Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

戸次高貞

戸次 高貞(べっき/へつぎ たかさだ、1305年頃?~没年不詳(1320年代後半?))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。大友氏の一門・戸次氏の人物。

 

 

 【表1】各系図類における戸次氏嫡流の記載内容(烏帽子親に関する情報を中心に)*1

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上表に示した通り、元服の際、加冠役(烏帽子親)であった北条から諱の1字を授かったと伝える系図は複数ある。曽祖父・秀が北条時の娘を妻に迎え、その「重」の字を共有したとみられること、その後も「親―直」が得宗宗―時」と烏帽子親子関係を結んでいたこと*2を踏まえると、慣例に従って高時の偏諱を賜ったことは実際の名乗りからしても疑いは無いと思う。

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▲【図2】『速見入江文書』所収「大友田原系図*3より:戸次氏嫡流の部分

 

管見の限り、戸次高貞についての史料は確認できないので、生没年の推定すら困難であるが、ここで弟の戸次頼時(よりとき)について着目してみたい。

 

建武3(1336)年には「戸次豊前太郎」と書かれた書状が2点残されている*4が、暦応元(1338)年12月27日付の大友氏泰宛て高師直の書状*5、および同4(1341)年4月付の書状2点*6にある「戸次豊前太郎頼時」と同人とみなして良いだろう。通称名は戸次豊前守の「太郎(長男)」を表すものであるから、これが系図上での豊前守貞直の子・頼時で間違いない(同時に貞直が最終的に豊前守であったことが裏付けられよう)

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その後、康永4(1345=貞和元/興国6)年8月29日の天龍寺供養に際し、随兵の先陣を務める一員の頼時について、「戸次豊前太郎*7/「戸次丹後守*8と表記ゆれしている。先陣筆頭の武田信武についても「武田伊豆守」/「武田伊豆前司」の違いがあるなど、一部の人物で混乱が見られるが、恐らく彼らがこの頃に昇進や辞任等を行ったからであろう。従って頼時もこの頃丹後守に任官したと推測されるが、年齢的には国守任官に相応の30代以上に達していたと思われる

*この場合、頼時は遅くとも1310年代前半の生まれと推定される。冒頭の系図で示した通り、頼時の子・直光(ただみつ)は足利直冬の加冠・偏諱を受けて元服したと伝えられるが、その時期は直冬が長門探題として九州方面に下向した1349年頃より後と思われ、早くとも1330年代の生まれと推定可能である。親子の年齢差として問題なく、妥当な推定だと思う。

 

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こちら▲の記事で父・貞直の生年を1278年頃と推定したが、これに基づき親子の年齢差を考慮すれば、高貞の生年は早くとも1298年~1300年頃と推定可能である。一方、頼時の兄であれば1310年頃までに生まれている筈であろう。北条高時が1311年に得宗家督を継承し、1316年~1326年の間14代執権を務めていた*9ことを考えると、早くとも1305年頃の生まれとするのが妥当だと思う

 

ちなみに、『碩田叢史 二』所収「豊後諸士系図」に収録の「戸次氏系図」では同じく「於北条相模守平高時為元服 号高貞」と注記されるが、その後頼時に改名したとも記載する*10。 共に「太郎」を通称としたことから同人とみなしたのかもしれないが、【表1】にある通り「早世*11」と記す系図があることも考慮すれば、【図2】の通り別人兄弟とするのが良いかと思う。頼時が元服した時、"若宮太郎"高貞は既に早世していたので、(貞直にとって次男でありながら)代わって嫡子となり「太郎」を称したのであろう。

 

(参考ページ)

 武家家伝_戸次氏

 戸次氏(べっきうじ)とは - コトバンク

渡辺澄夫「豊後国大野荘における在地領主制の展開 ー地頭志賀氏を中心としてー」(所収:渡辺『増訂 豊後大友氏の研究』、第一法規出版、1982年)

 

脚注

*1:筆者作成。表中の頁数は『群書系図部集 第4』におけるものとする。

*2:梅野敏明「鎌倉期由布院における戸次一族の所領獲得について」(所収:『挾間史談』 第6号、挾間史談会、2018年)P.38~39。

*3:大分県史料刊行会 編『大分県史料10』(大分県立教育研究所、1955年)P.455~456。

*4:大日本史料』6-3 P.2176-2 P.780

*5:『大日本史料』6-5 P.208

*6:『大日本史料』6-6 P.769~770

*7:『大日本史料』6-9 P.247

*8:『大日本史料』6-9 P.246

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*10:『大日本史料』6-29 P.371

*11:一概に言い切れないが、他の御家人を見るとこの当時における「早世」の具体的な年齢は10代~20歳前半であるケースが多かった。詳しくは 大仏高宣 - Henkipedia の項を参照のこと。よって戸次高貞の享年も同様だったのではないかと思われる。

葦名高盛

葦名 高盛(あしな たかもり、1318年~1335年)は、鎌倉時代末期の武将。

葦名盛貞(盛員とも)の最初の嫡男。蘆名高盛、芦名高盛とも書く。 

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【史料A】『会津四家合全』黒川小田山城主佐原十郎義連家系之事*1 より一部抜粋

