Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安保宗実

安保 宗実(あぼ むねざね、生年不詳(1260年代?)~1333年)は、鎌倉時代後期・末期の武将、御家人

安保頼泰の嫡男か。主な通称は次郎、左衛門尉、左衛門入道。表記は阿保宗実とも。出家後の同人と思われる安保道潭(- どうたん)についても本項で扱う。

 

 

安保左衛門入道道潭について

まず、鎌倉時代末期の元弘の乱に関する史料を列挙する。各史料では幕府軍の一員として「安保左衛門入道」なる人物が確認できる。

 

【史料1】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*1

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥守        河越参河入道
 小山判官       佐々木近江入道(貞氏)
 佐々木備中前司(大原時重)  千葉太郎
 武田三郎         小笠原彦五郎
 諏訪祝(時継?)     高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道       長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉     安保左衛門入道
 加地左衛門入道(家貞) 吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助      駿河八郎
 千葉介      長沼駿河権守(宗親)
 小田人々       佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道   宇佐美摂津前司
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)  □野二郎左衛門尉
 湯浅人々     和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道       遠江前司
 武田伊豆守       三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)  狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道       信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫    結城七郎左衛門尉
 加藤丹後入道    加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道  美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参
元弘元(1331)年、後醍醐天皇笠置山、その皇子・護良親王が吉野、楠木正成が下赤坂城にてそれぞれ倒幕の兵を挙げると、9月初頭、幕府側は討伐軍を差し向けることを決定(元弘の変)。【史料1】はその幕府軍の名簿であり、宇治から大和道へ向かう陸奥守=大仏貞直の軍勢の中に「安保左衛門入道」が含まれている。
 

【史料2】『太平記』巻6「関東大勢上洛事」*2における幕府軍の構成メンバー

<相摸入道(=得宗北条高時)一族>

阿曾弾正少弼名越遠江入道大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助

<外様>

千葉大介宇都宮三河守三河権守貞宗?)小山判官武田伊豆三郎(政義か)小笠原彦五郎貞宗土岐伯耆入道(頼貞)葦名判官(盛貞)・三浦若狭五郎(時明?)千田太郎(千葉胤貞)・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守(大原時重?)・結城七郎左衛門尉(朝高)・小田常陸前司(時知?)長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉(師宗?)・長江弥六左衛門尉(政綱?)・長沼駿河駿河権守宗親?)・渋谷遠江遠江権守重光?)河越三河入道工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司(祐光)同大和入道(祐宗)安藤藤内左衛門尉宇佐美摂津前司二階堂出羽入道同下野判官(二階堂高元)・同常陸(二階堂宗元?)安保左衛門入道・南部次郎・山城四郎左衛門尉、他132人

307,500余騎

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<その他>

河野九郎(通盛)ら四国勢:大船300余艘

厚東入道(武実)・大内介(重弘?)・安芸熊谷(直経?)ら周防・長門勢:兵船200余艘

甲斐・信濃源氏(武田・小笠原氏などか)7,000余騎

江馬越前守・淡河右京亮(時治か)ら率いる北陸道7箇国勢:30,000余騎

正慶元/元弘2(1332)年、護良親王楠木正成らの反幕府活動が畿内で活発化したとの報告を受けて、幕府側は大軍を畿内へと向かわせた(9月20日鎌倉発、10月8日先陣が京着)。【史料2】はその軍勢の構成をまとめたものだが、やがて翌「元弘三年正月晦日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分て、吉野・赤坂・金剛山、三の城へ」と向かわせた。

太平記』は本来軍記物語ではあるが、実際の一級史料でも、『楠木合戦注文』によると三手に分けたそれぞれの大将軍を遠江弾正少弼治時陸奥右馬助名越遠江入道が務めたといい、『保暦間記』ではそれぞれ実名付きで北条(阿曽)治時遠江守随時の子)北条(大仏)高直陸奥守維貞の子)名越宗教のことと明かされている*3から、ほぼ史実と認めて良いだろう。すなわち、この戦闘にも安保左衛門入道が加わっていたと見なせる。

 

【史料3】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*4
大将軍
 陸奥守遠江国       武蔵右馬助伊勢国
 遠江尾張国       武蔵左近大夫将監美濃国
 駿河左近大夫将監讃岐国  足利宮内大輔三河国
 足利上総三郎        千葉介一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国   宇都宮三河権守伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国      小山大夫判官一族
 小田尾張権守一族      結城七郎左衛門尉一族
 武田三郎一族并甲斐国    小笠原信濃入道一族
 伊東大和入道 一族      宇佐美摂津前司一族
 薩摩常陸前司(同上)一族  安保左衛門入道一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族 河越参河入道一族
 三浦若狭判官(時明)    高坂出羽権守(同上)
 佐々木隠岐前司一族     同備中前司(大原時重)
 千葉太郎

勢多橋警護
 佐々木近江前司(貞継?)   同佐渡大夫判官入道

(*上記史料1・3ともに http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

【史料3】も同様に幕府軍のリストである。安保氏はかつて北条泰時の継室を出して縁戚関係を結んでいた有力な御家人の一つであり、この史料からは安保左衛門入道が一族を率いる、いわば惣領の立場にあったことが窺える。

 

この安保左衛門入道のその後の動向は、軍記物語である『太平記』や『梅松論』に描かれているので以下に紹介する。尚、前者のうち、金地院本系では道忍、他の諸本では道堪、後者では道潭と表記がそれぞれ異なる*5が、『丹治姓安保氏近代家譜』(詳しくは後述参照)に従って本項では「道潭」としておく。

 

【史料4】『梅松論』より①*6

五月十四日、高時、弟左近将監入道恵性(=北条泰家を大将として武蔵国に発向す。同日山口の庄の山野に陣を取りて、翌日十五日分配関戸河原にて終日戦けるに命を落とし疵を蒙る者幾千万といふ数を知らず。中にも親衛禅門(=泰家)の宗徒の者ども、安保左衛門入道道・粟田・横溝(=横溝高貞)ばら最前討死しける間、鎌倉勢ことごとく引退く処、則ち大勢攻めのぼる間、鎌倉中の騒ぎ、只今敵の乱入たらんもかくやとぞおぼえし。

同内容を描く『太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」にも北条泰家入道恵性の軍勢の中に「安保左衛門入道」が含まれており*7、続く「三浦大多和合戦意見事」に「……大将左近大夫入道(=泰家)も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎(=高貞)蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。……」とある*8

