Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

後藤基胤

後藤 基胤(ごとう もとたね、1265年頃?~没年不詳(1330年頃?))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。 

尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によれば、父は後藤基頼、宇都宮頼業(横田頼業)の娘を母とする兄(異母兄か)後藤基宗がいる。官途は信濃守。法名覚也(かくや)か。

 

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父・基頼については暦仁元(1238)年生まれと判明しており*2、現実的な親子の年齢差を考えれば、基宗・基胤兄弟の生年は1258年頃より後と考えるべきであろう。歴代の親子の年齢差を参考にして基宗の生年を弘長2(1262)年~文永9(1272)年の生まれとする中川博夫の推定*3が的を射ていると思われ、下記記事では1262年頃の生まれとさせていただいた。

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こちら▲の記事で言及の通り、基の実名は執権・北条時偏諱を受けたものと判断され、基胤はそれに対して庶子扱いであったと思われる。国史大系本『分脈』での記載通り、基宗が兄、基胤が弟とみなして良いだろう*4。「」の字は千葉氏一門からの一字拝領である可能性が高いが、明らかにすることは困難である。

 

さて、『分脈』の基胤の傍注には「信乃」と記載されているが、恐らく細川重男(特に基胤とは同人扱いにはせず)実名不詳としていた「後藤信濃前司」「後藤信濃入道」と同人なのではないか。後にもその一例を示すが史料上で「信濃」を「信乃」と書いた例は少なくない。細川氏のブログによる経歴表は次の通りである*5

 

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№111後藤某(父:未詳、母:未詳)
  生没年未詳
01:年月日未詳      信濃
02:正中2(1325).05.25 在御所奉行
03:嘉暦1(1326).03.  出家
04:嘉暦1(1326).03.  在評定衆
 [典拠]
01:『鶴岡社務記録』正中2年5月25日条に、「御所奉行摂津刑部大輔入道々準・後藤信濃前司」とある。
02:同上。
03:02・04により、この人は正中2年5月より嘉暦元年3月までの10カ月間に出家したことがわかり、この間の出家の機会として可能性の高いのは嘉暦元年3月13日の高時の出家に従ったことである。よって、このように推定しておく。
04:金文374にある同年3月16日の評定メンバーに「後藤信濃入道」とある。

 

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02の2年前、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において「後藤信乃前司」が「銀剱一 五衣一領」を進上しており(『北條貞時十三年忌供養記』)*6、同年の段階で信濃守を辞していたことが分かるので、30~40代での国守任官(参考までに父・基頼は40歳で筑後守に任官)を経た年齢であったことが推測可能である。逆算すると1270~90年代生まれの世代となり、基宗の弟として問題ないと思う。本項では基宗より少し後、1265年頃の生まれとしておく。

 

04の史料も見ておこう。

【史料1】(正中3(1326=嘉暦元)年)3月「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*7

愚老執権事、去十六日朝、以長崎新兵衛尉被仰下候之際、面目無極候。当日被始行評定候了。出仕人々、陸奥守・中務権少輔・刑部権大輔入道山城入道長崎新左衛門尉 以上東座、武蔵守駿河守尾張前司 遅参・武蔵左近大夫将監・前讃岐権守後藤信濃入道 以上西座、評定目六并硯役信濃左近大夫孔子布施兵庫允、参否安東左衛門尉候き。奏事三ヶ条、神事・仏事・□〔乃貢の事、信濃左近大夫(以下欠)

【読み下し】愚老執権の事、去る十六日朝、長崎新兵衛の尉を以て仰せ下され候の際、面目極まり無く候、当日評定を始行せられ候いをはんぬ。出仕の人々……(以下略)

文中の「愚老」・「予」とは一人称*8、すなわち筆者である貞顕で、3月16日に長崎新兵衛尉(実名不詳、新左衛門尉高資の一族であろう)から15代執権就任の知らせを聞いた直後に書かれたものであることが分かる。そして同日の評定のメンバーに「後藤信濃入道」が含まれており、評定衆のメンバーであったことは次の史料によっても裏付けられる。

【史料2】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*9

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行暁

出羽入道道薀        後藤信乃入道

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

「信」と「信」では表記が異なってはいるが、それは「信乃入道道大」も同じで、道大は信濃守であった太田時連に比定される*10から、同一とみなして問題ない(当ブログ他記事でもその都度紹介しているが同様の例は他の多数の史料でも確認でき、美濃を「美乃」と書いた例もある)。そしてこの史料により後藤信濃入道=基胤の法名が「覚也(かくや)」であったことが分かる*11。 

細川氏は前述ブログ記事で「前2代続けて六波羅に転じていた後藤氏が、この人に至って関東で評定衆に昇る。後藤氏、ギリギリで関東中枢に復活!」と述べられているが、実際は恐らく、父に同行した基宗の系統がそのまま在京し、一方の基胤は鎌倉に戻って活動したのではないか。2つの系統に分かれた後藤氏が京都六波羅と鎌倉をそれぞれ拠点にしたと考えられる。

 

その後の基胤(覚也)の消息は不明。但し、【史料2】にあるほとんどのメンバーが1333年の鎌倉幕府滅亡に殉じており、同じくその時まで存命であれば評定衆の一人として巻き込まれていてもおかしくはないと思うが、その関連史料に一切現れないことからすると、山城入道行暁(=二階堂行貞と同様でその直前、1330年前後には亡くなっていたのかもしれない。

鎌倉幕府滅亡時またはそれ以前に亡くなっていたことを裏付け得る史料として、その後南北朝時代に出された以下2点の書状が確認される。 

【史料3】康永2(1343)年3月4日付「室町幕府引付頭人石橋和義奉書案」(反町英作氏所蔵『色部文書』)*12

 (張紙)「十四、左衛門佐遵行状案」

青木四郎左衛門尉武房等申越後国小泉庄事、申状具書如此、於色部遠江権守長倫・平蔵人長高秩父左衛門次郎持長・山城入道行暁・安富大蔵大夫空円(=安富長嗣)者、所被糺明也、至城入道後藤信濃入道闕所分者、不日止本庄左衛門次郎(=持長)以下輩濫妨、任御下文、可被沙汰付、更不可有緩怠之儀之状、依仰執達如件、

 康永二年三月四日  左衛門佐(=和義)

  上椙民部大輔殿  在判

 

【史料4】延文2(1357)年6月11日「越後守護代芳賀高家施行状」(『桜井市作氏所蔵文書』)*13

当国瀬波郡小泉庄内城介入道〔ママ、後〕藤信乃入道二階堂山城入道等事、為兵粮料所々被預置也、一族并同心之輩、依忠浅深、可被配分之由候也、仍執達如件、

 延文二年六月十一日 伊賀守(花押)

  色部遠江(=色部長忠)殿

清水亮も論文で「後藤信濃入道」=基胤とされている。【史料3】・【史料4】での「」という表現により、越後国小泉庄内にあった基胤安達時顕(延明)二階堂行貞(行暁)ら【史料2】にも名を連ねる高時政権中枢メンバーの旧領が、幕府滅亡後闕所地となったことが窺え、【史料4】は色部長忠が芳賀高家(正しくは高貞か)よりこれらの闕所地を「忠の浅深」によって「一族并びに同心の輩」に配分する権利を得たものである。 

 

脚注 

*1:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.393~394。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№110-後藤基頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:中川博夫「後藤基綱・基政父子(一) -その家譜と略伝について-」(所収:『芸文研究』48号、慶應義塾大学藝文学会、1986年)P.38。

*4:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.394。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№111-後藤某 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*6:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709。

*7:『鎌倉遺文』第38巻29390号。『金沢文庫古文書』374号。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.319、年代記嘉暦元年 にも掲載あり。