葦名遠江守盛員(盛宗男)
永仁四年丙申八月十二日生 文保二年戊午二十三家督建武二年乙亥八月十七日相州片瀬川合戦に討死す時四十歳 正傳庵月浦道円と号 但祠堂会津興徳寺の裏に在り
葦名式部太輔高盛(盛員男)
文保二年戊午八月十五日生 建武二年乙亥八月十七日父同片瀬川にて討死す時十八歳

 

【史料B】『異本 塔寺八幡宮長帳』*2

建武二年、會津葦名遠江守盛員四十才、其子式部大輔高盛十八才、八月十七〔ママ、十九〕日相州片瀬川ニテ討死、依之弟若狭守直盛十才家督ス、

 

【史料C】足利尊氏関東下向宿次・合戦注文国立国会図書館所蔵「延暦寺申状」)*3


足利宰相関東下向宿次
  建武二八二進発

(中略)

 

十九日、辻堂・片瀬原合戦
  御方打死人敷
 三浦葦名判官入道々円 子息六郎左衛門尉
 土岐隠岐五郎    土岐伯耆入道孫兵庫頭、同舎弟、
 昧原三郎
  手負人
 佐々木備中前司父子 大高伊予権守
 味原出雲権守 此外数輩雖在之、不知名字、
  降人於清見関参之、
 千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉
 海上筑後前司   天野参川権守
 伊東六郎左衛門尉 丸六郎
 奥五郎
 諏方上宮祝三河権守頼重法師於大御(以下欠) 

地名(片瀬川→片瀬原)や日付(17日→19日)に若干の違いはあるものの、1335年の中先代の乱葦名道円六郎左衛門尉父子が打死(=討ち死に)したことは事実として確認ができよう。『系図纂要』にも同様の注記があり、六郎左衛門尉高盛はこの時18歳(数え年)で亡くなったというが、逆算すると【史料A】の通り文保2(1318)年生まれとなる。

 

鎌倉幕府滅亡の1333年まで北条高時得宗(14代執権、出家後も「副将軍」)の地位にあり、盛の名乗りは時の偏諱を許されたものと見受けられる。高時が執権職を辞して出家した正中3(1326=嘉暦元)年当時は9歳と若いが、近い年代だと六角時信のように、この年齢で元服した者も少なからずいた。10代前半での元服で出家して間もない高時から一字を拝領してもおかしくはないと思う。よって、高時と高盛は烏帽子親子関係にあったと判断される

 

脚注

安藤高季

安藤 高季(あんどう たかすえ、1315年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての陸奥国の武将、御内人。幼名は犬法師。通称は安藤五郎太郎。父は安藤宗季。

 

 

北条高時の烏帽子子

【史料1】正中2(1325)年9月11日付「安藤宗季譲状」(『新渡戸文書』)*1

ゆつりわたす つかるはなハのこほりけんかしましりひきのかうかたのへんのかうならひにゑそのさたぬかのふうそりのかうなかはまのミまきみなといけのちとう御たいくわんしきの事

みきのところハ宗季せんれいにまかせてさたをいたすへきよし御くたしふミを給ハるものなり しかるをしそくいぬほうし一したるによて御くたしふミをあいそゑてゑいたいこれをゆつりあたうるところなり宗季いかなる事もあらんときハこのゆつりしやうにまかせてちきやうすへきなり たたしうそりのかうのうちたやたなふあんとのうらをハによしとらこせんいちこゆつりしやうをあたうるところなりよてゆつりしやうくたんのことし

   正中二年九月十一日    宗季(花押) 

譲り渡す 津軽鼻和の郷、絹家島、尻引きの郷、片野辺の郷、並びに 蝦夷の沙汰、糠部宇曽利の郷、中浜の御牧、湊以下の地頭・御代官職の事

右の所は宗季先例に任せて沙汰を致すべき由 御下し文を給わるもの也 然るを子息犬法師一子たるによって御下し文相添えて永代此を譲り与うる所也 宗季いかなる事もあらん時はこの譲り状に任せて知行すべき也 但し宇曽利の郷のうち、田屋・田名部・安渡浦をば女子虎御前一期譲り状を与うる所也 依って譲り状、件(くだん)の如し

正中二年九月十一日    宗季(花押)

 

【史料2】元徳2(1330)年6月14日付「安藤宗季譲状」(『新渡戸文書』)*2

ゆつりわたす五郎太郎たかすゑニみちのくにつかるにしのはま せきあつまゑをのそく 

右くたんのところハむねすゑはいりやうのあいたかの御くたしふミをあいそへてしそくたかすゑニゆつりあたふるところ也たのさまたけなくちきやうすへし又いぬ二郎丸か事ふちをくわへていとをしくあたるへしゆめゆめこのしやうをそむく事あるへからすよてゆつりしやうくたんのことし

   元徳二年六月十四日 むねすゑ(花押)

譲り渡す 五郎太郎高季陸奥国津軽西の浜〈関・阿曽米を除く〉事

右件のところは宗季拝領の間、御下し文を相添えて子息高季に譲り与うる所也 他の妨げなく知行すべし 又犬二郎丸がこと扶持を加えていとをしく当たるべし 夢々此の状を叛くことあるべからず 依って譲り状 件の如し

元徳二年六月十四日 宗季(花押)

