宇佐美貞祐
宇佐美 貞祐(うさみ さだすけ、1280年頃?~没年不詳(1336年以後))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。
前史:貞祐に至るまでの歴代当主
平安時代末期、藤原南家より出た工藤祐隆(家次、家継とも)が領していた伊豆国田方郡久須美荘のうち、伊東・宇佐美の両庄を、後妻の連れ子との間に生まれた祐継が継承し、その息子の代になって兄の祐経が伊東庄を、弟の祐茂が宇佐美庄(宇佐美荘)を受け継いだ。この祐茂(宇佐美祐茂)が地名を取って "宇佐美三郎" を称したことに始まった宇佐美氏*1は、同地を本貫(本領地)とし、貞祐は鎌倉幕府滅亡前後における当主であった。
鎌倉期の宇佐美氏については、今野慶信氏による研究*2に詳しい。今野氏は、宝永5(1708)年に成立の『南家 伊東氏藤原姓大系図』*3における伊東氏以外の他家の部分について、途中の世代で終わっていることから成立年代が中世に遡る可能性を指摘し、他の史料との照合作業を行うことでその信憑性の高さを検証されており、その中で宇佐美氏についても触れられた*4。原本の系図を示すと次の通りである。
▲【図1】『南家 伊東氏藤原姓大系図』より宇佐美氏の部分*5
まずは貞祐に至るまでの歴代当主について見ていこう。
『吾妻鏡』による今野氏の考察に基づくと、執権・北条氏との関係で言えば、祐村(すけむら)は主に泰時~時頼初期、祐氏(すけうじ)は時頼の代に活動していたことが確認できる*6。
同氏は『吾妻鏡』元久2(1205)年6月23日条の「宇佐美与一」=祐村に同定しており*7、建長4(1252)年4月1日条で「河内守祐村」と記述されるまでの間、国守への任官に40数年ほどかかっていることになる。但し、同月3日条では「河内前司祐村」となっており、この頃河内守を辞していた可能性が高い*8。
また、同日条に現れる「河内三郎祐氏」は「河内前司祐村」の子で間違いなく(通称名は河内守の三男の意)、【図1】での祐氏に一致する*9。当時は元服してさほど経っていない頃であったとみられるが、同6(1254)年~弘長元(1261)年の間は「左衛門尉」と表記されている。【図1】での「伊豆守」が正しければ、弘長年間以降の任官ということになるが、同じく元服の頃から40年以上経ってから補任されたのではないかと思われる。その時期は早くとも1290年代であったと推定される。
祐氏の子・祐行(すけゆき)が登場するのは、それから間もない頃である。今野氏は、正安3(1301)年12月、「淡路四郎左衛門尉(殿)」*10と共に伊予国への両使となった「宇佐美六郎(殿)」(『伊予大山積神社文書』)*11、嘉元2(1304)年4月15日、京都賀茂祭に二階堂忠貞・二階堂貞藤と共に検非違使として参加した「祐行 同(=関東)、号宇佐美判官」(『実躬卿記』同日条)を史料での初見としている*12。
以後しばらくは、宇佐美氏の活動を確認できない。次に現れるのが鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての「宇佐美摂津前司」である。これについて節を改めて紹介しよう。
鎌倉末期における「宇佐美摂津前司」
鎌倉時代末期の元弘の乱に関する次の史料(表)をご覧いただきたい。
〔表A〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)
楠木城 | |
一手東 自宇治至于大和道 | |
陸奥守(大仏貞直) | 河越参河入道(貞重) |
小山判官(高朝) | 佐々木近江入道(貞氏) |
佐々木備中前司(大原時重) | 千葉太郎(胤貞) |
武田三郎(政義) | 小笠原彦五郎(貞宗) |
諏訪祝(時継カ) | 高坂出羽権守(信重) |
島津上総入道(貞久) | 長崎四郎左衛門尉(高貞) |
大和弥六左衛門尉(宇都宮高房) | 安保左衛門入道(道堪) |
加地左衛門入道(家貞) | 吉野執行 |
一手北 自八幡于佐良□路 | |
武蔵右馬助(金沢貞冬) | 駿河八郎 |
千葉介(貞胤) | 長沼駿河権守(宗親) |
小田人々(高知?) | 佐々木源太左衛門尉(加地時秀) |
伊東大和入道(祐宗カ) | 宇佐美摂津前司 |
薩摩常陸前司(伊東祐光?) | □野二郎左衛門尉 |
湯浅人々 | 和泉国軍勢 |
一手南西 自山崎至天王寺大路 | |
江馬越前入道(時見?) | 遠江前司 |
武田伊豆守(信武?) | 三浦若狭判官(時明) |
渋谷遠江権守(重光?) | 狩野彦七左衛門尉 |
狩野介入道(貞親) | 信濃国軍勢 |
一手 伊賀路 | |
足利治部大夫(高氏) |
結城七郎左衛門尉(朝高) |
加藤丹後入道 | 加藤左衛門尉 |
勝間田彦太郎入道 | 美濃軍勢 |
尾張軍勢 | |
同十五日 | |
佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参 | |
同十六日 | |
中村弥二郎 自関東帰参 |
〔表B〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32136号)
大将軍 | |
陸奥守(大仏貞直)遠江国 | 武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国 |
遠江守尾張国 | 武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国 |
駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国 | 足利宮内大輔(吉良貞家)三河国 |
足利上総三郎(吉良貞義) | 千葉介(貞胤)一族并伊賀国 |
長沼越前権守(秀行)淡路国 | 宇都宮三河権守(貞宗)伊予国 |
佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 | 小笠原五郎阿波国 |
越衆御手信濃国 | 小山大夫判官(高朝)一族 |
小田尾張権守(高知)一族 | 結城七郎左衛門尉(朝高)一族 |
武田三郎(政義)一族并甲斐国 | 小笠原信濃入道(宗長)一族 |
伊東大和入道(祐宗)一族 | 宇佐美摂津前司一族 |
薩摩常陸前司(伊東祐光?)一族 | 安保左衛門入道(道堪)一族 |
渋谷遠江権守(重光?)一族 | 河越参河入道(貞重)一族 |
三浦若狭判官(時明) | 高坂出羽権守(信重) |
佐々木隠岐前司(清高)一族 | 同備中前司(大原時重) |
千葉太郎(胤貞) | |
勢多橋警護 | |
佐々木近江前司(六角時信) | 同佐渡大夫判官入道(京極導誉) |
(*以上2つの表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。)
元弘元(1331)年、後醍醐天皇が笠置山、その皇子・護良親王が吉野、楠木正成が下赤坂城にてそれぞれ倒幕の兵を挙げたのに対し、9月初頭、幕府は討伐軍を差し向け上洛させることを決定、その軍勢のメンバーの中に「宇佐美摂津前司」なる人物が見られる。〔表B〕を見れば、この人物は宇佐美氏一族をまとめる惣領の立場にあったことが窺えよう*13。
『建武記』(『建武年間記』)には、延元元(1336)年4月、建武政権での武者所六番に結番された人物として「宇佐美摂津前司 貞祐」が見える*14。通称名が共通し、年代の近さからいっても〔表A〕〔表B〕での「宇佐美摂津前司」も貞祐であると考えられよう*15。【図1】での祐行の嫡男・摂津守貞祐に同定される*16。
正安3年の「宇佐美六郎」について
以上2節での考察を照らし合わせると、一つの問題点が生ずる。
「摂津前司」とは「前摂津守」の意味であり、元弘元年の段階で貞祐は既に摂津守を辞していたことになる。前節で紹介した祐村と同じであれば、摂津守任官まで40数年を経て、当時貞祐は50歳近くに達していたのではないかと推測される。
正安3(1301)年の「宇佐美六郎」は、無官の通称名であることから、前述の「河内三郎祐氏」に同じく元服して間もない頃であったと思われるが、これを祐行とする今野氏の説を採用すると、貞祐とほぼ同年代となってしまい、親子関係に矛盾が生じてしまうのである。どのようにして再考すべきであろうか。
「六郎」と「摂津守」は【図1】において祐行・貞祐父子に共通する通称名(輩行名)、官職である。すなわち、これを信ずれば、「宇佐美六郎」が祐行・貞祐のいずれかでも、最終的に摂津守に任ぜられたということになる。
正安3年の「宇佐美六郎」が40数年かけて摂津守に任ぜられた場合、その時期は1340年代となるが、それより少し前の延元元年に「宇佐美摂津前司 貞祐」が現れているのである。 従ってこの「宇佐美六郎」は「宇佐美判官祐行」と同人なのではなく、その息子・貞祐に比定すべきであろう。