*8:愚老(グロウ)とは - コトバンク より。

*9:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№194-太田時連 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:法名に「也」字が使われるのは珍しいが、日本史上では空也などの例がある。

*12:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)P.8。『新潟県史 資料編 中世』1047号文書。

*13:前注清水氏論文 P.10。『新潟県史 資料編 中世』2755号。

尾藤時綱

尾藤 時綱(びとう ときつな、生年不詳(1260年代?)~1331年頃?)は、鎌倉時代後期の武将、御内人得宗被官)。尾藤頼景(景頼)の嫡男。通称および官途は二郎、左衛門尉、左衛門入道。法名演心(えんしん)。初名は尾藤時景(ときかげ)とも(『尊卑分脈』)

 

 

はじめに:2つの尾藤氏系図

藤原秀郷流尾藤氏については、現在確認されている限りで2種類伝わっている。以下本項でも参考にするため、細川重男の著書*1より一部引用して掲げる。

◆【系図A】『尊卑分脈』尾藤氏系図 より

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◆【系図B】『続群書類従』所収「尾藤系図」より

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以下、【系図A】・【系図B】はこれらいずれかの系図を指すものとする。

 

史料における尾藤左衛門尉

まずは同じく細川の先行研究*2に頼りながら、尾藤時綱(演心)の登場箇所とされる史料を以下に列挙する。 

 

【史料1】正安3(1301)年12月24日付「関東御教書」*3

奉寄進

 正八幡宮

  日向国臼杵郡田貫田尾藤左衛門尉時綱

右、為聖朝安穏・異国降伏、所奉寄進也。雖為向後、就社務令管領、可被御祈祷者、依鎌倉殿(=当時の将軍・久明親王仰、奉寄如件。

 正安三年十二月廿四日  正五位下相模守平朝臣師時在判

             従四位下武蔵守平朝臣時村在判

確認できる限りで初見の史料にして、通称・実名が共に確認できる貴重なものである。【系図A】では景氏の子・景頼の息子を時景 改め時綱、【系図B】では景氏の子・頼景の息子を時綱(時景の父)と記載していて若干異なるが、いずれにせよ正安3年の段階で時綱左衛門尉の官途を持って実在していたことは認められよう。

 

【史料2】嘉元元(1303)年11月30日付「得宗家執事奉書」(『金剛三昧院文書』)*4

高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄上下諸人幷運送船事、任宝治・弘安・正応過書、門司関不可致其煩之由候也。仍執達如件。

  嘉元ゝ年十一月卅日  左衛門尉時綱

 下総三郎入道殿

 下総又次郎殿

 

【史料3-a】嘉元4(1306=徳治元)年7月日付「東大寺法華堂訴状案」

【史料3-b】(嘉元4年)7月29日付「東大寺別当聖忠御教書案」

この2つの史料は、この年に東大寺法華堂が、その所領であった「摂津国猪名荘東野」・「長洲村開発田東野」を濫妨したとして、摂津国杭瀬村(杭瀬荘とも)の地頭であった美藤左衛門尉の代官・左衛門三郎を訴えたという書状の写しであり*5、西田友広はこの「美藤左衛門尉」が「びとう」と読める音の共通から尾藤左衛門尉の誤記で、時綱(演心)またはその一族にあたるものと推測されている*6。【史料1】でもそう書かれる通り、尾藤氏で「○郎」の仮名が付かずに「左衛門尉」とのみ呼ばれたのは嫡流の当主であった時綱に限られたから(詳しくは後述参照)、「美藤左衛門尉」=時綱本人に比定して良いのではないかと思う。

 

【史料4】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*7

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 九 番

  尾藤左衛門尉        長崎四郎左衛門尉(高貞
  神四郎入道(了義)     渋川次郎左衛門入道
  安東平内右衛門入道(道常) 工藤治部右衛門尉
  内嶋四郎左衛門尉      諸岡民部五郎

 十 番

  長崎左衛門尉(盛宗?)    尾藤六郎左衛門尉
  長崎後家         権医博士
  狩野介          尾張権守
  矢野民部大夫(倫綱   粟飯原右衛門四郎(常久

 十一番

  南條左衛門尉(貞直   岡村太郎右衛門尉
  尾藤五郎左衛門尉     武藤後家
  中三中務入道       佐藤宮内左衛門尉
  万年新馬允        矢田四郎左衛門尉

  十二番

  工藤右衛門入道      五大院左衛門入道
  出雲守          妙鑑房
  武田弥五郎        諏方兵衛尉
  内嶋後家         水原図書允

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*8)」の結番を定めたものであり、9番筆頭の「尾藤左衛門尉」は時綱に同定される。ちなみに、10番衆の「尾藤六郎左衛門尉」は尾藤頼氏(よりうじ)*9、11番衆の「尾藤五郎左衛門尉」は尾藤頼連(よりつら)*10にそれぞれ比定され、両名は時綱の従兄弟にあたる。

 

【史料5】(延慶元(1308)年)11月7日付「金沢貞顕書状」(『円覚寺文書』)*11

円覚寺額事、任被仰下之旨、可令申入仙洞(=伏見上皇給由、内〻伺申西園寺殿(=公衡)候之処、悉被下 震〔宸〕筆候。子細定長崎三郎左衛門入道(=思元)令言上候歟。以此旨、可有洩御披露候。恐惶謹言。

 十一月七日 越後守貞顕 (花押)

進上 尾藤左衛門尉殿

*理由は不明だが、花押の部分は他文書の貞顕花押を切り貼りしたものである。*12

この書状は、貞顕が越後守在任であった嘉元2(1304)年6月2日~延慶2(1309)年10月2日の間*13に書かれたことが分かるが、円覚寺伏見上皇宸筆額が下賜されることになったことを伝えていて、細川氏円覚寺定額寺に列した延慶元年*14のものと判断されている。

 

【史料6】(延慶2(1309)年)4月10日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*15:前日9日における寄合の「合奉行」として「長入道(=長崎入道円喜)」・「尾金」の記載あり。後者は「尾藤金吾(金吾は左衛門尉の唐名」の略記と考えられ、時綱が寄合に参加のメンバーに含まれていたことが分かる*16

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【史料7】延慶3(1310)年3月8日付「得宗公文所奉書」(『明通寺文書』)*17

異國降伏御祈事、御教書如此、早任被仰下旨、可相觸若狭國寺社別〔当 脱字カ〕神主之由、可被下知代官候、仍執達如件、

 延慶三年三月八日 親經 在〻

          了曉 在〻

          時綱 在〻

          資□ 在〻

 工藤四郎右衛門尉殿

この史料は、若狭国内の寺社に「異国降伏御祈事」を命じる関東御教書を施行したもので、工藤四郎右衛門尉(実名不詳)守護代へこのことを伝達するよう命じたものである。細川氏が述べるように、宛名の工藤氏は若狭守護代を複数人輩出した得宗被官であるから、この書状は得宗公文所奉行人連署奉書であり*18細川氏は奉者第一位の「資□(2文字目欠損か)」がのちの長崎高資、第二位の「時綱」がのちの尾藤演心と推測されている。

 

【史料8】延慶3年8月29日付「得宗家執事書状」(『鶴岡神主家伝文書』)*19

参内〔ママ、御内カ〕御恩所望事、申状披露之処、便宜之可有御計候。仍可進御事書之由、被仰出候之間、書進之候了。可有御存知其旨候。恐ゝ謹言。

 延慶三

  八月廿九日 時綱(花押)

 八幡神主殿

 

 ★応長元(1311)年10月26日、得宗(副将軍)北条貞時逝去*20

 これに伴って出家か。

*【系図A】には「時景 改綱 出家」とあり、(改名の有無はともかく)【史料1】で実在が確認できる時綱が後に出家したことは認めて良いだろう。

 