これらの史料から、①安保左衛門入道法名が「道潭」または「道堪(いずれも「どうたん」と読める)であったこと、②鎌倉幕府滅亡前の1333年5月16日の関戸の戦いで大将の泰家を逃がす形で、父子3人と100人余りの随兵で新田義貞の軍勢と戦い討ち死にしたことが分かる。

 

同年5月22日、北条高時らが自害して果て、鎌倉幕府は滅亡。道潭死後の安保氏にも大きな変化があった。

 

【史料5】『梅松論』より②*9

三河の矢矧に御着ありて京都・鎌倉の両大将(=尊氏・直義)御対面あり。今当所を立ちて関東に御下向あるべきところに、先代方の勢遠江の橋本を要害に搆へて相支へる間、先陳の軍士阿保丹後守、入海(=浜名湖を渡して合戦を致し、敵を追ひ散らしてその身疵を蒙る間、御感のあまりにその賞として家督安保左衛門入道道が跡を拝領せしむ。これを見る輩、命を捨てんことを忘れてぞ勇み戦ふ。

当所の合戦を初めとして同国佐夜の中山・駿河の高橋縄手・筥根(=箱根)山・相摸川・片瀬川より鎌倉に至る迄、敵に足を溜めさせず、七ヶ度の戦ひに討勝ちて、八月十九日鎌倉へ攻入り給ふとき、諏訪の祝父子(=頼重〈照雲〉・時継)安保次郎左衛門入道道が子自害す。相残る輩或は降参し或は責め落とさる。

こちらは建武2(1335)年の所謂「中先代の乱」に関する内容である。

▲【写真6】建武2年8月9日付「足利尊氏袖判下文写」(『安保文書』)

傍線部の内容については、同年8月9日付で足利尊氏が「丹後権守光泰」に対し「勲功之賞」として「安保左衛門尉法師」を宛がう旨の実際の書状の写しが現存する(【写真6】)*10。尚、これに先立ち、幕府滅亡後の元弘3(1333)年12月29日に尊氏は「安保新兵衛光泰」に信濃国小泉庄内地頭職を勲功賞として宛行う旨の袖判下文を発給している*11

これにより、『太平記』と『梅松論』に描かれていた道潭の討死は史実で、その旧領を与えられた安保光泰(丹後権守)*12が「家督」=安保氏惣領の座を継承したことが分かる。

安保氏一族を率いていた道潭(【史料3】)の子息は、【史料4】の所で紹介した、父と同時に討死の2名のほか、【史料5】にあるように中先代の乱でももう一人の遺児が自害しているから、本来の惣領家は断絶し、庶流出身の光泰が再興したと考えられている。

 

ところで、『梅松論』での安保次郎左衛門入道道潭、或いは『太平記』での安保入道道堪については実名不詳である。江戸時代宝永年間(1704年~1711年)にまとめられたという『丹治姓安保氏近代家譜』冒頭の記述では「…次郎左衛門尉泰実ノ嫡男三郎左衛門尉頼泰マデ北条相模守朝臣高時エ属シ、正慶二癸酉年高時滅亡ノ後、頼泰嫡子安保左衛門入道道〔ママ〕ヨリ足利将軍幕下ニ参ル。…」と書かれており*13、『武蔵七党系図(以下『七党系図』とする)に頼泰の子として載せられる経泰(新左衛門尉)宗頼(四郎左衛門尉)*14に比定する説がある*15が、筆者はこれとは異なる説を提示したいと思う。次章にて考察する。

 

安保氏当主の名乗りについて

安保道潭の俗名を推測するカギとして、その後の安保氏歴代家督の名乗りに着目し考察してみたいと思う。というのも、北条氏・足利氏など、武士の家系では、代々の通字継承や先祖と仰ぐ人物から1字を貰うことが一般的であり、鎌倉時代初期の「光―員――頼」が必ず親子間で1字の継承を行っている安保氏もその例外では無かったと考えられるからである。

先に、【史料5】で登場した安保光泰およびその子孫について見ていきたい。光泰以降は『安保文書』に書状や系図が遺されている。光泰は『七党系図』では泰実の弟に「六郎光泰」の記載が見られるが、年代的に合わないので、その正誤に拘らず別人と見なすべきであり、系譜不詳と言わざるを得ない。しかしその実名は、実光の「」と泰実の「」によって構成されていると見受けられ、泰実の直系子孫であった可能性が高いのではないか。

暦応3/興国元(1340)年の正月24日*16と8月22日*17に光泰(沙弥光阿)は息子の中務丞泰規(やすのり)左衛門尉直実(ただざね)彦五郎光経(みつつね)に向けた譲状を発給している。規・経は父・光泰の1字を継承している。次男・実は他史料で「実」とも書かれており、恐らく足利義の偏諱を受けたのかもしれないが、もう一方には先祖代々の通字であった「」を用いている。尚、8月22日付の譲状で泰規が「惣領」と呼ばれており、前述の内容が裏付けられよう。

泰規の嫡男・憲光(のりみつ)は、祖父・光泰の1字を用いて、家祖・実光以来の「○光」型の名乗りとなっている。室町時代に入ってから安保氏は関東管領の上杉氏と接点があり、「憲」もその通字を受けたものと思われる。

系図7】室町期安保氏略系図

 光泰―泰規―憲光―宗繫―憲祐―氏泰―・・・

以降の系譜を見ると、憲祐(のりすけ)は祖父・憲光或いは同様に上杉氏の偏諱鎌倉公方足利氏足利成氏か)から「氏」の1字を受けた可能性がある氏泰(うじやす)以降は「泰」が代々の通字となったのに対して、宗繫(むねしげ)だけは全く「実」・「光」・「泰」といったそれまでの安保氏ゆかりの字を持っていない。

安保宗繫については、「従五位下 丹治宗繫 宜任信濃」と書かれた応永16(1409)年7月2日の宣旨が現存しており*18、どうやら誤記ではなさそうである。この宗繫だけが、祖先にゆかりの文字を用いている歴代当主の例外であったとは考えにくく、同様であった可能性があるのではないか。

