Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大友貞親

大友 貞親(おおとも さだちか、1273年頃?~1311年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人大友親時の嫡男。仮名は太郎か。官途は左近大夫将監、出羽守。

 

 

はじめに:大友氏系図についての問題点 

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貞親の父親について、系図類ではほとんどが親時としている。古い年代の成立ゆえ系図集としては比較的信憑性が高いとされる『尊卑分脈』では次の通りである。

 

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▲『尊卑分脈』での大友氏系図2本

 

ところが、これは誤りで実は大友頼泰の子で親時の弟とする説もある。理由としては親時との年齢差ではないかと思われる。すなわち、松野家家伝・常楽寺蔵本「大友系図」によると、親時は嘉禎2(1236)年、貞親は寛元4(1246)年または宝治2(1248)年の生まれとあり*1、その年齢差が僅か10年であることから親子関係としては認め難いといったものであろう。兄・親時亡き後の家督実弟・貞親が養嗣子として継承したために、系図類ではそのまま親子関係として書かれてしまった、という見解であると思われる。

 

(参考ページ)

 大友親時(おおとも ちかとき)とは - コトバンク

 大友貞親(おおとも さだちか)とは - コトバンク

 

そして、これに加えて、上の『尊卑分脈』では親子の線で繋がれている貞親大友貞宗が実は兄弟であったとされ、この2人の父親が親時なのか頼泰なのかという問題がある(次の記事も参照のこと)。 

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すなわち、以上を総合すると、貞親については 

大友頼泰の子(親時の弟、貞宗の兄)

大友親時の子、貞宗の兄 

大友親時の子、貞宗の父

の3通りの説が存在することになる。

 

そのため、残された史料からの大友氏の正確な系図の復元作業が求められているが、残存する史料は決して多くなく、かといってそれらを整理するのも大変で、各当主の活動期間や世代(生没年)の把握すら困難であった。

 

しかし、近年こちらの検索機能が充実したことで『鎌倉遺文』の検索も簡単にできるようになった。

東京大学史料編纂所【データベース選択画面】

索引を引いていちいち確認せずとも、各人物の登場する史料や花押が一覧で見られるようになり、大友氏についても、各当主の活動期間が把握できるようになった。ここ最近の新たな史料の発見、収録(『鎌倉遺文』新巻の発行)もあって、当時の詳しい状況が見えつつある。

 

本項では、データベースでの検索結果を基に、大友氏の正確な系図復元に向けての一環として、前掲記事にて紹介した貞宗に関する考察の結果も踏まえながら、その先代・貞親の世代(生没年)および官職歴の推定を試みたいと思う。

 

 

大友貞親に関する史料(書状類 etc.)の紹介

【史料1】弘安8(1285)年9月晦日付「豊後国図田帳」(内閣文庫所蔵)*2中に

「志賀太郎泰朝 阿法 嫡子蔵人太郎貞朝、貞親烏帽子継云、」、 

同内容を記す、同年9月日付「豊後国大田文案」(平林本)*3

「…(同上)…大郎貞朝、貞親烏帽子云云、」

 

大友貞親の初見史料である。2つの照合により「継云」の部分は「云云(=云々)」と捉え得る。親と「志賀太郎朝」が「貞」字を共有していることからすると、「烏帽子云々」は「烏帽子云々」の脱字ではないかと思われるので、親が志賀朝の烏帽子親となって「」の偏諱を与えたと考えられる*4

そしてこの字は前年に執権職を継いだばかりの得宗・北条時の偏諱でもあって、その使用を許されているから、親自身は時の烏帽子子だったのではないかと推測される。

すると、北条時→大友親→志賀朝と「貞」の字が下げ渡されたということになるが、得宗が時頼・時宗の代に行っていた一字付与はまさに将軍九条頼経宗尊親王からの1字の下げ渡し行為であったから、特に問題視されるようなことでもなかったようである。

 

 【史料2】「大友家過去帳 (『志賀文書』)*5:永仁3(1295)年9月23日、父・親時が死去

 前因州太守道徳大禅定門 永仁三年九月廿三日逝

 従五位上因幡守兼行*6左近将監親時

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 【史料3】永仁7(1299=正安元)年4月10日付「鎮西引付衆結番注文」(『旧典類聚』十三)*7鎮西探題・金沢流北条実政の下で引付頭人の三番筆頭に「大友左近蔵人」。

左近蔵人」とは左近衛府の官人で、蔵人を兼任した者の呼称*8であり、「蔵人」は 六位蔵人 または 五位蔵人 のいずれかであるから、左近衛将監(=左近将監、従六位上相当)*9以上であったことになる*10。この左近蔵人は貞親に比定されよう*11。その根拠として、奥書から嘉元2(1304)年の成立とされる野津本「大友系図」での貞親の注記に「大友蔵人 新蔵人 左近大夫」と書かれており*12、ここに書かれているのは嘉元2年当時の左近大夫将監(後述【史料7】参照)までの官職で、最初は蔵人であったことを示している。

 

 

【史料4】正安2(1300)年3月25日付「豊後守護大友貞親書下」(『肥後志賀文書』)*13の発給者「散位」の花押が、次に示す同年書状での貞親のそれに一致し、貞親に同定される。よってこの文書が貞親による初出の書状ということになる。

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【史料5】(正安2年?)7月29日付「大友貞親安堵状案」(『肥前高城寺文書』)*14、および、

【史料6】正安2年8月13日「大友貞親請文」(『筑後鷹尾神社文書』)*15 2通の発給者「散位貞親」(花押あり)。

*「散位」とは位階をもちながら官職についていない者の呼び方*16。この頃は蔵人を辞していたのであろう。

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▲「散位貞親」の文字と花押

 

 ★この間に左近衛将監従六位上相当)となって叙爵か従五位下*17 

 

【史料7】嘉元2(1304)年3月25日付「鎮西御教書」(『豊後生桑寺文書』)*18の宛名「大友左近大夫将監殿」は、次に示す翌年の書状との照合により貞親に同定される。

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▲同年12月19日付「豊後守護大友貞親書下」(『肥後志賀文書』)*19での花押

 

【史料8】嘉元3(1305)年8月2日付「鎮西下知状」(『大友文書』)*20

筑前国怡土庄友永方地頭大友左近大夫将監貞親代寂念申、当庄名主等、抑留年貢、対捍公事由事、

右、如寂念訴状者、友永方者、為蒙古合戦勲功賞、大友兵庫入道 貞親祖父 拝領畢、……

(中略)

……爰如貞親代寂念所進弘安九年十月廿八日御下文者、将軍家政所下、可令早大友兵庫頭頼泰法師 法名道忍 領知筑前国怡土庄志摩方三百町惣地頭職事………(以下略)

 

 嘉元三年八月二日

   上総介平政顕*(花押)  *鎮西探題・金沢流北条政顕。上記の北条実政の子。

*この文書により「頼泰―□―貞親」という系譜が分かる。  

 

嘉元3年、家臣の吉弘美濃守に命じて博多承天(じょうてん)寺の直翁智侃(じきおうちかん、足利泰氏の子?)を九州に赴かせ(『東福第十世勅賜仏印禅師直翁和尚塔銘』)、翌徳治元(1306)年これを開山として館の南東に豊後国万寿寺を開基する(『延宝伝灯録』10)*21

 

 ★この間に出羽守任官か。

 

【史料9】徳治3(1308=延慶元)年4月5日付「関東御教書案」(『大友文書』)*22の宛名に「大友出羽守殿」。

 

【史料10】延慶2(1309)年2月26日付「鎮西探題御教書写」(『肥前島原松平文庫文書』)*23の宛名に「大友出羽守殿」。

 

【史料11】延慶3(1310)年6月5日付「大友貞親譲状」(『肥後志賀文書』)*24の発給者「貞親」(花押あり)。文中に「嫡家大友まこ大郎さたむね(=孫太郎貞宗」とあり、所領が譲られたようだ。但し「嫡子」ではなく「嫡家」と呼んでいるので、同じく頼泰の孫である貞宗を養嗣子としていたことが窺えよう*25貞宗は貞親の実弟と考えられるが、その元服に際して「孫太郎」と名付けられているから、早い段階から貞親の後継者に指名されていたのだろう。恐らく貞親の通称は「太郎」で区別がなされたものと思われる。

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【史料12】「大友家過去帳 (『志賀文書』)*26応長元(1311)年7月29日死去。

 万寿寺殿玉山正温大禅定門 応長元年七月廿九日逝

 従五位上出羽守兼行左近将監貞親

 

この他、松野家家伝・常楽寺蔵本「大友系図」では「応長元年病を得て、子無きにより弟貞宗に国家を譲る。同年七月十九日逝去年六十四才、万寿殿と称す、従四位上行親衛校尉兼羽州刺史玉山正温公大禅定門」とあり*27、『諸家系図纂』での注記にも「太郎 従四位下 新蔵人 左近将監 出羽守…(略)…應長元辛亥年七月十九日逝去*28、『寛政重脩諸家譜』所収「立花氏系図」上でも「応長元年七月十九日卒す。」*29と書かれるなど、日にちの違いを除くほぼ同じ内容は系図類でも採用されている。

但し、冒頭で記した通り、この時の享年を64とするのは誤伝であろう。

 

******************

正和2(1313)年8月21日付「鎮西御教書」(『豊前到津文書』)の宛名「大友左近大夫将監殿」について、『鎌倉遺文』*30では貞親に比定しているが、出羽守となった人間がかつての官職に戻るわけがなく、同月27日付「鎮西下知状」(『豊前宮成家文書』)*31中に「大友左近大夫将監貞宗」とあるによっても、貞宗とするのが正しい。従って、この段階で貞宗家督が継承されていることは確実であり、【史料11】を介在させれば、貞親の応長元年死去説はかなり信憑性が高いと判断できよう。 

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貞親の "弘安の役" 参戦説について

前節では【史料1】を初見の史料としたが、先行研究では異なる。実はその4年前、弘安4(1281)年の元寇弘安の役において、元(中国王朝)・高麗の軍船が志賀・鷹・能古等の島に襲来した際に防戦した日本側の武将の一人が大友貞親であったというのである*32。その典拠として、『八幡愚童訓』の文中に「大友(が)嫡子蔵人三十余騎ニテスサキ(洲崎)(を)ツタヒテ(伝ひて)責寄タヽカヒテ(戦ひて)首一取ケリ」とある*33のを掲げる*34が、江戸時代に編纂された『大日本史』にも次のように書かれている。 

【史料13】『大日本史』より 

大日本史 卷之二百卌三 列傳第一百七十 諸蕃十二

中納言 從三位 源 光圀  修

男  權中納言 從三位 綱條 校

玄孫*35 權中納言 從三位 治保 重

 