*関=折曽関・深浦町関 *阿曽米=現・小泊巷辺り

上記2点は安藤宗季*3による譲状である。【史料2】は宗季五郎太郎たかすゑ(漢字での表記が「高季」であることは後述史料を参照)に「津軽西浜」を譲るとしたものであるが、「五郎太郎」という通称名は、父・宗季が「安藤五郎」で、「太郎(長男)」を表すものである。先立って【史料1】で宗季犬法師に、第一子であるから所領を譲るとしており、犬法師=たかすゑ(高季)とみなして良いだろう。

従ってはこの2史料の間に元服したことになるが、その実名に着目すると父から継承した「季」の字に対して「」は当時の得宗北条偏諱を許されたものと見受けられる*4。高時と高季は烏帽子親子関係にあったと判断され、【史料1】から高時が出家した正中3(1326=嘉暦元)年3月*5までの約半年の間に元服を遂げたのではないかと思われる。

 

ちなみにこの「五郎太郎たかすゑ」が安藤高季であることは次の史料2点によって裏付けられる。 

【史料3】建武元(1334)年3月12日付「北畠顕家国宣」(所収:『祐清私記』乾 御判物御印物写抜書)*6

      御判(=北畠顕家花押)
   下 津軽平賀郡
 可令早安藤五郎太郎高季領知当郡上柏木郷事、
右為勲功賞所被宛行也、任先例、可致其沙汰状、所仰如件、
  建武元年三月十二日 

 早く安藤五郎太郎高季に領知せらるべき当郡上柏木郷事
右は勲功の賞のため宛行われる也(なり)、先例に任せ其の沙汰致すべくの状
仰せの所 件の如し
 建武元年三月十二日

 

【史料4】建武2(1335)年10月29日付「北畠顕家国宣」(『新渡戸文書』)*7

      花押(=北畠顕家
陸奥国津軽鼻和郡絹家島、尻引郷、行野辺郷、糠部郡宇曾利郷、中浜御牧、湊以下、同西浜 除安藤次郎太郎後家賢戒知行分関阿曾米等村 地頭代職事

 
右、安藤五郎太郎高季、守先例可令領掌之状、所仰如件

  建武二年閏十月廿九日

陸奥国津軽鼻和郡絹家島、尻引郷、行野辺郷、糠部郡宇曾利郷 中浜御牧、湊郷以下、同西浜〈除く安藤次郎太郎後家賢戒知行分 関・阿曾米等村〉地頭代職の事
右、安藤五郎太郎高季、先例を守り領掌せらるべくの状仰せの所件の如し 

 

 

安藤師季

和歌山県熊野那智大社所蔵『米良文書』(『熊野那智大社文書』とも)には以下2点の史料が残る。 

【史料5】貞和5(1349)年12月29日付「陸奥国持津先達旦那注進状(旦那系図注文)案」*8

…安藤又太郎殿号下国殿、今安藤殿親父宗季と申候也、今安藤殿師季と申候也、…

 

【史料6】「奥州下国殿代々之名法(なのり)日記」*9

奥州下国殿代々之名法日記

安藤又太郎宗季、其御子息師季、其子ニ法季、其子二盛季、其子ニ泰季と申、今の下国殿也。永享十二年(=1440年)ノ頃。

この2つの史料から、紀伊国熊野郡那智神社の檀那である安藤氏の嫡流は「安藤又太郎」を称し「下国殿」と呼ばれていたことが窺える。【史料6】は嘉吉元(1441)年に那智神社の先達(尻引三世寺別当が慣例により安藤氏嫡流系図メモを作成し、御師の実法院に提出したものであるといい、当時の「下国殿」が安藤泰季(康季)であったことが書かれている。一方【史料5】では貞和5年当時の「下国殿(安藤殿)」が安藤師季(もろすえ)で、その父親が宗季であったと書かれているが、【史料6】との整合性に問題はないと思う。

 

通称名の点でやや疑問が残るが、【史料5】・【史料6】での「安藤又太郎宗季」は、年代からいっても【史料1】・【史料2】での宗季と同人とみなして良いだろう。【史料1】・【史料2】当時「安藤又太郎」を称していたのは安藤五郎(宗季)と相論となっていた安藤季長であり、季長が没落後に宗季が惣領の通り名である「安藤又太郎」を称したのであろう。

【史料5】・【史料6】では宗季の家督継承者が「師季」であるというが、宗季の後継者となったのが「五郎太郎高季」であることは【史料4】までの各史料で明らかである。よって、高季が後に師季と改名したとする説が生まれている。 

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季の名は足利尊氏の執事・高直の偏諱を受けたものと推測されており、高季が改名により足利方であることを明確にする目的があったとも考えられている*10。尊氏(初名:高氏)もその一例だが、北条高時滅亡後に「高」の字を棄て改名した者は少なからずいた(詳しくは次の記事を参照されたい)。 

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一方、鈴木満は高季と師季を別人とされ、後に南朝方についた高季を弟である師季が打倒し、この師季の系統が下国氏(「下国殿」)として存続したと説かれている*11。確かに、年代や宗季の家督継承者であることが共通なだけで、系図等で同人とする根拠は確認できない。この点は今後も改めて検証を要するだろう。

*故に本稿の項目名は本家Wikipediaと異なって「安藤高季」とした。冒頭で示した通り高季の実在は明らかであり、高時の一字拝領者の一人として立項した次第である。

 

(参考ページ)

 安藤師季 - Wikipedia

 安藤高季

 安東氏関連人物伝 鎌倉時代〜南北朝時代 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史

『新編弘前市史 通史編1 古代・中世』「安藤高季の活躍」

佐藤和夫「安東水軍史論序」(所収:『弘前大学國史研究』第84号、1988年)