正安3年から〔表A〕〔表B〕の元弘元年までの間、約30年。この30年の間に貞祐が摂津守に任ぜられたことになる。その家によって多少異なりはするが、叙爵や国守任官の年齢は時代を下るにつれて低年齢化の傾向にあったことから、摂津守になるまでの期間が祖先に比べて短くなっている点は問題ないと思う。前田治幸氏の研究によれば、この頃の国守任官は、家格の高い北条氏一門や足利氏でさえも概ね20代、他の御家人でも30代~40代(またはこれより高年齢)での就任が一般的であった*17。
*もう一つの理由として、祐氏との関係がある。祐氏(河内三郎)・六郎の史料での初見を元服適齢期の10数歳とした場合、息子の祐行が生まれた時、祐氏は50歳程度に達していたことになるが、鎌倉時代当時の親子の年齢差としては離れ過ぎているようにも思える。【図1】で祐行の弟を数名載せていることから考えても、祐氏になかなか男子が生まれなかったとは考えにくいだろう。そして、六郎=祐行が正安3(1301)年当時10数歳~20代であったとすると、子の貞祐は早くとも1310年前後の生まれとなり、貞祐が延元元(1336)年までの20数年間で国守に任官し辞任したことになってしまうので、この点から言っても成り立たないように思う。
尚、推測にはなるが、貞祐が「宇佐美六郎」と呼ばれたのは、既に父である「宇佐美判官祐行」が検非違使となっていたからだろう。よって祐行の当初の通称名も同じく「六郎」であったと判断され(例えば、【図1】での通称名に対する注記「イ七(異説では七)」を採用し祐行が「七郎」であった場合、貞祐は「七郎六郎」と呼ばれる可能性が高くなる)、正安3年の段階では検非違使であったと思われる(同年の段階で祐行も「六郎」を称していたなら、貞祐は「宇佐美新六郎」「新宇佐美六郎」等と呼ばれるか、或いは「又六郎」「孫六」「彦六」等の呼称で区別された筈である)。
北条貞時との烏帽子親子関係
貞祐の元服
正安3年とは、第9代執権・北条貞時が出家して辞職した年でもある*18。よって、「宇佐美六郎」の元服当時の執権は貞時であったことはほぼ間違いなかろう。
そして「宇佐美六郎」=貞祐とした場合、その名は貞時の偏諱「貞」を許されていることになる。実際に烏帽子親子関係が結ばれたと考えるほかない。「貞」の偏諱については今野氏が既に指摘されていることで、同氏が別の論文でまとめた鎌倉時代の元服の事例の中には、貞時が烏帽子親を務めた例も確認できる*19。【図1】で見ると宇佐美氏一族のほとんどの者が「祐●」型の名乗りである中で、貞祐がその例外である理由を考えると、貞祐の「貞」が貞時の偏諱とする今野氏の説*20は正しく、この点から言っても「宇佐美六郎」=貞祐で間違いないと判断できよう。
烏帽子親子関係成立の理由
宇佐美氏嫡流の歴代当主の中で得宗と烏帽子親子関係を結んだのは、貞祐が唯一である。何故貞時の偏諱を受けることになったのであろうか。
宇佐美氏は祐茂の後、祐政・祐村・祐員(祐光)の3流に分かれたが、「三郎」の仮名を引き継いでいることからも、長男・祐政の系統が本来の嫡流だったのではないかと思われる。ところが【図1】には祐政の子・祐泰の項に「祐時養子日州下向」と書かれている。今野氏は本宗家・伊東祐時の養子となって日向に下向したのではないかと解釈されている*21が、祐泰の子・祐治が縣四郎、孫・祐道が石塚八郎を称したのに対し、「三郎」を称する家系が祐村流の「河内三郎祐氏」に移っていることからすると、祐政の系統は宇佐美氏の嫡流から外れたのであろう。
紺戸淳氏によると、嫡流の地位と、得宗家との烏帽子親子関係と、氏族相伝の職の帯有とはいずれもが不可分で、得宗からの一字は「嫡流の地位と、相伝の職帯有の資格の象徴」であったという*22。実際、鎌倉時代末期の段階では、祐村流の貞祐が宇佐美氏を代表する立場にあったのである(前掲〔表B〕)が、その立場を確立するにあたっては得宗に加冠を求める必要があったのであろう。
また、貞時執権期当時には一字付与の対象が拡大していることが注目される。歴代当主のうち単独で偏諱を受けたとみられる人物は、佐竹貞義*23、渋川貞頼、土岐頼貞、桃井貞頼、山河貞重(山川貞重)*24などが挙げられる。貞時は、五方引付を廃止し、執奏という組織を設けることで全ての裁判を自分のもとに上げさせて裁許しようと試み、また従弟の師時、宗方を重用して脇を固めることで得宗家への権力集中を目指しており、その政治は得宗専制の名に相応しき絶頂期の姿であったと評価されている*25。一部の者は婚姻関係が契機となっている可能性もあるが、貞時自身としては権力基盤形成のため、烏帽子親子関係を通じてあらゆる御家人を統制する考えがあったのではないかと推測される。
ここに、貞時と、得宗への接近を図る宇佐美氏双方の思惑が合致し、烏帽子親子関係が結ばれる運びとなったのであろう。すなわち、宇佐美祐行は我が子(貞祐)の元服に際し、政権への協調姿勢を示す意図もあって、時の執権でもあった得宗・貞時に加冠を依頼したものと思われる。
「宇佐美六郎」(=貞祐)は幕府の使者として派遣されたが、これも出家したばかりの得宗(前執権)・貞時の意向によるものであったとみられ*26、事実上得宗被官化していたとも言えよう。貞祐は元服して間もない頃から貞時に重用されたのである。尚、国守にまで昇進した、正安3年「宇佐美六郎」から元弘元年「宇佐美摂津前司」までの約30年間、貞祐の具体的な活動は確認できないが、当時の史料の残存状況を考えればこの問題はクリアできると思う。
元弘3(1333)年12月29日、足利尊氏は上杉五郎に宇佐美郷を勲功賞として与えている(『上杉文書』)*27が、北条氏と親密な関係にあったために宇佐美氏の本領が元弘没収地となったとされる*28。『太平記』には、同年正月の楠木正成挙兵に際しての幕府軍のメンバーに「宇佐美摂津前司」が書かれている*29から、貞祐は鎌倉幕府滅亡時まで北条氏に従い、敗北後に建武政権に恭順したのであろう。以後京都の新田義貞方として活動したという*30が、晩年期の詳しい動向は不明である。
これに対して従弟の宇佐美祐清(三河守)は足利方について関東廂番に抜擢され(『建武記』)*31、その息子とみられる「宇佐美三河三郎祐尚」は康永4(1345)年の尊氏の天龍寺供養に同行している(『後鑑』)*32。元来の家督が名乗った「三郎」を称していることから、宇佐美氏惣領の座は貞祐の没落によりこの系統に移ったのかもしれない。
まとめ:年表
● 1270~80年代の生まれか。執権・北条貞時(在職:1284~1301)の加冠により元服、偏諱を賜り宇佐美六郎貞祐を称す。
● 正安3(1301)年12月:淡路四郎左衛門尉(宗業、長沼氏カ)とともに伊予国への両使。
● 嘉元2(1304)年4月15日:京都賀茂祭に父・祐行が検非違使として参加。
● この間、摂津守へ任官および辞任。
● 元弘元(1331)年9月:笠置山の戦いに際し、幕府方として参加。
● 元弘3(1333)年正月:楠木正成第2次挙兵に際して、幕府方として参加。
● 同年5月の幕府滅亡後、本領の宇佐美郷が収公され、同年12月29日、足利尊氏により上杉五郎(尊氏の従弟・上杉憲顕の子?)に与えられる。
● 延元元(1336)年4月:建武政権での武者所六番に結番。
脚注
*1:宇佐美氏 - Wikipedia 参照。
*2:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編『中世武家系図の史料論』上巻、高志書院、2007年)。
*3:前注今野氏論文のほか、飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯、1977年)や『伊東市史 史料編 古代・中世』(2006年)にも掲載。
*4:注2今野氏論文、P.120~123。
*5:注2今野氏論文、P.134より。
*6:注2今野氏論文、P.120。
*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、本項では1992年刊の第5刷を使用)P.409「祐村 宇佐美」の項では、暦仁元(1238)年2月28日条・6月5日条での「宇佐美与一左衛門尉祐村」と同人とし、寛元2(1244)年まで6回登場する。
*8:『吾妻鏡人名索引』P.409「祐村(氏不詳)」の項では、康元元(1256)年6月29日条の「河内守」も祐村とするが、これは「前河内守(または河内前司)」の誤記なのであろう。
*9:これにより、『吾妻鏡人名索引』で別人となっていた「宇佐美与一左衛門尉祐村」と「河内守祐村」を同一人物とする今野氏の説(注2今野氏論文 P.122)が正確であることが裏付けられよう。
