通り、上野国玉村御厨を本領とする玉村氏(清―清)は、同国を基盤としていた有力御家人の安達氏(盛―宗)と同じ1字を共有することから、烏帽子親子関係にあったとされる。玉村氏が安達氏から上1字を賜る形となっている。玉村泰清は泰盛と主従関係を築きながら被官化し、「たまむらの三郎盛清(玉村盛清)」は肥後国守護代として下向した安達盛宗に従って、弘安の役にも参戦した(『蒙古襲来絵詞*9

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少弐盛氏(=景資?)・少弐盛経

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『歴代鎮西志』には、太宰豊前(少弐舎弟、始名三郎左衛門景資)元寇での功績を嵩にきて嫡流の座を簒奪しようと挙兵するが、岩門にて滅んだとの説明がある。『豊津町史』は、少弐経資の弟・が晩年に安達泰の1字を受けて(少弐)に改名したとしており*10、実際泰盛の子で鎮西に下った安達盛宗と運命を共にしている。

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尊卑分脈』では経資の弟を「資」と記すが、いずれにせよ「景」や「盛」の字は安達氏の通字に関係するものであろう。 

 

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また、こちら▲の記事で経資の子・資が8代執権・北条宗の烏帽子子であったと推定したが、『尊卑分脈』に同じく経資の子として記載のある少弐については、資時に次ぐ庶子(恐らくは準嫡子、後述参照)として同じく泰偏諱を受けた人物ではないかと思われる。 

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息子・貞経が文永9(1272)年生まれであることからすると、盛経は資時の兄であった可能性が高いが、烏帽子親の違いからすると盛経は当初庶兄だったのかもしれない。しかし弘安の役で資時が戦死したので、結局は家督を継承することとなったが、一般の外様御家人とはいえ時宗の義兄であった泰盛の1字を受けていた故にその資格があったのだろう。経は9代執権・北条時の偏諱を受けているが、泰盛の甥・義孫であった貞時を烏帽子親にしたというのも自然な流れであろう。

 

宇都宮盛綱

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こちら▲の記事でも述べた通り、宇都宮経綱の次弟・綱は安達義偏諱」を受けたとされ*11、末弟・綱についても安達泰からの一字拝領ではないかと推測した。景綱は嘉禎元(1235)年生まれ*12、『吾妻鏡』建長4(1252)年4月1日条に「下野四郎景綱」と初めて現れた当時は数え18歳となるので、義景晩年期の元服だったことになる。翌5(1253)年に義景が逝去し泰盛が安達氏惣領を継いでいるから、弟である盛綱の元服もそれ以後に行われたと考えて良いだろう。

景綱は義景の娘を妻に迎えており、霜月騒動に際しても義兄である泰盛の側について一時的に失脚している。

 

大江姓上田(殖田)氏

続群書類従』所収「大江系図」によると、大江広元の長男・親広の系統から出た殖田広と2人の息子(殖田広・殖田元)も霜月騒動連座したという*13。親広の孫(佐房の子)佐泰・佐時兄弟は恐らく北条泰時の一字拝領者で、佐泰の子である泰広は単に父の1字を継承したとも考えられるが、少なくともその長男である広の「盛」は泰偏諱と見受けられる。 

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同じく『続群書類従』や『系図纂要』の佐々木氏系図によると、京極氏信の娘頼氏の姉または妹)が殖田佐時の妻であったといい、その間に生まれた殖田広宗(佐々木広宗)は外祖父・氏信の養子となって源姓佐々木氏を称し、その子・宗清は霜月騒動で頼氏とは反対の泰盛方につき討ち死にしたという*14

 

小笠原流伴野氏

信濃源氏・小笠原氏の支流で、泰盛にとっては母方の一族である。

続群書類従』所収「小笠原三家系図 参河小笠原」や『系図纂要』によると、長時―房の嫡流3代はいずれも霜月騒動連座しており*15、特に伴野時の名乗りからするといずれも泰盛偏諱を受けた可能性が高い。長直兄弟は泰盛とは従兄弟関係にあった。

 

武藤景泰

前述の少弐経資・景資(盛資/盛氏)兄弟の従兄弟にあたる父・景頼(『尊卑分脈』)元久2(1205)年と分かっている*16ので、現実的な親子の年齢差を考えれば、の生年は1225年頃より後と推測可能である。『尊卑分脈』では「」とするが、いずれにせよ父から「景」または「頼」の字を継承し、「」の字を烏帽子親から拝領したと考えられる。同族・少弐氏の名乗りや、景自身が霜月騒動連座している*17 ことからすれば、その名乗りは盛の偏諱を受けたものであろう。

 

葦名泰親・葦名盛次

その他、安達泰盛偏諱を受けた可能性が考えられる人物として、葦名(四郎左衛門尉)・葦名(五郎左衛門尉)が挙げられる。三浦氏一門・葦名盛宗の弟であり、泰親が安達泰盛に側近として仕えていたことは『竹崎季長絵詞』に描かれる通りで*18、泰親・盛次・時守(六郎左衛門尉)兄弟および三浦対馬前司頼連は霜月騒動連座している。或いは単に父・葦名泰盛の1字を継いだ可能性も十分あり得るが、偶然にも同名であった。

 

 

(参考ページ)

 安達泰盛 - Wikipedia

 安達泰盛(あだちやすもり)とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)

wallerstein.hatenadiary.org

 

脚注

*1:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。

*2:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*3:『吾妻鏡』同年12月22日条群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。10~15歳での元服とした場合。