【史料9】(正和年間)『当社記録鶴岡八幡宮國學院大學所蔵本〉

梶川貴子の紹介によると、長崎左衛門入道圓喜、諏訪左衛門入道直性、尾藤左衛門入道演心、安藤左衛門入道昌顕、長崎三郎左衛門入道思元、長崎四郎左衛門尉時元、南条左衛門入道性延(梶川氏は南条貞直に比定)などの得宗被官が鶴岡八幡宮評定衆として名を連ねているという*21。正和元(1312)年に時綱(演心)鶴岡八幡宮評定衆に列せられ、その別当や供僧の事務を統括した*22という根拠の史料であろう。梶川氏の論文は史料での表記通りに記述されていると思われるので、正和元年に評定衆に列せられた段階で出家済みであれば、貞時が亡くなって間もなく「演心」と号したことが裏付けられよう。

 

【史料10】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の「施楽院使・丹波長周注進状」*23:同月8日に鎌倉で起きた大火の被災者の中に「尾藤左衛門入道演心」。 

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【史料9】・【史料10】により尾藤演心の実在が確認できる。その通称は出家前「尾藤左衛門尉」であったことを表すから、時期の近さからしても、先行研究でご指摘の通り【史料1】等の「尾藤左衛門尉時綱」が出家した同人とみなせる。

 

【史料11】正和5(1316)年閏10月18日付「得宗公文所奉書」(『多田神社文書』)*24

攝州多田院塔供養御奉加御馬事、先日被仰下之處、無沙汰云〻、不日可被沙汰進之由候也、仍執達如件、

 正和五年閏十月十八日 □直(花押)

            了□(花押)

            演心

            高資(花押)

 工藤右近入道殿

 

【史料12】『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記」 文保元(1317)年6月9日条*25

文保元年六月九日。於明王院北斗堂被修之 扈藤左衛門入道〔ママ〕子息労之間申之云々、支物一万疋。」 

 

【史料13】『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):元亨3(1323)年10月の貞時13年忌供養において、「尾藤二郎左衛門入道」が25日の一品経の阿弥陀経調進に銭10貫、27日の進物に「砂金五十両 銀剱一 馬一疋 置鞍、葦毛、」を支出*26

*尾藤氏嫡流の当主ゆえ、他史料では「左衛門尉」とのみ書かれてきた時綱(演心)だが、【系図B】では「二郎左衛門尉」と注記されており、細川氏が述べられる通り、この二郎左衛門入道演心に比定されよう*27。同氏はそのもう一つの根拠として、この法要ではこの二郎左衛門入道のほか、尾藤五郎左衛門入道(=出家後の頼連か)・尾藤六郎左衛門尉(=頼氏か)の計3名が進物を出しているが、二郎左衛門入道の支出が他の2名に比して群を抜いて多額であることを挙げ、彼が尾藤氏の中心人物であったと説かれている*28詳しくは後述するが、尾藤氏における「二郎(次郎)」は嫡流における代々の称号のようなものと化していた可能性が高い。

 

【史料14】『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記」 嘉暦元(1326)年12月17日条*29

嘉暦元年丙寅十二月十七日丁亥。於御本坊瑠璃光院被修之。

 扈藤左衛門入道〔ママ〕室家産餘気祈云々。支物一万疋。

 

【史料15】(年不詳:1331年?)正月10日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*30

御吉事等、於今者雖事旧候、猶以不可有尽期候。

抑自去六日神事仕候而、至今日参詣諸社候。仍不申候ツ。今暁火事驚入候。雖然不及太守禅閤(=北条高時[崇鑑])御所候之間、特目出候。長崎入道(=円喜)同四郎左衛門尉(=高貞)同三郎左衛門入道(=思元)同三郎左衛門尉(=高頼)尾藤左衛門入道南條新左衛門尉等宿所炎上候了。焼訪無申計候。可有御察候。火本者、三郎左衛門尉宿所ニ放火候云々。兼又御内御 数御返事、昨日被出候。進之候。又、来十二日無御指合候者、早旦可有入御候。小點心可令用意候。裏可承候。恐惶謹言。

  正月十日    崇顕

方丈進之候

 「(切封墨引)

方丈進之候   崇顕

これ以後の史料上で、尾藤左衛門入道なる人物は確認できない。1333年の鎌倉幕府滅亡に際しては、【史料10】に掲載のメンバーのうち、赤橋守時が戦闘の中で自害し、その後得宗北条高時に殉じた者の中に安達時顕(延明)や、安達師景・師顕と思しき人物、更に御内人では長崎円喜・諏訪直性・摂津親鑒(道準)が含まれているが、尾藤演心の記載は特に無い。この時まで存命であれば【史料15】で明らかな通り在鎌倉であった演心もこれに巻き込まれている筈であり、逆に当時既に亡くなっていた可能性が考えられる。

 

 

世代と烏帽子親の推定

次に本節では時綱(演心)の生年と烏帽子親の考証を行っていきたいと思う。

 

北条時宗の烏帽子子

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『尊卑分脈』を見ると、時綱佐藤公清から数えて11代目にあたるが、親戚にあたる後藤氏での基宗と同じ代数となる*31。 

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また、こちら▲の記事で、父・景が暦仁元(1238)年生まれの後藤基とほぼ同世代人にして5代執権・北条時より1字を拝領した可能性を指摘した。

綱と後藤基の関係もまた同じく、共に8代執権・北条時宗の烏帽子子だったのではないかと思われる。【系図A】の記載に従えば元服直後の初名は「」だったことになるが、いずれにせよ上(1文字目)に戴く「」字は北条氏の通字を許されたものに間違いなく、時宗からの偏諱とみて良いだろう(「綱」は祖父・景氏の伯父/養父にあたる尾藤景綱に由来するものであろう)時宗の執権在任期間(1268~1284年*32内の元服であったとみられる(これについての考証は次節参照)

 

尾藤氏における左衛門尉任官年齢と生年の推定

前項の内容を裏付けるべく、尾藤氏における左衛門尉任官に相応の年齢を考えてみたい。その参考にそれまでの尾藤氏歴代当主に着目する。

先祖を遡ると、藤原藤成(776-822)までは生没年が判明しており、その曽孫にあたる藤原秀郷(藤成―豊沢―村雄―秀郷)について、『田原族譜』により導かれる元慶4(880)年生まれ*33というのは藤成との年齢差やその活動時期からして妥当ではないかと思われる。この秀郷から13世孫にあたる尾藤景綱*34の生年は1180年~1200年あたりになるだろう*35

吾妻鏡』建保元(1213)年5月2日条によれば、景綱はまだ無官で「尾藤次郎」と称されていたようだ*36が、次の承久3(1221)年5月22日条に「尾藤左近将監」(次いで同年6月13日条に「尾藤左近将監景綱」)と書かれる*37までに左近衛将監従六位上相当)*38となったことが窺え、30~40歳頃には何かしらの官職を得ていたと考えられる。

景綱の後継者となったのは甥(弟・中野三郎景信の子)尾藤景氏であった。前述の景綱の生年(推定)からすると景氏の生年は1212年以後と一応推測は可能である。1212年は奇しくも、景綱の妻が乳母になっていたという北条時実の生年であり、景綱夫妻は時実の親くらいの世代、時実と景氏はほぼ同世代の関係であったとみなして良いのだろう。『吾妻鏡人名索引』を見ると、寛喜2(1230)年正月4日条に「尾藤太景氏」として初めて登場し、嘉禎2(1236)年12月19日条「尾藤太郎」、寛元3(1245)年7月25日条「尾藤太景氏」と3回現れた後、寛元4(1246)年5月25日条・6月10日条の「尾藤太平三左衛門尉」も景氏に比定される*39。寛元4年の2箇所については通称の面で若干違和感を覚えるが、仮に信用すれば30代で左衛門尉に任官していたことになる