*10:同じく『大山積神社文書』に収められている前年8月18日付「六波羅御教書案」(『鎌倉遺文』第27巻20583号)の「淡路四郎左衛門宗業」と同人と判断されるが、「宗」の通字からも「淡路四郎左衛門尉」と呼ばれた長沼時宗・宗泰(『吾妻鏡人名索引』)の血縁者ではないかと思われる。彼らは淡路守護を務めたとされる(→長沼時宗(ながぬま ときむね)とは - コトバンク、長沼宗泰(ながぬま むねやす)とは - コトバンク 参照)が、『尊卑分脈』を見ると長沼氏の系譜は「宗政―時宗(淡路守)―宗泰―宗秀(淡路守)―秀行」となっており、「宗業」なる人物がいない(通称名は淡路守の四男を表すものである)。永仁2(1294)年に成立のものとされる白河集古苑所蔵「結城系図」(結城錦一氏旧蔵『結城家文書』所収)でも「宗政―時宗―宗泰―宗秀(左衛門尉)」と載せており(市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 ―系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編『中世武家系図の史料論 上巻』、高志書院、2007年)P.69)、正安元(1299)年12月6日には「左エ門尉藤原宗秀」が「亡父左衛門尉宗泰法師法名覚源」の遺領を継いだことが確認できる(→『編年史料』後伏見天皇紀・正安元年12月 P.4)ので、宗秀と同世代とは思われる。或いは同人の誤記かもしれない。
*11:『鎌倉遺文』27巻20916号、20924号。
*12:注2今野氏論文、P.122。
*13:注2今野氏論文、P.120。
*15:注2今野氏論文、P.120。
*16:前注に同じ。
*17:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第9巻〉、戎光祥出版、2013年)P.216~224の表を参照。
*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*19:鎌倉時代の一字付与 - Henkipedia で紹介の、今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)による。
*20:注2今野氏論文、P.120。
*21:注2今野氏論文、P.122。
*22:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』二、1979年)P.22。
*23:『結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.297。
*24:前注同箇所、および、樋川智美「鎌倉期武家社会における婚姻の意義 -小山・結城氏の事例による考察-」(所収:荒川善夫編著 『シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻 下総結城氏』(戎光祥出版、2012年)P.142-143)。
*25:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.196。詳しくは、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)第二部第二章「嘉元の乱と北条貞時政権」を参照のこと。
*26:前注細川氏著書 P.299によれば、嘉元2(1304)年の北条宗方の得宗家執事および侍所所司就任~同3(1305)年嘉元の乱の間が貞時専制の最盛期であったとされ、貞時は出家後数年の間も鎌倉政権の最高主導者であったとみられる。幕府からの「両使」については 使節遵行 - Wikipedia を参照。
*27:『鎌倉遺文』第42巻32807号。『静岡県史 資料編中世2』28号。伊東市史編集委員会・伊東市教育委員会編『伊東の歴史1 原始から戦国時代』(『伊東市史 通史編』、伊東市、2018年)「宇佐美郷と上杉五郎」の節。同日には「上椙兵庫蔵人」が尊氏より伊豆国奈古屋郷(田方郡奈古屋村)の地頭職を与えられており(『大日本史料』6-1 P.344)、田辺久子『上杉憲実』〈人物叢書〉(吉川弘文館、1999年)P.83 や 花ヶ前盛明『越後 上杉一族』(新人物往来社、2005年)P.11 では上杉憲房(尊氏の母方の伯父)に比定するが、通称名からすると翌年正月に設置の関東廂番の二番となった蔵人憲顕(『大日本史料』6-1 P.421 参照、兵庫頭憲房の子、1306-1368)ではないかと思われる。「上杉五郎」は元服してさほど経っていない人物とみられ、この上杉憲顕の息子の世代に相当すると考えられよう。
*28:注2今野氏論文、P.120。
*29:『太平記』巻6「関東大勢上洛事」。この部分については谷垣伊太雄「『太平記』巻六の構成と展開」(所収:大阪樟蔭女子大学編『樟蔭国文学』第26号、1989年)P.38を参照のこと。
*30:注2今野氏論文 P.120・122。
*32:注2今野氏論文 P.122~123。
*33:注2今野氏論文、P.123より。
【コラム】三井季成 ~竹崎季長の烏帽子親~
この絵は、元寇における竹崎季長(たけざき・すえなが) の戦いぶりを描いた『蒙古襲来絵詞』(以下『絵詞』と略記)に掲載のものである。この『絵詞』には季長の烏帽子親についての貴重な情報がある。
【史料】竹崎季長絵詞 5 より
関東へ参ぜむとするに、しゆゑの御房、御とゞめありしを上るによて、御不審をかぶるを「御とゞめあらむために、一旦の仰にてぞあらむずらん。さだめて用途は給らむずらん」とふかく身を頼みて、同六月三日卯の時、竹崎をたて上るに、いよいよ御不審ふかくなるにつきて、うちの者共一人もうち送りする者だにも無かりし程に、ふかく恨をなし奉りて、中間弥二郎・又二郎二人ばかり相具して上る。用途には、馬・鞍を売りたりしばかり也。「今度上聞に不達ば、出家してながく立帰事あるまじ」と思ひしほどに、熊野先達をかの法眼けうしむのもとに打寄て、「御祈精候べし」と申さむと思ひしを、見参せばはなむけなどもあらむずらん、これより御布施を参らせてこそ祈りにはなるべき間、僅かなる用途一結、使者をもて参らせて、「よくよく御祈精候べし」と申て、うち通りて 関につく。
時の守護三井新左衛門季成、烏帽子親たりしにつきて見参せしに、遊君どもを召して名残りを惜しみ、「海道に召され候へ」とて、河原毛なる駒に用途あひそへて、はなむけにせらる。八月十日、伊豆国三嶋大明神に詣りて、かたのごとく御布施を参らせ、一心に弓箭の祈りを申。同十一日、箱根の権現に詣りて、御布施を参らせて信心をいたし、祈精申。
(http://www.geocities.jp/ochappy_l/genko/s_1/t_ekotoba_05.html に掲載の『日本思想大系21 中世政治社会思想 上』(岩波書店、1972年)より)
文永の役後の建治元(1275)年6月3日、竹崎季長は先駆けの功を直接上申するため、鎌倉へと旅立ったが、その途上長門国の関にて「烏帽子親」である「三井新左衛門季成」に歓待されたという。この三井季成とは「季」の字を共有していることは見て明らかであり、季長の元服に際して季成が加冠役を務め、その偏諱を受けて季長と名乗ったことが窺える。冒頭の絵には文永の役(1274年)当時、季長は29歳であった(肥後国竹崎五郎兵衛季長 生年二十九)と書かれており、逆算すると寛元4(1246)年生まれ、元服の時期はその十数年後であったと推測できよう。
文永の役に際しては、総大将・少弐景資のもとに、姉婿(義兄)の三井三郎資長(三井資長)、旗指の三郎二郎資安らとともに参陣したという。前述の内容を踏まえると、資長は季成と同族と考えられ、資安も通称名から資長の息子と判断される*1。
また、「長門国守護代記」*2によると、当時の長門守護「信濃四郎左衛門尉行忠」=二階堂行忠の守護代に「三井宮内左衛門資平」(三井資平)の記載があるが、これも近親者と考えられよう。その判断材料として、藤原定能*3の五男・資平*4以降、「資」字が三井氏で通字として用いられていることが分かる*5が、実は少弐氏の歴代当主*6に関係があるのかもしれない。季成が例外的にこの字を使用していないことを考えると、三井氏が少弐氏と烏帽子親子関係を結んでいた可能性を考えても良いのではないかと思う。但しこの点については根拠に欠けるのであくまで推論に留めておきたい。
(参考記事)
脚注
*1:佐々木哲氏の説による。佐野氏を探る(1) 佐野信吉 と 谷重則 - 「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙 を参照のこと。
*2:「旧藩別置記録」山口県文書館『山口県史資料編中世(1)』1979年。
*3:藤原定能 - Wikipedia、藤原定能(ふじわらの さだよし)とは - コトバンク 参照。
*5:他にも『続群書類従』所収「佐々木系図」(巻132) によれば、佐々木泰清の5男・茂清の妻の父が三井資忠であるといい、この例に該当する。同系図では次男・重栖四郎左衛門宗茂の項にも「母三井藤内左衛門藤原資忠女」、四男・六郎宗経の項に「母同上」と記されている。注1外部リンク、および 出雲佐々木氏の婚姻2: 資料の声を聴く(外部リンク)による。