*5:『吾妻鏡』同年6月17日条

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:貫達人円覚寺領について」(所収:『東洋大学紀要』第11集、1957年)P.21。

*8:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』, 思文閣出版、2012年)P.176~177。

*9:蒙古襲来絵詞 (模本) - 九大コレクション | 九州大学附属図書館 参照。

*10:『豊津町史 古代~近代初頭編』P.608

*11:江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田郁夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戎光祥出版、2011年))P.9。

*12:「宇都宮系図」(『続群書類従』六下所収)景綱の注記に永仁6(1298)年5月1日に64歳で亡くなったとあり、逆算すると1235年生まれ。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.74-75、No.105「宇都宮景綱」の項(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その105-宇都宮景綱 | 日本中世史を楽しむ♪ と同内容)。秋山哲雄『北条氏権力と都市鎌倉』(吉川弘文館、2006年)P.120。

*13:福島金治『安達泰盛鎌倉幕府 霜月騒動とその周辺』〈有隣新書63〉(有隣堂、2006年)P.180。大江佐房 - Wikipedia も参照のこと。

*14:前注福島氏著書 P.179~180。

*15:前注福島氏著書 P.181。

*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№115-武藤景頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№116-武藤景泰 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*18:三浦介頼盛 より。

安達時長

安達 時長(あだち ときなが、1261年頃?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人

 

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安達氏の祖・安達盛長の次男にも同名の人物(安達時長/大曾彌時長)がいるが、本項では下記【系図A】に安達時盛の子として掲載の四郎左衛門尉 時長について述べる。

 

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▲【系図A】『尊卑分脈』〈国史大系本〉安達氏系図より一部抜粋

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、父・時盛については1241年生まれと判明している。従って、現実的な親子の年齢差を考えれば時長の生年は1261年頃より後とすべきである。上の【系図A】では母を二階堂行義(出羽守、1203年~1268年*1の娘と伝えるが、その孫としても妥当だと思う。

また、同系図において「弘安八自害」の記載があるように、安達氏一門の大半が討たれた弘安8(1285)年の霜月騒動連座したことが分かる*2が、最終官途として「左衛門尉」任官の記載があることに加え、同年までに息子の師顕(もろあき)が生まれているはずであるから、亡くなった当時20歳程度には達していたと考えるべきである。

*[参考] 息子・安達師顕については次の史料で「城越後権介師顕」として実在が確認できる*3

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▲【史料B】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状*4

 

以上より、時長の生年は1260年代前半と推測され、通例10代前半で行われる元服の年次も1270年代と推定可能である。実名「長」の「時」は北条氏の通字でもあるが、父・時盛から1字を継いだとも解釈し得る一方、「長」も祖先・盛長から取ったものと考えられる。従って「」は父と同じく北条氏からの一字拝領と考えて良いだろう。元服当時の執権・得宗であった北条を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったものと見受けられる。 

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.167「二階堂(出羽)行義」の項 または 二階堂行義 - Wikipedia を参照のこと。

*2:霜月騒動で討たれた者については複数の史料が伝わるが、その一つである熊谷直之所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』所収の「安達泰盛乱聞書」(『鎌倉遺文』第21巻15736号)に(「葦名四郎左衛門尉(=葦名泰親)」とは別に)「四郎左衛門尉」が含まれている。年代記弘安8年 参照。

*3:注1前掲細川氏著書 巻末基礎表 No.85「安達師顕」の項(→ 同内容を記す細川氏のブログ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№85-安達師顕 | 日本中世史を楽しむ♪ も参照のこと。

*4:注1前掲細川氏著書 P.19 より。

大曽祢盛経

大曽祢 盛経(おおそね もりつね、1212年頃?~没年不詳)は鎌倉時代中期の武将、御家人

安達盛長の次男で大曾禰氏の始祖である大曾禰時長の次男で、2代当主・大曾禰長泰の弟。呼称は大曾禰盛経(旧字表記)、大曽根盛経とも。

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「盛」が祖父・盛長に由来する字であるから、「」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。『吾妻鏡』での初見は、嘉禎2(1236)年8月4日条「大曾禰太郎兵衛尉 同次郎兵衛尉」。暦仁元(1238)年2月17日条にも「大曾禰太郎兵衛尉 同次郎兵衛尉」、暦仁2(1239=延応元)年1月2日条「大曾禰太郎兵衛尉長経〔ママ、長泰の誤記〕 同次郎兵衛尉盛」とあることから、北条経時執権期(1242年~1246年)以前から「経」字を与えられていたことが分かる。これは第4代将軍・藤原頼九条頼経からの偏諱と考えるべきなのだろう。

 

ここで注目すべきは、兄・長が執権・北条時の偏諱を受けて「太郎」を称したのに対し、弟の盛は将軍・九条頼偏諱を受けながらもそれに次ぐ「次郎」を名乗っているということである。長泰が嫡流を継承したことは確実で、北条氏得宗家が特定の御家人嫡流との結合のみに烏帽子親子関係を利用したという紺戸淳の説が決して間違いではないことが窺えよう。

この時期においては将軍を烏帽子親にするよりも、執権・北条氏と烏帽子親子関係を結んだ者の方が格上、という風潮が広まっていた可能性がある。北条経時・時頼兄弟を除き、頼経は他の御家人庶子に対して一字付与を行うことで、反執権派の形成を図っていたのかもしれない。 

 

脚注