そうした推測をもって再び『七党系図』を見ると、「繫」を付した人名は見当たらないが、「」を持つ人物なら何人かいる。世代的に比較的合いそうな者を抽出すると、前述の宗頼(四郎)や、頼泰の兄・恒実の子の宗実(二郎左)、前述の六郎光泰の子の宗泰宗光(五郎)が挙げられよう。

光泰以降の当主にとって直接の先祖には当たらなくても、形式上は光泰の先代が安保左衛門入道道なのであり(【史料5】)、この道潭の俗名に「」の字が含まれていたのではないか。

この前提に立って、次節で結論をまとめてみたい。

 

安保道潭の俗名と烏帽子親についての考察

前述の『丹治姓安保氏近代家譜』に従うと、系譜は「泰実―頼泰―道潭」となるが、は義理のおじである北条時、は北条時偏諱を受けたと見受けられる。道潭の俗名に「」の字が含まれているのではと前述したが、これはまさに次の得宗北条時偏諱である。よって、道潭の俗名は「」であったと考えて良いだろう。

【史料5】より道潭の仮名(輩行名)が実光や泰実も称した「次郎」であったことが分かるので、『七党系図』の中では「二郎左(「左」は左衛門尉の略記)」と書かれるが相応しいのではないか。得宗の一字を拝領し、「」の通字を復活させているのは、足利氏(泰―頼―家時―貞得宗被官の平(長崎)氏時―頼―宗など、他氏でも類似した例がある。

前述の通り『七党系図』では恒実の子となっているが、得宗家との烏帽子親子関係の連続性から、筆者は『丹治姓安保氏近代家譜』の記載通り頼泰の子であったと判断しておきたい(四郎頼が宗実の弟で同様に時の烏帽子子にあたるのかもしれない)

 

尚、『七党系図』では宗実の子に刑部丞(実名不詳)、実景が挙げられており、前掲史料で掲げた道潭の子息たちにあたるのかもしれない。宗実(道潭)の嫡男は北条貞時或いは北条高時偏諱を受けた可能性もあるが、ここではその判断は差し控えたい。

 

安保光泰の系譜について

最後に、ここまで保留にしていた宗実(道潭)の後継者・安保光泰の系譜について考察してみたいと思う。

実は長野県松本市・守保家所蔵の『丹治姓安保系図』では「経泰光泰」となっている*19。経泰は『七党系図』で頼泰の子としており、「経」は祖先の丹武経に由来する字と考えられよう。前述した光泰の3男・彦五郎光経の名乗りも祖父・泰と父・泰の各々1字を取ったものなのではないか。改めて系図に纏めてみると次の通りである。

系図8】鎌倉期安保氏・推定略系図

実光―実員―泰実―頼泰―宗実(道潭)

           └ 経泰―光泰

光泰が宗実の甥ということになり、1333年の段階で丹後権守任官前の兵衛尉であったことも考えると、跡を継ぐ者として世代的にも問題ないのではないか。惣領家に近い血筋なら、再興するにあたって適しているだろうし、甥が伯父の跡を継ぐ形での宗家再興というのは、平(長崎)氏と同様の例になる*20

よって【系図7】を本項での結論としておきたい。

 

参考論文

伊藤一美「東国における一武士団 ー北武蔵の安保氏についてー」(所収:『学習院史学』9号、1972年)

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*2:「太平記」関東大勢上洛事(その1) : Santa Lab's Blog より。

*3:大仏高直 - Henkipedia 参照。

*4:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*5:相沢屋敷(あいざわやしき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

*6:群書類従 : 新校 第十六巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*7:「太平記」新田義貞謀反の事付天狗催越後勢事(その11) : Santa Lab's Blog

*8:「太平記」三浦大多和合戦意見の事(その4) : Santa Lab's Blog

*9:『大日本史料』6-2 P.540~541群書類従 : 新校 第十六巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション多摩市史 通史編1/ 尊氏の東下

*10:新井浩文「安保清和氏所蔵『安保文書』調査概要」(所収:『文書館紀要』25号、埼玉県立文書館、2012年)P.四【写真2】および 【史料一】、P.8【写真8】。

*11:漆原徹「預状と預置制度の成立」(所収:『法学研究』第73巻8号、慶應義塾大学法学研究会、2000 年)P.62 および P.76 註(32)。

*12:建武3(1336)年12月11日には足利直義が「安保丹後権守光泰法師 法名光阿」に対し所領を安堵する書状を発給しており(→『大日本史料』6-3 P.908)、「阿保丹後守」=「丹後権守光泰」と分かる。

*13:新井浩文「『安保文書』伝来に関する覚書 ―川口家所蔵の安保文書について―」(所収:『文書館紀要』22号、埼玉県立文書館、2009年)P.59【史料G】および P.61【系図二】。

*14:武蔵七党系図 - 国立国会図書館デジタルコレクション埼玉苗字辞典「九閑 クガ」の項。

*15:多摩市史 通史編1/ 横溝八郎と安保道潭 より。

*16:『大日本史料』6-6 P.481~483

*17:『信濃史料』巻5(信濃史料刊行会 編・出版、1954年)P.434~436

*18:『信濃史料』巻7(信濃史料刊行会 編・発行、1956年)P.474~475

*19:池内義資「<研究ノート>式目註釈書について」(所収:会誌『史林』第46巻第5号、史学研究会、1963年)P.130。

*20:長崎氏は北条貞時の代に内管領であった平頼綱が滅ぼされて一時没落するが、『保暦間記』では甥と記される長崎円喜北条高時内管領として事実上の最高権力者となった。また、円喜と並ぶ権力者の安達時顕も、頼綱に惣領・安達泰盛が滅ぼされた後に庶流(泰盛の甥・宗顕の遺児)の立場から "秋田城介"家を再興して再び得宗外戚となっている。

勅使河原泰直

勅使河原 泰直(てしがわら やすなお、生年不詳(1220年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代前期の武将、御家人勅使河原則直の嫡男。官途は右馬允。

 

勅使河原氏は、武蔵七党の一つ、丹党の一族で武蔵国賀美郡勅使河原を名字の地とする武士で、祖父・有直の代に鎌倉幕府御家人に列した*1

系図1】源・北条両氏略系図

源為義――義朝――――頼朝

    |   └ 義経  ||―頼家

    └ 義賢―義仲   ||―実朝

    北条時政―――政子

         └―義時―泰時

吾妻鏡』を見ると、有直(勅使河原三郎)源義経の軍勢に加わって源義仲と戦ったり、治承・寿永の乱終結した後は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に従ったりといった活動が確認されている。その嫡男・則直(勅使河原小三郎)は3代将軍・源実朝の代から活動し、実朝の死後も承久の乱合奉行の一員など北条泰時と深い接点があったことが窺える。