*6:系譜は、資頼―資能―経資―資時(景資は経資の弟)。
大仏維貞
北条 維貞(ほうじょう これさだ、1285年~1327年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人、北条氏一門。
北条時房の子・朝直を祖とする大仏流より第11代執権となった北条宗宣(大仏宗宣)の嫡男で、大仏維貞(おさらぎ ー)とも呼ばれる。
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詳細な活動内容・経歴については 北条維貞 - Wikipedia を参照のこと。
(参考記事)
本項では名乗りの変化について紹介する。
山野龍太郎氏によると「宗宣―維貞―高宣」は「時宗―貞時―高時」の各々1字を受けており、大仏流北条氏は得宗と烏帽子親子関係を結ぶ家柄であったと説かれている*1。但し、紺戸淳氏が論ずるように、時宗以降は大仏流の庶子に対しても関係を結ぶことが徹底されており、宗宣の弟は宗泰、貞房、貞宣と名乗り、高宣の末弟も高直と称している*2。彼らの名乗りに着目すると、そのほとんどが得宗から通字「時」でない方の1字を受け、それを実名の上(1文字目)にしたことが分かるが、維貞だけは例外となる。
ところが、『鎌倉年代記』(または『北条九代記』)嘉暦元(1326)年条の維貞の項を見ると「本名 貞宗」とある*3。すなわち初めは「貞宗(さだむね)」と名乗っていたのである。得宗・貞時からの偏諱「貞」を上に頂き、父・宗宣から「宗」字を継承して実名を構成したのであろう。すなわち、維貞だけが例外だったのではなく、「宗宣―貞宗―高宣」全員が得宗からの偏諱を1文字目にしたのである。
では「維貞」に改名したのはいつ頃であろうか。
同じく『鎌倉年代記』を覗くと、徳治2(1307)年条に
「正月廿八日引付頭 一 凞時 二 国時 三 基時 四 時高 五 維貞 六 顕実 七 道雄」
と書かれており*4、北条凞時や長井宗秀(法名:道雄)が改名または出家後の名前、時高(のち高時の偏諱を避けて斎時)*5が改名前の名前で表記されていることから、この当時の段階では「維貞」に改名済みであったと考えられる。
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こちら▲の記事で紹介した通り、最終的に父・宗宣から執権職を継いだ凞時も当初は同じく貞時の偏諱を受けて「貞泰」と名乗っていた。正安3(1301)年までには「凞時」と名乗っており、貞時出家の前後あたりでの改名ではないかと推測した。改名の動機を考えれば、恐らく維貞も同様だったのではないかと思われる。
その際、貞時がいまだ存命ながら、その偏諱「貞」を2文字目にしており、後の時代では不遜と捉えかねない行為であるが、特に重要視されなかったようである。一方の「維」は、祖先と仰ぐ「平維将―平維時」(『尊卑分脈』)に由来するものと思われる*6が、平維将・平維時はともに貞時(得宗)にとっても直接の先祖にあたるわけで、貞時にとっては許容の範囲内だったのかもしれない。
【史料】『存覚一期記』(『常楽台主老衲一期記』)より
…仏光寺空性初参俗体弥三郎、六波羅南方越後守維貞家人比留左衛門太郎維広之中間也、初参之時申云、於関東承此御流念仏、知識者甘縄了円、是阿佐布門人也、而雖懸門徒之名字、法門已下御門流事、更不存知、適令在洛之間、所参詣也、毎事可預御諷諫云々…其後連々入来、依所望、数十帖聖教或新草或書写、入其功了…
(http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?p=21 より拝借*7)
尚、この史料により、六波羅探題南方在任の頃からの維貞の家人に比留維広(ひる・これひろ)という人物がいたことが確認される。この人物は了源(空性)が「中間*8」として仕えていた者として記載されている*9が、主君の維貞とは「維」字を共有しており、維貞から偏諱を受けたのではないかと思われる。
(関連記事)
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脚注
*1:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年))P.182 注(27)。
*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』二、1979年)P.15・21・23。
*5:『尊卑分脈』時高の注記に「改斉時」とあり、『鎌倉年代記』を見ると「三月十五日引付頭 一 凞時 二 国時 三 貞時〔ママ、貞顕〕 四 基時 五 斎時 六 維貞 七 顕実、八月止凞時頭」と書かれている。本文に掲げた徳治2年条とメンバーがほとんど変わらない中で時高が改名したことが窺えよう。
*6:「維貞」と書かれる史料が多く残る中で唯一『尊卑分脈』では表記を「惟貞」とするが、この観点から言っても「維貞」が正しいと判断される。
*7:『大日本史料』6-37 P.30 にも掲載あり。併せて参照のこと。
*9:園田香融・東元治「関西法律学校と天満興正寺」(所収:『関西大学年史紀要』第3号、1978年)P.241。津田徹英「中世真宗の「一流相承系図」をめぐって : 京都・長性院本ならびに広島・光照寺本の熟覧を通じて」(所収:『美術研究』418号、国立文化財機構東京文化財研究所、2016年)P.206。
北条煕時
北条 煕時(ほうじょう ひろとき、1279年~1315年)は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府第12代執権。父は政村流北条時村の子・為時。
初名は北条貞泰(さだやす)。実名(諱)は史料によって「熈時」(入来院本「平氏系図」など:後述参照)「凞時」(国史大系本『尊卑分脈』など) 「凞時」(『鎌倉年代記』など:後述参照) とも表記される。
詳しい活動内容・経歴についてはこちら▼を参照。
新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)
本項では名乗りの変遷について紹介する。
『鎌倉年代記』(または『北条九代記』)応長元(1311)年条の凞時の項を見ると「本名 貞泰(さだやす)」とある*1。これは、鎌倉時代末期頃の成立とされる次の系図でも確認できる。
貞泰の項に「今者熈時(今は熈時)*3」と書かれており、貞泰と書かれた後に改名後の名前を追筆したのではないかと思われる。
よって、当初は北条貞泰と名乗っていたことが分かる。「泰」は北条泰時に由来する字、「貞」は得宗・北条貞時からの偏諱であろう。貞泰(煕時)は、貞時の娘を妻に迎えていた*4。
では「煕時」に改名したのはいつ頃であろうか。
再び『鎌倉年代記』を覗くと、正安3(1301)年条に
「八月廿二日引付頭 一 久時 二 宗泰 三 時家 四 凞時 五 宗秀」
と書かれているが、管見の限りこれが「凞時」という名の初出である。得宗・貞時が執権職を辞して出家しており、これに追随して出家した長井宗秀が翌年から「道雄」と書かれるようになっている*5ので、ここでの表記は当時の名乗りと考えて良いだろう。
冒頭前掲職員表によると生年は1279年とされ、ここから元服の年次を推定すると、1288~1293年となる。貞時執権期であり、偏諱を受けて「貞泰」と名乗るには妥当な時期と言える。1293年は左近将監となって叙爵した年であり、仮に同年での元服としても、1301年まで僅か8年である。特に貞時と対立したという史実は伝わっておらず、貞時執権期に「貞」の偏諱を改める理由は無いと思われるので、改名を行ったのも1301年頃と考えて良いだろう。従って、長井宗秀の出家と同様に、貞時出家に伴っての改名であったと推測される。
脚注
*2:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.11~12 より。
*3:漢文上で名詞の後に付いて主語を提示したり語勢を強めたりする「者」は「~は」と読み(『漢文学習必携 増補版』(京都書房、初版1999年、本項では2009年の第6刷を使用)P.102 より)、事実上現在使われる助詞の「は」と同様の働きをする。者字短語2 名詞+者 日本漢文の世界 kambun.jp、は (者の変体仮名) - Wikipedia も参照。
*4:嫡男・茂時の母が貞時の娘。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その48-北条茂時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
三浦頼盛