 後宇多帝建治元年四月,先是,蒙古改國號元,至此使禮部侍郎杜世忠、兵部侍郎何文著、計議官撒都魯丁,持國書來求通好。【關東評定傳。杜世忠等官據元史。○考元史,改國號元,實龜山帝文永八年。然水路遼邈,未知其事。至是因使人者來,始聞之也。故前此概書蒙古,此後書元。】八月,押送杜世忠、何文著、撤都魯丁等五人於鎌倉。九月,鎌倉執權相模守北條時宗收斬之。【關東評定傳、保曆間記。】弘安二年,元將夏貴、范文虎等遣周福、樂忠、僧靈果、通事陳光,持書至太宰府,復說以通和也。斬之于博多。【關東評定傳。參取保曆間記。】是歲、元滅宋。【宋史、元史。】四年五月,元以。高麗為前導,兵十數萬、船數千艘,蔽海而來,直指壹岐島,至太宰府,陣於能古、志賀二島。高麗船從對馬至宗像海,與元船合。關東軍及九國二島兵,悉會太宰府,築塢海岸,延袤數百町,高丈餘、可俯射賊船,列炬守之。賊不敢近岸,尚在志賀島。草野七郎夜襲,燒船一艘,殺二十許人。由是,賊連鎖巨舟,設弩外向,守備甚嚴。軍士進攻,舟皆脆小、多為磯石所摧破,死傷甚眾。【八幡愚童訓。五月據歷代皇紀、皇年代略記。】河野通有駕輕舟而前。弓弩亂發,部下多死。通有亦傷左肩,而勇氣愈厲。賊船高大不可登,便緣舟檣,一躍而上,虜玉冠一將而歸。【八幡愚童訓、豫章記。】既而大友貞親、【○貞親名據大友系圖。】秋田城二郎等及九國兵士殊死戰,賊氣稍沮,轉至鷹島,會海中青龍見,硫黃氣四塞。其巨帥單艇先遁。【八幡愚童訓。】七月晦夜,西北風大作,海水簸蕩,舟船破壞,漂溺無算。【八幡愚童訓、關東評定傳。】屍隨潮汐入浦,浦為之塞,可踐而行。【東國通鑑。】敗卒數千,尚在鷹島,繕修壞船,將逃歸。少貳景資及鎮西兵士,乘勢掩擊,沙獲粗盡。請降者千餘,悉斬之。初賊載什器及耕具至,以為入住之計,至此大敗。【八幡愚童訓。】後聞元兵十萬,得生還者三人。高麗兵一萬,死者七千餘人云。【元史、東國通鑑。】忽必烈殂,號世祖。子真金早死,孫鐵穆耳立。【元史。】

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dns243.htm より拝借)

 

この『大日本史』は当時の史料を収集して参照しながら編纂されており、元寇に関する記述も『八幡愚童訓』(『八幡大菩薩愚童訓』などとも言う)などに拠っていることが窺えるが、「貞親」の名は大友系図に據(よ=拠)ったと書かれている。この「大友系図」がどの系図を指すのかは不明だが、『大日本史』編纂に連動して集成された『諸家系図纂』*36では、貞親の注記に「太郎 従四位下 新蔵人 左近将監 出羽守…(略)…弘安四辛巳年蒙古人襲来時司軍令且抽功 應長元辛亥年七月十九日逝去」と書かれており*37(「抽」は抽(ぬき)んでる=「抜きん出る」の意)、江戸時代当時の見解としては「大友ガ嫡子蔵人」=貞親 であったことが分かる。『尊卑分脈(冒頭の図参照)で「蔵(=蔵人)」「左近将監」と注記されることから貞親と判断した可能性もあり得よう。

 

しかし、次の史料によって「大友蔵人」「大友左近蔵人」が貞親でない可能性が裏付けられるように思われる。 

【史料14】(弘安6(1283)年) 3月8日付「北条兼時書状」(『豊後日名子文書』)*38

大友左近蔵人泰廣、去々年合戦之時、抽忠之由、為訴訟、可令参上之旨、雖歎申候、 今一両月者、故更異国警固事、不可有緩怠候之間、先以使者、可申子細之由、令口入候也、内々為御心得、令申候、恐々謹言、

 三月八日 修理亮(花押)

平左衛門尉殿

 

大友左近蔵人泰広去々年合戦の時、忠を抽んずる由の事、訴訟の為参上せしむべきの旨、歎き申し候と雖も、今一両月は、故更異国警固の事、緩怠有るべからず候の間、先ず使者を以て、子細を申すべきの由、口入れしめ候なり。内々御心得として、申せしめ候。恐々謹言。 
  三月八日   修理亮(=北条兼時*39)(花押)

平左衛門尉(=内管領・平頼綱)殿

この書状によりこの頃「大友左近蔵人」と呼ばれた人物が大友泰広(田原泰広)であること、この泰広が去々年(=弘安4年)の合戦時に参戦し、その忠節が抽(ぬき)んでていたことが分かる。尚、この泰広は大友能直の12男で、田原氏の祖となった人物である。

kinbee.hateblo.jp

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従って、江戸時代での研究成果【史料13】においては、泰広に比定すべき「大友蔵人」を貞親としてしまい、その誤りのまま、その後の研究でも採用されてしまっていたのであった。

以上の考察により、弘安の役」を貞親の活動の初見とするのは誤りと判断できよう。もし【史料13】ほか貞親参戦説が正しい場合、貞時の得宗・執権継承(1284年)より前に元服して「貞」の偏諱を受けていたことになるが、当時の執権・時宗から一字を拝領しない理由が不明であり、現実的な想定に思えない。よって、この頃の貞親は元服前の少年であったと判断される。

 

 

まとめ:年表 

1270年代前半の生まれか。

1284~85年:新執権・北条時の加冠により元服偏諱を受けてを称す。

1295年、父・親時の死去により家督を継承か。

1300年代初頭に叙爵(左近大夫将監)。

 1306年、博多承天寺の直翁智侃を開山として豊後国万寿寺を開基。

1308年までに出羽守任官。

1310年6月5日、実弟で養嗣子の大友貞宗に所領を譲渡。のち出家か法名:正温)

 1311年7月、逝去。

 

脚注

*1:古藤田太「大友氏の歴代墳墓を巡る (四)」P.14・16。但し、同論文P.17には貞親の「貞」が北条貞時からの一字であることに言及しながらも、応長元(1311)年7月19日に64才で没したことが紹介されており、逆算すると1248年生まれである。

*2:『鎌倉遺文』第20巻15701号。渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.60。

*3:『鎌倉遺文』第20巻15700号。

*4:志賀氏は大友能直の8男・能郷を祖とし、その子・泰朝は従兄で惣領の大友頼泰(初め泰直)から偏諱を受けたのではないかと思われる。よって、泰朝の子貞朝についてもこの慣例を引き継ぐという意味合いで「継」の文字が出てきた可能性が考えられる。

*5:『編年史料』伏見天皇紀・永仁三年九~十一月 P.15 より。

*6:「行(こう)」とは、位階が官職の本来の官位よりも高い場合に付すもの。この場合、因幡守が従五位下相当であるため、"行"を付記しているのであろう。詳しくは、行 - ウィクショナリー日本語版#接頭辞 も参照のこと。

*7:『鎌倉遺文』第26巻20028号。同前20027号(『薩藩旧記前編』七)も同内容。

*8:左近蔵人(サコンノクロウド)とは - コトバンク より。

*9:左近衛将監(サコンエノショウゲン)とは - コトバンク より。

*10:左近衛府四等官(最下位、主典(さかん))である左近衛将曹は従七位下相当である(→ 左近衛将曹(サコンエノショウソウ)とは - コトバンク より)。

*11:注1前掲 古藤田氏論文 P.17。評定衆 も参照のこと。

*12:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館 研究報告』5、1985年)P.46。

*13:『鎌倉遺文』第27巻20411号。

*14:『鎌倉遺文』第27巻20540号。

*15:『鎌倉遺文』第27巻20575号。

*16:散位(さんい)とは - コトバンク より。

*17:左近大夫将監については 左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク を参照のこと。

*18:『鎌倉遺文』第28巻21774号。

*19:『鎌倉遺文』第29巻22064号。

*20:『鎌倉遺文』第29巻22294号。『史料綜覧』嘉元三年八月 P.5

*21:注1前掲 古藤田氏論文 P.16、海正寺(車僧影堂)万寿寺(まんじゅじ)とは - コトバンク[mixi]最終回・飯牟礼山縁起 - 猪群山ストーンサークルを語る会 | mixiコミュニティ万寿寺 (大分市) - Wikipedia大友貞親 - Wikipedia を参照。

*22:『鎌倉遺文』第30巻23222号。

*23:『鎌倉遺文』第46巻51879号。

*24:『鎌倉遺文』第31巻24011号。

*25:貞親・貞宗の父である親時が永仁3(1295)年に亡くなった(【史料2】)時、当時貞宗は幼少であったとみられる。従って、以後親代わりとして面倒をみたのは、当主である長兄の貞親であったと考えられる。

*26:【史料2】と同史料。注1前掲 古藤田氏論文 P.16 より。

*27:注1前掲 古藤田氏論文 P.17 より。

*28:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安4年6月 P.17『諸家系図纂』「大友系図二編」

*29:寛政重脩諸家譜. 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*30:『鎌倉遺文』第32巻24955号。

*31:『鎌倉遺文』第32巻24959号。

*32:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安4年6月 P.8

*33:『編年史料』同前注 P.10

*34:複数伝わる『八幡愚童訓』の写本のうち、室町時代中期に成立し、旧筥崎八幡宮座主坊に伝来した筑紫本では、「大友カ嫡子刀禰(とね)ノ蔵人ハ三十騎計(ばかり)ニテ、洲崎ヲ伝テ責寄セ闘テ首一取テ帰ケル、」と書かれている(→ 八幡大菩薩愚童訓筑紫本 - ハムスターの日本史研究所 より)。「刀禰」とは本来、律令制下において公事(くじ)に関与する、主典(さかん)以上の官人の称であるが、古代~中世においては官人・在地有力者の称としても使われる(→ 刀禰(とね)とは - コトバンク 参照)。

*35:水戸藩主の系譜としては「光圀=綱條=宗堯―宗翰―治保」のため徳川光圀(みつくに)の玄孫として徳川治保(はるもり)の名前が書かれているが、実際は徳川綱條(つなえだ、光圀の甥で養嗣子)の孫娘の夫として徳川宗堯(むねたか)が養子入りしているため、血縁上は綱條の玄孫が治保である。

*36:《諸家系図纂》(しょかけいずさん)とは - コトバンク を参照。

*37:注28に同じ。

*38:『鎌倉遺文』第20巻14032号。年代記弘安6年 も参照。

*39:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

大友貞宗

大友 貞宗(おおとも さだむね、1290年頃?~1334年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人大友親時の子で、兄・大友貞親の養嗣子。

通称および官途は、孫太郎、左近大夫将監、近江守、近江入道など。法名具簡(ぐかん)

 

 

はじめに:大友氏系図についての問題点

貞宗については父親が誰かということについての問題点がある。

大友貞宗(おおともさだむね)とは - コトバンク

こちら▲のページを見ると、多くの事典が大友親時の子とする中、唯一『朝日日本歴史人物事典』(執筆:福川一徳)だけは大友頼泰(親時の父)戸次時親(頼泰の甥)の娘の4男としている*1