系図2】『武蔵七党系図』より勅使河原・安保両氏略系図

 基房―直時―直兼―有直―則直―泰直―直綱

   └ 恒房―実光―実員―泰実

         └ 谷津殿(北条泰時継室)

そして、『武蔵七党系図*2ではこの則直の長男として泰直の記載がある。注記に「新馬〔ママ〕」とあり、父・則直と同じ右馬允に任官したらしい。

系図を見ると、勅使河原則直と安保泰実がともに秩父基房の玄孫であり、ほぼ同世代人だったのではないかと考えられ、実際北条泰時政権下で活動していることは『吾妻鏡』で明らかである。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

実の場合、おばの谷津殿が泰時の継室に迎えられたという親戚付き合いもあって「」の字を受けたとも考えられるが、則直もまた、自分の息子の元服に際し、烏帽子親を泰時に願い出ることは想像に難くないと思うし、「直」の名がその証左になっていると言えよう。よって直は北条時の加冠によって元服し、「泰」の偏諱を受けたものと判断される。

泰直については『吾妻鏡』で確認できないが、歴代家督「有直―則直」の仮名「三郎」を継ぐ、建長6(1254)年正月4日条の「勅使河原三郎」が泰直に比定される可能性があるだろう。この人物は同日に行われた的始の「四番」試合で周枳頼泰(兵衛四郎)と対戦している。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

尚、『武蔵七党系図』の記載によると泰直の子・直綱(なおつな)も「弥三郎」を称したらしく、勅使河原氏では「三郎」が嫡流代々の呼称と化していたのかもしれない。

 

脚注

佐介宗直

北条 宗直(ほうじょう むねなお、生年不詳(1260年代前半?)~1333年)は、鎌倉時代後期から末期の武将、御家人、北条氏一門。父は北条頼直。子に北条(佐介)直時。官途は左近大夫、近江守。佐介宗直(さすけ ー)とも呼ばれる。

 

まず、次の史料を見ておきたい。

【史料1】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より一部抜粋*1

(前略:長崎高重→摂津道準(親鑑)→諏訪直性(宗経)→長崎円喜・長崎新右衛門(高直カ)→相模入道北条高時→安達時顕(延明)の順に切腹)……是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実〔ママ〕常葉駿河守範貞……城加賀前司師顕〔ママ〕・秋田城介師時〔ママ〕・城越前守有時〔ママ〕……城介高量〔ママ、高景〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明……、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

こちらの史料は、元弘3(1333)年5月の鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)の際、得宗北条高時(相模入道崇鑑)らが自害した様子を描いたものである。この『太平記』は元々軍記物語ではあるが、『尊卑分脈』などと照らし合わせると、金沢貞顕や、安達時顕法名:延明)・顕高父子など他の人物での官職に概ね一致しており、かなり史実が反映されているものと認められる。

 

【史料1】からは、殉死した北条氏一門の中に近江前司(=前・近江守)であった宗直が含まれていることが窺え、この人物は以下に掲げる複数の北条氏系図上で確認ができる。成立の年代順に紹介する。

 

系図2】『福富家文書』所収「野津本北条系図」より、北条時房流の部分(一部抜粋)*2

田中稔の紹介によると、この系図は最終的には豊後国の野津院で嘉元2(1304)年に写されたとされる*3が、奥書には弘安9(1286)年9月7日に新旧校合して書写された旨が記されており、宗宣(上野前司五郎、のち第11代執権)の注記「六波羅南方、永仁五年」等一部の追記を除いた大半の部分は弘安9年までに書かれたと考えられ、北条氏各系統の系図は当時の得宗(第9代執権)北条貞時とほぼ同世代の人物で終わっている*4。【系図2】では宣・、そしてがそれまでに第8代執権・北条時(在職:1268年~1284年)*5偏諱を受け元服済みであった人物として並ぶ(宗直から見て、宗宣・宗泰兄弟は従兄弟、宗房ははとこ(再従兄弟)の関係にあたる)。そして、この系図独自の情報として、弘安9年当時の宗直の官途が左近大夫であったことが分かる。

尚、この系図では宗直の父・八郎の実名が「直房」となっているが、以下複数の系図では「頼直―宗直」の系譜で一致している。

 

系図3】「入来院本平氏系図」より、大仏流北条氏の部分(一部抜粋)*6

山口隼正によると、この部分を含む北条氏系図について、成立時期を鎌倉時代後期の1316~1318年の間と推定されている*7。この【系図3】では「直房」が頼直の別名として扱われており、「頼直―宗直」の父子関係は認められよう

 

系図4】「前田本平氏系図」より一部抜粋*8

翻刻してこの系図を紹介した細川重男によると、 元々は仁和寺に所蔵されていた系図の影写本で、室町時代前期の成立とされ、こちらも比較的信頼性が高いという。宗直の注記のうち「佐介近江守」については【史料1】に一致している。

尚、江戸時代の成立で比較的信憑性は劣る『正宗寺本北条系図』では、宗直の注記に「遠江守 伯耆守」とあって違いはあるものの、「遠江守」や「朝直―頼直―宗直―直時」の系譜については【系図4】に一致しており、系譜については前掲全ての系図で共通である。

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父・頼直についてはこちら▲の記事で紹介の通り、『吾妻鏡』に多く登場しており、1241年頃の生まれと推定した。よって、現実的な親子の年齢差を考慮して、息子である宗直の生年は早くとも1260年代前半であった筈であるが、これより下ることはないと思う。

その推測の根拠として、前述にて紹介した【系図2】での注記がポイントになってくるだろう。「左近大夫」とは、左近衛将監従六位上相当)で五位に叙せられた者の呼称であり*9、弘安9年当時は叙爵済みであったことも窺える。

