Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

斯波宗家

斯波 宗家(しば むねいえ、1250年頃?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将。尾張足利氏(のちの斯波氏)の第2代当主。足利家氏の嫡男で、生母は阿蘇為時の娘。実際の史料では足利尾張三郎の通称で呼ばれており(後述史料参照)足利宗家(あしかが ー)と呼ぶのが正式である。 

 

 

父と母について

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▲【図A】『尊卑分脈』〈国史大系本〉*1より

 

父・足利家氏

まずは父の家氏について考察していきたい。というのも家氏もまた生没年未詳だからである。

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先行研究で既に明らかにされているように、その父(宗家の祖父)足利泰氏は建保4(1216)年生まれと判明しており、弟で跡目となった足利頼氏については仁治元(1240)年生まれとするのが有力である。

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従って、現実的な親子の年齢差と頼氏の長兄であることを考慮しただけでも、家氏の生年は1230年代と推定可能である。

 

ここで、前田治の論考*2を参考にしたい。それによると、『吾妻鏡』寛元3(1245)年8月15日条に、この日の鶴岡八幡宮放生会における供奉人のうち後陣随兵の筆頭として「足利三郎家氏」と見えるのが初見であり、この時点で頼氏(初め利氏)の初見時とほぼ同様の年齢であったと推測されている。のち利氏(頼氏)が元服して「三郎」を名乗ったのに伴い、建長4(1252)年頃からは「太郎」を称するようになるが、翌5(1253)年正月16日条では「足利太郎家氏」であったのに対し、同年8月15日条では「五位十五人」の一人として「中務権大夫〔大輔〕家氏」と現れているので、この間に叙爵*3および中務権大輔正五位上相当*4権官補任が行われたことが窺え、20代前半であったとも考えられている。

上記記事で紹介の通り、頼氏(利氏)は1240年生まれで、『吾妻鏡』では13歳(数え年、以下同様)となった建長4年11月11日条の「足利大郎〔太郎〕家氏 同三郎利氏」が初見である。前田氏は寛元3年当時15歳程度と仮定して家氏が泰氏16歳の頃に誕生したと推測されているが、親子の年齢差の面でやや違和感があるので、同じく13歳として2年引き下げても良いのではないかと思う。逆算すると家氏の生年は天福元(1233)年頃と推定される

ちなみに前田氏も紹介の通り、『検非違使補任』文永2(1265)年条には、文応元(1260)年12月24日に検非違使・左衛門大尉となっていた「左衛門大尉従五位下源家氏」が、この年の閏4月25日に尾張に任じられた旨の記載が見られ*5、前述の推定に従えば当時33歳であったことになるが、国守任官の年齢としては十分妥当なものである。 

 

母・北条為時の娘

一方、母については「平為時女」と記されているが、「為時 時頼之弟」とも書かれており、同じく『尊卑分脈』により北条氏と分かる。この頃の "北条為時" に該当し得るのは時頼の弟(初名: 時定)の他に、北条重時の長男(のちの(苅田)時継)が挙げられる*6。もっとも「為時 時頼之弟」とわざわざ記したのはその区別のためと思われるが、後世の書き加えの可能性も考慮して、その正確性を今一度再検証する必要があるだろう。

 

時頼弟の為時については、花押の一致により、『尊卑分脈』では別々に書かれる北条時定と同一人物と判明しており、その生年は時頼が生まれた安貞元(1227)年から、父・時氏が亡くなった寛喜2(1230)年までの間の筈である*7。後述するが弘長2(1262)年には宗家の活動が確認できるので、為時―宗家を外祖父―外孫とするには年齢差の面でやや違和感がある。

 