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ところが、まとまった系図集としては成立年代が比較的古いために信憑性が高いとされる『尊卑分脈』や、『豊後旧記』*2では、大友貞親の長男(頼泰―親時―貞親―貞宗となっている。この貞親についても、親時ではなく頼泰の子とする説があり*3、更には同一人物とされる頼泰泰直が別々の兄弟として掲載され、両者に各々親言親時という、同じ「ちかとき」の読み方を持つ息子を載せるなど、現在に生きる我々を非常に混乱させるものである。 

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すなわち、貞宗については

大友頼泰の4男(親時、貞親の弟)

大友親時の子(貞親の弟)

大友貞親の長男

の3通りの説が存在することになる。

 

 

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▲『尊卑分脈』における大友氏系図2本

 

そのため、残された史料からの大友氏の正確な系図の復元作業が求められているが、残存する史料は決して多くなく、かといってそれらを整理するのも大変で、各当主の活動期間や世代(生没年)の把握すら困難であった。

 

しかし、近年こちらの検索機能が充実したことで『鎌倉遺文』の検索も簡単にできるようになった。

東京大学史料編纂所【データベース選択画面】

索引を引いていちいち確認せずとも、各人物の登場する史料や花押が一覧で見られるようになり、大友氏についても、各当主の活動期間が把握できるようになった。ここ最近の新たな史料の発見、収録(『鎌倉遺文』新巻の発行)もあって、当時の詳しい状況が見えつつある。

 

本項では、データベースでの検索結果を基に、大友氏の正確な系図復元に向けての一環として、貞宗の世代(生没年)および官職歴の推定を試みたいと思う。

 

 

大友氏当主・貞宗の代数

【史料1】正和2(1313)年9月16日付「鎮西下知状」(『筑前太宰府神社文書』)*4より

……豊前々司能直貞宗、五代相続知行、御公事勤仕之道道忍時、寛元二年・建長三年令支配閑院内裏修理用途於彼両庄畢信用、……

 

【史料2】文保2(1318)年12月12日付「関東下知状」(『大友文書』)*5より

…中村庄雑掌観円与当庄下方地頭大友左近大夫将監貞宗代上円相論…(略)…貞宗祖父兵庫頭頼泰法師法名道忍……

 

【史料1】には初代・能直から貞宗までが5代であること、【史料2】には貞宗の祖父が頼泰(法名道忍)であったことが記載されており、ひとまず次のように系図の復元が可能である。

能直―親秀―頼泰(道忍)―□―貞宗

 

そして改めて【史料1】を見ると道忍(=頼泰)が寛元2(1244)年と建長3(1251)年の閑院内裏造営(再建)に際し修理の費用を担ったことが書かれているが、寛元2年7月26日*6、宝治3(1249)年の焼亡に伴う建長3年6月27日*7の「閑院遷幸」に向けた事業を指しているものであろう。『百錬抄』では、この「閑院」に「関東よりこれを造進す」と注記されているので、関東の御家人たちがその造営(修理)に際しての雑掌(=請負人)を担ったことが窺えるが、幕府が閑院造営の雑掌を奏することを記した『吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条には、陳座および東屋の建設の請負人を「大友豊前々司跡」 が担当していることが確認できる。大友豊前前司=能直(前掲【史料1】・『尊卑分脈』)の息子・親秀法師寂秀は宝治2(1248)年に既に亡くなっていた*8ので、その跡を継いでいたのが「大友式部大夫頼泰*9であったことは確実である。よって【史料1】の記載に何ら問題はないと判断できる。 

 

従って、貞宗は頼泰の孫であった可能性が高い。よって、父を頼泰とする説は否定されるべきであろう。このことは、官職歴とその任官年齢との関係からも裏付けられると思うが、次節にて検証してみたいと思う。

 

 

貞宗の近江守任官と出家時期について

大友貞宗については、多数の書状類が各所に残されていることが窺える。本節では各史料での貞宗の表記(通称名)に着目しながら、その官職歴をまとめたいと思う。

 

 【史料3】延慶3(1310)年6月5日付「大友貞親譲状」(『肥後志賀文書』)*10の文中に「嫡家大友まこ大郎さたむね(=孫太郎貞宗)」とあり、この書状の発給者「貞親(=実兄の大友貞親)」より所領が譲られる旨が記されている。その通称名からすると、元服してからそれほど経っていないことが窺える。

貞親は翌応長元(1311)年7月に亡くなったとされ、間もなく貞宗家督を継いだものと思われる。

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 ★この間に家督継承、および叙爵か従五位下

 

 【史料4】正和2(1313)年8月21日付「鎮西御教書」(『豊前到津文書』)*11の宛名に「大友左近大夫将監殿」。次に示す数日後の書状との照合によりこれも貞宗に同定される。 

 

 【史料5】正和2年8月27日付「鎮西下知状」*12

「……而大友左近大夫将監貞宗従人勘解由判官頼文横領之上、……」

「…宇佐宮神宮重連代順仏申豊後国石垣庄内末吉・末国……訴申之間、被尋下之処、如貞宗執進頼文去年十一月廿三日請文…」

 

 【史料6】同年9月8日付「鎮西御教書案」(『豊前永弘文書』)*13の宛名に「大友左近大夫将監殿」。

 

*この間、正和(1312-1317)、文保(1317-18)年間には【史料1】【史料2】も含め「大友左近大夫将監」「貞宗」「大友左近大夫将監貞宗」と書かれた書状が数多く残る。 

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▲正和4(1315)年正月17日付「大友貞宗書下」(『高城寺文書』)での貞宗の花押

 

 【史料7】元亨元(1321)年9月12日付「関東御教書案」(『大友文書』)*14の宛名に「大友左近大夫将監殿」。幕府から「大宰少貳貞經(=少弐貞経と共に、九州での警固にあたるよう命じられる。

 

 【史料8】元亨2(1322)年7月27日付「鎮西御教書案」(『肥後志賀文書』)*15の宛名に「大友左近大夫将監殿」。

 

 ★この間に近江守任官か。

*ちなみに、前任者は佐々木貞清(塩冶貞清)と推測される。

 

 【史料9】元亨3(1323)年9月29日付「鎮西下知状」(『大友文書』)*16

「…筑前国怡土庄友永方地頭友近江守貞宗重慶申…」

 

【史料10】「北条貞時十三年忌供養記」(『円覚寺文書』) *17

元亨3年10月27日の北条貞時十三回忌法要において「友近江守」が銭200貫文を寄進。この時「薬醫*18兵庫頭入道道」も「銀劔(銀剣)一 馬一疋置鞍、鹿毛」を寄進しており、祖父・頼泰がまだ存命であったか*19?

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▲正中2(1325)年8月28日付「大友貞宗書下」(『禰寝文書』)での「近江守」の花押=前に掲げた貞宗の花押に一致する。

 

 【史料11】正中2(1325)年10月3日付「雑掌宗弘書下」(『筑後鷹尾家文書』)*20中に「大友江州」。 *江州は近江国の別称。

 

 【史料12】同年10月7日付、27日付「関東下知状」(『島津家伊作文書』)*21中に「友近江守貞宗」。

 

 ★この間に出家か。

 

 【史料13】『改正原田記附録上』*22に「嘉暦弐年二月五日沙弥具簡請文」とあり、この法名貞宗のものであることは下記参照。また、同年の書状での「沙弥*23の花押が前に掲げた近江守貞宗のそれと同じであり(下図参照)、同年で出家を済ませていたことは確実である。前年の嘉暦元(1326)年には出家していたのではないか

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▲同年10月6日付「沙弥具簡大友貞宗書下」(『大悲王院文書』)の発給者「沙弥」の花押=前に掲げた貞宗の花押に一致する。

 

 【史料14】(元徳元年)11月11日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*24に「友近江入道」。

 

 【史料15】元徳元(1329)年12月10日付「鎮西施行状」(『豊前小山田文書』)*25の宛名に「友近江入道殿」。

 

● 【史料16】元徳2(1330)年5月10日付「関東御教書」(『宇佐宮記』所収)*26中に「友近江前司入道具簡」。

 【史料17】正慶元(1332)年10月21日付「関東御教書」(『宇佐宮御造営新古例書』)*27中に「嘉暦四年雖仰友近江入道具簡」。

法名は【史料13】での「沙弥具簡」に同じであり、大友貞宗が近江守を辞して後、嘉暦年間に出家したことが確実である(下図の花押によっても裏付けられる)。出家前の正式な通称名は「友近江前司」であったと推定されるが、以後「近江入道」と呼ばれることが多かった。

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▲「元弘3(1333)年」7月8日「大友具簡貞宗書下」(『班島文書』)での「具簡」の花押=前に掲げた貞宗の花押に一致する。

 

以上より、貞宗の官職歴を簡潔にまとめると次の通りである。 

 ● 延慶3{1310}~正和2{1313}左近大夫将監(叙爵)

 ● 元亨2{1322}~3{1323}近江守(国守)任官

 ● 嘉暦年間(同元{1326}年カ):近江守辞任、および出家法名:具簡)

嘉暦年間の出家は、恐らく元年3月の執権・北条高時の辞職および剃髪に追随したものであろう。法名(ぐかん)」の「具」は、貞宗が招聘して筑前顕孝寺の開山とした京都法観寺の傑僧・闡提正(せんだい しょうぐ)*28の一字を拝領したものとされている*29

 

 

近江守任官年齢からの世代推定

鎌倉御家人の国守任官年齢

細川重男は、鎌倉後期に至り幕府の家格秩序は、王朝官職による序列のみではなく、幕府での役職を基準としていたということを述べられており*30、また前田治は、そうした独自の家格秩序があったとはいえ、叙爵や国守任官の年齢が家格を考える上で重要であることを指摘された*31。 

●(表18)鎌倉時代後期における主要御家人の叙爵・国守任官の年齢*32 

叙爵年齢 国守任官年齢
北条(得宗・赤橋) 10 20
北条(金沢・大仏) 10代後半 30歳前後
足利 10代後半? 20
安達 24?  
長井 18? 30歳前後
宇都宮   30代前後
二階堂 20? 20代後半~30?