三浦 頼盛(みうら よりもり、1235年頃?~1290年代?)は、鎌倉時代の武将、鎌倉幕府の御家人。法名は道法。頼盛の「頼」は執権・北条時頼の偏諱だろう。
『吾妻鏡』における頼盛の活動
父・盛時は三浦氏の庶流・佐原氏の出身であり(後掲【三浦氏系図】参照)、『吾妻鏡人名索引』*1によれば、初めは「佐原五郎左衛門尉」と呼ばれていたが、宝治合戦で本家筋の三浦泰村一族が滅ぼされた1247年頃から「三浦五郎左衛門尉」と呼ばれるようになり、同年末からは三浦氏家督として「三浦介」を称して家の再興が許されている*2。
盛時から「三浦介」を継いだ嫡男・頼盛の活動も『吾妻鏡』において多く見られる。『吾妻鏡人名索引』*3に従って作成すると次のようになる。
【表α】『吾妻鏡』における三浦頼盛の活動
年 | 月日 | 表記 | 内容 |
建長3(1251) | 8.24 | 三浦介六郎 | 5代将軍・藤原頼嗣の由比ヶ浜での笠懸、犬追物に供奉。 |
康元元(1256) | 7.17 | 三浦介六郎頼盛 | 6代将軍・宗尊親王の山ノ内最明寺参詣の際の「御車網代庇」の一人。この時、父の三浦介(盛時)も同行。 |
8.16 | 三浦介六郎頼盛 | 将軍・宗尊の指名により流鏑馬の射手。 | |
11.23 | 三浦介盛時 | 父・盛時、北条時頼に追随して出家。 | |
正嘉2(1258) | 6.17 | 三浦介六郎左衛門尉 | 来たる鶴岡八幡宮での放生会の供奉人のリスト中に名前あり。 |
8.15 | 三浦介六郎頼盛 | 同放生会にて五位の随兵。 | |
文応元(1260) | 11.22 | 三浦介六郎左衛門尉頼盛 | 将軍・宗尊の二所詣での精進潔斎の際の「御輿」(SP役)。 |
弘長元(1261) | 4.25 | 三浦介六郎左衛門尉 | 極楽寺での屋敷での笠懸における射手の一人。 |
7.2 | 三浦介六郎左衛門尉 | 流鏑馬の役を兼ねるため、来たる放生会での随兵を辞退する旨を申し出るが認められず。 | |
8.15 | 三浦介六郎左衛門尉頼盛 | 鶴岡八幡宮での放生会にて先陣の随兵の1人。 | |
弘長3(1263) | 7.13 | 三浦介 | 将軍・宗尊の新御所への移徒の際の供奉人を所労により辞退。この時までに、既に出家した父と同じく三浦介となる。 |
8.9 | 三浦介頼盛 | 将軍・宗尊上洛の際の供奉人。 | |
文永2(1265) | 1.3 | 三浦介頼盛 | 越後入道勝円(=佐介時盛)の沙汰で行われた垸飯で弟・七郎(盛氏)と共に二の御馬を曳く。 |
建長3(1251)年8月24日条に、5代将軍・藤原頼嗣(九条頼嗣)の由比ヶ浜での笠懸、犬追物に射手として供奉する人物として「三浦介六郎」が見えるが、同書(P.527)ではこの人物比定を行っていない(すなわち誰なのか不明とする)。しかし、同年正月1日条、5月15日条に「三浦介盛時」とある上、前年・翌年にも「三浦介盛時」が登場する(P.294)ため、この頃の三浦介は盛時であったと分かる。
そして「三浦介六郎」とは「三浦介」の「六郎」(六男)を意味する通称であるから、この人物は三浦盛時の息子であることは確かである。康元元(1256)年7月17日条には「三浦介六郎頼盛」としてその諱(実名)が初めて現れるが、当時の三浦介も盛時であるから、建長3年の「三浦介六郎」も盛時の子・頼盛であることが分かる。従ってこれが史料における初見となる。
また、通称名の変化に着目すると、康元元(1256)年から正嘉2(1258)年の間に「左衛門尉」に任官し、弘長年間(1261~1263年)に「三浦介」を継いだことが窺える。
文永元(1264)年11月22日付「関東御教書」*4の宛名「三浦介殿」も頼盛で間違いなかろう。八幡宮の領所(あずかりどころ)が相模国大住郡古国府(現・神奈川県平塚市四之宮)の安居頭役(あんごとうやく)を怠った際に、頼盛がその沙汰を命ぜられたことを伝える*5。
また、文永10(1273)年のものとされる5月13日付「豊後高田荘地頭代盛実請文案」*6の「三浦介殿」、弘安8(1285)年9月晦日付『豊後国図田帳』*7に豊後国大分郡高田庄(現・大分県大分市)の地頭職と同庄内牧村の領家を兼ねる人物として記載がある「三浦介殿」*8も頼盛に比定される。
鈴木かほる氏によると、蒙古襲来に際し九州御家人を統率していた、鎮西東方奉行の豊後守護・大友頼泰の下で、博多湾の石築地の築造を分担していたという*9。元々頼泰とは"はとこ"の関係*10にあった。
烏帽子親について
「頼盛」の名に着目すると、「盛」は父・盛時から継承したものであるから、わざわざ上(1文字目)にしている「頼」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。
そしてこの字は、初出の建長3年当時の将軍・九条頼嗣、または執権・北条時頼の偏諱であり、使用を許されている。では、どちらから授かったのであろうか?
頼盛以降の当主は「盛」字を使わず、義明より次第に遡る形で先祖に名字(名前の字)を求めたことが分かる(系図の緑字部分)。このような現象は北条貞時・高時父子、長崎氏嫡流*11など他家でも見られた。
そして、頼盛の前後の当主に着目すると、「時」の字は北条氏代々の通字を受けていることが推測され、更に高継も年代的に考えて北条高時からの一字拝領であることは確実であろう。
細川重男氏は、北条義時の「義」が三浦氏(義明 または 義澄)から受けたものと説かれており*12、実際に弟の時房は三浦義連の加冠により元服し初め時連と名乗っていた。義時の子・政村(のちの7代執権)は烏帽子親の三浦義村から「村」字を受けており、義村の子・泰村は北条泰時(義時の長男、政村の兄)の加冠を受けて「泰」字を授かった。
このように、元々から北条・三浦両氏間で烏帽子親子関係を結び、同じ字(偏諱)を共有することが盛んに行われており、義連の孫である盛時も北条氏(泰時か)を烏帽子親としたのではないかと推測される。実のところ盛時は、泰時の長男・時氏の異父弟(同母弟)であった。母の矢部禅尼が1203~1212年の間には泰時と離縁したという*13から、早くとも1200年代後半~1210年頃の生まれであったと思われ、元服当時の執権でもあった泰時から「時」字を許されたとみられる。
従って、頼盛の「頼」字も執権・北条時頼からの偏諱と判断して良いだろう*14。前述した大友頼泰(初名泰直)も時頼から一字を拝領したと伝わる*15。元服の時期は、時頼が執権および得宗家家督を継いだ寛元4(1246)年から、頼盛初出の建長3(1251)年8月までの間ということになる*16が、前述した盛時の生まれた推定時期との親子の年齢差の面でも妥当といえ、頼盛はおよそ1240年前後の生まれであったと思われる。
北条時輔次男の謀反計画
文永9(1272)年2月、8代執権・北条時宗の命により、その庶兄で六波羅探題南方であった北条時輔が、同探題北方・赤橋義宗により討伐された(二月騒動)が、正応3(1290)年11月、その遺児(次男)であった「北条二郎」なる者(実名不詳)が謀反を起こそうとして捕らえられ、斬首となる事件が起こった。以下4点の史料によって伝えられる*17。
【史料1】『鎌倉大日記』正応3年条
十一月時輔二男北条二郎被誅
【読み下し例】……時輔次男、三浦介入道に憑(よ)りて忍び来(く)、仍って之(これ)を搦め進ず、種々拷訊(ごうじん=拷問)を歴(へ)て、同十一月首を刎(は)ねらる。
【読み下し例】……時輔次男、秘(ひそか)に三浦介頼盛を頼(たより)て、謀叛の企て有る由(よし)聞る間、搦め進ぜければ、同月首を刎られけり。
この時、二郎某が後ろ盾として三浦頼盛を頼ったことも記されている。【史料3】から判断するに、出家していた可能性が高い。『吾妻鏡』での終見以降、弘安7(1284)年には得宗・8代執権の北条時宗が亡くなっているから、かつての父同様にこれに追随した可能性も考えられる。『諸家系図纂』所収「三浦系図」では法名を道法(どうほう)とする*18。
文脈からすると、頼盛はこの二郎を捕縛して幕府に引き渡していることが読み取れるが、頼盛も同調を疑われて同じく処刑されたとする説もある*19。一応次の系図ではそのように注記されている。
髙橋秀樹氏の解説によると、末裔を称するこの系図の作成者=三浦為時(紀伊藩家老)の延宝3(1675)年11月11日の巻末識語によれば、三浦義同までは伝記に基づき、その子・時綱(のち里見義通の偏諱を受けて通綱)から祖父の邦時(のち頼忠)までは邦時や旧臣の言説を編纂し、鎌倉や安房に人を派遣して資料を探したという*21。また髙橋氏は、中世前期の人物に付された注記の多くは伝承に基づくだけでなく、『大日本史』編纂のために作られた『浅羽本系図』に所収の三浦系図によって補われたと思われる箇所もあると説かれており*22、この情報はあくまで江戸時代当時の見解として扱いには慎重になるべきである。