そのように想定されたのか、熊谷隆之は宗家の母についても苅田時継の娘とされているが、これについても検証すると次の通りである。

『明月記』嘉禎元(1235)年10月16日条には、「駿河守重時最愛嫡男八歳」が疱瘡で死去し、乳母夫妻が哀しみの余り出家したとの記事があり、同月29日条でも6歳となる「駿河守重時次男」が夭折したとの記述が見られる。但し、後者では「後聞虚言」(=後に聞くに、誤報であった)とも記しており、年齢からすると『尊卑分脈』における重時の次男・北条長時(のちの第6代執権/赤橋義宗の父)に比定されるだろうから、前者の「嫡男八歳」が重時の長男・為時(時継)とみなせる。「死去」というのもまた誤報だったようであり、実際は廃嫡されたようであるが、この為時は安貞2(1228)年生まれであったことになる*8

すると、上記2人の為時はほぼ同世代人となり、「為時 時頼之弟」を否定する材料にはなり得ない。【図A】において嫡男・家貞の母を「式部大夫平時継女」と記すくらいなので、一応は宗家の母が時定の娘、妻が時継の娘とするのが妥当と思われる。

但し、いずれにせよ各々の親子の年齢差を10歳程度としなければ、為時(外祖父)―宗家(外孫)の辻褄が合わなくなるので、そもそも「平為時女」の記載そのものが正しいのかについて改めて検討の必要があるかもしれないが、頼氏が母親14歳以下の時に生まれている例*9を踏まえると、北条・足利両氏においてはさほど珍しくなかったと考えても良いのだろう。

 

 

史料における宗家

岡成名に関する関東裁許状の紹介

足利宗家(斯波宗家)については、熊谷氏の論考*10などに詳しい。次に掲げるのは、宗家・宗氏父子の実在が確認できる史料として紹介されている鎌倉時代末期の越中国岡成名(現・富山県高岡市街地の北西、小矢部川の右岸、旧西条村の一帯)に関する関東裁許状2通である。 

【史料B】正慶元(1332)年9月23日付「関東裁許状案」(『朽木文書』)

佐々木出羽五郎左衛門尉(朽木)義綱 今者死去、 長男四郎兵衛尉時経明祐岡成又次郎大夫景光 今者死去、 息男六郎景治孫子次郎友景相論、越中国岡成名事

 

右、訴陳之趣枝葉雖多、所詮、当名者、足利尾張三郎宗家也、義綱為召捕悪党人之賞、嘉元二年十二月二日令拝領訖、景治友景伺雑給之隟{隙}、僅避出田地陸(=六、以下同様)段、以残田畠在家等、号市安・松重名横領、無謂之由、明祐申之処、市安・松重非岡成名内之条、本領主(岡成)盛景建長二年十二月十七日譲状・文永六年十二月十日取帳分明也、時経争可及競望哉之旨、景治友景雖陳之、就件譲状・土帳等、未賜安堵御下文、又不預下知状 云々、輙不足指南、凡安貞年中景治等先祖寄附遠江守朝時以降、地頭書与代官職宛文於本主子孫之条、景治友景承伏之上、景治祖父景長捧建長譲状、得地頭宗家弘長二年八月三日下文畢、如状者、下、散位清原景長、可令早領知越中国西条郷内岡成名田畠事、右、守親父盛景建長二年十二月十七日譲状、可令領掌云々、市安・松重為各別地者、尤可書顕名字欤、別〔引〕載岡成一所之間、譲状謀書露顕之由、明祐之所難非無子細、是一、次市安名建保三年二月四日沽却于他人訖、加之、依京都大番事、宛松重名地頭、正応二年四月十一日已後致支配課役之旨、景治等同雖申之、建保放券状之真偽対旱〔捍〕、雖補地頭、叵{頗}致糺決、如大番催促状者、又松重為岡成名外之段、曾無支証之上、景治曾祖父時景之時、避渡朝時 云々、但以其子孫、多令補地頭代畢、近年為称御家人、恣誘取守護代状欤、敢難許容、是二、市安・松重両名本御下文者、惣領松重彦太郎信光帯持之由、景治申之間、所召問信光也、如信光進覧仁平四年十月廿日譲・正治元年七月十九日・同十月十一日状等者、或以松重名田畠山野譲与(松重)信遠旨載之、或信遠任仁平状預守護代裁許之由、所見也、以法之証文、為■〔糸に寄〕之躰{体}■■〔镸に旁、镸に奇〕之上、号本御下文、雖副進元久二年三月二日状、無正文之間、輙不能信用、是三、随相尋之足利又三郎宗氏 宗家息、 之処、如延慶二年三月廿九日請文者、岡成名父組領知事、承久兵乱之比、地頭名主大略帰遠江守朝時之刻、安貞年中各以所領令寄附、即可補代官職之旨、就望申安堵訖、所務之次第為治息代々賜宛文、済年貢畢、宛身依不領掌、不帯証状云々、田地陸段之外、無寄進儀之際、不可有餘{余}剰之由、景治等称申之条、頗可称𥏹{矯}{飾}是四、就中景治友景、不終沙汰之篇帰国、何為問答、数箇度下奉書之後、仰小泉四郎蔵人義重々所触遣也、如執進景治友景散状者、岡成名不知行之処、寄事於岡成、掠申之条存外也、企参上可明申云々、去年十月已前召対被成敗之間、詫義重同十二月十三日猶加催促畢、如景治今年三月十八日、友景同十九日請文者、可参上之旨、雖載之、于今不参、違背者又無所遁、是五、然則、於彼市安・松重者、為岡成名内、冝{宜}被付于時経、次岡成五郎兵衛尉友業同掃部大〔太〕郎女子尼妙心同四郎兵衛入道娘豊原氏平池三郎後家尼妙心知行分事、就明祐之訴、相触之処、難渋之篇、相同先段、此上停止彼輩之■〔糸に寄〕、可被渡時経、子細同前者、依鎌倉殿(=将軍・守邦親王仰、下知如件、