ここで考えたいのが、大仏流北条氏における叙爵の年齢である。

細川氏のまとめ*10によると、大仏流嫡流では宣時が30歳、宗宣が24歳、貞宗(維貞)が17歳と次第に低年齢化していることが分かる。更に生年が判明している宗宣の弟・貞房庶子でありながら叙爵年齢は19歳であった。従って、宗宣以降の大仏流は嫡流・庶流にかかわらず、叙爵年齢が10代後半に向かって低年齢化していたと判断され、その途上にあたる宗直も従兄の宗宣と同様、20代前半での叙爵だったのではないかと推測される。弘安9(1286)年にその年齢を迎えていたとすれば、逆算して1260年代前半の生まれとなるというわけである。

元服は多く10代前半(早い例でも北条氏の得宗家や祖父・朝直などの7歳)で行われたから、その時期は6代将軍・宗尊親王の京都送還(1266年)*11より後になることはほぼ確実だろう。よって、「」の実名は、祖父・朝直や父・頼直から代々受け継いだ「直」の字に対し、「」は前述の通り得宗北条時の執権在任中に元服し、その偏諱を受けたものと判断される。

算出すると、【史料1】で亡くなった当時、享年60代後半~70歳位であったことになるが、国守退任後の年齢として十分妥当である。

 

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尚、貞房については、こちら▲の記事で徳治2(1307)年5月日付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『相模円覚寺文書』)*12に見える「佐介越前守」に比定され、大仏流の庶子である貞房が "佐介" で呼称されていた可能性を指摘した。佐介流北条氏は、朝直の長兄・時盛(【系図2】)の家系の呼称と認識されることが多いが、実際は次兄・時村や貞房のように、大仏流の庶流に使われていた可能性が高いように見受けられ、【史料1】や【系図4】での "佐介近江守(近江前司)" 宗直もその一例になるだろう。後世の徳川氏・松平氏呼称の使い分けと同様だったのではないか。

 

(参考ページ)

 大仏流朝直系北条氏 #北条宗直

南北朝列伝 #佐介宗直 

 

脚注

北条頼直

北条 頼直(ほうじょう よりなお / よりただ?、1241年頃?~没年不詳(1263年以後))は、鎌倉時代中期の武将、御家人。北条氏一門。武蔵守・北条(大仏)朝直の8男。通称は八郎(武蔵八郎)。子に北条(佐介)宗直

 

まず、『吾妻鏡』での登場箇所は次の通りである。

 

【表A】『吾妻鏡』における北条頼直の登場箇所*1

月日

表記

建長2(1250)

12.27

武藤〔武蔵?〕八郎

建長6(1254)

8.15

武蔵八郎頼直

建長8(1256)

6.29

武蔵守 同太郎

同四郎 同五郎

同八郎

7.6

武蔵太郎 同五郎

同八郎

正嘉元(1257)

12.24

武蔵八郎

12.29

武蔵八郎頼直

正嘉2(1258)

1.1

武蔵八郎

1.2

武蔵五郎時忠

同八郎頼直

文応元(1260)

2.20

武蔵八郎

4.1

武蔵五郎

同八郎

弘長元(1261)

1.1

武蔵八郎

8.15

武蔵八郎頼直

弘長3(1263)

1.1

武蔵八郎頼直

1.7

武蔵前司朝直

同式部大夫朝房

同五郎時忠

同八郎頼直

 

武蔵八郎」という通称は、父が武蔵守で、その「八郎(本来は8男の意)」であることを表している。【表A】の弘長3年条で明らかなように、この頃の武蔵守・武蔵前司前武蔵守)であった北条朝直*2の子息であったと見て問題なかろう。

吾妻鏡人名索引』で見る限り、在職の間には頼直の他にも"武蔵太郎"朝房*3武蔵三郎(建長8年正月1日条)"武蔵四郎"時仲*4"武蔵五郎" 時忠武蔵六郎(宝治元年2月23日条)"武蔵九郎"朝貞*5と、次に掲げる「前田本平氏系図」上での朝直の子息たちの名前が確認できる(武蔵三郎=時長、武蔵六郎=朝氏と判断される)

 

系図B】「前田本平氏系図」より一部抜粋*6

更に、これより古いもので、鎌倉時代に成立の系図も2種類掲げよう。

 

系図C】『福富家文書』所収「野津本北条系図」より、北条時房流の部分(一部抜粋)

田中稔の紹介によると、この系図は最終的には豊後国の野津院で嘉元2(1304)年に写されたとされる*7が、奥書には弘安9(1286)年9月7日に新旧校合して書写された旨が記されており、実際に北条氏各系統の系図は当時の得宗(9代執権)北条貞時とほぼ同世代の人物で終わっている*8。よって、宗宣(上野前司五郎、のち11代執権)の注記「六波羅南方、永仁五年」等一部の追記を除いた大半の部分は弘安9年までに書かれたと考えられ、宣に同じくそれまでに8代執権・北条時偏諱を受け元服済みであった息子・直が左近大夫であったことが窺える。

尚、この系図では宗直の父・八郎の実名が「直房」となっているが、ここで次に掲げる「入来院本平氏系図」を見ておこう。

 

系図D】「入来院本平氏系図」より、大仏流北条氏の部分(一部抜粋)*9

山口隼正によると、この部分を含む北条氏系図について、成立時期を鎌倉時代後期の1316~1318年の間と推定されている*10。『吾妻鏡』などでもしばしば同様の例があり(後述の「武藤五郎宣時」もこの一例である)、【表A】も踏まえれば、頼直の注記「武八郎」は「武八郎」の誤記或いは誤写と考えて良い。この【系図D】では「直房」が頼直の別名として扱われており、「頼直―宗直」の父子関係は認められよう

但し、【系図B】から判断すると頼直と直房は別人と見なすべきなのかもしれない。また「直」の字は足利直義のように「ただ」と読むことがあり、【系図C】で直房の隣にある「頼忠」が頼直のことを指すのかもしれない。ただ、【表A】に示したように『吾妻鏡』が「朝(「時直」ではなく)、頼」と表記を分けていることからすると、朝直・頼直父子の「直」は「なお」で良いと思われ、「頼忠」は或いは時忠の方を指す可能性もあるが、いずれにせよ誤記であろう。

他にも、江戸時代の成立で比較的信憑性は劣る『正宗寺本北条系図』でさえ、注記で若干の違いはあるものの、「朝直―頼直―宗直―直時」の系譜は【系図B】に一致している。この系図では頼直に「遁世」との注記があるが、どの系図を見ても官職が記されていないことから、無官のまま若年で出家した可能性が高く、【系図C】での直房(【系図D】では頼直の別名)の注記「八郎入道」がその裏付けになるのではないかと思う。