秦野裕介「鎌倉・室町幕府体制とアイヌ」(2012年)

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第37巻29194号。安東氏関連人物伝 史料解説・参考文献 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史安藤氏 資料

*2:『鎌倉遺文』第40巻31067号。安東氏関連人物伝 史料解説・参考文献 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史安藤氏 資料

*3:宗季については、安藤季久が安藤氏惣領の通り名「又太郎」を称すると同時に、北条一族で津軽に関わる「沙弥宗謐」の一字「宗」を拝領したもの、とされている(→ 『新編弘前市史通史編1』第4章「安藤の乱の展開」 P.311安藤氏の乱 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史 註13)。この「沙弥宗謐」なる人物は、嘉暦2(1327)年の合戦(季長の郎党・季兼対幕府軍)に際しての書状(『仙台結城文書』所収)で、宇都宮備前守(=高綱?)に益子左衛門尉・芳賀弾正左衛門以下数人が討ち死にしたことを伝えて謝意を表す一方、安藤方を「津軽山賊(誅伐事)」と書いている(→『新編弘前市史資料編1 古代・中世編』六二五号文書)。

*4:安東氏関連人物伝 #安藤高季南部と安東、宿命の対決の始まり その2 | 南部の国から

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:『大日本史料』6-1 P.478安藤氏 資料

*7:安東氏関連人物伝 史料解説・参考文献 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史安藤氏 資料

*8:『大日本史料』6-13 P.222鈴木満「伝承と史実のあいだに ー津軽安藤氏・津軽下国氏・桧山下国氏・湊氏の場合-」(所収:『秋田県公文書館研究紀要』第23号)P.27[史料C]。

*9:安東氏関連人物伝 史料解説・参考文献 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史。前注鈴木氏論文 同頁[史料B]。

*10:注4同箇所。

*11:注8前掲鈴木氏論文 P.29。

安東貞忠

安東 貞忠(あんどう さだただ、1290年頃?~没年不詳(1330年頃?))は、鎌倉時代後期の武将、得宗被官。

 

安東貞忠の実在については次の史料で確認ができる。

【史料1】(正中3(1326=嘉暦元)年?)正月17日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*1

御吉事等、猶々不可有尽期候、忠時(=金沢貞顕の嫡孫/貞将の子)去十一日参太守(=得宗/14代執権・北条高時候、長崎新左衛門尉(=長崎高資、兼日、内々申之際、参会候て、引導候て、太守御前にて三献、御引出物ニ御剣左巻、給之候、新左衛門尉役也、若御前(=高時の嫡男・万寿〈のちの北条邦時〉か)同所へ御出、御乳母いたきまいらせ候、其後御台所の御方へ大御乳母引導候、三こんあるへく候けるを、大乳母久御わたり、御いたわしく候とて、とくかへされて候、御引出物ハ砂金十両 はりはこニ入てかねのをしきにをく 、其後御所へ参候、自太守御使安東左衛門尉貞忠にて候き、兼日刑部権大輔入道(=摂津親鑒)ニ申之間、大夫将監親秀(=摂津親鑒の弟・親秀参候て申次、御所へは貞冬(=貞顕の子/忠時の叔父)同道候て、御前へ参了、御剣被下也、女房兵衛督殿役也、其外近衛殿・宰相殿以下御前祗候云々、見めもよく、ふるまいもよく候とて、御所ニても太守にても、御称美之由承候之際、喜悦無申計候、又…(以下欠)

細川重男によると、貞忠は正中元(1324)年に続き、この時も執権・北条高時邸での申次役を務め、同年3月の幕府の評定においても参否役として参加していたという*2。以下その史料2点も掲げておこう。

【史料2】(正中元(1324)年?)正月17日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*3

雖然上洛事、固辞之間、不及□□□上洛治定以後、任御約束御計候者、可為面目之由、以長禅門(=長崎円喜:高資の父)申出候之処、別駕(=秋田城介・安達時顕)へ忩申さたすへきよし(申し沙汰すべき由)仰られ候。別駕に披露候之処、折節尋常闕所無之□□て少所はしかるへからす(然るべからず)、侍所ニ闕所になりぬへき所あるよし風聞、いそき(急ぎ)申さたすへし。所謂下野国大内庄・常陸国□□郡等、忩ゝさ□□□□□被仰候き。合評定衆といへとも(雖も)奥州□趣□御存知之間、闕所ニなされす(成されず)候。別駕皆御存知の事にて候。去年進発ちかく成候て、以安東左衛門被仰出候しハ、上洛以前に可有御計候つれとも、さりぬへき闕所なき間、有其儀は上洛以後、忩可□□計云ゝ。其此は長□□長禅門カハ所労之間、(以下欠)

 

【史料3】(正中3(1326)年3月?)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*4

愚老(=貞顕)執権(=15代執権就任)事、去十六日朝、以長崎新兵衛尉被仰下候之際、面目無極候。当日被始行評定候了。出仕人(=貞顕)陸奥守・中務権少輔・刑部権大輔入道(=前掲【史料1】に同じ)山城入道長崎新左衛門尉 以上東座、武蔵守(=赤橋守時駿河守尾張前司遅参・武蔵左近大夫将監・前讃岐権守後藤信濃入道 以上西座、評定目六并硯役信濃左近大夫孔子布施兵庫允、参否安東左衛門尉候き。奏事三ヶ条、神事・仏事・□〔乃カ〕貢事、信濃左近大夫…(以下欠)