景氏の子・頼景については前述したが、景氏との年齢差を踏まえても問題ない。『吾妻鏡』を見ると、建長4(1252)年正月1日条では無官で「尾藤二郎」と呼ばれていたものが、康元元(1256)年正月3日条では「尾藤次郎兵衛尉」と変化しており、20代に入って間もない頃に左兵衛尉(七位相当)*40となっていた可能性が高い。

この他に確認できる史料として、弘安5(1282)年5月12日付「尾藤景連等連署避状案」(『祇園社記』神領部七)は、「尾藤五郎左衛門尉景連」・「尾藤六郎左衛門二郎頼氏」らが連名で発給した書状の写し(控え)であり*41、頼景の弟である景連、その更に弟で頼氏の父でもある頼広が当時左衛門尉任官済みであったことが窺える。景連・頼広兄弟は早くとも1240年代の生まれの筈だが、その場合でも40歳を迎えるまで(遅くとも30代)には左衛門尉になっていたことになる。また頼広の子・頼氏も1260年代以後の生まれと推測可能で、10~20代であった弘安5年当時はまだ無官で「二郎」を名乗っていたことが窺えよう。 

 

以上の考察より、【史料1】から正安3(1301)年の段階で左衛門尉在任が確認できる頼景の子・時綱についてはその当時30代に達していた可能性が高いだろう。逆算すれば遅くとも1271年頃の生まれとなる。父との年齢差を考慮すればその生年は1260年代~1270年頃の間に推定され、元服は多く10代前半で行われたから、弘安7(1284)年4月4日に時宗が亡くなるまでの元服であったと考えて問題ないと思う。

 

 

出家の時期と法名「演心」について

前述したように、【系図A】で「出家」と注記される時綱は、のちに演心と号したが、その契機は時期からし得宗北条貞時の逝去に伴うものであろう。の「」は祖父・景氏の法名*42の1字を継承したもの、もう一方の「」は貞時の法名」から取ったものと考えられるからである。同様の前例として、弘安7年に北条時宗が「道」と号して間もなく逝去した際にも、追随して出家した御内人である工藤時光(禅)平頼綱(円)*43がその1字を使用した様子が窺える。

 

(参考ページ・文献) 

 尾藤時綱 - Wikipedia

御内人人物事典 ー 尾藤時綱

細川重男「尾藤左衛門入道演心について」(所収:同『鎌倉政権得宗専制論』〈吉川弘文館、2000年〉第1部第6章)

 

脚注 

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.428~430。

*2:前注細川氏著書、第1部第6章「尾藤左衛門入道演心について」。

*3:前注細川氏著書 P.201 より。『鎌倉遺文』第27巻20938号などにも掲載。

*4:『鎌倉遺文』第28巻21691号。

*5:西田友広「東大寺宝珠院所蔵絵図から見た鎌倉時代後期の尼崎地域」(所収:『東京大学史料編纂所紀要』27号、2017年)P.4。尚、2つの書状は「京都大学所蔵宝珠院文書」科研報告書『中世寺院における内部集団史料の調査・研究』(研究代表者:勝山清次)所収『法華堂文書』平安・鎌倉時代分110・111号 に翻刻が掲載されている。

*6:前注西田氏論文 P.6。

*7:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*8:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 細川氏のブログ:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より)。尚、同職員表は注1前掲細川氏著書の巻末にも掲載あり(以下同様)。

*9:系図A】・【系図B】双方において「六郎左衛門」・「六郎左衛門尉」と注記される。

*10:系図B】において父・景連と揃って「五郎左衛門尉」と注記される。

*11:『鎌倉遺文』第31巻23445号。

*12:注1前掲細川氏著書 P.213 註(12)。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*14:注1前掲細川氏著書 P.213 註(13)。典拠は同年12月22日付「太政官符」(『円覚寺文書』所収)。

*15:金沢文庫古文書』324号文書。

*16:注1前掲細川氏著書 P.206。

*17:『鎌倉遺文』第31巻23932号。

*18:注1前掲細川氏著書 P.184 註(73)。

*19:『鎌倉遺文』第31巻24052号。

*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*21:梶川貴子「得宗被官南条氏の基礎的研究 ー歴史学的見地からの系図復元の試みー」(所収:『創価大学大学院紀要』第30号、2008年)P.437 によれば、坂井法曄「南条一族おぼえ書き(下)」(所収:『興風』第16号、興風談所、2004年)に翻刻が掲載されているという。

*22:御内人人物事典 ー 尾藤時綱 より。

*23:注1前掲細川氏著書 P.19 より。読み下しは年代記正和4年を参照のこと。

*24:『鎌倉遺文』第34巻26002号。

*25:注1前掲細川氏著書 P.212 註(8)①。

*26:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698~699・707。

*27:注1前掲細川氏著書 P.202。

*28:前注同箇所、および 同書 P.209。尚、『貞時供養記』には他にも、禄役人・手長等を務める一族として「尾藤弾正左衛門尉資広」・「尾藤孫次郎資氏」の名が確認できる。

*29:注1前掲細川氏著書 P.212 註(8)②。

*30:『鎌倉遺文』第41巻32185号、『金沢文庫古文書』(武将編456号)、『神奈川県史』(資料編2古代・中世(2)3038号)に収録。年については1333年とする説もある。文章および人物比定は、注1前掲細川氏著書 P.211 注(3) より。「南条新左衛門尉」は『御的日記』元徳2(1330)年1月14日条に的始の一番筆頭の射手として確認できる「南条新左衛門尉高直」(『新編埼玉県史 資料編7 中世3 記録1』、埼玉県、1985年、P.642)と同人とする梶川貴子の説(梶川「得宗被官の歴史的性格―『吾妻鏡』から『太平記』へ―」《所収:『創価大学大学院紀要』34号 所収、2012年》P.390)に従った。

*31:途中養子相続を挟むため、後藤氏について正確には公清―季清―康清―仲清―基清―基綱―基政―基頼―基宗と、公清から9代目にあたるが、能清の実弟である基清が実基の養子であったということは重要であって、養父よりは年少(或いは老いていてもほぼ同世代)であったと考えるのが自然と思われる。代数の少なさは親子の年齢幅の違いに起因するものであろう。

*32:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*33:正暦2(990)年9月25日に数え111歳で亡くなったとの記載があり、逆算すると880年生まれとなる。享年があまりにも長寿ゆえ疑問は残るが、一応平将門の乱(935)年など秀郷の活動期間はその中に収まる。

*34:尊卑分脈』によると、秀郷―千常―文脩―文行―公光―公清―公澄(或いは公郷)―知基―知昌―知忠―(尾藤)知広―知景―景綱。

*35:各親子間の年齢差は多少の誤差があったとしても概ね20~30くらいで収まるのではないかと考えられるので、仮に平均で25とすれば秀郷から景綱に至るまで300年となる。本文で示す通り1213年には景綱が史料上に現れており、1180年生まれとしても数え34歳となって決しておかしくはないし、1190~1200年頃にまでなら下らせることも可能であろう。