 鎌倉時代後期から末期にかけてでさえも上の表に示した通りであり、それ以前は30~40代以上での国守任官が一般的であった。(表18)に掲げたのは寄合衆や評定衆を務めた氏族、もしくはそれに匹敵する高い家格を持った家柄であり、他の氏族が彼らを超えることは考えにくい。すなわち、他の御家人の国守任官年齢は彼らより遅く、30~40代以上であったと推測される。

 

こうした研究成果に基づけば、貞宗の近江守任官当時の年齢も推定可能なのではないかと思われる。ここで参考にしてみたいのが、貞宗と共に九州での警固にあたったことがあり(【史料7】)、 幕府滅亡に際しても貞宗鎮西探題北条英時を攻め滅ぼした*33少弐貞経(しょうに・さだつね)である。

 

少弐貞経筑後守任官年齢 

貞経は父・盛経と同じく筑後守となったといい(『尊卑分脈』・『歴代鎮西要略』*34、国守に任官している。書状の多くでは「大宰少弐」と表記される(貞経自身による発給文書も含む)が、正中3(1326=嘉暦元)年正月23日付「関東御教書」には「筑後守貞経」とあり(『宇住記』)*35、翌嘉暦2年3月13日付「関東御教書」(『豊前宇佐記』)*36と、同3年3月13日付「関東御教書」(『宇佐宮記』)*37に「筑後前司入道妙恵」、同3年5月21日付「関東御教書」(『豊前樋田文書』)*38に「筑後入道妙恵」とあることから、が、嘉暦元年(1月23日以降)~2年の間に辞任、のち出家したことが窺える*39。恐らく貞宗に同じく嘉暦元年3月の北条高時出家に追随したものであろう。 

 

経は建武3(1336)年に自害した時、享年(数え年)64(『佐賀諸家系図』所収「馬場系図」)*40または65(『北肥戦誌』一「多々良浜合戦之事」)*41であったといい、逆算すると文永9(1272)~10(1273)年の生まれと判明する。実名は、弘安7(1284)年から執権職を継いだ北条時が烏帽子親となり偏諱を受けたものであろう。これに従えば、筑後守初見時(1326年)では50代前半だったことになる。

尚、貞宗の嫡男・氏泰の母親(=貞宗正室)は少弐氏の出身であったと伝えられ*42、貞経の娘*43とも、盛綱(盛経の誤記)入道崇恵の娘(=貞経の姉または妹)*44ともいわれる。

 

北条貞時の烏帽子子

宗の近江守任官時期(1322~23年)は、貞経の筑後守初見よりわずか数年前のことであり、同じく時の偏諱を受けた形跡がある*45ことから考えても、世代としてはかなり近かったのではなかろうか。年齢を下げて30~40代での任官だったとしても、1280~90年代の生まれとなり、1301年まで執権であった貞時から一字を拝領するという想定は可能である。次の【図19】のように大友氏一族の人物が北条氏から一字を賜った、或いは元服の際に烏帽子親の得宗から一字を授かった旨を記載する系図が見られ、大友宗も同様に北条時の烏帽子子であったと推定される。

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▲【図19】『続群書類従系図部における大友氏一族の得宗からの一字拝領に関する注記*46 

 

そして前節で示した通り、1310年代初頭で叙爵し「左近大夫将監*47」となったことも判明しているので、この当時は20代であったと考えられる。逆算すれば1280年代後半~90年頃の生まれとなり、前述の内容に一致する。

 

嘉元2(1304)年までに成立したとみられる野津本「大友系図」では親時の3男(貞親の弟)として「孫太郎」の記載があり*48、【史料3】との照合により貞宗に比定される。同系図の奥書に「嘉元貳年甲辰五月廿二日於野津院写伝之畢」とあるほか、長兄・貞親の注記に出羽守任官(1306~1308年の間)前の官職「大友蔵人 新蔵人 左近大夫」と書かれていることが成立年代を裏付けている。

貞宗は1290年の生まれとしても嘉元2年当時15歳となり、弟も元服後の「利根四郎」で記されていることから考えて妥当な年齢だと思う。

 

以上の考察により、貞宗は1290年頃の生まれ(1才)、1301年頃の元服(12才)、1311年頃の叙爵(22才)、1322年近江守任官(33才) であったと推定しておきたい。

 

 

北条氏からの養子入り説(誤伝)

ここで別説を一応ながら紹介しておきたい。

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▲【図20】『前田本平氏系図』より北条氏得宗桜田両流の部分*49

 

図は『前田本平氏系図』の北条氏系図の一部であるが、時頼の子・桜田禅師時教(正しくは時厳)の長男・貞宗の注記に「大友左近大夫将監 時宗為子(=時宗子と為す)」と書かれており、随時(ゆきとき、1291年?~1321年) の父とする。

貞宗」を〔ママ(=原文ママ〕とするのは、北条氏の氏寺・満願寺の寺伝『満願寺年代記東京大学史料編纂所所蔵写真帳)にある阿蘇流北条氏の系譜「時定―定宗―随時―治時」*50や『尊卑分脈』での系譜「時定―定宗―随時」との比較・照合によるものであろう*51。「定宗」とは読みは同じではあるが、時宗の養子となっておきながら大友氏を称し、その子・随時が北条氏に戻って鎮西探題になっているというのは意味不明である。前節の内容に従えば時宗の養子になるとは考えられず、実際の書状で見ると随時は「大友左近大夫将監貞宗」活動初期の鎮西探題でもあって、親子関係は認め難い。前述の随時の生年が正しければ、前節での結論を踏まえると貞宗とほぼ同世代となり、尚更である。

 

 

貞宗の息子たち 

中巌円月(ちゅうがんえんげつ)の詩集『東海一漚集(とうかいいちおうしゅう)*52によると、貞宗は元弘3(1333)年12月3日に京都で亡くなったという*53。 

 

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 冒頭の『尊卑分脈』にある通り、貞宗の嫡男として跡を継いだのは大友氏泰(うじやす)であったが、その次代・氏時(うじとき)貞宗の子(氏泰の実弟であったとされ、系図等ではその他にも多くの息子がいたことが確認できる。

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▲【図21】系図類に見られる貞宗の息子たち*54

 

元服後の通称名について、氏泰は父・貞宗と同じ「孫太郎」、氏時が「孫三郎(近江孫三郎とも)」とそれぞれ称していたことが確認され*55、恐らく間の氏宗も「孫次郎」と名乗っていたのであろう。ここで次の史料に着目したい。

 

【史料22】正慶2(1333)年3月13日付「沙弥具簡(大友貞宗)譲状」(『大友文書』)*56

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貞宗(具簡)の譲状である。鎮西探題攻めを前にして、幼少の息子・千代松丸を家嫡(家督継承者)に指名し、豊後守護職以下すべての所職を譲るとしている。

その理由としては、その兄である貞順・貞載を戦場に同行させ、万一自分たちが敗死してもその後、幕府から咎められて取り潰される可能性は低いとみたためであることが窺えるが、その通称名に着目すると、各々先に生まれ元服を済ませて「次郎」、「三郎」と名乗っていたことが分かる。

これまでの大友氏家督継承者は「太郎」を称することを慣例としており、貞宗や、その嫡男・千代松丸改め氏泰が長男でないにもかかわらず「孫太郎」と名乗ったのもこのためである。従って次郎貞順・三郎貞載は元服の段階から既に嫡子から外されていたことが分かる。嫡男であれば得宗北条高時偏諱」を受ける可能性もあったと思われる*57が、この2名は父から「貞」字を継いでおり、宗匡(むねただ)・即宗(そくそう)も「宗」字を引き継いでいるので同様に庶子であったとみられる。恐らく母親の身分の違いにあったのだろう。

正室・少弐氏(貞経娘)が生んだ弟の千代松丸(氏泰)を家嫡としたこの裁定に対し、その庶兄たちの対応は異なっており、庶長子・貞順は度々惣領家に背いて最終的には自害に追い込まれたのに対し、貞載・宗匡(立花宗匡、貞載後嗣)は立花家を興して分家し、惣領を継いだ氏泰の補佐にあたっている。

 

脚注

*1:古藤田太「大友氏歴代墳墓を巡る(五) ―六代大友貞宗―P.15 によれば、松野家家伝・常楽寺蔵本「大友系図」に「母戸次太郎時親女 実は大友兵庫頭平頼泰第四子也」と記載されるというが、古藤田はこれを「異様なことが述べられている」と評価する。

*2:『大日本史料』6-1 P.317

*3:『日本人名大辞典』(→大友貞親(おおとも さだちか)とは - コトバンク 参照)。

*4:『鎌倉遺文』第32巻24999号。

*5:『鎌倉遺文』第35巻26888号。

*6:『平戸記』7月26日条・『百錬抄』同日条『吾妻鏡』8月8日条・『平戸記』8月25日条

*7:『吾妻鏡』6月21日条・『百錬抄』6月27日条『吾妻鏡』7月4日条「大日本史料 第五編之三十五」(『東京大学史料編纂所報』第49号、2013年、P.34~35)も参照のこと。

*8:『吾妻鏡』宝治2年10月24日条

*9:吾妻鏡寛元2(1244)年12月20日条建長4(1252)年4月3日条 より。建長4年12月26日付「関東下知状案」(『豊後詫磨文書』、『鎌倉遺文』第10巻7507号)などでは「大友式部大夫泰直」となっているが、同8(1256)年8月11日付 「関東下知状案」(『筑後大友文書』、『鎌倉遺文』第11巻8020号)からは「頼泰」の名が現れるようになり、文永2(1265)年12月26日付「関東御教書案」(書陵部所蔵『八幡宮関係文書』29、『鎌倉遺文』第13巻9474号)にも「大友式部大夫頼泰」と見えるので、【図19】に示す通り、頼泰の初名で同一人物である。

*10:『鎌倉遺文』第31巻24011号。

*11:『鎌倉遺文』第32巻24955号。

*12:『鎌倉遺文』第32巻24959号(『豊前宮成家文書』)、24960号(『豊前永弘文書』)。

*13:『鎌倉遺文』第32巻24990号。

*14:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元亨元年8~10月、P.46

*15:『鎌倉遺文』第36巻28115号-2。

*16:『鎌倉遺文』第37巻28539号。

*17:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号。

*18:「薬醫」(やくい=薬医)とは「典薬(寮)」の唐名(→藥醫(やくい)とは - 藥醫の読み方 Weblio辞書 より)。

*19:【史料2】より頼泰に比定し得るが、「大友家過去帳」および各系図類では正安2(1300)年死去とする。また、仮にその没年齢から算出される生誕年に従えばこの当時100歳を超える長寿となり、果たして本当に頼泰が生きていたかどうかについては改めて検討が必要であろう。偶然官職と法名が一致した別人だとしても、該当する人物は今のところ確認できない。

*20:『鎌倉遺文』第38巻29216号。

*21:『鎌倉遺文』第38巻29218号、29237号。

*22:『鎌倉遺文』第38巻29743号。

*23:剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者の意。沙弥(しゃみ)とは - コトバンク 参照。

*24:『鎌倉遺文』第39巻30775号。北条貞規 - Henkipedia【史料C】を参照のこと。

*25:『鎌倉遺文』第39巻30803号。

*26:『鎌倉遺文』第40巻31036号。

*27:『鎌倉遺文』第41巻31871号。

*28:詳しくは 闡提正具(せんだい しょうぐ)とは - コトバンク を参照。

*29:注1前掲 古藤田氏論文、P.16。

*30:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)。

*31:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第9巻〉、戎光祥出版、2013年)P.181。

*32:前注前田氏論文、P.216~224の表 より作成。

*33:『大日本史料』6-1 P.7~33 の各史料参照。

*34:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元亨2年4~6月、P.2

*35:『鎌倉遺文』第38巻29334号。

*36:『鎌倉遺文』第38巻29775号。

*37:『鎌倉遺文』第39巻30187号-2。

*38:『鎌倉遺文』第39巻30264号。

*39:尊卑分脈』での貞経の注記に「筑後守 小卿 同鎮西守護 法名妙恵」とあるほか、『梅松論』上33に「太宰少弐筑後入道妙恵」、『諸家系図纂』所収「武藤系図貞経の注記に「太宰少貳入道法名妙恵」(→『史料稿本』後醍醐天皇紀・元亨元年8~10月、P.47)、『島津国史』五・道鑑公の項に「二十五日、公(=島津貞久道道鑑)少貳妙恵 筑後守貞経法名、共攻探題北条英時於博多館、英時自殺、」(→『大日本史料』6-1 P.23)とある。