 正慶元年九月廿三日

右馬槽頭平朝臣(=連署・北条茂時)在判

相模守平朝臣(=16代執権・赤橋守時在判

 

【史料C】正慶元(1332)年11月2日付「関東裁許状案」(『朽木文書』)   

 佐々木出羽前司義綱法師 法名種義今者死去、 長男四郎兵衛尉時経明祐松重清新大夫景朝 今者死去、 子息八郎景式覚賢相論、越中国岡成名事

 

右、就訴陳之状、於引付之座召決両方訖、■〔束に合〕〔袷恰カ〕申詞雖区、所詮、明祐則当名者、足利尾張三郎宗家也、種義募勧賞嘉元二年十二月二日拝領之処、景式等僅避出田陸段、以残下地号市安・松重名、恣令押領之由訴之、景式亦市安・松重非岡成名内之条、本領主盛景 本名時景、 建長二年十二月十七日譲状・文永六年十二月十日取帳炳焉之旨陳之、爰岡成六郎景治同次郎友景等、備件譲状・土帳、雖支申、不賜安堵御下知等之間、難指南之由評定既訖、今更不及予議之上、景式先祖安貞年中寄附遠江守朝時已来、至于宗家之時、書与代官職宛文於本主子孫之旨、景式所自称也、随而景式祖父景長捧父盛景譲状、宗家弘長二年八月三日下文■〔己に十〕{畢}、如状者、下、散位景長、可令早領知越中国西条郷内岡成名田畠事、右、守親父盛景建長二年十二月十七日譲状、可令領掌云々、市安・松重自元為別名者、尤可書顕名字欤、争可引載岡成一所哉、於譲状者、任雅意改之由明祐申也、非無疑詔〔貽カ〕、加之依京都大番事、宛松重地頭、正応二年四月十一日已後被支配課役之旨、景式同雖論之、松重為岡成名之外、可各別之段、支証不分明、凡景式曾祖父盛景雖避渡朝時、至代官職者、多分補盛景跡輩 云々、為称御家人、近年誘取守護代状欤、敢不足許容之上、本御下文者、惣領松重彦大〔太〕郎信光帯持之由、景式等令申之間、尋問之処、或雖献覧仁平・正治譲状等、為状之躰{体}■■〔镸に旁、镸に奇〕也、或雖副進元久御下文案、無〔正 脱字カ〕 云々、輙叵{頗}取信、且如前地頭足利又三郎宗氏延慶二年三月廿九日請文者、岡成名父祖領知事、承久兵乱之時、地頭名主大略帰遠江守朝時之刻、各寄附所領、即望補代官職之旨所見也、以田地陸段号岡成名、其外不可有餘{余}剰之由、景式返答不審之上、当名誠可限陸段者、盛景縦雖寄進之、朝時不可領状欤、况盛景子孫面々叵{頗}競望地頭代之旨、明祐之所申非無謂、然則於彼市安・松重者、任先度成敗、為岡成名内冝{宜}被付于時経、次松重介四郎能景 今者死去、 息男景業知行分事、度々遣召苻、仰使者小泉四郎蔵人義重、去年十二月十二日就加催促、適雖参上、外祖母尼妙蓮今年七月廿日他界之由称之、不終沙汰之篇帰国 云々、難渋至極之上、相論之旨趣、叉不違景式番之間、旁不及異儀、仍子細同前者、依鎌倉殿(=将軍・守邦親王仰、下知如件、