 

尚、以上の各系図では朝直の子の中で唯一「時忠」のみ確認できないが、『吾妻鏡』では建長2(1250)年3月25日条武蔵五郎」が初出(実名の初出は、翌3(1251)年正月1日条「武蔵四郎時仲 同五郎時忠」)で、弘長3(1263)年8月11日条武蔵五郎時忠」に至るまで計48回登場し*11、僅か4日後の8月15日条に「武藤〔ママ、前述参照〕五郎宣時」、文永2(1265)年6月23日条に「武蔵五郎宣時」と書かれている*12ことから、時忠宣時であったことが分かる。

時忠 改め 宣時(宗宣・宗泰貞房貞宣らの父)は大仏流の家督を継いだ人物で、暦仁元(1238)年生まれと判明しており、初出時13歳の時点で元服を済ませていたことが分かる。父・朝直は7歳で元服したとみられ、北条氏一門(他の系統)の傾向も踏まえると、大仏流における元服の年齢は7~13歳であったと考えて良いだろう。

【表A】を見る限り、「太郎」・「四郎」・「五郎」……といった仮名(輩行名)はそのまま兄弟順を表すと考えられるので、六郎朝氏、七郎(夭折か?)の存在を考慮して、八郎頼直の生年は早くとも1241年頃と思われる。

実名の「」に着目すると、「直」が父・朝直から継承した1字であるのに対し、上(1文字目)に戴く「」は烏帽子親からの一字拝領と考えられる。朝直の子たちの中で頼直だけが将軍藤原(九条)父子)をより賜ったとは、時期的なことを合わせても現実的に考え難く、当時の5代執権・北条時(在職:1246年~1256年)*13からの偏諱と見なす方が妥当であろう。

 

尚、祖父・時房や父・朝直の1字を用いた朝房・朝氏・直房・朝貞に対し、長・仲・忠については「」が同様に頼の偏諱だったのではないかと筆者は見ている*14が、元々北条氏の通字で断定はし難く、裏付ける史料が無い今はその判断を差し控えたい。

 

(参考ページ)

 大仏流朝直系北条氏 #北条頼直

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.439「頼直 北条」より。

*2:吾妻鏡人名索引』P.369~370「朝直 北条(大仏)」の項によると、暦仁元(1238)年6月5日条~寛元元(1243)年7月17日条、寛元4(1246)年8月15日条~建長8(1256)年7月17日条の間、武蔵守であったことが窺える。3代執権在任中に辞した北条泰時の後任として就任し、4代執権・北条経時が就任の間だけ一時的に遠江守に転任していた(5代執権・時頼以降の得宗は代々相模守に任官)。

*3:吾妻鏡人名索引』P.371「朝房 北条」の項によると、初見は宝治元年6月5日条「武蔵々人(=蔵人)太郎朝房」であり、弘長3年正月1日条「武蔵式部大夫朝房」から表記が変化している。

*4:吾妻鏡人名索引』P.201「時仲 北条」の項によると、初見は宝治元(1247)年11月15日条「武蔵四郎」(実名の初出は翌2(1248)年閏12月10日条「武蔵四郎時仲」)で、正嘉元(1257)年6月23日条から武蔵左近大夫将監と表記が変化する。但し注 で述べたように朝直は1243~46年の間、一時的に遠江守となっており、寛元3(1245)年8月15日条「遠江四郎時仲」が実際の初出ではないかと思われる。また、弘長元(1261)年10月4日条では「武蔵左近大夫将監時遠」と書かれており、後に改名か。

*5:吾妻鏡人名索引』P.371「朝貞 北条」の項 によると、『吾妻鏡』での登場箇所は弘長元(1261)年正月1日条「同九郎」と同3(1263)年正月1日条「武蔵九郎朝貞」の2つのみ。

*6:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.379~381 より。

*7:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第5集、1985年)P.46。主な収蔵資料 | 史料編纂書(皇學館大学 研究開発推進センターHP)

*8:前注田中氏論文 P.33・45。

*9:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.28。

*10:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。

*11:吾妻鏡人名索引』P.202「時忠 北条」の項 より。

*12:吾妻鏡人名索引』P.304「宣時 北条」の項 より。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*14:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27)では、北条氏一門の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられていた得宗家と赤橋流北条氏に対し、北条氏の金沢・大仏両流はそれよりも1段階低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたことが指摘されており、大仏頼直はまさにそれを象徴する名乗りである。そして山野氏もご紹介のように、金沢流では『吾妻鏡』に次の2つの事例が確認できる。①金沢実の加冠役は伯父で執権の北条泰、②実時の子・方(のちの顕時)は北条時頼の邸宅でその嫡男・宗の加冠により元服。実時の父・実義は兄である時の1字を受け「実」に改名しているし、顕時の嫡男は北条時の1字を受け「顕」と名乗っており、他の兄弟を見ても「時」を用いている者は案外少ない。よって金沢流では「時」を通字とする認識・慣例が無かった可能性が高い。大仏流の系図を見ると、嫡流を中心に、同様のことが当てはまっているように見受けられる。時頼は武田時綱平賀惟時などへ、(恐らくはそれまでの義時・泰時・経時と同様に1文字目であるという認識で)「時」の方を偏諱として下賜することも多々あったので、3名がその例に当てはまる可能性を考えても良いのではないかと思う。特に時忠(宣時)については、その後の子孫が代々得宗の一字を受けるようになっただけでなく、『徒然草』第215段に、最明寺入道(=時頼)の邸宅に招かれ、小土器に残っていた味噌を肴に酌をかわしたというエピソードが描かれているが、実は以前にこの場で烏帽子親子関係を結んだ仲だったのではないかということを想像させる。

周枳頼泰

周枳 頼泰(すき よりやす、生年不詳(1230年代後半?)~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将、御家人、射手。通称は兵衛四郎。父は周枳兵衛尉か。

 

周枳(すき)は、現在も京都府京丹後市大宮町の地名・大字として残っている名称で、平安時代中期の『和名類聚抄』(和名抄)にも丹後国丹波郡七郷の1つとして「周枳郷」の記録があり、古くから丹後二宮・丹波名神大社大宮売神社が鎮座する集落であった。日本中世期には、承久4(1222)年4月5日付の太政官牒において弘誓院領の1つとして「壱処周枳社丹後国丹波郡大宮部大明神」と見える*1