*40:『大日本史料』6-3 P.127~128

*41:『大日本史料』6-3 P.126

*42:『公方様当家条々要目』(『大日本史料』6-24 P.521)に「氏泰公御袋(おふくろ)者、少貳殿御息女也、」とある。

*43:大友氏泰 紹介ページ

*44:『諸家系図纂』所収「大友氏系図」(→ 『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘三年三~六月 P.32)、『続群書類従』所収「大友系図」より。「盛綱」は『尊卑分脈』で「法名崇恵」と注記される盛経の誤記と判断できる。

*45:注1前掲 古藤田氏論文、P.14。

*46:貫達人円覚寺領について」(所収:『東洋大学紀要』第11集、1957年)P.21 に掲載の図を基に作成。

*47:左近衛将監(従六位上相当)で叙爵した(=五位に叙せられた)者。左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク より。

*48:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館 研究報告』5、1985年)P.46。

*49:注30前掲細川氏著書、P.365~367 より。

*50:注30前掲細川氏著書、P.40。

*51:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その17-阿蘇随時 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。

*52:研究室:五山文学研究室: 語録解題及び著者略伝:東海一漚集、他 (IRIZ) 参照。

*53:『大日本史料』6-1 P.313P.315

*54:渡辺澄夫『増訂 豊後大友氏の研究』(第一法規出版、1982年)P.9 より。

*55:詳しくは 大友氏泰 - Henkipedia を参照。

*56:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘三年三~六月 P.31

*57:【図19】で示した通り、大友氏庶流の戸次氏では貞直の当初の嫡男・高貞が高時の加冠により元服している。

大友氏泰

大友 氏泰(おおとも うじやす、1321年~1362年*1)は、南北朝時代の武将。

 

【図1】『尊卑分脈』〈国史大系本〉大友氏系図(一部抜粋)

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尊卑分脈』では貞宗のただ一人の息子として載せられているが、その次代・氏時(うじとき)も同じく貞宗の子*2(=すなわち氏泰の実弟)であったとされ、他の系図類を見ると実際にはその他にも多くの兄弟がいたことが確認できる。   

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▲【図2】系図類に見られる貞宗の息子たち*3

 

このうち、後に生まれた行、宗行とも)の三兄弟は「尊氏公 賜諱字」などとある通り、足利尊氏から「」の偏諱を受けていることが分かる。

 

その信憑性を確かめるべく、実際の書状で通称名の変化を見てみよう。

 

正慶2(1333)年3月13日付「沙弥具簡(大友貞宗)譲状」(『大友文書』)*4

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父・大友貞宗の譲状である。鎮西探題攻めを前にし、千代松丸を家嫡(家督継承者)に指名し、豊後守護職以下すべての所職を譲るとしている。幼少の千代松丸に譲ったのは、次郎貞順・三郎貞載を戦場に同行させ、万一自分たちが敗死してもその後、幕府から咎められて取り潰される可能性は低いとみたためであることが窺える。

また、千代松丸に跡取りが出来なかった場合は、その舎弟・亀松丸が継ぐべきであることも記しており、事実上遺言書の役割も果たしている。実際、戦死ではないものの、貞宗は同年12月に京都で亡くなっており、この書状に従って千代松丸が跡を継いだ。これより少し後に大友氏当主としての活動が見られる貞宗の次代・氏泰の幼名で間違いないだろう。 

 

 建武3(1336)年2月15日付「足利尊氏袖判御教書」(『大友文書』)*5

新院*の御気色によりて、御辺を相憑て、鎮西に発向候也、忠節他ことに候之間、兄弟おきてハ、猶子の儀にてあるへく候、謹言、

 

建武 二月十五日  尊 氏 御判

大友千代松殿     *尊氏が擁立した光厳院のことか。

 

*京都周辺・摂津で後醍醐天皇方との戦闘に敗れ、九州へと落ち延びてきた足利尊氏から、"忠節が特に優れているので、「大友千代松(丸)」の兄弟は皆、猶子の関係を認める" とした内容である。 

 

 同3年3月17日付「足利尊氏袖判御教書」(『大友文書』)*6: 「大友千代松丸

 同4(1337)年5月22日付「足利尊氏袖判御教書」(『大友文書』)*7:「大友孫太郎源氏泰

*この期間に元服したことが分かる。冒頭で前述の生没年に従うと、この当時15~16歳と適齢期である。【図2】で「尊氏将軍の猶子、賜源姓及び諱字」と書かれる通り、以前の約束に従って源姓を与えられており、その実名から尊氏の一字を受けたことは明らかである。「泰」字は曽祖父・大友頼泰*8に由来するものであろう。5男でありながら嫡男であった故に「(孫)太郎」を称したものと推測される。

 

 同5(1338)年閏7月1日付「足利直義御判御教書」(『大友文書』)*9の宛名「大友式部丞殿」

*同じく『大友文書』*10や『尊卑分脈』(【図1】)によりこれも氏泰に同定されるので、この時までに式部丞(大丞:正六位下、少丞:従六位上 相当)となったことが分かる。

 

以上5点により、足利尊氏の猶子となった大友千代松丸は、源姓を与えられ、建武3(1336)年に元服して「」の偏諱を賜った*11偏諱を受けるということは通常、烏帽子親子関係を意味するものであり、尊氏が烏帽子親(加冠役)を務めたのであろう。

室町幕府創設の前々年ではあるが、尊氏が九州へと落ち延びていた時期であることは前述の通りで、その不利な戦局を打開するための積極的な布石として「将軍家」を自称し、諸国の武士がこれを支持した事実も確認される*12

大友氏も、ゆくゆくは尊氏が将軍になることで「自己の御家人としての身分的特権の保障を期待し」*13擬制的な親子関係を結んだのであろう。尊氏は猶子関係や烏帽子親子関係をも利用して、室町新幕府の支持基盤を固めていったのである。

 

氏泰はその後、実弟氏時(孫三郎)に各所領・所職を全て譲って*14遁世し、貞治元(1362)年11月3日に亡くなったと伝えられる*15

 

脚注

*1:大友氏泰(おおとも うじやす)とは - コトバンク より。

*2:このことは氏時が「友近江孫三郎」と呼ばれていることからも裏付けられよう(→『大日本史料』6-15 P.689 参照。)。その通称名は、父が近江守でその息子・孫三郎を表すものである。

*3:渡辺澄夫『増訂 豊後大友氏の研究』(第一法規出版、1982年)P.9 より。

*4:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘三年三~六月 P.31

*5:注3渡辺氏論文、P.8 より。

*6:『大日本史料』6-3 P.230

*7:『大日本史料』6-4 P.233

*8:文保2(1318)年12月12日付「関東下知状」(『大友文書』、『鎌倉遺文』第35巻26888号)の文中に「大友左近大夫将監貞宗」、「貞宗祖父兵庫頭頼泰法師法名道忍」とあって、【図1】とは異なり頼泰が氏泰の父・貞宗の祖父にあたることが分かる。

*9:『大日本史料』6-4 P.903

*10:『大日本史料』6-5 P.626 参照。

*11:古藤田太「大友氏の歴代墳墓を巡る(六)  ―七代氏泰・八代氏時―P.43。

*12:田中大喜「総論 中世前期下野足利氏論」(所収:同編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.26。典拠は 家永遵嗣「室町幕府の成立」(所収:『学習院大学文学部研究年報』54輯、2007年)。

*13:前注田中氏論文、同頁。

*14:『大日本史料』6-17 P.44・45

*15:『大日本史料』6-24 P.519~530の各史料、および 注11前掲 古藤田氏論文 P.42 を参照のこと。

安達高茂

安達 高茂(あだち たかしげ / たかもち、1305年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、御家人。名は安達高義(ー たかよし)とも。官途は美濃守。

 

 

各史料での安達高茂とその最期

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▲【図A】『尊卑分脈』〈国史大系本〉安達氏系図より一部抜粋

 

【図A】の通り、『尊卑分脈』では安達師景の子として掲載される。 

高茂についての史料はほぼ皆無であるが、唯一『太平記』にはその最期の様子が描かれている*1鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦(1333年)を描いた部分だが、その際高時に殉じて自害した人物として、「城加賀前司師顕秋田城介師時城越前守有時……(略)……城介高量〔ママ、高景の誤記か*2同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明」と安達氏一門の人物が多く載せられる中に確認できる*3。 

太平記』は元々軍記物語であるが、【図A】と照合すると、師時有時なる者は系図上で確認できないものの、師顕の官職は師景と混同しているようで*4、残る延明(時顕)高景顕高、そして高茂*5の官職が完全に一致していることから、一定の信憑性は認められると思う。

 

 

高茂の世代と烏帽子親の推定

本節では安達高茂の世代について推定してみたい。

父・師景(もろかげ)については次の史料で実在が確認できる。

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▲【史料B】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の、施薬院使・丹波長周の注進状*6

 

この史料には【図A】にも見られる師顕も登場するが、その官職は越後権介であり、加賀守師景は【図A】での記載に一致するので、前述の『太平記』での「城加賀前司師顕」を師景の誤記と判断した次第である。師景が正和4年当時、既に加賀守従五位下相当・国守)であったことが窺えるが、ここで考えたいのが安達氏における国守任官の年齢である。 

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▲【図C】安達氏略系図*7

 

判明している事例として、安達義景の息子たちが参考になるだろう。すなわち、頼景が29歳で丹後守正六位下相当)*8泰盛が52歳で陸奥従五位上相当、秋田城介と兼務)*9顕盛が30歳で加賀守(前述参照)*10長景も30代前半以下で美濃守従五位下相当)*11に任官しているのである。

 

【表D】鎌倉時代後期における主要御家人の叙爵・国守任官の年齢*12 

叙爵年齢 国守任官年齢
北条(得宗・赤橋) 10 20
北条(金沢・大仏) 10代後半 30歳前後
足利 10代後半? 20
安達 24? 30歳前後 
長井 18? 30歳前後
宇都宮   30代前後
二階堂 20? 20代後半~30?