   正慶元年十一月二日

右馬槽頭平朝臣(=連署・北条茂時)在判

相模守平朝臣(=16代執権・赤橋守時在判

*人名は紫色とした。

{ }異体字

*漢字が表示できない箇所は■の後の〔 〕に示した。

 

上記史料2点の詳細については

『角川地名大辞典(旧地名)』解説ページ:岡成名(中世)

もあわせてご参照いただければ幸いであるが、熊谷氏のまとめによると次の通りである。

承久3(1221)年の承久の乱の後、付近の地頭や名主は、乱で幕府方の北陸道大将軍を務めた北条(名越)朝時に帰属し、安貞年間(1227~29年)に所領を寄付して代官職に補されたが、その一つ岡成氏では、建長2(1250)年12月に岡成盛景が息子の岡成景長に譲状を書き、弘長2(1262)年8月には岡成名の地頭であった宗家より安堵の下文を得たという。

その後嘉元2(1304)年12月には、朽木義綱が悪党召し捕りの賞として「足利尾張三郎宗家跡(=旧領)」であった岡成名を拝領するが、これを機に朽木・岡成両氏の相論が始まり、その過程で宗家の嫡子・宗氏が幕府から尋問を受け、延慶2(1309)年3月には伝領の経緯を記す請文を提出したと伝える。

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宗家の世代と烏帽子親の推定

宗家弘長二年八月三日下文」そのものについては、未発見のためか、確認ができないが、小川信によると【 】がその引用部分であるという*11。小川氏は、元々は名越朝時が岡成名の地頭職を領有していた(朝時は岡成名のある越中国の守護も兼ねていた)が、その後は娘である家氏の母(泰氏の妻)を経て、家氏―宗家と継承され、(書状を出す以上)弘長2年の段階では既に成人の域に達していた、と説かれている*12

その一方、吉井功兒も、小川氏の論考に従い文永5(1268)年頃にはも既に幕臣としての活動期に入っていたとするものの、その「」字は当時の執権・北条時から偏諱を受けたものとの見解を示されている*13

これらの話を総合すれば、弘長2年までには元服を済ませていたことになるが、当時の時宗はまだ執権に就任していないのは勿論のこと、父の時頼が存命で家督も継いでいない "得宗家嫡子" の立場に過ぎなかった。しかし、建長8(1256=康元元)年の時頼出家後には、金沢(のちの顕時)が時頼の邸宅で宗の加冠により元服した例があり、これは元服したばかりの時宗を亭主である父・時頼が烏帽子親に指名したものと考えられている(下記記事参照▼)。 

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このように時頼の指名により時宗が烏帽子親を務めた例がこれだけに留まっていたとは限らないだろう。もっとも、当時の6代将軍・宗尊親王からの一字拝領の可能性も否定はできないが、宗家以降「家経」が得宗時―時」と烏帽子親子関係を結んでいたと推測されることからしても、顕時と同様にが烏帽子親であったと考えるのが妥当ではないかと思う。

 