周枳氏については詳細は不明だが、この地名を由来とする一族であったと推測される。頼泰については以下の箇所で登場しており、実在が確認できる*2

月日

表記

建長5(1253)

1.9

周枳兵衛四郎

1.14

〔ママ〕枳兵衛四郎

建長6(1254)

1.4

周枳兵衛四郎

1.16

周枳兵衛四郎頼泰

正嘉2(1258)

1.6

周枳兵衛四郎

1.11

周枳兵衛四郎頼泰

1.15

周枳兵衛四郎頼泰

弘長元(1261)

1.9

周枳兵衛四郎

1.14

周枳兵衛四郎頼泰

内容としてはいずれも正月行事の的始への参加に関するものである。「兵衛四郎」という通称は、父親が兵衛尉で、その「四郎(本来は4男の意)」であったことを意味するから、『吾妻鏡』寛喜2(1230)年5月27日条の「周枳兵衛尉*3が頼泰の父親であったとみられる。この人物は、病床にあった北条時氏の許へ、看病のため参上した一人であり、得宗被官的な立場にあったのかもしれない。

頼泰は『吾妻鏡』登場当時「四郎」と名乗るのみで無官であったことが窺えるが、恐らく元服からさほど経っていなかったためであろう。よって、前述の内容も踏まえると、元服の際に、時氏の子で当時の執権であった北条時(在職:1246年~1256年)*4偏諱を賜ったと考えられよう。『吾妻鏡』での初見時期から考えると、時頼が執権を継いだばかりの頃に元服したと考えられ、1230年代後半~1240年頃の生まれと推定される。

 

脚注

*1:大宮売神社 - Wikipedia #中世 より。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.429「頼泰 周(須)枳」の項 より。

*3:実名不詳だが、当時の武士社会では通字継承が普通であったので、頼泰が本文で述べるように5代執権・北条時頼偏諱を受けたのだとすれば、「泰」が父子間で継承された字であったと推測され、「泰○」または「○泰」であった可能性がある。その場合「泰」の字は元服当時の3代執権・北条泰時偏諱ということになろう。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

二階堂高実

二階堂 高実(にかいどう たかざね、1310年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代末期の御家人

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)の記載*1によれば、二階堂光貞の嫡男にして「三郎 左衛門(=左衛門尉)」を称し、後に遁世して法名周琮(しゅうそう)と号したという。

 

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▲【図A】二階堂氏略系図 

 

この【図A】は『分脈』に基づいたものであるが、同族の行佐(ゆきすけ)流では行時が正安3(1301)年8月24日、その子・行憲が正中3(1326)年3月にそれぞれ出家したと書かれているが、各々当時の得宗である北条貞時・高時の出家*2に追随したことは明らかで、その当時の人物であったことの証左となる。特に行憲と同じく行泰の曾孫(行憲のはとこ)にあたる時元もやはり高時に追随して出家しており、行泰から見て代数の同じ者同士はほぼ同世代の人物と扱って良いと思う。

 

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▲【図B】二階堂氏行泰流の各人物生年の推定

そのような観点に加え、実際に【図B】のように各人物の生年を推定すると、行泰の玄孫にあたる、行実流のと、時元の子・(のち行春)、行憲の子・(のち行清)はほぼ同世代人と言える。彼らは共通して「」を持っているが、高元と高憲については各々の記事で言及の通り、鎌倉幕府滅亡後に改名したことが明らかとなっており、その理由は「」が最後の得宗北条偏諱であったからに他ならない。

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父・光貞についてはこちら▲の記事で1290年頃の生まれと推定した。従って、親子の年齢差を考慮すると、の生年は早くとも1310年頃とするのが妥当で、執権期間(在職:1316年~1326年)*3内の元服であることがほぼ確実となり、「」もその偏諱を賜ったものと見なせる。後述するが左衛門尉任官のことを考えると生年はこれより下る必要はないと思う。行実流では「実―光実」と以前から北条氏得宗家と烏帽子親子関係を結び続けており、その慣例に従ったと言えよう。

『分脈』にある「遁世」の時期は不明だが、左衛門尉に任官していたとの注記があることも考えるべきである。この頃の二階堂氏では、行貞やその孫・高衡、前述の高元・高憲が20代で左衛門尉に任官していたことが確認され、高実も同様であったと考えられる。

(二階堂信濃家当主)(二階堂筑前家当主)(二階堂因幡家当主)の3名は鎌倉幕府滅亡後、建武元(1334)年正月の関東廂番に名を連ねている*4が、同じ行泰流の高実(二階堂下総家)の名は見られない*5。3名は後に各々時の偏諱を棄てて改名したが、高実には『分脈』等でそのような情報は確認できない。よって、1330年代に20代を迎え左衛門尉には任官はしたものの、思うところあって、建武政権樹立の前に引退したものと推測される。恐らくは1333年に烏帽子親の高時らが自刃して鎌倉幕府が滅亡したことが契機になったのではないか。関連史料が未確認で根拠に弱いが、これについては検討の余地があり、後考を俟ちたいところである。

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪

*4:『大日本史料』6-1 P.421~423

*5:但し、前注史料での「下総四郎高宗」が二階堂氏である可能性がある。「下総」は旧国名であり、「関東廂番定書写」で苗字が無く旧国名から始まる呼称の人物は、傾向として高衡・高元・高憲の3名を含む二階堂氏に多いように見受けられる。よって高宗は二階堂氏で直近の下総守経験者である光貞の子息だったのではないか。北条高時偏諱「高」と祖父・宗実の1字による名付けられ方と考えると高実に同じである。但し『分脈』では光貞の「四郎」にあたる人物の名は「政宗(四郎左衛門尉)」となっている。しかし同系図では高行=行元(正しくは行光)のように改名の事実が伏せられている例もあるから、高宗が後に「高」の字を棄てて、恐らくは先祖の二階堂行政に由来の「政」に変えたと考えることもできるのではないか。三郎高実が関東廂番に名を連ねていないのは、既に当時は遁世していて、光貞の嫡子の地位が弟の四郎高宗(政宗)に移っていたからであると筆者は推測する。