*36:『大日本史料』4-12 P.487

*37:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.88「景綱 尾藤」の項 より。

*38:左近将監(さこんのしょうげん)とは - コトバンク左近衛将監(さこんえのしょうげん)とは - コトバンク より。

*39:吾妻鏡人名索引』P.90「景氏 尾藤」の項 より。

*40:左兵衛の尉(さひょうえのじょう)とは - コトバンク より。

*41:八坂神社記録. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第19巻14623号。

*42:系図A】・【系図B】双方での注記に「法名浄心」とあるほか、『吾妻鏡』弘長3(1263)年11月19日条にも「尾藤太 法名浄心」とある。

*43:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.116で紹介の通り、平頼綱の出家時期は霜月騒動直後の弘安8(1285)年12月27日であったというが、それでも時宗逝去の翌年にあたるので、頼綱の法名「杲円」は時宗のそれである「道杲」に関係していると考えて問題ないだろう。元々頼綱と安達泰盛時宗の政治的後継者(継承者)を巡って争ったのであり、頼綱は自分こそが時宗の政治姿勢を引き継ぐ者であることを示す一環として「杲」の字を自ら用いたのではないかと推測される。尾藤時綱こと演心は、頼綱のように内管領となって政治を動かすほどの地位を得たわけではないが、年代も近い主君であった貞時を偲んで、同じく自分の意志で「演」の字を用いたのかもしれない。

毛利時親

毛利 時親(もうり ときちか、1258年頃?~1341年)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての武将、御家人、安芸毛利氏の当主。父は毛利経光。通称および官途は四郎、刑部少輔。法名了禅(りょうぜん)

 

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祖父・毛利季光大江広元の4男)については、宝治合戦(1247年)で三浦泰村方について自害した時46歳(数え年)であったといい、逆算すると建仁2(1202)年生まれと分かる*1。従って父・経光はこの間に生まれている筈であり、各親子間の年齢差を20と仮定した場合、時親の生年は早くとも1242年頃、遅くとも1267年頃と推定可能であるが、『尊卑分脈*2によれば経光・時親には兄がいたようであるから、更に年代を下らせても良いだろう。

 

ここで次の史料を見ておきたい。

【史料A】文永7(1270)年7月15日付「毛利寂仏(経光)譲状写」(『毛利家文書』)*3

  沙弥(=経光) 在判

ゆつりわたす所りやう(所領)の事、あきの国よしたの庄安芸国吉田庄)、ゑちこのくにさハしのしやう越後国佐橋庄)南條の地とふしき(地頭職)等ハ、寂佛(=経光)さうてん相伝の所りやう也、しかる(然る)四郎時親、ゆつりわたす所也、この状まかせて、永代ちきやうすへし(知行すべし)、仍ゆつり状如件、

  文永七年七月十五日

この史料は沙弥・寂仏相伝の所領として安芸国吉田荘と、越後国佐橋荘南条の地頭職を時親に譲るとしたものである*4

この「寂仏」は『江氏系譜』や『系図纂要』において「入道寂仏」と注記される毛利経光*5に比定される。このことは、実際に時親の子・貞親が自らの譲状で「祖父寂仏」と記している*6こと、『尊卑分脈』での系譜が「経光―時親―貞親」であることからも裏付けられよう。すなわち【史料A】は「経光入道寂仏→時親」への父子相伝であったことになる。  

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ここで着目しておきたいのは「四郎時親」という名乗り方である。のちに刑部少輔にまで昇進したことは、曽孫・毛利元春自筆の書状(「毛利元春自筆事書案」)*7によって判明しているが、【史料A】の段階では「四郎」と名乗るのみで無官であったことが分かる。冒頭の生年の推定に従えば、その理由は元服からさほど経っていなかったためであると推測できよう。

」の名乗りに着目すると、大江氏にゆかりのある「親」の字*8に対し、わざわざ上(1文字目)に置いている「」は執権・北条氏の通字を賜ったものと判断される。これは、1263年に得宗家督を継ぎ、1268年から8代執権を務める北条*9偏諱に間違いなかろう。

*"早くとも1242年頃の生まれ" と前述したのに従い、仮に1240年代の生まれであれば、5代執権・北条時頼時宗の父)からの一字拝領を想定することは不可能ではないが、前述の「元春自筆事書案」には時親について「暦応4(1341)年7月死去」と記されているから、当時としては長寿過ぎる感じが否めない。しかも【史料A】当時20代後半~30歳でありながら全くの無官であったというのも不自然である。恐らく父・光は4代執権・北条時(時頼の兄/在職:1242~1246年)の偏諱を受けたとみられるので、時頼が時親に1字を授けることは不可能であろう。むしろ時から一字を拝領したのは、むしろ初名「基」であった兄・基親の可能性が考えられると思う。 

 

その裏付けとして、次の史料にも着目したい。 

【史料B】建武4(1337)年正月16日付「毛利了禅(時親)譲状写」(『毛利家文書』)*10

安芸国吉田庄地頭職者、譲与孫子親茂也、然者、彼為嫡子、少輔太郎師親了禅代官、致数ヶ度軍忠之上者、親茂一期之後者、師親知行不可有相違、仍為後日之状如件、

  建武亖年正月十六日  了禅 在判

尊卑分脈』や「毛利元春自筆事書案」などによれば、「了禅(りょうぜん)」は時親法名であり、親茂師親は各々時親の孫、曽孫にあたる人物である。親は元春の初名であるが、この当時は、3年前に13歳で高尾張守、のち越後守)の加冠により元服を遂げたばかりであった*11

従って、"曽祖父―曽孫"間の年齢差を考慮すれば、この時の時親(了禅)の年齢は80歳近くであったとするのが妥当であろう。仮に80歳(数え年)として逆算すると1258年頃の生まれとなり、通常10代前半で行う元服当時の得宗・執権が北条時宗であること確実である。下記記事▼で長男・貞親の生年を1280年頃と推定したが、時親20代前半の時の子となって辻褄が合う。 

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北条氏得宗家とは、おばにあたる季光の娘が北条時頼に嫁いだ*12ことによって婚姻関係にあり、『浅羽本 北条系図』ではこの女性が時宗の母親と誤って記す*13(この場合時宗とは従兄弟の関係になる)が、時宗とほぼ同世代の人物であったことの証左であるとも言えよう。 

 

(参考ページ)

 毛利時親 - Wikipedia

 毛利時親(もうり ときちか)とは - コトバンク

 柏崎通信 『中鯖石村誌』第六章「沿革」続き

 伝大江時親邸跡

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.141「毛利季光」の項。毛利季光(もうり すえみつ)とは - コトバンク毛利季光 - Wikipedia

*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 12 - 国立国会図書館デジタルコレクション。尚、本項での『尊卑分脈』は全てこれに拠ったものとする。

*3:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.2 二号『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3。『鎌倉遺文』第14巻10647号。

*4:史料綜覧. 巻5 - 国立国会図書館デジタルコレクション毛利時親(もうり ときちか)とは - コトバンク毛利経光(もうり つねみつ)とは - コトバンク

*5:『大日本史料』5-22 P.156『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3

*6:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.3 四号『大日本史料』6-3 P.46

*7:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.18~ 一五号

*8:それまでの大江氏一門で「親」字を用いた人物は、一説に大江広元の兄とされる中原親能や、広元の長男・大江親広、更には時親の兄・基親などが挙げられる。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*10:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.34 一六号

*11:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号 P.19・同P.23

*12:『大日本史料』5-12 P.558

*13:正確には時宗の傍注に「母毛利蔵人女」と記す。注9同箇所 および『諸家系図纂』所収「北条系図」(P.24) を参照のこと。

毛利貞親

毛利 貞親(もうり さだちか、1280年頃?~1351年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。安芸毛利氏。通称および官途は次郎(『毛利家系図』)*1、右近大夫。法名朗乗(ろうじょう)

父は毛利時親。母は長崎泰綱の娘・亀谷局。

 


生年と烏帽子親の推定

【史料A】建武3(1336)年正月30日付「毛利貞親自筆譲状」(『毛利家文書』)*2

譲与安芸国吉田郷者、自祖父寂佛(=経光、後述参照)之手、亡母 亀谷局 譲与、文永之譲状(=後掲【史料B】)、同副状等在之、仍貞親所譲給也、然者、先吉田郷計師親譲給者也、不可有他妨、有限年貢等可令進済、仍譲状如件、