 

先行研究においては、叙爵や国守任官の年齢が鎌倉時代における家格秩序を考える上での重要な要素であったとされる。

【表D】に掲げたのは、鎌倉時代後期から末期にかけて寄合衆や評定衆を務めた氏族、もしくはそれに匹敵する高い家格を持った家柄であり、そんな彼らでさえも当初は30~40代以上での国守任官が一般的であった。少なくとも安達氏庶流の人物が彼らを超えることは考えにくい。 

従って、師景・高茂の国守任官も、顕盛や長景と同じ30歳前後の年齢で行われたのではないかと推測される。

 

【図A】に書かれる通り、祖父の安達重景は弘安8(1285)年の霜月騒動で兄・泰盛らと共に誅伐された*13。師景はこの年までに生まれているはずであるが、仮に同年の生まれとした場合、【史料B】の正和4年当時31歳(数え年)となり、国守任官の適齢期である。従って師景は霜月騒動の直前に生まれ、【史料B】よりさほど遡らない時期に加賀守に任官したと判断される*14

高茂はその師景の息子であるから、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、早くとも1305年頃の生まれと推定できる。1333年当時29歳(数え年)程度となり、問題なく国守任官の適齢期である。

 

【図A】国史大系本:底本は前田家所蔵訂正本に注記がある通り、複数の種類が伝わる『尊卑分脈』のうち、前田家所蔵脇坂氏本、同所引イ本、前田家所蔵一本、国立国会図書館支部内閣文庫本では実名を「(たかよし、安達高義)とするらしい。確かに「茂」字の由来は不明で、曽祖父・景の1字を用いたと考える方が現実的には感じられるが、確認できる史料は皆無であり、前述の『太平記』のほか『系図纂要(下掲【表E】)でも「高茂」が採用されている。

 

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▲【図E】『系図纂要』における【図A】と同人の部分

 

いずれにせよ「●」という名前であったことになるが、元服当時の執権と推定される北条(在職:1316~1326)偏諱を許されていたことになる。高時が烏帽子親を務めたのであろう。その経緯は不明だが、秋田城介を継いで嫡流となった時顕一家では、時顕の娘が高時に嫁ぎ*15、その兄弟であった景・顕が「高」字を受けており、そうした得宗・安達両家の関係がきっかけになっていると思われる。

 

ところで、【図A】と【図E】には「城介(秋田城介の略記)と注記されている。1326年までは時顕が務め、同年を境に嫡男・高景への継承が行われたとされ*16、1331年の段階で高景が秋田城介であったことは確実である*17から、前述の『太平記』で「秋田城介師時……城介高量〔高景〕……同美濃守高茂」と書かれることからしても、高茂が一時期でも秋田城介であったとは考え難い。「秋田城介師時」についても、高景が他の一族に職を譲っていたとは考えにくく、師時〔師顕のことか?〕と高茂の「城介」記載は依然として真相不明である*18 。【図E】は江戸時代幕末期の成立だが、【図A】での記載をそのまま引用しただけであろう。 

 

(参考記事) 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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脚注

*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№87-安達高茂 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*3:太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№86-安達師景 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。

*5:「美濃(国)」は「美乃(国)」と書かれることもあった(→ 美濃国 - Wikipedia 参照)。よって【図A】での「美乃守」は「美濃守」の表記違いである。

*6:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.19 より。

*7:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その81-関戸頼景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№88-安達顕盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№91-安達長景 | 日本中世史を楽しむ♪ によれば、弘安2(1279)年に任官。【図A】に示したが如く『尊卑分脈』では顕盛のすぐ下の弟として載せられ、顕盛と同年の生まれとしても当時35歳(数え年)となり、これより若年での任官であること確実である。

*12:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第9巻〉、戎光祥出版、2013年)P.216~224の表 より作成。

*13:これを裏付ける史料として、同年12月2日付「安達泰盛乱自害者注文」(熊谷直之所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』所収、『鎌倉遺文』第21巻15738号)中に「城五郎左衛門入道」とあり(→ 年代記弘安8年)、【図A】で「(城)五郎左衛門尉」・「出家」と注記される重景に同定される。

*14:師景の名に着目すると「景」が父・重景から継承した字であるから、「師」が烏帽子親からの偏諱と判断され、正安3(1301)年より執権となった北条師時からの一字拝領ではないかと思われる。

*15:【図E】のほか、『保暦間記』に「高時カ(が)舅秋田城介時顕」とある。

*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。

*17:安達高景 - Henkipedia を参照。

*18:【図A】や【図E】を見ると師顕の通称は「九郎兵衛」であるが、「九郎」は元来、安達氏の嫡子の呼称として継承されたものであった(福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.12)。師顕も注14に同じく師時の烏帽子子であったと思うが、【図A】にある通り父の時長は弘安8年の霜月騒動で自害しており、すると騒動で難を逃れた当時幼少であったと推測される。「顕」字を共有することから、時顕と師顕は兄弟同然のようにして育ち、形式上時顕が師顕を養子(または猶子)として当初の嫡子としていた可能性があるかもしれない。『尊卑分脈』を見ると師顕の遺児・師之の子孫は存続し、長子・師長は宗顕と同じく「太郎(兵衛)」を称し、次子・盛信とその子・盛義には「城介」と注記されるが、この家系が秋田城介家を継承したためではないかとも考えられる。但しあくまでこれは全くの推論であるため、後考を俟ちたい。

安達宗顕

安達 宗顕(あだち むねあき、1265年~1285年)は、鎌倉時代の武将、御家人

 

 

人物概要 

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▲【図1】『尊卑分脈』〈国史大系本〉より、安達氏顕盛流の系図

 

安達顕盛(1245~1280年、加賀守)の子、輩行名が「太郎」であることから長男であろう。母は第7代執権(のち連署北条政村の娘。通称は 太郎左衛門尉、加賀太郎左衛門尉。

「弘安八被誅廿一」とある通り、弘安8(1285)年の霜月騒動に際し誅伐され、遠江で自害*1。享年21。

実際の書状でも、熊谷直之所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』所収の「安達泰盛乱聞書」*2や同年12月2日付「安達泰盛乱自害者注文」*3中に「加賀太郎左衛門尉(=加賀守の "太郎"(長男)で左衛門尉の意)とあるのが確認できる*4

 

宗顕の元服北条時宗

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▲【図2】安達氏略系図*5

 

」の実名は「顕」の字が父・顕盛から継承したもの*6であるから、「」の字が烏帽子親からの偏諱と考えられるが、在世当時の第8代執権・北条時 (在職:1268~1284) から一字を許されたものに間違いない。『尊卑分脈』を見ると、本家筋の(越前守)兄弟、大室泰兄弟(景村の子)、長景の子・、時景の子・(右衛門尉)など同じく義景の孫の代の人物はほとんど「宗」字を拝領していることが分かる。元服は通常10数歳で行われたので、その時期は1270年代後半と推定される。

 

 

息子・時顕の誕生と成長

弘安3(1280)年2月8日に父の顕盛が亡くなったことは【図1】に書かれている通りである。この当時、宗顕は16歳(数え年)。既に成人し、元服も済ませていたとは思われるが、実際には若年であり、細川重男はその後の保護者として2人の候補を挙げられている*7

一人目は、伯父で惣領の安達泰盛で、父を亡くした後の甥を養子として保護した可能性を指摘している。二人目は母方の政村流北条氏で、鎌倉在住の伯父・北条政長がその候補になり得ると説かれている。

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▲【図3】安達宗顕 周辺関係図*8

 

宗顕には山河重光(山川重光)の娘との間に時顕という息子がいた(【図1】参照)。後にこの安達時顕により捧げられた「安達宗顕三十三年忌表白文」*9には「適雖出襁褓之中、未離乳母之懐中、纔雖遁戦場之庭、未離懐飽之膝上(襁褓(むつき)を出たとはいえ、未だ乳母の懐の中を離れず、辛うじて戦場を遁れたが、まだ抱きしめてくれる膝の上を離れていなかった)」とあり、父が霜月騒動連座した時、時顕はまだ幼児であったことが窺える。当時宗顕が21歳であったから間違いなかろう。

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従って、細川氏は、顕はその数年前、父の宗顕が安達泰盛や北条政長の庇護下にあった時期に生まれたものと推測されており、霜月騒動までは泰盛の孫に準ぜられていた可能性もあるが、その後も政村流北条氏の庇護下で成長し、その当主・北条(政長の兄、1287年鎌倉に帰還)を烏帽子親として元服し「」の偏諱を受けたと説かれている。

やがて時顕は、安達氏嫡流世襲の役職「秋田城介」を継承。娘は得宗北条に嫁ぎ、息子のがその偏諱を受ける形で、顕盛流安達氏と得宗家の烏帽子親子関係が宗顕の死から約20数年ぶりに復活したのである。

 

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脚注

*1:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.174。

*2:『鎌倉遺文』第21巻15736号。

*3:同上15738号。

*4:年代記弘安8年(外部リンク)を参照。

*5:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。

*6:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.3では、貞顕の父・顕時(1248年~1301年、初め時方)が、自身が仕えていた6代将軍・宗尊親王の後見・土御門顕方から1字を受けた可能性を指摘しており、ほぼ同世代である顕盛の「顕」もこれに関係するのではないかと思われる。顕時に改名したのは1260年頃らしく、当時顕盛は16歳で元服済みであったと思われるので、同様に顕方からの偏諱かもしれない。

*7:以下、細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)第二節「出自」P.142~145 に従って解説する。

*8:前注細川氏著書、P.144 より。

*9:『鎌倉遺文』第34巻26431号。

安達顕高

安達 顕高(あだち あきたか、1310年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、御家人。通称(官途)は式部大夫。『尊卑分脈』によれば、安達時顕法名:延明)の子で安達高景の弟。 

 

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▲(吉川弘文館より刊行の、国史大系本『尊卑分脉』第二巻より)

 

実名に着目すると、「顕」の字は父・時顕から継承したものであるから、「」が烏帽子親からの偏諱と考えられるが、これは言うまでもなく当時の得宗・北条時からの一字拝領であると推測される。姉または妹である時顕の娘が高時に嫁いでおり(後掲『系図纂要』参照)*1高時とは義兄弟の関係にあった。恐らく高時執権期(1316~1326年)元服と思われる。

尚、兄・景と違って「」の偏諱を下(2文字目)に置くのは、"嫡男=秋田城介継承者" 高景に対する庶子(もしくは準嫡子)に位置付けられていたからであろう。同じ安達氏だと泰盛の息子の盛景兄弟、その他北条時・時兄弟(ともに4代将軍・九条頼経の烏帽子子)などで同様の事例が確認できる。

 

ちなみに、高時の妻となった時顕の娘については、その母親(=時顕の妻)が特定されている。

すなわち、金沢流北条顕実・時雄・貞顕三兄弟の母親である入殿(遠藤為俊の娘、金沢顕時の妻)に関する史料「入殿三十五日回向文土代」(『金沢文庫文書』所収)*2の文中に「彦子為副将軍之夫人(彦子[=曽孫] 副将軍の夫人と為(な)る)」とあり、『正宗寺本北条系図』を見ると、金沢顕時の子・顕雉〔ママ、顕雄の誤記〕(=時雄*3)の娘に「秋田城之介時顕妻」と書かれることから、「入殿―時雄―女子(時顕妻)―女子(高時*4妻)」という系譜であったと考えられている*5

時顕には他に側室等の妻がいたという情報が確認できないことから、高景・顕高兄弟の母親も同じくこの女性(金沢時雄の娘)かもしれない。

 

 

さて、秋田城介として活動した父や兄に比べると、顕高に関する史料はほとんど残されていないが、元徳2(1330)年のものとされる「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*6の文中に「城式部大夫」とあり実在が認められる。

 

その他『太平記』にはその最期の様子が描かれている。鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦(1333年)を描いた部分だが、その際高時に殉じて自害した人物として、「城加賀前司師顕秋田城介師時城越前守有時……(略)……城介高量〔ママ、高景の誤記か*7同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明」と安達氏一門の人物が多く載せられている*8