二階堂宗実

二階堂 宗実(にかいどう むねざね、生年不詳(1250年代後半~1260年頃?)~没年不詳(1290年代以後?))は、鎌倉時代中期の御家人。父は二階堂行実、母は高野時家(小田時家、伊賀守)*1の娘。官途は弾正忠、左衛門尉、因幡守。官位は従五位下。妻は二階堂行宗の娘。子に二階堂貞宗二階堂光貞がいる。

 

以上の情報を載せる『尊卑分脈*2(以下『分脈』と略記)では、父・行実の項に文永6(1269)年7月13日に34歳で亡くなったとの注記があり、逆算すると嘉禎2(1236)年生まれと分かる*3が、父親(宗実の祖父)である行泰(1211-1265)との年齢差の面でも問題はない。

よって、現実的な親子の年齢差を考えると、息子である宗実の生年は1256年頃から、行実が亡くなる1269年までの間と推定できる

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▲【図A】二階堂氏行泰流の各人物生年の推定

 

ここで「」の名乗りに着目すると、それまで続いていた二階堂氏代々の通字「行」は使われておらず、「実」が父・行実から継承した字であるのに対し、上(1文字目)に戴く「」は烏帽子親からの一字拝領の可能性が考えられる。

仮に1256年生まれとすると、6代将軍・宗尊親王の京都送還(1266年)*4当時は11歳(数え年、以下同様)元服の適齢ではあるが、あくまで生年は "早くとも" の場合であり、実際はそれ以下であった可能性が高い。宗実以降の「光実」が「北条時―時」の偏諱を受けたとみられることを踏まえても、宗尊から1字を賜ったとは考え難く、実の「」字は宗尊の烏帽子子でもあった得宗北条時偏諱であった可能性の方が高いのではないか。

今度は1269年生まれと仮定すると、8代執権・時宗(在職:1268年~1284年没)*5の逝去当時16歳となり、元服当時の執権が時宗であったことはほぼ確実と言って良いと思う。その期間内で「」の字が認められているのだから、時宗とは烏帽子親子関係にあったと考えて良いだろう。

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よって、子・光貞との年齢差も考慮して、宗実の生年は1250年代後半~1260年頃であったと推測する。このように生年を推定する裏付けとなる考察を他に3点掲げたい。

一つは母方からのアプローチである。『分脈』にある宗実の注記「母伊賀守時家女」の時家は、同じく『分脈』に八田知家の子もしくは孫(家政の子)として記載の高野(小田)時家に比定される。『関東評定衆伝』文永8(1271)年条によると、暦仁元(1238)年3月7日の叙爵の際に伊賀守となり、文永8年2月5日に72歳で没したというから、逆算すると正治2(1200)年生まれと分かる*6。「時家(外祖父)―宗実(外孫)」間でも十分妥当な年齢差となるので、前述の生年推定が裏付けられよう。

▲【図B】二階堂氏略系図武家家伝_二階堂氏 より一部抜粋)

二つ目として、二階堂氏が世襲した鎌倉幕府政所執事の変遷について述べる。行泰法名:行善)から執事を継いだ長男の行頼は34歳の若さで早世してしまい、一旦行泰が再承の後に次男である行実が跡を継いでいた。しかし、行実も前述の通り、奇しくも兄と同じ34歳で亡くなってしまい、その後継となったのは行泰の弟である行綱法名:行願)であった(行綱の後継は嫡男の頼綱)。行実の後継として嫡男の宗実政所執事になれなかったのは、1269年当時幼少であったからであろう。この点も生年を推定する上で重要な根拠になると思う。

 

最後に、再び『分脈』を見ると、二階堂行宗の娘行貞の姉または妹)の一人に「因幡〔「守」脱字か〕宗実」とあり*7因幡が最終官途であったと考えられる。父・行実が33歳で従五位下信濃守に叙爵・任官した*8ことを考えると、宗実も同じ程の年齢に達するまでは生きていたのではないか。

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こちら▲のページに頼りながら、この頃の因幡守について確認しておこう。

文永9(1272)年7月11日に同族の二階堂行清(42)因幡守となったが、僅か10日後の7月21日には近江守に転任し*9、叔父・二階堂行佐(36、【図A】参照)がその後任を引き継ぎ*10、建治2(1276)年正月23日の西園寺実俊補任の時まで務めたとみられる。建治3(1277)年12月~弘安5(1282)年12月にかけては長井頼重、弘安6(1283)年4月6日からは藤原行通、同11(1288=正応元)年3月には大友親時、翌正応2(1289)年4月には伊藤*11因幡守在任であったことが確認されている。

永仁2(1294)年12月24日には源(北畠)師親の甥・雅行因幡守に補任され、同5(1297)年7月22日まで務めたという。乾元元(1302)年2月には「前因幡藤原敦雄」なる人物が確認されており、雅行の後任、その次あたりで就任したと思われる。嘉元元(1303)年正月29日には藤原伊俊因幡守に補任されている。

こうして見た時、宗実が因幡守になり得る空白期間として最適の時期は1290年あたりになると思う。前述のように生年を推定すれば、父・行実の国守任官と同じ30代となる。

 

以上より、宗実の生年は1250年代後半~1260年頃であったと結論付けておきたい。

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末 鎌倉政権上級職員表(基礎表)No.124「小田時家」の項。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№124-小田時家 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)も参照のこと。

*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*3:注1前掲基礎表 No.147「二階堂(筑前)行実」の項。二階堂行実 - Wikipedia二階堂行実(にかいどう・ゆきざね)とは? 意味や使い方 - コトバンク

*4:宗尊親王(むねたかしんのう)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*5:注1前掲基礎表 No.7「北条時宗」の項 または 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*6:注1同箇所より。

*7:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。系譜上は宗実と再従兄弟(はとこ)の関係にある。

*8:注3前掲 同基礎表より。典拠は『鎌倉年代記』文永2年条、『関東評定伝』文永6年条、『武家年代記』文永2年条。

*9:注1前掲基礎表 No.176「二階堂(常陸)行清(元・行雄)」の項。

*10:注1前掲基礎表 No.148「二階堂(筑前)行佐」の項。典拠は『関東評定伝』建治3年条。

*11:出典記事では、春日大社所蔵『弘安五年御進発日記』にある御家人「伊藤左衛門尉能兼〔祐兼〕」(→ 藤原重雄「史料紹介 春日大社所蔵『弘安五年御進発日記』(下)」P.101(1ページ目))が任官したものと推測されている。