 

以上3つでの通称の表記に着目すると、正中年間では既に左衛門尉に任官済みであったことが分かる。 他の御家人得宗被官の例を参考にすれば、はこの時20~30代であったと推測されるので、逆算すると高時の父・北条(9代執権在職:1284年~1301年、1311年逝去)*5得宗家当主であった期間にその偏諱が許されたことになるが、北条時―安東忠の間に直接烏帽子親子関係が結ばれていたと推測できよう。

 

細川氏が紹介の通り、貞時が執権職を辞して出家する5ヶ月前の、正安3(1301)年3月3日付「関東下知状」(『常陸鹿島神宮文書』)*6には「安東左衛門尉重綱」と、同じ通称名を持った人物が確認できる*7。この時貞忠が同じく「安東左衛門尉」と称していたとは考えにくく、もし左衛門尉に任官していれば区別のため「安東左衛門尉」(【史料1】・【史料3】での「長崎新左衛門尉」「長崎新兵衛尉」がその一例)と呼ばれていただろうし、そうでなければ元服の際に称した「太郎」等の輩行名を名乗っていた筈である。いずれにせよ貞忠は若年であったと考えられ、特に後者であれば貞時の加冠により元服したばかりであったことになる。

 

同じ得宗被官の例では長崎、諏訪、尾藤氏などがそうであるように、「○○左衛門尉(○○は太郎、三郎などの輩行名)」ではなく単に「左衛門尉」を称するのは嫡流に限られていたから、重綱・貞忠はいずれも安東氏嫡流の人物であった可能性が高い。年代的には親子であったとも考えられるが、史料が無く系図等で裏付けることは出来ない。重綱―貞忠間で通字らしき共通の1字が共有されていないこともその要因であるが、北条義時の側近として活動した人物として安東忠家が確認されており、同じく「」の字を持つ貞家の子孫と考えられるのではないか。安東氏が「忠」を通字継承していったか、重綱の子であれば先祖の1字を取って命名されたことになる。 

 

尚、『太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」には、元弘3(1333)年5月12日の久米川の戦いで敗れた桜田貞国長崎高重らの軍勢に、幕府は北条高時(崇鑑)の弟・泰家(四郎左近大夫入道恵性)を大将とする10万の軍勢(増援)を派遣したとあり、その中に「安東左衛門尉(安東高貞)」が含まれている*8が、その通称名や「貞」字の共通からすると貞忠の後継者(恐らくは嫡男)ではないかと思われる。その名も時と貞忠から各々1字を受けたものと推測される。この高貞が「安東左衛門尉」の通称を継承していることからすると、貞忠は【史料3】からさほど経っていない1327~1330年頃に亡くなったのではないかと思われる

 

脚注

*1:金沢文庫古文書』369号。『鎌倉遺文』第38巻29313号。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.114。

*3:金沢文庫古文書』355号。『鎌倉遺文』第38巻29313号。注2前掲細川氏著書 P.323。

*4:金沢文庫古文書』374号。『鎌倉遺文』第38巻29390号。注2前掲細川氏著書 P.319。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:『鎌倉遺文』第27巻20723号。

*7:注2同箇所。

*8:「太平記」新田義貞謀反の事付天狗催越後勢事(その11) : Santa Lab's Blog 参照。

二階堂貞綱

二階堂 貞綱(にかいどう さだつな、1260年代?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の御家人

 

 

生年の推定

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こちら▲の記事で紹介した通り、『尊卑分脈』には父・二階堂頼綱について「弘安六十廿四卒 四十五(弘安6(1283)年10月24日、数え45歳で死去)との注記があり*1、逆算すると延応元(1239)年生まれと分かる。従って、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、貞綱の生年はおよそ1259年より後の筈である

 

一方で、『実躬卿記』正応4(1291)年5月9日条には、この日の新日吉社五月会流鏑馬5番を務める人物として「下総三郎左衛門尉藤原貞綱」の記載がある*2。細川重男は「下総」が「下野」の誤記として宇都宮貞綱に比定される*3が、『尊卑分脈』に「下総守 頼綱」の子で「三郎左衛門尉 貞綱 本名師綱」と書かれる二階堂貞綱*4とするのが正しいのはないかと思う*5

この頃在京であったことが窺えるが、その通称名に着目したい。「三郎左衛門尉」はかつて父・頼綱も称していたものであるが、22歳(数え年)で左衛門尉に任官済みであったことが確認できる*6ので、正応4年当時の貞綱も20代前半には達していたと推測される。従って遅くとも1260年代後半の生まれであろう

以上2点より、1260年代の生まれであることは確実であると思われる。

 

 

息子・二階堂行朝(行珍)について

尊卑分脈』には貞綱の子として二階堂行朝(ゆきとも)が載せられている。その注記によると、左衛門尉・信乃守(=信濃守)任官を経て、正中3(1326)年3月に出家し「行珍(ぎょうちん)」と号したという*7得宗北条高時の剃髪に追随したものであろう。