  建武三年正月晦日  貞親(花押)

 史料中の「(もろちか)」は尾張守、のち越後守)の加冠により元服した毛利元春(貞親の孫)の初名である*3。すなわち、この史料は貞親が孫・毛利師親(元春)に安芸国吉田郷を譲るとしたものである。師親はこの前年(1335年)に13歳で元服したばかりであり*4、祖父―孫の年齢差を考えれば【史料A】当時貞親は50代半ば以上であったと推測可能である。従って、逆算すると貞親の生年はおよそ1280年頃より前であったと考えられよう。

 

ここで次の史料も確認しておきたい。 

【史料B】文永7(1270)年7月15日付「毛利寂仏(経光)譲状写」(『毛利家文書』)*5

  沙弥(=経光) 在判

ゆつりわたす(譲り渡す)所りやう(所領)の事、あきの国よしたの庄安芸国吉田庄)、ゑちこのくに越後国さハしのしやう佐橋庄)南條の地とふしき(地頭職)等ハ、寂佛(=経光)さうてん相伝の所りやう也、しかる(然る)四郎時親、ゆつりわたす所也、この状まかせて、永代ちきやうすへし(知行すべし)、仍ゆつり状如件、

  文永七年七月十五日

この史料における「寂仏」は、前掲【史料A】で貞親自らが「祖父寂仏」と記していることから、『江氏系譜』や『系図纂要』において「入道寂仏」と注記される毛利経光*6に比定される。すなわち、この【史料B】は経光入道寂仏が息子の時親に、相伝の所領として安芸国吉田荘と、越後国佐橋荘南条の地頭職を譲るとしたものである*7。この時、父・時親は「四郎」と名乗るのみであったことが分かるが、元服からさほど経っておらず無官であったためであろう。よって文永7年当時、時親は20歳行くか行かないかの若さであったと推測され、貞親はまだ生まれていなかったと考えられるので、毛利貞親の生年は1280年頃とするのが妥当と思われる。 

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」の名乗りに着目すると、「親」が父・時親から継いだものであるから、わざわざ上(1文字目)に置いている「」が烏帽子親からの偏諱と判断される。これは、弘安7(1284)年4月に得宗家督および9代執権となった北条(1301年まで執権在職、1311年逝去)*8からの一字拝領に間違いなかろう。

 

 

南北朝時代における貞親

貞親については【史料A】以外にあまり史料が残されておらず、鎌倉時代における活動内容は不明である。鎌倉幕府滅亡後の動向については、『尊卑分脈』のほか、毛利元春自筆事書案」の中に記載が見られる。以下、貞親に関するものをピックアップしてご紹介したいと思う。

【史料C】

冒頭系図・右近大夫貞親の注記:母長崎泰綱女号亀谷□〔局〕、為宮方籠山門建武〔三〕出家遁世、「歓〔観〕応二死去」*9

「一.元弘一統御代之時、建武元年元春祖父右近□□〔大夫〕貞親、於越後国、阿曽宮同心申御謀叛之由、就有其聞、蒙勅感〔勅勘〕、惣領長井右馬助(=高冬)被預置畢、」*10

「一.此刻(=建武三年)元春祖父右近大夫貞親、為 宮方、供□〔奉〕山門先皇(=後醍醐天皇御臨幸之時、出家仕 法名号朗乗*11

「一.宮内少輔入道、近江守、上総介等申本領之間事、祖父右近大夫貞親 法名朗乗 建武三年十一月出家遁世仕、……(以下略)」*12

「一.了禅(=毛利時親譲状等執筆毛利左近蔵人、後ニハ甲斐守法名寂雲(=毛利経親)了禅カヲイ(了禅が甥)也、彼仁ヲチ(伯父)ノ帯譲、彼跡于今居住佐橋、内状一通他筆、其謂ハ、祖父右近大夫 法名朗乗 令同心、山門ニ籠之間也、遁世以後了禅出之間、元春帯譲状、雖為後日書之、永和二五書之、*13

鎌倉幕府滅亡後の建武元(1334)年に越後国に於いて「阿曽阿蘇宮」*14と謀叛を企てたとの伝聞があったことにより、勅勘を蒙った貞親は大江氏一門の惣領であった長井高冬(挙冬)の許へ預けられ、同3年11月には「出家遁世」したという*15。但し、拘束された後に死罪となっていないことや、父・時親および息子・親茂に影響が及んでいないことから、実際には謀叛を企てたのではなく、全国各地で北条氏の残党の反乱が起きていたこの頃において、得宗被官・長崎氏出身の母を持つ貞親にも "同心した" との風聞が生まれたのではないかとされている*16

事実上、孫・師親(元春)が父・時親の後継者となっており、貞親はこの時の出家を以って隠退したものとみられるが、前述の通り、観応2(1351)年正月までは存命であったようである。 

 

補論:貞親の子息たちについて

加えて、貞親の男子についても簡潔に紹介しておこう。

 

毛利親衡(親茂)

生年不詳であるが、おおよその時期は推定可能である。

長男・元春(師親)が前述の通り、本人自筆の書状で建武2(1335)年に13歳で元服したことが明かされているので、逆算すると元亨3(1323)年生まれと分かる。

したがって、貞親と師親に挟まれている親茂(親衡)の生年は1300年頃とするのが妥当であろう。

 

建武4(1337)年正月16日付の了禅(時親)の譲状写(『毛利文書』)には「安芸国吉田荘地頭職」を「孫子 」に譲り与えると記されている*17が、観応元(1350)年の書状では吉田荘にて「毛利備中守親衡」が「先代(=北条氏)一族相模治部権少輔」を大将として挙兵し没落したことが記されており*18、理由は不明ながら、祖先である大江匡衡、或いはその孫・大江成衡に由来するであろう「」の字を用いて改名している。

 

尚、前述「毛利元春自筆事書案」の別の箇所で息子の元春が以下のように記している*19

「去々年(=応安7年、下記参照)七月十九日、大内介入道々階(=大内弘世)親父寶乗令同心、元春領内打入………寶乗去年八月死去、……」

「応安七年七月、大内介入道、令同心親父陸奥守入道、……」

親父奥陸〔ママ、誤字〕入道寶乗大内介入道発向芸州之間、……」

 

応安7(1374)年を「去々年」というので、この元春申状は【史料C】でも「永和(年)(月)書之(これを書く)」の記載がある通り、1376年に書かれたと判断されるが、元春の親父=親衡が出家して「宝乗(ほうじょう)」と号する前に備中守従五位下相当)から陸奥従五位上相当)に転任していたことが窺える。

 

毛利宮内少輔入道道幸(親広?)

『尊卑分脈』には親茂の兄として近江守・宮内少輔が載せられるが、実名は明記されていない。また、前述「毛利元春自筆事書案」の別の箇所で「親父親衡、同舎弟宮内少輔入道在国越後国」と書かれ*20、【史料C】部分での「宮内少輔入道」も同人と判断されるが、記載の系図でも同様である*21

ただ、『安国寺文書』所収の永和3(1377)年の書状4点に「丹波国安国寺領)越後国鵜河庄内安田上方……当知行毛利宮内少輔入道々幸*22とあって、これに比定されると思われるので、法名道幸(どうこう)であったと見なされる。

この道幸は応安7(1374)年4月27日付の譲状で「越後国鵜川庄内安田条地頭職」を(息子とみられる)「修理亮朝広(ともひろ)」に譲り与えると書き残している*23。文中の「憲広(のりひろ)」も同じく道幸の子と考えられ、朝広(のち憲朝)・憲広に「広」の字(祖先・大江広元に由来か)が共通すること、時親以降の毛利氏の通字が「親」であったことから、史料的根拠に欠けるものの、道幸自身の俗名は「広親」或いは「親広」であったと推測されている*24が、筆者も同意である。庶子である、時親の弟(親忠・親宗)や貞親の弟(親元)の名乗り方からすると「親広(ちかひろ)」であった可能性が高いと思うので、これを仮名としておきたい。

 

毛利近江守(高親?)