ここで考えるべきなのは「搦」(捕縛)された対象が、二郎なのか、或いは二郎・頼盛の両名なのかという点であろう。しかし「搦め進ぜる」(捕縛して差し上げる/奉る)という表現からすると、この主語(すなわち北条二郎を捕縛したの)は頼盛なのではないかと思う。自身を頼ってきた北条二郎を頼盛が捕縛し、幕府方に引き渡したのであって、頼盛が謀反に同調していたということは、【史料1】~【史料4】の史料群からは読み取れないように思われる。よって、本項では1290年刑死説を否定しておきたい。
頼盛死没時期の推定
但し、前節の結論はあくまで死因について指摘したものであり、1290年頃の死去そのものを否定するものではない。前述の推定に従えば、当時の頼盛は "初老" の年齢だったことになり、鎌倉時代当時においては4, 50代で寿命を終えることも珍しくは無かった。
結論から言えば、貞時が得宗の座にあった期間(1284~1311年)内に頼盛は亡くなったと考えられる。その根拠として、まずは次の史料をご覧いただきたい。
【史料6】延慶2(1309)年8月24日『将軍家政所下文』(『宇都宮文書』)*23
可令早三浦介時明法師法名道朝領知村井小次郎知貞跡事、
右、為出雲国金澤郷田地替、所被充行也者、早守先例、可致沙汰之状、所仰如件、以下
延慶二年八月廿四日 案主菅野
令左衛門少尉藤原 知事家
別当相模守平朝臣*(花押)
陸奥守平朝臣*(花押)
(http://chibasi.net/miurasoryo8.htm より拝借)
この書状は、延慶2(1309)年8月24日、将軍・守邦親王の将軍家政所よりの下文として、それまで三浦氏が地頭職を務めていた出雲国金沢郷田地の替地として「村井小次郎知貞跡」が宛がわれたことを記すものである。この時の三浦氏当主は頼盛の子・時明(ときあき)に移っていることが窺え、更に時明が「道朝(どうちょう)」と号して既に出家していたことも分かる。この当時の段階で「三浦介入道」と呼ばれる人物が2人もいたとは考え難く、頼盛は既に故人であったと判断される。
また、次の史料にも着目しておきたい。
【史料7】『鎌倉年代記』裏書・嘉元3(1305)年条 より
今年嘉元三…(略)…四月…廿三日、子刻、左京権大夫時村朝臣誤被誅訖、子息親類脱殃訖、五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、和田七郎茂明、預三浦介入道、使工藤右衛門入道*、茂明逐電了、……(以下略)
【史料6】より遡ること数年、いわゆる嘉元の乱についての史料であるが、当時の連署・北条時村襲撃者の一人であった親戚の和田茂明(しげあきら、中条茂明)を預かる人物として「三浦介入道」の名が見られる。頼盛が北条二郎の事件から更に15年存命で、時明が出家していなければ、この入道が頼盛である可能性も出てくるが、年代的な近さを重視して【史料5】の時明がこの頃既に出家していたと考える方が妥当であろう*25。よって、頼盛の死去はこの当時より更に遡ると考えて良いと判断される。
以上の考察により、頼盛は1290~1300年代前半の間には亡くなったと推測される。死因は刑死ではなく、病没か老衰の類ではないかと思われる。
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.294「盛時 三浦」の項。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。
*2:鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.249。
*3:注1前掲『吾妻鏡人名索引』P.428「頼盛 三浦」の項。
*4:『榊葉集』所収、『鎌倉遺文』第12巻9184号。
*5:注2前掲鈴木氏著書、P.250。
*6:『書陵部所蔵八幡宮関係文書25』所収、『鎌倉遺文』第15巻11260号。
*7:内閣文庫所蔵。『鎌倉遺文』第20巻15701号。
*8:渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―」P.58。
*9:注2前掲鈴木氏著書、P.258。
*10:両者とも佐原義連の曾孫。頼泰の母が佐原盛連の兄弟・家連の娘(=盛時の従兄弟)である。注2前掲鈴木氏著書 P.259に掲載の系図より。
*11:長崎高重 - Henkipedia を参照。
*12:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。
*13:矢部禅尼 - Wikipedia を参照のこと。
*14:三浦介頼盛(外部リンク)では将軍・頼嗣からの偏諱とするが、系図に示した通り、父の盛時、子の時明は北条氏の通字を拝領したとみられるので、間の頼盛だけが将軍を烏帽子親にしたというのは現実的ではない。盛時流が事実上得宗被官化していたことも考えれば、得宗からの一字拝領と捉えるべきである。
*15:鎌倉時代の元服と北条氏による一字付与 - Henkipedia 参照。
*16:「頼」の字は当時の将軍・九条頼嗣の偏諱でもあるが、時頼の「頼」は頼嗣の父・頼経から賜ったものであり、『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条からは自身の邸宅で元服を遂げた六角頼綱に一字を与えた形跡が確認できる(→ 六角頼綱 - Henkipedia 参照)ので、時頼が将軍に配慮せず「頼」の字を与えることは特に問題視されなかったようである。
*19:注2前掲鈴木氏著書、P.275(典拠は『保暦間記』)。三浦介頼盛(外部リンク)。海賊三浦一族 小説 歴史・時代 - 魔法のiらんど(同前)。
*20:『新横須賀市史』資料編 古代・中世Ⅱ(横須賀市、2007年)P.1124。
*22:前注に同じ。
*23:『鎌倉遺文』第31巻23755号。
*24:この頃の相模守・陸奥守については 『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」の年月日比定 について - Henkipedia を参照。
*25:注2鈴木氏著書 P.300でも和田茂明を預かった人物を三浦時明としている。同書P.301では、時明の孫・高継と茂明の子・茂継を「継」字を共有する烏帽子親子関係にあったと説かれているが、時明と茂明も「明」字の共通からして(疑似的な)烏帽子親子関係を結んだのではないかと思う。茂明は当初「茂貞」と名乗っていたが、髙橋氏は得宗・貞時の偏諱を避けての改名と捉えられている(高橋『三浦一族の研究』所収「越後和田氏の動向と中世家族の諸問題」第三節、吉川弘文館、2016年)が、同時に同じく得宗被官であった三浦介家にも接近しつつあったのかもしれない。茂明は逐電し斬首を逃れたが、「三浦氏が預かっていたなら三浦氏が逃がした」(→ Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス例文より)という見解もあるようだ。
小山秀朝
小山 秀朝(おやま ひでとも、1306年頃?~1335年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭にかけての武将。
初めは得宗・北条高時の偏諱を受けて小山高朝(- たかとも)と名乗っていた。
小山秀朝の最期
人物の紹介記事としては異例だと思うが、最初に秀朝の晩年期の活動内容について史料で確認してみよう。
● 『増鏡』「久米の佐良山」:(元弘2年5月10日)「先帝の御供なりし上達部ども、罪重きかぎり、遠き国につかはしけり。洞院按察大納言公敏、頭おろして、しのびすぐれつるも、なほゆりがたきにや。小山の判官秀朝とかやいふもの具して、下野国へときこゆ。花山院大納言師賢は、千葉の介貞胤うしろみにて、下総へくだる。」
●『鎌倉大日記』:「建武二年七月先代余類相模守次郎時行蜂起、七月廿五日入鎌倉、渋川義季小山秀朝細川頼員〔ママ、正しくは頼貞か。〕討死、……」
●『続群書類従』所収「小山系図」小山下野守秀朝の注記:「属尊氏。建武二年七月十三日戦死於武州府中。」
●『系図纂要』小山判官秀朝の注記:「建武二年七ノ十三戦死于武蔵府中」
●『太平記』巻13「中前代蜂起事」:「……渋河刑部大夫・小山判官秀朝武蔵国に出合ひ、是を支んとしけるが、共に、戦利無して、両人所々にて自害しければ、其郎従三百余人、皆両所にて被討にけり。……」
●『梅松論』(『群書類従』第20輯 合戦部 所収):「同(建武2年)七月の初。信濃国諏方の上の宮の祝安芸守時継が父三河入道照雲。滋野の一族等高時の次男勝寿丸を相模次郎と号しけるを大将として国中をなびかすよし。守護小笠原貞宗京都へ馳申間。御評定にいはく。凶徒木曽路を経て尾張黒田へ打出べきか。しからば早早に先御勢を尾張へ差向らるべきとなり。かかる所に凶徒はや一国を相従へ。鎌倉へ責上る間。渋川刑部。岩松兵部。武蔵安顕原にをいて終に合戦に及といへども。逆徒手しげくかかりしかば。渋川刑部。岩松兵部両人自害す。重而小山下野守秀朝。発向せしむといへども。戦難義にをよびしほどに。同国の府中にをいて秀朝をはじめとして一族家人数百人自害す。」