行朝については没年が1353年であることは分かっている*8ものの、没年齢(享年)については明らかにされていないため、貞綱に同じく生年不詳である。史料上では「二階堂信濃入道行珍*9、「信濃前司入道行珍*10等と呼ばれていることが確認できるが、その呼称から出家前の最終官途が信濃守であったことが分かる。すなわち、正中3年の段階で信濃守を既に辞していたことになり信濃前司は前信濃守の意)、国守任官に相応の30代以上の年齢であったと推測される。

 

尊卑分脈』によれば、長男・行親は建武2(1335)年正月に討たれたといい、次男・行通は康永4(1345)年の天龍寺供養に随兵として同行した時、美濃守であった*11から、彼らは遅くとも1310年代には生まれていたと考えられる。よって、父である行朝の生年は1280年代~1290年頃だったのではないかと推定され、前節で述べた貞綱の生年の推定期間を裏付けるものになるだろう。

 

(参考ページ)

 二階堂行朝 - Wikipedia

二階堂行朝(にかいどう ゆきとも)とは - コトバンク

● 南北朝列伝 #二階堂行朝

 

 

貞綱の名乗りについて 

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こちら▲の記事でも紹介の通り、父・綱は得宗(第5代執権)北条時を烏帽子親としてその偏諱を受けたものとみられる*12

このような観点に基づけば、その嫡男である貞綱も同様であったと推測される。すなわち、正応4年の段階で「」を名乗っていたことは前述した通りだが、当時の得宗北条(第9代執権在職:1284年~1301年)*13偏諱が許されていることが分かる。 弘安7(1284)年4月以後に貞時から直接一字を拝領したと考えて問題ないだろう。

 

但し前述の通り『尊卑分脈』には「本名師綱」とあり、元服時の烏帽子親が同じく貞時であったかどうかは判断し難い。ただ、前述の生年からすると弘安7年当時は元服前後の年齢であったと考えられるので、師綱(もろつな)を名乗った期間は短かったと推測される。或いは安達(藤九郎)の加冠を受けた佐々木(初名:秀綱)*14と同様に「師綱」は幼名だったのかもしれない*15

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:『実躬卿記』正応4(1291)年5月9日条

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№106-宇都宮貞綱 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:『大日本史料』6-18 P.375 も参照。

*5:前述の通り、この当時は頼綱が亡くなってから8年が経っているが、父の死後もその官途を付けた通称名で呼ばれた例は、北条高時(相模守・相模入道)亡き後に「相模次郎」を称したその遺児・北条時行や、父・北条師時(10代執権、相模守)の死後も「相模左近大夫」と呼ばれた北条貞規など、少なからず確認できる。

*6:吾妻鏡』での初見である、文応元(1260)年正月1日条に「伊勢次郎左衛門尉行経 同三郎左衛門尉頼綱」とある。御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.424「頼綱 二階堂」の項による。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*7:その他『武家年代記』にも「行珍、俗名行朝、信濃入道」と書かれている(→『大日本史料』6-5 P.12)ことにより、「信濃入道行珍」=行朝であったことは確実である。

*8:『大日本史料』6-18 P.374

*9:前注同箇所 など。

*10:『大日本史料』6-1 P.455 または http://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/akiiemonjyo.htm

*11:『太平記』巻24「天龍寺供養ノ事付大佛供養ノ事」などで確認ができる。

*12:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*14:『大日本史料』4-13 P.806

*15:『諸家系図纂』には貞綱の子・行朝の注記に「元 師継〔ママ〕」とあり(→ 注4同箇所)、行綱―頼綱―貞綱と「綱」を通字としてきたことも考慮すれば、師綱が行朝の初名であった可能性も排除は出来ないだろう。この場合、10代執権・師時からの一字拝領を想定できなくはないが、裏付けられる史料の無い今はその判断を差し控えたい。

渋川貞頼

渋川 貞頼(しぶかわ さだより、1280年頃?~1325年頃?)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。足利氏一門・渋川氏の第3代当主。

尊卑分脈*1によれば、通称は彦三郎、父は渋川義春、母は北条時広の娘「あかはん」(「越前守平時廣女」)と伝わる。源貞頼、足利貞頼*2とも。 

 

【史料A】『短冊作者考』より*3

渋川丹波守貞頼

二郎四郎源義春男、二郎義顕孫、鎮守府将軍源直義公之舅也、貞頼女子直義卿之室也、

記載の内容は『尊卑分脈』と一致する。父・義春、および祖父・義顕については、いずれも生没年不詳である。しかし、曽祖父にあたる足利泰氏が建保4(1216)年、その跡目となった叔父の足利頼氏が仁治元(1240)年生まれと判明している*4ので、義顕はおよそ1230年代半ば頃の生まれではないかと推測される。『尊卑分脈』には義顕の項に「本名兼氏」とあり、『吾妻鏡』での初見=寛元3(1245)年8月15日条「足利次郎兼氏」*5までに元服したことが窺える。従って、現実的な祖父―孫間の年齢差を考慮すればおよそ1270年代半ば以後の生まれと推定可能である。

 

外祖父の北条時広については、建治元(1275)年に54歳で亡くなったことが判明しており、逆算すると貞応元(1222)年生まれである*6。従って現実的な祖父―孫間の年齢差を考えれば、1262年頃よりは後に生まれたと判断できる。