父子・兄弟間での官位相当を調べてみる*25と、父の貞親が右近大夫(五位相当・三等官級)*26、兄弟の親衡が初め備中守従五位下相当)道幸(親が宮内少輔従五位下相当・次官級)であったのに対し、近江守従五位上相当・長官級)はそれらより上位の国守であるから、貞親の当初の嫡男だったのではないかと思われる。

実名不詳であるものの、恐らく親衡(親茂)や親広に対し「○親」型の名乗りであった可能性が高く、「親―親」の前例に倣って得宗北条偏諱を受け「毛利(たかちか)」と名乗っていたのではないかと思われるが、史料的根拠に欠けるため、あくまで推論として掲げるに留めておく。新史料の出現を俟ちたいところである。

 

(参考ページ)

 毛利貞親 - Wikipedia

 毛利貞親

 柏崎通信 『中鯖石村誌』第六章「沿革」続き

 

脚注

*1:国立歴史民俗博物館蔵・高松宮家伝来禁裏本データベースれきはく 館蔵資料データベース > 館蔵高松宮家伝来禁裏本 > 資料名称「毛利家系図」で検索。

*2:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.3 四号『大日本史料』6-3 P.46

*3:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)『尊卑分脈』

*4:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.23)

*5:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.2 二号『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3。『鎌倉遺文』第14巻10647号。

*6:『大日本史料』5-22 P.156『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3

*7:史料綜覧. 巻5 - 国立国会図書館デジタルコレクション毛利時親(もうり ときちか)とは - コトバンク毛利経光(もうり つねみつ)とは - コトバンク

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*9:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.18)

*10:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)

*11:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.20)

*12:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.22)

*13:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.34)

*14:この「阿曽宮」が何者なのかについては詳細が明らかになっておらず、後醍醐天皇の皇子・懐良親王ではないかとする説もある(→ 南北朝列伝 ー 懐良親王)が、懐良が父に叛逆したというような史実は伝わっていないため、別人或いは誤伝とする見解もある(→ 一次史料を読もう!毛利元春自筆事書案(『毛利家文書』15―1号)第1〜2条: ステキな毎日)。

*15:この表現については、平雅行「出家入道と中世社会」(所収:『大阪大学大学院文学研究科紀要』第53号、2013年)P.3 ほかを参照のこと。

*16:毛利貞親 より。

*17:『大日本史料』6-4 P.53

*18:『大日本史料』6-13 P.677~678

*19:『大日本史料』6-41 P.536-44 P.147

*20:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.24)『大日本史料』6-46 P.378

*21:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)

*22:『大日本史料』6-49 P.396~398

*23:『大日本史料』6-42 P.310

*24:越後毛利氏毛利北条氏

*25:http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse010.html より。

*26:右近大夫とは、右近衛将監(従六位上相当)で、五位に昇進した者の呼称であり(→ 右近大夫(ウコンノタイフ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)、叙爵したことが窺える。

狩野時親

狩野 時親(かのう ときちか、生没年未詳)は、鎌倉時代中・後期の武士、御家人

通称は六郎左衛門尉、狩野介。

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▲【図A】今野慶信作成による狩野氏の略系図*1

 

近年、今野氏が「南家伊東氏藤原姓大系図*2の中の伊東氏以外の部分について、他史料との照合によりその記載に信憑性があることを紹介された。

上図はそのうち狩野氏についてまとめられたものであるが、工藤(狩野)茂光の子・五郎親光の系統についても(家光を経た)「光―親―親」に歴代得宗頼―宗―時)の偏諱を受けた痕跡が見られることから、事実上得宗被官化し、伊豆国から移り駿河国安倍郡を本拠として「狩野介」の称号を復活させたと説かれている*3。 

 

【史料B】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*4

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

(前略)

十 番
  長崎左衛門尉(盛宗?)  尾藤六郎左衛門尉(頼氏か)
  長崎後家       権医博士
  狩野介        尾張権守
  矢野民部大夫(倫綱?)  粟飯原右衛門四郎

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*5)」の結番を定めたものであり、今野氏は10番の一人「狩野介」を時親に比定されている*6

 

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【図A】で「狩野介」と注記されるのは時親・貞親の2代のみであるが、上記記事▲で紹介している通り、嫡男・貞親については正和元(1312)年の段階でまだ「狩野六郎左衛門尉」と名乗っていたことが、同年7月24日付「狩野貞親和与状案」(『摂津満願寺文書』)*7で明らかとなっているから、前述の今野氏の説は正しいと判断できよう。 

 

脚注

*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.119。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。

*3:注1前掲今野氏論文 P.118~119。

*4:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*5:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。

*6:注1前掲今野氏論文 P.118。

*7:『鎌倉遺文』第32巻24626号。

狩野貞親

狩野 貞親(かのう さだちか、1280年代?~没年不詳(1333年以後))は、鎌倉時代後期の武士、伊豆・駿河国御家人。通称は六郎左衛門尉、狩野介、狩野介入道。

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▲【図A】今野慶信作成による狩野氏の略系図*1

 

近年、今野氏が「南家伊東氏藤原姓大系図*2の中の伊東氏以外の部分について、他史料との照合によりその記載に信憑性があることを紹介された。

上図はそのうち狩野氏についてまとめられたものであるが、工藤(狩野)茂光の子・五郎親光の系統についても(家光を経た)「光―親―親」に歴代得宗頼―宗―時)の偏諱を受けた痕跡が見られることから、事実上得宗被官化し、伊豆国から移り駿河国安倍郡を本拠として「狩野介」の称号を復活させたと説かれている*3

 

狩野貞親については、次の史料で実在が確認できる*4

【史料B】正和元(1312)年7月28日付「狩野貞親和与状案」(『萩藩閥閲録』巻121「周布吉兵衛」所収)*5

越生七郎光氏狩野六郎左衛門尉貞親而令相替所領石見国加志岐波別府伴三郎実保跡五分一事

越生七郎光氏所領武蔵国越生郷内岡崎村田畠・在家等、指令相替処也、仍坪付在名有之、然者、貞親所領加志岐波別府五分一、可被知行者也、如此相互永代令契約之上者、守此状、可知行之状如件、

  正和元年七月廿八日 左衛門尉貞親

建治元(1275)年、石見国御家人・伴実長(有富実長)の所領=同国那賀郡加志岐別府(有福)が分割相続されたが、このうち伴実保(有富実保)の旧領は幕府に一旦没収された上で貞親の手に渡っていた。やがてもう一方の後家・庶子分にも介入したため、伴氏側との間で訴訟が起きたにもかかわらず、貞親は加志岐別府を越生光氏の所領=武蔵国岡崎村と交換したのであった。図式化すると次の通りである。 

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▲【図C】狩野貞親をめぐる所領問題

 

(参考ページ)

井上寛司「中世の江津と都野氏」(所収:『山陰地域研究』第3号、1987年)P.7・P.18

原慶三「益田氏系図の研究 ー中世前期益田氏の実像を求めてー」(所収:『東京大学史料編纂所研究紀要』第23号、2013年)P.34

西村安博「論説 鎌倉幕府の裁判における和与状と和与認可裁許状について ー対象史料の整理を中心にー」(所収:『法政理論』第32巻第1号、1999年)P.24

都野氏と都野郷

解説ページ:越生郷(中世) ー『角川地名大辞典』

 
ここで着目したいのがその名乗りであるが、まだ左衛門尉在任であった様子が窺える。すなわち、父・時親がまだ存命で "狩野介" を継承していなかったことになる。左衛門尉任官に相応の年齢を考えるとこの時20~30代であったとみなすのが良いと思われるので、生年は1280~1290年代と推定できよう。