最初に掲げた『増鏡』の記述は、鎌倉幕府滅亡前の元弘の乱における笠置山陥落の折に捕らえられた洞院公敏(出家して宗肇)が下野国に流刑となる際に、秀朝が同行したというものである*1。
他の史料ではその秀朝が、建武2(1335)年、信濃国で挙兵した北条時行らの軍勢に攻められて自害したことを伝えている(中先代の乱)*2。
▼中先代の乱の内容・時期等についてはこちらのページに掲載の史料で裏付けられる。
尚、幕府滅亡時に後醍醐天皇側に転じた秀朝は、建武政権下で下野守に任ぜられ、建武年間の間、下野国守護であったとされる。
小山秀朝の系図上での位置
こちら▲は、系図集としては比較的信憑性が高いとされる『尊卑分脈』に収録の小山氏系図である。前田家所蔵脇坂本を底本とする、吉川弘文館より刊行の「国史大系」本に拠ったものであるが、秀朝と氏政については別説も紹介されている(※「秀朝、按正宗寺本…」および「氏政、按系図纂…」以下の小文字の注記は本来ページの上部(ヘッダー)に書かれているものを都合上移したものなので、本来の系図には記載されていないことに注意して頂きたい)。
この図で「小山秀朝」に該当するのは、①「本名秀ー」と注記される貞朝、②貞朝の長男・秀朝、③「改秀朝 又改朝氏」と注記される朝郷、の3名である。前節に紹介した史料で見る限り、最終的な名乗りが「秀朝」であったと考えるべきであろうから、ひとまず該当し得るのは②のみである。
しかし、②が父である貞朝(①)の初名を名乗り、更に甥の朝郷(③)までもが一時期同名に改めていたとするのはどうも違和感があり、朝郷が「秀朝」の後に従兄弟と同名の「朝氏」に再改名したというのは不自然と言わざるを得ない。加えて、②の秀朝が任官したはずの「下野守」は、弟の高朝の項に書かれている。やはりこの系図は何かしらの混乱を来しているのではないかと思われる。
加えて「秀朝」を称していた貞朝の注記を見ると、同じく「下野守」であったことの他、「徳治二ー関東下向之時頓死」(=1307年死去)とも記されることから、先行研究における史料上での「小山判官」・「小山下野守」の人物比定に際しても混乱が生じることもあった。これに関して、次の2点の史料を確認しよう。
α:元亨3(1323)年10月27日:北条貞時十三回忌法要において「小山下野前司」が銭百貫文を寄進(『円覚寺文書』所収「北条貞時十三年忌供養記」*3)
β:元徳2(1330)年10月1日「小山下野前司他界 貞朝 四十九」(『常楽記』)
前述の『尊卑分脈』の記載を採用したのか、貞朝が既に亡くなっているとしてαでの「小山下野前司」を秀朝とする見解もあった*4。しかし、当時の過去帳であるβを否定する根拠は無く、通称名の一致と年代の近さからして、αでの「小山下野前司」=貞朝と判断して間違いなかろう*5。「下野前司(=前下野守)」という通称名から、1323年の段階では既に下野守を辞していたことが窺え、再任することなく1330年に亡くなったことも分かる。
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従って、鎌倉幕府滅亡後の「小山下野守(秀朝)」が貞朝であることはあり得ず、その次代を指すと考えるべきである。
それを踏まえた上で、次の史料を確認しておきたい。
●『元弘日記裏書』*6:「今年建武ニ 七月信濃国凶徒蜂起襲鎌倉直義没落護良親王遇 藤原高朝按小山氏於武蔵国府自害……」
●『南方紀伝』*7:「西園寺公宗余党相模次郎時行、去る三月より信州にて蜂起。……(中略)……渋川刑部大輔、小山判官高朝、細川頼員、武蔵国に出て合戦。官軍敗北。小山高朝、府中に於て自害。」
時期や内容を見れば、前節に紹介した中先代の乱についての記述であることは明らかである。ところが、武蔵国府中(現在の府中市に相当するが、本来は国府の所在地を意味する)に於いて自害した人物の名は「高朝」となっており、まさに冒頭で紹介の他史料での「小山秀朝」の最期に一致する。従って、高朝=秀朝 と判断される。
前掲の『尊卑分脈』では改名前後の同人であるはずの高朝と秀朝を、兄弟として別人としてしまっていたのである*8。わざわざ改名する理由を考えれば、秀朝は高朝の改名後の人物とすべきであろう。鎌倉幕府滅亡後のこの頃、得宗・高時からの偏諱と思われる「高」の字を棄てて改名する者が多く、高朝(秀朝)もその一人だったのである。
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すると『尊卑分脈』で別々に書かれていた、秀朝の子・朝氏と、高朝の長男・朝郷(のち朝氏) も同人ということになる。実際の史料で確認してみると「朝氏」のちに「朝郷」を名乗っていたことが分かり*9、初め足利尊氏の偏諱を受けていたのを、後に改めたと判断される(従って『尊卑分脈』小山朝郷の項での改名の順番は誤りである)。秀朝・朝郷という改名後の名前に着目すると、祖先・藤原秀郷にあやかったものと推測できよう。
小山秀朝の活動 ―鎌倉幕府滅亡前後の家督として―
元徳2(1330)年に父・貞朝が亡くなってから、建武2(1335)年の中先代の乱で自害するまでの秀朝の活動内容を辿ってみよう。
次に示す2つの表は、以前記事にて紹介した、元弘の乱における幕府軍のメンバーを記した史料である。
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〔表A〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)
楠木城 | |
一手東 自宇治至于大和道 | |
陸奥守(大仏貞直) | 河越参河入道(貞重) |
小山判官 | 佐々木近江入道(貞氏) |
佐々木備中前司(大原時重) | 千葉太郎(胤貞) |
武田三郎(政義) | 小笠原彦五郎(貞宗) |
諏訪祝(時継カ) | 高坂出羽権守(信重) |
島津上総入道(貞久) | 長崎四郎左衛門尉(高貞) |
大和弥六左衛門尉(宇都宮高房) | 安保左衛門入道(道堪) |
加地左衛門入道(家貞) | 吉野執行 |
一手北 自八幡于佐良□路 | |
武蔵右馬助(金沢貞冬) | 駿河八郎 |
千葉介(貞胤) | 長沼駿河権守(宗親) |
小田人々(高知?) | 佐々木源太左衛門尉(加地時秀) |
伊東大和入道(祐宗カ) | 宇佐美摂津前司(貞祐) |
薩摩常陸前司(伊東祐光?) | □野二郎左衛門尉 |
湯浅人々 | 和泉国軍勢 |
一手南西 自山崎至天王寺大路 | |
江馬越前入道(時見?) | 遠江前司 |
武田伊豆守(信武?) | 三浦若狭判官(時明) |
渋谷遠江権守(重光?) | 狩野彦七左衛門尉 |
狩野介入道(貞親) | 信濃国軍勢 |
一手 伊賀路 | |
足利治部大夫(高氏) |
結城七郎左衛門尉(朝高) |
加藤丹後入道 | 加藤左衛門尉 |
勝間田彦太郎入道 | 美濃軍勢 |
尾張軍勢 | |
同十五日 | |
佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参 | |
同十六日 | |
中村弥二郎 自関東帰参 |
〔表B〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32136号)
大将軍 | |
陸奥守(大仏貞直)遠江国 | 武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国 |
遠江守尾張国 | 武蔵左近大夫将監美濃国 |
駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国 | 足利宮内大輔(吉良貞家)三河国 |
足利上総三郎(吉良貞義) | 千葉介(貞胤)一族并伊賀国 |
長沼越前権守(秀行)淡路国 | 宇都宮三河権守(貞宗)伊予国 |
佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 | 小笠原五郎阿波国 |
越衆御手信濃国 | 小山大夫判官一族 |
小田尾張権守(高知)一族 | 結城七郎左衛門尉(朝高)一族 |
武田三郎(政義)一族并甲斐国 | 小笠原信濃入道(宗長)一族 |
伊東大和入道(祐宗)一族 | 宇佐美摂津前司(貞祐)一族 |
薩摩常陸前司(伊東祐光?)一族 | 安保左衛門入道(道堪)一族 |
渋谷遠江権守(重光?)一族 | 河越参河入道(貞重)一族 |
三浦若狭判官(時明) | 高坂出羽権守(信重) |
佐々木隠岐前司(清高)一族 | 同備中前司(大原時重) |
千葉太郎(胤貞) | |
勢多橋警護 | |
佐々木近江前司(六角時信) | 同佐渡大夫判官入道(京極導誉) |