また、嫡男・渋川義季についても建武2(1335)年に自害した時22歳であったことが『尊卑分脈』に書かれており、逆算すると正和3(1314)年生まれと分かる。従って親子の年齢差を考慮すれば、父である貞頼の生年はおよそ1294年以前であったと判断される。

 

以上の考察により、渋川貞頼の生年は1262~1294年の間と推定可能であるが、ここで前田治*7が紹介された、下記史料3点*8に着目しておきたい。 

【史料B】永仁4(1296)年8月18日付「北条時広女譲状写」『賀上家文書』

むさしの國おほあさうの鄕武蔵国大麻生郷)、ひたちの國おほくしの鄕常陸国大串郷)、たぢまの國おほたのしやう但馬国大田庄)、下のほうの下方(下保下方)、ならびにあかはなのむら(赤花村)、こどの(故殿?=渋川義春か?)の御ゆづり(譲り)にまかせて手継もん書(文書)(具)して三郎にゆづりわたす、ただしこれのけうやう(きょうよう)のために申を(置)きてて事さよいろぐさた(沙汰)させ可有候、

 ゑいにん(永仁)四年八月十八日  あかはん

 

【史料C】正安?年3月13日付「将軍家政所下文写」『賀上家文書』

□□〔将軍〕家政所下 

可令早源貞頼領知武蔵國大麻生鄕、同國佐江戸鄕肆分一(四分の一)常陸國鄕内大串村、但馬國大田庄内下保下方 並 赤花村

右任已〔亡〕平氏永仁四年八月十八日譲状等先例可致沙汰之状、所仰如件以下、

 正安□□三月十三日   案主 菅野知家事

令前出羽守藤原朝臣(=二階堂行藤:時藤貞藤兄弟の父)

別当相模守平朝臣(=執権・北条貞時御判

f:id:historyjapan_henki961:20191218144936p:plain f:id:historyjapan_henki961:20191218124332p:plain陸奥守平朝臣(=連署・大仏宣時)御判

 

*正安年間は1299~1302年*9。貞時が執権、宣時が連署であることから、行藤も含め3人が出家した正安3(1301)年8月22日までの古文書であることが分かる(次の執権は相模守・北条師時連署は武蔵守・北条時村である)。

 

【史料D】元亨4(1324)年4月29日付「渋川貞頼譲状写」『賀上家文書』

譲 三郎義季

上野國澁川湯之鄕、下野國足利庄内板倉鄕、武蔵國大麻生鄕、但馬國大田庄内下保下方事、

右所領□□御下文相具所譲与也、後日為証文状如件、

 元享〔亨〕四年四月廿九日  丹波守貞頼 御判

 

まず【史料D】は、貞頼が「三郎義季」宛に上野国渋川郷などの地を譲る旨の書状であるが、『尊卑分脈』と照らし合わせれば、渋川氏であることに疑いは無い。 

【史料C】の冒頭赤字部分について、『御調郡誌』では「源頼」とするが、崩し字が類似することから「源頼」の誤読であろう。ちなみに渋川(ただよりは貞頼の孫(義季の子)にあたり、縁戚関係にあった足利義の偏諱を受けたと思われる。この史料は「亡母平氏永仁四年八月十八日譲状等先例」に従い、「源貞頼」に対し所領を安堵する旨の書状であり、その譲状が【史料B】にあたる。

すなわち【史料B】を書いた「あかはん」が「源貞頼」の「亡母平氏」にあたる女性であり、「平時広女」とある『尊卑分脈』での記載が裏付けられる*10が、この母親から武蔵国大麻生郷・常陸国大串村・但馬国大田庄内下保下方・赤花村などの領地を譲られた「三郎」が【史料C】での「源貞頼」であったことが分かる。

*【史料B】での「三郎」について、【史料D】に「三郎義季」とあるからか、『御調郡誌』は渋川義季に比定するが、前述した通りこの当時義季はまだ生まれておらず、僅か数年後の【史料C】で領主が「源貞頼」に変わり、【史料D】で貞頼から義季に再度譲り渡されていることになってしまうのは明らかに矛盾である。『尊卑分脈』を見ると貞頼は「彦三郎」、義季は「又三郎」を称したといい、特に後者は「(彦)三郎」の「三郎(3男)」を表す通称と考えられるので、父子間で輩行名を "襲名" したと見なせる。寛元4(1246)年の宮騒動に際し名越光時が「我は義時が孫なり。時頼は義時がなり」と言った(『保暦間記』)のに代表されるように、「彦」には「曾孫」の意味があり、「彦三郎」の注記は、貞頼が足利三郎泰氏の曾孫にして同じく「三郎」を称したためにそう書かれたものなのかもしれない。

そして【史料D】でこれらの領地が貞頼から義季へ譲渡されたことが分かる。同史料を見ると、上野国渋川郷は苗字にもしている本貫地であることは言うまでもないが、家祖・義顕が「板倉二郎」とも称しているように、下野国足利荘板倉郷も足利本宗家(父・泰氏)から譲られ当初から領有していた土地であった*11

以上3点の史料に現れる領地は、いずれも観応3(1353)年6月29日付の直頼の譲状にもリストアップされており、渋川氏相伝の地であったことが分かる。

(参考記事)

bingo-history.net

 