前述の通り「」の実名は北条偏諱を受けたものとみられるが、【史料B】の前年まで存命であった貞時からその1字を許されていたことになる。前述の生年に基づけば、元服の時期は正安3(1301)年8月までの第9代執権在任期間*6内であった可能性が高く、貞時の加冠を受けたものと判断される。  

 

貞時との関係を窺わせる活動として、『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)によると、元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養において「狩野介」が「銭三十貫文」を進上している*7が、これを貞親に比定する今野氏の説*8に同意である。この時までに父・時親の河内守昇進に伴い狩野介を譲られていたのであろう。

 

その後、鎌倉時代末期には後醍醐天皇方に対する幕府軍のリスト中に「狩野介入道」の名が確認できる(下記【史料D】)が、今野氏の仰る通りこれも貞親であろう。時期的に考えると、正中3(1326=嘉暦元)年3月の14代執権・北条高時の出家に追随した可能性が考えられる。尚、同じ軍勢には同族とみられる「狩野彦七左衛門尉」も属して参戦している。

 

【史料D】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*9

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道(貞久)     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房)  安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)    □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)        遠江前司
 武田伊豆守(信宗?)      三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)      狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道           信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉(朝高)
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参
 

(* http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

その裏付けとして、鎌倉幕府の滅亡より数年が経った、延元元(1336=建武3)年4月「武者所結番交名」(『建武記』)の三番に「狩野介 貞長」とあるのが確認できる*10が、この狩野貞長は「貞」字の共通や年代を考慮して貞親の出家に伴う後継者(嫡男)と推測される。次の得宗である高時の偏諱を受けていないのは、その出家後の元服であったためなのかもしれない。

 

 

脚注

*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.119。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。

*3:注1前掲今野氏論文 P.118~119。

*4:注1前掲今野氏論文 P.118。

*5:『萩藩閥閲録』(毛利元徳氏原蔵、東京大学史料編纂所謄写本)巻121-4。『鎌倉遺文』第32巻24626号。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709。

*8:注1前掲今野氏論文 P.119。

*9:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*10:『大日本史料』6-3 P.332

戸次時親

戸次 時親(べっき/へつぎ ときちか、1258年頃?~1290年)は、鎌倉時代中・後期の武将、御家人。大友氏の一門・戸次氏の当主。

 

 

 【表1】各系図類における戸次氏嫡流の記載内容(烏帽子親に関する情報を中心に)*1

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上表に示した通り、北条を加冠役(烏帽子親)として鎌倉にて元服を遂げ、「之一字(=時の1字)」を授かったと伝える系図は複数ある。祖父・秀が北条時の娘を妻に迎え、「重」の字を共有したとみられること、時親以降も得宗を烏帽子親としたことを踏まえると、時宗偏諱を賜ったことは実際の名乗りからしても疑いは無いと思われる*2(「親」は祖父・大友親秀に由来するものであろう)

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▲【図2】『速見入江文書』所収「大友田原系図*3より:戸次氏嫡流の部分

この点について、以下史料等を交えながら考察・裏付けをしたいと思う。

 

【表1】にある通り、『系図纂要』等によると前述の重時の娘が時親の母であったらしい。従って、同じく重時の外孫である北条時宗*4とは、母親同士が姉妹となる、従兄弟の関係にあった。当時の大友氏惣領・大友頼泰の甥(【図2】)であることを踏まえても、時宗と近い世代の人物であったことは間違いないだろう。 

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弘安11(1288)年のものとされる「田中後家書状」(『肥後志賀文書』)には「へつきのまこ太郎殿」と現れ*5、【図2】と照合すれば嫡男の "孫太郎" 貞直がこの頃までに元服を済ませていたことが分かる。貞直は弘安7(1284)年4月以後に貞時の加冠を受けているはずなので、10代半ばくらいであったと思われ、父親である時親は若くとも30代半ば程度であったと考えられる。逆算すると1250年代後半の生まれと推定される。

これに従うと、通常10代前半で行う元服当時の得宗は、1263年の北条時頼逝去に伴って得宗家督を継承し、1268年から1284年に亡くなるまで執権の座にあった北条時宗*6であること確実となる。

 

さて、時親については僅かに、弘安8(1285)年9月晦日付「豊後国図田帳」(内閣文庫所蔵)に同国の戸次荘、大神荘の一部、由布院などの地頭職を務める人物として「戸次太郎時頼〔ママ〕 法名道恵」の記載が見られる*7。この部分『平林本』の図田帳では「戸次太郎時親法師 法名道恵」となっており*8、実在が認められる。

通称名に着目すると左衛門尉等に任官せず「戸次太郎」とのみ名乗ったまま出家したことが窺える。前述の生年に従えば当時は20代となるが、左衛門尉任官適齢の20代半ばを迎える前に若年ながら剃髪したことになる。元服の時期が北条時宗執権期間中であることはこの点からも裏付けられると思う。時親(道恵)は正応3(1290)年まで存命であったと伝わるが、前述の通り弘安11年からは嫡男・貞直の活動が見られ始めるので、病気等の理由であろうか、早々に家督を移譲したものと思われる。或いは、弘安7(1284)年4月の時宗逝去に伴う出家だった可能性も考えられよう。 

 

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ちなみに、大友頼泰の孫・貞宗の母は戸次時親の娘と伝わる*9が、若干年齢の間隔が短くも感じるものの、(時親や貞宗の生年を若干ずらせば)祖父―孫の年齢差としてはそれほど問題ないと思う。

 

(参考ページ)

 武家家伝_戸次氏

 戸次氏(べっきうじ)とは - コトバンク

渡辺澄夫「豊後国大野荘における在地領主制の展開 ー地頭志賀氏を中心としてー」(所収:渡辺『増訂 豊後大友氏の研究』、第一法規出版、1982年)

 

脚注

*1:筆者作成。表中の頁数は『群書系図部集 第4』におけるものとする。

*2:梅野敏明「鎌倉期由布院における戸次一族の所領獲得について」(所収:『挾間史談』 第6号、挾間史談会、2018年)P.38~39。

*3:大分県史料刊行会 編『大分県史料10』(大分県立教育研究所、1955年)P.455~456。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:『鎌倉遺文』第22巻16553号。

*6:注4同箇所。

*7:『鎌倉遺文』第20巻15701号。渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.55~57。

*8:『鎌倉遺文』第20巻15700号。渡辺澄夫「荘園時代の別府 ー二豊荘園の研究(二)ーP.24・P.26 註(1)。利光 としみつ 豊後国大分郡戸次郷のうち 現・大分市大字上戸次字利光 | Qミん君の日本史の森 - 楽天ブログ

*9:『大日本史料』6-24 P.522『大日本史料』6-29 P.208『朝日日本歴史人物事典』「大友貞宗」の項(執筆:福川一徳)および 古藤田太「大友氏歴代墳墓を巡る(五) ―六代大友貞宗―P.15 によれば、松野家家伝・常楽寺蔵本「大友系図」に「母戸次太郎時親女 実は大友兵庫頭平頼泰第四子也」と記載されるというが、『続群書類従』所収「大友系図」において時親の女子に「大友親言〔ママ〕妻」との記載があるのに加え、文保2(1318)年12月12日付「関東下知状」(『大友文書』、『鎌倉遺文』第35巻26888号)に「大友左近大夫将監貞宗…(略)…貞宗祖父兵庫頭頼泰法師法名道忍……」とある(→ 大友貞宗 - Henkipedia【史料2】)によって父親は大友親時とすべきである。