(*以上2つの表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。)
表に含まれる通り「小山(大夫)判官」が従軍していることが見える。「大夫判官」とは検非違使庁の尉(三等官、六位相当)で、五位に叙せられた者を指す呼称である*10。既に亡くなっているので言うまでもないが、前下野守であった貞朝ではあり得ず、『尊卑分脈』に「使」(=検非違使)と付記される高朝が家督を継承したことが分かる*11。
そして、時期と通称名の一致から、前述の『増鏡』での「小山の判官秀朝」とも同人と判断される*12。既に述べた通り、これも元弘の乱に関連した内容だが、南北朝時代に成立したが故に、改名後の名前で書かれてしまっただけであろう。
その後、鎌倉幕府滅亡時における「小山判官」の動向は『太平記』に描かれている。
【史料C】『太平記』巻10「鎌倉合戦事」より
去程に、義貞数箇度の闘に打勝給ぬと聞へしかば、東八箇国の武士共、順付事如雲霞。……(中略)……搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し給ければ、…(以下略)
関東の武士を結集させながら勢力を増大させた新田義貞の軍勢は、大多和義勝らの寝返りもあって連勝を重ね、更に倒幕側に転じる武士が続出した。小山判官(高朝・秀朝)もその一人として、千葉介(千葉貞胤)と共に金沢貞将を破ったことが記されている*13。
そして、鎌倉幕府滅亡の翌年に出された次の史料にも着目しておきたい。
【史料D】建武元(1334)年8月22日付「大膳権大夫某〔中御門経季カ〕奉書」(『茂木文書』)*14
(端書)「[ ] 小山下野守已遂其節之間、此御教書者、[ ] 渡、仍正文帯之者也 」
[ ] 茂木左衛門尉知貞代祐恵□□□〔申、下野〕国東茂木保事、重訴状如□〔此〕、□□〔且任 または 早任〕綸旨幷牒、可沙汰付祐恵之由□□〔先度〕□〔被〕仰下之処、干今不事行云々、[ ]□〔不〕日可被遂其節、若尚有[ ]任法、可加治罰、使節又遅□□□〔引者、可〕処罪科之状、依仰執達如件、
建武元秊八月廿二日 大膳権大□〔夫〕
大内山城入道殿
(※□ および [ ] は欠字部分、〔 〕はそれを補ったものを示す。)
この書状の端裏書には、東茂木保の茂木知貞代祐恵への打渡しを「小山下野守」が遂行した旨の記載がある。繰り返すが、これが貞朝であるはずはなく、秀朝に比定される*15。すなわち、鎌倉幕府滅亡後の建武政権下において、秀朝は亡き父の最終官途であった下野守に任ぜられたのである。この頃には「秀朝」に改名したものと思われるが、『元弘日記 裏書』では「高朝」と書かれている(前述参照)ことから、公家側の一部には伝わっていなかったのかもしれない。
秀朝の最期については第一節目に前述した通りで、『太平記』・『梅松論』(ともに軍記物語)では300人ほどの家来と共に自害したと伝えるが、その数字は強ち的外れでもないという*16。1330年で亡くなった時の貞朝の享年が49である(前述『常楽記』参照)ことからすると、この時の秀朝は30歳前後の若さであったと推測されている*17。嫡男の朝氏(朝郷)がまだ「常犬丸(とこいぬまる)」という童名の幼子*18でありながら、惣領の秀朝と一族家人の多くを失うこととなり、小山氏にとって大きな痛手となったのである。
脚注
*1:佐藤進一・新川武紀両氏はこれを秀朝の下野国守護在職を示す傍証として捉えられている。松本一夫「南北朝初期における小山氏の動向 ―特に小山秀朝・朝氏を中心として―」(所収:『史学』55-2、三田史学会、1986年)P.118 より。典拠は『小山市史 史料編中世補遺』142号 および 新川「下野国守護沿革小考」(所収:『栃木県史研究』21号)。
*2:前注松本氏論文、P.119。
*3:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号。
*5:注1前掲松本氏論文 P.118。湯山学「小山出羽入道円阿をめぐってー鎌倉末期の下野小山氏」(所収:『小山市史研究』三号)。
*6:元弘日記裏書 (1巻) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 5ページ目。
*7:日本歴史文庫. 〔1〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*8:『尊卑分脈』では他にも同様の例が見られる。例えば、北条時頼の弟として、同じ「遠江守」の官途を持つ時定、為時を載せるが、実際の書状での花押の一致から、時定が後に為時と改名した、同人であったことが判明している。
*9:注1前掲松本氏論文、P.120~125。
*10:大夫の判官(タイフノホウガン)とは - コトバンク より。
*11:注1前掲松本氏論文、P.118。
*12:前注同箇所。
*13:前注同箇所。
*14:『大日本史料』6-1 P.488。『栃木県史 史料編中世二』茂木文書 八号(P.78)。『小山市史 通史編Ⅰ 史料補遺編』P.12~13 一八号では、中御門経季による発給書状とする。宛名の「大内山城入道」は小山氏一門・結城時広の庶兄である大内宗重の子孫とみられ、『太平記』巻3「笠置軍事付陶山小見山夜討事」に笠置山攻めの際の幕府軍のメンバーとして見える「大内山城前司」の出家後の姿と推定される(注1前掲松本氏論文 P.119、註(9) より)。
*15:注1前掲松本氏論文、P.118。
*16:注1前掲松本氏論文、P.119。
*17:注1前掲松本氏論文、P.123 註(1)。仮に享年を30とした場合、1306年生まれとなり、初め「高国」と名乗った足利直義や、正和3(1314)年に9歳で元服した六角時信(ともに『尊卑分脈』による)と同い年となる。生年を多少前後させても元服時の得宗・執権は北条高時となるので、この点から言っても秀朝がその偏諱を受けた「高朝」と同人であることが裏付けられよう。
*18:注1前掲松本氏論文、P.120。
【特集】得宗被官・長崎氏
今月主体的に扱ったのは、鎌倉時代後期に御内人(得宗被官)の筆頭格として著名な長崎氏である。
その中でも北条高時政権期に安達時顕と双璧を成す形で事実上の最高権力者であった長崎円喜(えんき)は、北条時宗の死後、その子・貞時の内管領として安達泰盛一族を打倒して勢力をふるった平頼綱の甥とされる(『保暦間記』)。
「長崎入道」または「長崎左衛門入道」と呼ばれる通り、円喜は出家後の法名であるが、近年、新たに紹介された史料によってそれ以前の俗名が「盛宗(もりむね)」(長崎左衛門尉盛宗)であったことが指摘されている。頼綱の次男・飯沼資宗とほぼ同世代とする見解があり、恐らくは時宗からの一字拝領であろう。
一方で、出家の時期については、次の金沢貞顕書状により、延慶元(1309)年4月9日の段階では既に済ませていたことが確認できる。
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北条高時の元服から3ヶ月後にあたることから、『系図纂要』に掲載の俗名「高綱(たかつな)」を高時から偏諱を受ける形で名乗った可能性はほぼ無いとされてきた。
しかし、当ブログでは長崎氏嫡流の名乗りに着目し、反対に、長崎盛宗が出家して円喜と号するまでの僅かな期間「高綱」に改名していたとする説を次の記事にて掲げた。
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すなわち、円喜の嫡男・長崎高資(たかすけ)の「資」が平資盛に通じていることは既に指摘されているが、嫡孫・長崎高重(たかしげ)の「重」も資盛の父・平重盛に由来するものと考えられ、代々得宗・高時の1字を受けた「高綱―高資―高重」の名乗りは「重盛―資盛―盛綱」(『尊卑分脈』)という系譜を想定し、次第に遡った先祖に名前の1字を求めていたことが分かる(このような事例は、得宗の貞時・高時父子、三浦氏などでも確認できるものである)。
このことからも、長崎氏は平資盛の末裔を自称しており、『太平記』巻10での高重の名乗りも自身の系譜を語っていたことが裏付けられる。
そうした点も踏まえると、「現存する唯一の長崎氏系図」とされる『系図纂要』所収「平朝臣姓関一流」中の長崎氏系図はただ出鱈目を記載したものではないということが言えよう。
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こちらの記事では、系図での記載を改めて残存する史料と照らし合わせる作業を行い、成立した江戸幕末期当時における研究成果として捉え得ると結論づけた。
後世の者による加筆や書き換え(改竄)が施されることもあるため、後世に成立の系図の方が比較的信憑性が低いとされるが、だからと言って直ちに切り捨てるべきものではないということを、この記事でもって主張した次第である。