 

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▲(『系図纂要』より)

 

江戸時代幕末期に成立のこちらの系図は、恐らくは『尊卑分脈』をベースに作成されているが、死去に関する注記は『太平記』での記述を採用したものであろう。『保暦間記』に基づいたのか*9、前述した高時妻の女子も追加されている。

 

この時の官職(=最終官途)が「式部大夫*10であることは『尊卑分脈』にも記されるところで、既に叙爵済みであったことは確かである。しかし、他の一族とは異なり国守には昇っていないので、恐らく30歳には達していなかったのではないか。従って、享年は20代の若さであったと推測される。

 

※この時、兄の高景も同時に自害したという前掲『太平記』『系図纂要』の記載が正しく、逆にその後津軽に落ち延びて蜂起したという説が誤りであるということは、こちらの記事で述べた通りである。あわせてご参照いただきたい。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

脚注

*1:この他、『保暦間記』に「高時カ(が)舅秋田城介時顕」の記述がある。細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.151 も参照。

*2:『鎌倉遺文』第37巻28544号。

*3:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.5。

*4:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.263~264 注(55)を参照のこと。この場合の「副将軍」は年代的に考えて高時でしかあり得ない。

*5:注1前掲細川氏著書、P.151。

*6:『鎌倉遺文』第39巻30877号。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*8:太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」。

*9:注1参照。

*10:式部丞(大丞:正六位下、少丞:従六位上 相当 → 式部の丞(しきぶのじょう)とは - コトバンク)で五位に叙せられた者の称(→ 式部の大夫(シキブノタイフ)とは - コトバンク)。

安達高景

安達 高景(あだち たかかげ、1302年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武将、御家人安達時顕の嫡男。通称(官途)は讃岐権守、秋田城介。

 

  

はじめに:主な活動歴

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)により経歴を掲げると次の通りである。

 

>>>>>>>>>>>>>>>

№90 安達高景(父:安達時顕、母:未詳)
  生年未詳
  讃岐権守(分脈。纂要「安達」)
  秋田城介(分脈。纂要「安達」)
01:嘉暦1(1326).03.  在評定衆
02:元弘1(1331).01.23 五番引付頭人
03:元弘1(1331).09.  東使
04:元弘3(1333).05.22 没
 [典拠]
父:分脈。
01:金文374にみえる嘉暦元年3月16日の評定参加メンバー西座に「前讃岐権守」とあり、高景の官途に一致。父時顕がこの年3月に出家したと推定されるので、高景はその後継としてまもなく秋田城介に任官したものと思われ、これは高景と考えられる。
02:鎌記・元弘元年条。
03:『光明寺残篇』元弘元年9月18日条。『花園天皇宸記』元弘元年10月14日条別記・20日条・21日条。鎌記裏書・元徳3年条。武記裏書・元弘元年条。
04:纂要「安達」。太平記・巻10「高時井一門以下於東勝寺自害事」の東勝寺自害者中にある「城介高量」は高景の誤記か。ただし、建武元(1334)年に北条氏一門名越時如とともに「高景」なる人物が津軽糠部郡持寄城に挙兵しており、これが『関城繹史』(『常陸史料』)の説くごとく安達高景であったとすれば、彼は鎌倉を落ち延び津軽に下ったことになる(『元弘日記裏書』<東大謄写>建武元年11月条。奥富敬之氏「鎌倉北条氏の族的性格」<森克己博士古希記念会編『史学論集対外関係と政治文化』2「政治文化 古代・中世編」、吉川弘文館、1974年>199~203頁参照)。

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高景の讃岐権守任官と世代の推定 

細川氏が前掲ブログ記事や著書*1にて言及されている通り、『常楽記』正中2(1325)年条には

 二月十二日 城讃岐権守妻他界 長崎入道息女

とある。「長崎入道」は長崎円喜に比定して良かろう*2。史料上で「城」を苗字として記載するのは秋田城介家の安達氏であり、『尊卑分脈』を見る限り、該当し得る人物は高景のみである*3。すなわちこの段階で高景は讃岐権守従五位下相当・国守の権官に任官済みであったことが分かる。同時に、円喜の娘を妻を迎えるほどの年齢に達していたことも窺えよう。前述01にある通り、翌年までには辞して「前讃岐権守」と呼称されている。

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▲【図A】安達氏略系図*4

 

安達氏一門での国守任官は、安達義景の子である、頼景が29歳で丹後守正六位下相当)*5泰盛が52歳で陸奥従五位上相当、秋田城介と兼務)*6顕盛が30歳で加賀守従五位下相当)*7長景も30代前半以下で美濃守従五位下相当)*8に任官した例が確認できるほか、次の史料により師景(重景の子)が加賀守、師顕時長の子)が越後権介であったことが判明している。

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▲【史料B】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の、施薬院使・丹波長周の注進状*9

 

権官とはいえ、秋田城介家の嫡男(継承予定者)である高景の国守任官は、これらの例より遅れるとは考え難い。従って、正中2年初頭での任官とした場合でも、この当時30歳前後よりは若かったはずである。

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続いて、父・安達時顕との年齢差を考えてみよう。時顕の正確な生年は判明していないが、細川氏は弘安5(1282)年頃の生まれと推定されている*10。1285年の霜月騒動で時顕の父・宗顕が21歳(数え年)で亡くなっている(『尊卑分脈』)ことからしても、騒動時に時顕が幼児であったことは間違いなかろう。すると、高景は早くとも1302年前後の生まれとなり、讃岐権守への任官は20代前半で行われたと推定可能である。

 

ところで、讃岐守はそれまでの安達氏には無縁の官職であったが、判明しているもの*11だけでも、第3代執権となる前の北条泰時が初めて任ぜられた国守であり*12、1300年代には、足利貞氏(正応5(1292)年?~永仁6(1298)年?、正安3(1301)年出家)*13、第13代執権となった北条基時普恩寺基時/徳治元(1306)~正和3(1314)年)*14、第16代執権となった北条守時赤橋守時/正和4(1315)年~元応元(1319)年)*15と、北条氏一門またはそれに準じた者が就任した名誉ある官職と言える*16。守時は元応元(1319)年2月18日に武蔵守に転任している*17ので、高景の任官はこれ以後ではないかと推測される。父・時顕が国守に任官しなかったのに対し、高景はかつての泰盛の弟たちよりも若い年齢での国守任官を許されている。安達氏はかつての地位を回復すると共に、高景には多大なる期待が寄せられていたのであろう。 

 

 

高景の名乗りと北条高時

安達高景の生年が1302年前後以降と推測されることは前述した通りであるが、その名乗りが裏付けの一つになると言えよう。

史料では讃岐権守となって以降の活動しか確認できないが、前節で述べたように任官に至るまでには20~30年を経ているはずであり、その間が北条高時政権期であることは明らかである。元服して「景」と名乗ったのはその間であるから、得宗時の偏諱」を許されたことが分かる。高時は1309年に元服、1311年の父・貞時の死去に伴って得宗家の家督を継承、1316~1326年まで執権を務めており*18、前述の推定生年から算出すれば、高時が得宗家当主であった期間内(1311~1326年)での元服となる。

 

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ところで、安達顕盛の系統は、得宗・北条時から偏諱を受けたようだが、細川氏の説によるとの烏帽子親は北条村であったという。時顕の子・高景の代になり再び得宗を烏帽子親にするようになったのは何故であろうか?

 

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▲【図C】秋田城介安達氏・北条得宗家関係図*19

 

まず、「高景」の名乗りに対する細川氏の見解に着目しておきたい。すなわち、歴代の秋田城介(景―義―泰―宗)の名乗りを見ると、「●盛」「●景」型で交互に名付けられていることが分かり、5代・時元服の時点で安達氏惣領となることが確定していなかったため「●盛」型で名付けられなかったものの、6代・高は秋田城介の継承者であることが決まっていたために「●景」型で命名されたのだという。●には烏帽子親からの偏諱が入るのであり、先例・形式主義の当時においては、義景以降の慣例に倣って得宗から1字を受けることの重要性があったと考えられる。得宗からの一字拝領が "秋田城介継承者の証" の意味合いを持っていたのかもしれない。

但し、「●盛」「●景」型で交互に名付けられたというのはあくまで結果論であり、時顕の名乗りが「●盛」型でないからといって、元服の段階で秋田城介継承者に確定していなかったかどうかは分からない。というのも、時顕の他に候補になり得るはずの、宗景の遺児・も、得宗時の偏諱は受けているが「●盛」型の名乗りではないからである。従って、厳密には泰盛以降、祖父の1字を用いることを慣例としたとするのが正確なのだろう。「高景」の名乗りの際、本当に歴代の名前が考慮されたかどうかは分からないが、実際のところは祖先にあたる安達景盛・義景父子にあやかったというのが真実なのかもしれない。

いずれにせよ、高景は秋田城介を継ぐことを期待されながら元服したのであった。

 

もう一つ、 高時との烏帽子親子関係成立は、時顕一家と高時との婚姻関係に連動しているものと推測される。【図C】に示した通り、高時の母は安達氏一門の出身であり、その高時に時顕の娘が嫁いでいた(『尊卑分脈』)高時とは義兄弟の関係にもなり、讃岐権守への任官も含めて、北条時―足利讃岐守*20の先例に倣った可能性を考えても良いのではないか。同じく時の義兄弟となった、弟の安達顕(あきたか)も「」の偏諱を受けたのである。 

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「秋田城介安達高景」としての活動

"関東両使"・五番引付頭人として

鎌倉年代記』を見ると、元亨2(1322)年条に「七月十二日引付頭 守時 顕実 時春 貞直 時顕」とあったものが、嘉暦元(1326)年条では「五月十三日引付頭 茂時 顕実 道順 貞直 延明」と書かれており、引付頭人のメンバーがほとんど変わらない中、執権職を辞して出家した北条高時に追随する形で、父の時顕が出家法名:延明)したことが窺える*21。以後秋田城介の職は、既に讃岐権守を辞していた嫡男の高景に引き継がれることとなる。 

【史料D】『尊卑分脈』〈国史大系本〉より一部抜粋*22 

      正慶元 後醍醐院 隠州遷幸事 為申沙汰 為関東両使上洛

 城介    城介 讃岐権守

 時顕―――高景 **同父死

 元弘三五鎌倉滅亡之時同時自害

 **号延明、元弘三年五ノ廿二、於東勝寺自殺、

 

 **=『系図纂要』にのみ記載あり*23

尊卑分脈』や『系図纂要』では、秋田城介であったこととともに、正慶元(1332)年、後醍醐天皇隠岐島に移る(=事実上は流罪)こととなった際、その沙汰を申すべく、得宗・高時の使者として上洛した*24ことが書かれているが、これについては次の史料により裏付けられる。