ここで再度【史料B】を見ると、当時のはまだ無官で「三郎」とのみ呼称されていたことが分かるが、元服からさほど経っていなかったためであろう。その実名は「義○」型という代々の名乗りの例外で、「頼」が先祖と仰ぐ源頼信源頼義に由来するものと考えられるので、わざわざ上(1文字目)に置く「」の字が、当時の執権であった北条を烏帽子親とし、その偏諱を許されたものと考えられる。【史料B】までに元服を済ませている筈で、元服は通常10代前半で行うことが多かったから、貞頼の生年は1280年前後であったと思われる。これに基づくと【史料D】の段階では当時40代前半にして既に任官済みであった丹波を辞していたことになるが、足利・安達・長井氏など家格の高かった御家人での国守任官年齢が概ね20~30代であったという前田氏の論考*12も踏まえれば妥当であろう。

母親が北条氏出身であったことも一つの契機になったと思われるが、父・義春が文永9(1272)年の二月騒動に連座して一時期流罪に処されたことがあった(『尊卑分脈』)ためか、得宗への協調姿勢を示すために貞頼の加冠を貞時に願い出たのかもしれない。 

 

一方で、没年についても判明していないが、元亨4年の段階で譲状(前掲【史料D】)を出してからさほど経たない頃に亡くなったのではないかと思われる。【史料B】を書いた貞頼の母「あかはん」が【史料C】の段階で「亡母」となっていることを参考にすると、同様に【史料D】は、貞頼自身が病気にかかっていたのか、この先永くないと感じ、元服したばかりの嫡男・義季を相続人とするために書いたものと思われる。元弘3(1333)年5月には義季が若年ながら足利高氏(のちの尊氏)に従って六波羅探題を攻めている*13から、【史料D】より間もない頃に貞頼の死による家督の交代があったとみて良いだろう。

 

(参考ページ)

 渋川貞頼 - Wikipedia

 渋川直頼の譲状(備後での渋川氏の所領について)

 

脚注

*1:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.259 または 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション。本項での『尊卑分脈』はこれに拠ったものとする。

*2:渋川満頼とは (シブカワミツヨリとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

*3:『大日本史料』6-8 P.478

*4:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.184・187。

*5:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.102「兼氏 足利」より。尚、本項作成にあたっては 第5刷(1992年)を使用。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その68-北条時広 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。典拠は『関東評定衆伝』建治元年条

*7:注4前田氏論文 別表1 註釈(13)。同注前掲田中氏著書 P.227。

*8:いずれも 御調郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用。その他、小要博「賀上家文書について」(『埼玉地方史研究』第31号、1993年)や『新修蕨市史』(蕨市、1995年)にも収録されている。

*9:正安(ショウアン)とは - コトバンク より。

*10:北条氏は平維時の末裔を称する平姓の一族である(『尊卑分脈』など)。

*11:谷俊彦「鎌倉期足利氏の族的関係について」。注4前掲田中氏著書 P.138。

*12:注4前田氏論文 別表2 参照。同注前掲田中氏著書 P.224。

*13:渋川義季(しぶかわ よしすえ)とは - コトバンク より。

佐竹貞義

佐竹 貞義(さたけ さだよし、1287年~1352年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。佐竹氏第8代当主。

 

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▲『古押譜』より、佐竹貞義の花押*1

 

『正宗寺記』など複数の史料・系図類によれば、文和元(1352)年9月10日に66歳で亡くなったといい*2、逆算すると弘安10(1287)年生まれと分かる。

この生年に基づき、紺戸淳の論考*3に従えば、元服の年次は1296~1301年と推定可能であり、ちょうど正安3(1301)年の8月まで執権の座にあった北条(亡くなる1311年まで得宗家当主)*4偏諱」字が許されていることが分かる。 佐竹義は時を烏帽子親として元服し、1字を賜ったとみて間違いなかろう*5

 

ところで『正宗寺本 佐竹系図』での注記中に「貞氏御一字也」という記載が見られる*6少なくとも「貞」字が烏帽子親からの1字であることは間違いないようだが、貞時ではなく「貞氏」と書かれている。

当該期、貞時の偏諱を受けて「貞氏」と名乗った人物としては、足利貞氏、京極貞氏などが挙げられるが、佐竹氏に一字を与え得るとすれば同じ清和源氏の足利氏の可能性が比較的高いだろう*7。「甲斐信濃源氏綱要」によれば、足利貞は元亨2(1322)年3月15日に甲斐源氏・武田信の烏帽子親を務めたらしい*8が、時の烏帽子子であった*9が、貞時が存命の間に「」の偏諱義にそのまま下げ渡す、というのはあまり現実的な想定ではないと思う。

よって『正宗寺本 佐竹系図』は「貞御一字也」とすべきところの誤記であり、時―義は直接の烏帽子親子関係にあったと考えるのが良いかと思う。

 

(参考ページ)

 佐竹貞義 - Wikipedia

 佐竹貞義(さたけ さだよし)とは - コトバンク

 佐竹貞義

 

脚注

*1:『大日本史料』6-17 P.22 より。

*2:『大日本史料』6-17 P.15~の各史料を参照のこと。

*3:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。10~15歳での元服とした場合。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.297。

*6:『大日本史料』6-17 P.16

*7:一字」という表現からしても、鎌倉幕府の"副将軍"たる北条氏得宗家、または 室町時代に入ってからの将軍家=足利氏の可能性が濃厚だと考えられる。

*8:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.49・52 註(10)。

*9:前注今野氏論文 P.49。典拠は『異本伯耆巻』。