〔史料E〕『鎌倉年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より*25

今年元徳、…(中略)…八月…(略)…廿四日、主上竊出鳳闕、令寵笠置城給、仍九月二日、任承久例、可上洛之由被仰渡出、同五六七日、面々進発、大将軍、陸奥守貞直、右馬助貞冬、江馬越前入道、足利治部大輔高氏、御内御使長崎四郎左衛門尉高貞、関東両使秋田城介高景出羽入道道蘊、此両使者践祚立坊事云々、此外諸國御家人上洛、圖合廿万八千騎、九月廿日、東宮受禅、同廿八日、笠置城破訖、先帝歩儀令出城給、於路次奉迎、十月三日遷幸六波羅南方、同日、於楠木城第一宮尊良親王奉虜、同廿一日、楠木落城訖、但楠木兵衛尉落行云々、十一月、討手人々幷両使下著、同月、長井右馬助高冬、信濃入道々大、為使節上洛、為京方輩事沙汰也、同八日、以前坊邦良、第一宮康仁親王東宮、…(以下略)

正しくは前年の元徳3(1331)年のようだが、傍線部にある通り、高景は「出羽入道道(どううん)」こと二階堂貞藤*26とともに後醍醐天皇の退位と光厳天皇の即位を促すための使節として京都入りしたのであった*27。この時の通称名に着目すると「秋田城介」と書かれていることから、当時の段階で継承済みであることが分かる。同内容を伝える他の史料数点でも確認ができる。 

〔史料F〕『武家年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より

元徳三年元弘元

八月廿四日寅刻先帝御登山、仍為申行御治世、従関東被差上秋田城介高景出羽入道道薀於御使、九月上旬、為対治山徒等、被差上陸奥守貞直足利治部大輔高氏以下之軍勢、其後先帝御座于笠置城云々、…(以下略)

元弘二年

三月七日午刻先帝遷幸隠岐国、…(以下略)

『光厳院御記』元弘元年10月20日条に「東使両人高景 貞藤法師道薀」。

『光明寺残篇』元弘元年9月18日条に「東使秋田城介殿二階堂出羽入道殿、京著〔ママ、着カ」。

 

尚、『鎌倉年代記』同年(元弘元年)条には 「正月廿三日引付頭 貞将 貞直 範貞 俊時 高景」と書かれているが、嘉暦2(1327)年まで時顕(延明)が務めていた引付頭人の五番を継承するこの "高景" は、冒頭の職員表にある通り、秋田城介と同人で良いと思う。すなわち、鎌倉幕末期において安達高景は秋田城介を引き継ぐとともに、父がなっていた五番引付頭人をも務めたのである。

 

 

安達高景の最期と大光寺合戦

太平記』巻10には、鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦(1333年)の際、北条高時に殉じて自害した人物として、「城加賀前司師顕秋田城介師時城越前守有時……(略)……城介高量〔ママ〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明」と安達氏一門の人物が多く載せられている*28

太平記』は元々軍記物語ではあるが、『尊卑分脈』と照らし合わせると、時顕の注記(前掲【史料D】参照)のほか、顕高など他の人物での官職に概ね一致しており、ある程度史実が反映されているものと認められる。延明(時顕)や顕高らと共に自害する「城介高量」は字の類似から、細川氏がご指摘のように(冒頭職員表参照)高景の誤記の可能性が高い。

尚、ここでは秋田城介の座は "師時(もろとき)" なる人物系図上では確認できない)に移っており、一方『尊卑分脈』では美濃守高茂に「城介」の注記があって、この当時高景が秋田城介を一門の他の者に譲っていた可能性が考えられるが、あまり現実的な想定ではないだろう。

 

 

さて、冒頭の職員表で細川氏が紹介されるように、『元弘日記裏書』建武元(1334)年11月条には「高景」なる人物が北条氏一門の名越時如(ときゆき)*29とともに津軽糠部郡持寄城に挙兵したという記述があり、『関城繹史』(『常陸史料』所収)や『大日本史料』など*30では安達高景に比定するが、筆者はこれを誤りと推測する

確かに安達氏は秋田城介を世襲し、元々陸奥国安達郡の豪族ではあった*31が、鎌倉時代以降の秋田城介は武家の名誉称号となって空職化していたといい*32、実際に安達氏が東北地方陸奥・出羽など)で活動していたという記録も見当たらない。従って『元弘日記裏書』で単に「高景」とだけ記される人物が安達氏である確証はなく、義兄の北条高時や父・弟と運命を共にせず、ただ一人津軽に落ち延びたというのもやや不自然に感じる。

 

では、幕府滅亡後の津軽国における反乱(いわゆる大光寺合戦)に参加したこの「高景」は誰かと言えば、同じく高時の偏諱を受けた工藤高景に比定し得ると思う。詳しくは下記記事をご参照いただければ幸いである。 

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よって、安達高景については、この反乱とは無関係で、1333年5月22日の鎌倉幕府滅亡に殉じたとする『太平記』のエピソードを採用すべきであろう。30歳前後より若い年齢での短い生涯であったと思われるが、高時政権の事実上の最高権力者であった安達時顕・長崎円喜の、嫡男・娘婿として、「御後見之輔翼」たる安達氏秋田城介*33の最後として、義兄で烏帽子親の北条高時と運命を共にしたのであった。

 

脚注

*1:細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.152。

*2:注1前掲細川氏著書、同頁。『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」の年月日比定 について - Henkipedia も参照。

*3:注1前掲細川氏著書、同頁。

*4:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その81-関戸頼景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№88-安達顕盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№91-安達長景 | 日本中世史を楽しむ♪ によれば、弘安2(1279)年に任官。【図A】に示したが如く『尊卑分脈』では顕盛のすぐ下の弟として載せられ、顕盛と同年の生まれとしても当時35歳(数え年)となり、これより若年での任官であること確実である。

*9:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.19 より。

*10:注1前掲細川氏著書、P.143。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その89-安達時顕 | 日本中世史を楽しむ♪安達時顕 - Wikipedia もあわせて参照のこと。

*11:讃岐国 - Wikipedia #讃岐守 を参照。

*12:前注同箇所。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ では承久元(1219)年1月22日の駿河守就任を国守任官の最初とするが、上横手雅敬北条泰時』〈人物叢書〉(吉川弘文館、1958年)P.20によると、朝廷から讃岐守に任ずる話があったが辞退した、ということらしい。『草鹿文書』所収「本朝武家系図」での泰時の注記には「建保六(1218)年三月讃岐守ニ任ズ無程」とある。

*13:尊卑分脈』・『異本伯耆巻』等で足利貞氏が讃岐守であったことが確認できるが、前田治幸氏の説によると、正応5(1292)年2月の段階では惟宗某(実名不詳)が讃岐守であったが、『門葉記』冥道供七「関東冥道供現行記」正安4(1302)年2月9日条に「乾元元二月九日被修之、足利讃岐守物狂所労経年之間、物付云、大師堂前大僧正御房被修冥道供者、所労可得減云々、依之被申之、道場彼亭、去月七日歟炎上、當時亭高次郎右衛門尉私宅也、」(Twitter上より拝借)とあるので、この間に貞氏が讃岐守に補任されたとする{P.190}

他方、新行紀一氏の紹介によると、史料的信憑性が高いとされる『滝山寺縁起』「温室番帳」には、正安3(1301)年12月13日、「伊与守家源家時御菩提」(=「足利伊与守源ノ家時、弘安七年逝去、」{P.402}の17年忌)のため「讃岐入道殿」が袖判を据えた「左衛門尉師重」(=高師重)の奉書によって如法堂料田を寄進した旨の記録があり{P.287}、『北条九代記(または『鎌倉年代記』裏書)嘉元3(1305)年5月2日条にも「足利讃岐入道」が嘉元の乱の際、北条時村殺害犯の一人、海老名秀綱(正しくは季綱)を預かった記事が見えることから、正安3年8月の執権・北条貞時の剃髪に追随して出家したとする説が有力である{P.25・128・170}。『門葉記』は、他の箇所で本来「長崎左衛門尉高資」で良いところを「長崎左衛門尉高資」と記す(注9前掲細川氏著書、P.87)くらいだから、官職名については必ずしも正確さを求める必要は無いと思われる。

また、『鑁阿寺文書』には、弘安9(1286)年の落雷で焼けた鑁阿寺大御堂の再建のため造営費100貫文を寄進する旨の年未詳11月18日付「前讃岐守貞氏」発給書状が残っており{P.128・357}、正応5(1292)年10月に手斧始(てうなはじめ)、永仁4(1296)年2月に立柱、正安元(1299)年7月に上棟という流れで再建工事が進められた{P.128・P.376掲載『郷々寺役記』}ことから、田中大喜氏は永仁6(1298)年頃のものではないかと推測されている{巻末年表}が、これが正しければ正安年間より前、出家の数年前には讃岐守を辞していたことになる。

以上を総合すると、足利貞氏の讃岐守在任期間は、おおよそ正応5(1292)年~永仁6(1298)年と推定される。前述{ページ番号}は、田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年)での頁数を表す。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その42-普音寺基時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*16:北条・足利両氏は、義氏の母が時政の娘、泰氏の母が泰時の娘、頼氏の母が時頼の妹と婚姻関係を重ねており(『尊卑分脈』etc.)、貞氏についても常盤流北条時茂の外孫で、妻となった金沢流北条顕時の娘が時宗の養女であった可能性を指摘する見解がある(→ 北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について - Henkipedia 参照)ため、足利氏は血筋の面から言っても十分に北条氏一門に準ずる家柄と言えよう。

*17:前注同箇所参照。

*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪同その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*19:注1前掲細川氏著書、P.153 より。

*20:貞時と貞氏の烏帽子親子関係については『異本伯耆巻』に記述が見られ(→ 北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について - Henkipedia 参照)、注16で述べた通り、貞氏の妻が時宗の養女=貞時の養妹であれば、形式上義兄弟の関係にもなる。

*21:注9前掲細川氏著書 巻末「鎌倉政権上級職員表」No.89「安達時顕」の項(同氏のブログ記事 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その89-安達時顕 | 日本中世史を楽しむ♪ では一部文章が欠落しているためご注意を!)。

*22:『史料稿本』(→ こちら) または 安達顕高 - Henkipedia を参照のこと。

*23:『大日本史料』6-2 P.141 または 安達顕高 - Henkipedia を参照のこと。

*24:安達高景(あだち たかかげ)とは - コトバンク より。

*25:『北条九代記』と同内容。

*26:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その170-二階堂貞藤 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*27:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.136。安達高景(あだち たかかげ)とは - コトバンク(注24参照)。

*28:太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」。

*29:注9前掲細川氏著書 P.369に掲載の『前田本平氏系図』によれば、系譜は「義時―朝時―時章―篤時―秀時―時如」。「掃部助」と注記される。

*30:『大日本史料』6-2 P.135安達高景 - Wikipedia #備考 を参照。

*31:安達氏(あだちうじ)とは - コトバンク 参照。

*32:秋田城介(アキタジョウノスケ)とは - コトバンク 参照。

*33:「安達宗顕三十三年忌表白文」(『鎌倉遺文』第34巻26431号)中の「自元久至弘安為六代御後見之輔翼」より、6代の歴代得宗(義時・泰時・経時・時頼・時宗・貞時)の「輔翼(=補佐)」というのが安達氏の自家に対する認識であったという。注1前掲細川氏著書、P.159。