よって、弘長2年に元服適齢の10数歳を迎えていたとすると、1250年頃の生まれと推定できよう。ちなみに孫の高経は1305年生まれと判明しており、祖父―孫の年齢差を考慮すれば、遅くとも1265年までに生まれていた筈であるから、時宗が亡くなる弘安7(1284)年までに適齢を迎えて元服していることは確実と言って良いと思う。また、前述した父・家氏との年齢差の面でも問題ないだろう。

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従五位下

ここで、あわせて次の史料も見ておきたい。

【史料D】『勘仲記』弘安5(1282)年11月25日条

(前略)

今夕被行小除目僧事、

権少外記中原師鑒、兼、     侍従藤原公尚、

少内記家弘、        伊勢守藤盛綱、

伊豫守源家時、    按察卿二男右近少将源親平、

従四位下祝部行昌、     正五位下中原師國、四位外記巡年叙也、

小槻兼賀、四位縫殿権助叙也、  従五位下源宗家

清原泰尚、

 (以下略)

この史料中の「伊予守源家時」は、「瀧山寺縁起」温室番帳に「同(六月)廿五日 足利伊与守源ノ家時、弘安七年逝去、廿五才、*14とある足利家時に比定される。清和源氏の人物が伊予守に補任されたのは、源義経以来97年ぶりのことであり、時宗による対蒙古政策としての源氏将軍復活(7代将軍・源惟康を初代・源頼朝になぞらえる)に連動した “義経の再現” を意図したものだったのではないかとされる*15

ここでもう1つ注目すべきなのは、この除目において「源宗家」が家時と同じ従五位下に叙されていることである。この当時で該当し得るのは足利宗家しかいないだろう*16。恐らくこの時に左近大夫将監となった*17ものとみられる。 

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霜月騒動での没落

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▲【図E】『続群書類従』所収「最上系図」より*18

こちらの系図に「奥州時被討」と注記される通り、「奥州」=陸奥入道安達泰盛の一族が討たれた霜月騒動(1285年)の時に宗家も討たれた、と解釈されている。 

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前述した通り、嘉元2年の段階で朽木義綱が拝領した岡成名が「足利尾張三郎宗家(=旧領)」であったから、熊谷氏が説かれる通り「奥州時被討」の記載は正しいと判断される。

従来の研究では、嘉元3(1305)年の嘉元の乱に際し、連署北条時村殺害犯の一人、白井小次郎胤資(白井胤資)を預かる「尾張左近大夫将監*19宗家に比定する説が長らく信用されていたが、これについては熊谷氏により名越公貞の誤りであることが明らかにされている(こちら▼の記事参照)。

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(参考ページ) 

 斯波宗家 - Wikipedia

 

脚注

*1:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.258。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照。

*2:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.187。

*3:律令制で、初めて従五位下を授けられること(→ 叙爵(ジョシャク)とは - コトバンク)。

*4:中務の大輔(なかつかさのたいふ)とは - コトバンク より。

*5:注2前掲前田論文(注2前掲田中氏著書)P.209 註(41)。

*6:熊谷隆之「ふたりの為時 : 得宗専制の陰翳」(所収:『日本史研究』611号、日本史研究会、2013年)北条為時 - Wikipedia より。

*7:北条時定 (時氏流) - Wikipedia より。

*8:北条時継 - Wikipedia より。

*9:注2同箇所。

*10:熊谷隆之「斯波宗家の去就 ―越中国岡成名を緒に、霜月騒動におよぶ―」(所収:『富山史壇』181号、越中史壇会、2016年)

*11:小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、1982年)P.368。

*12:前注同箇所。

*13:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(所収:注2前掲田中氏著書)P.167。

*14:注2前掲田中氏著書P.402、注2前掲前田論文(同書P.189)。この記事に信憑性があることは、新行紀一「足利氏の三河額田郡支配―鎌倉時代を中心に―」(同書P.286)で述べられており、家時の正確な生没年の根拠となっている。「伊与」は「伊予」の別表記である。

*15:注2前掲前田論文(注2前掲田中氏著書P.203)。

*16:源姓で「宗家」を名乗る人物は、『尊卑分脉索引』〈国史大系本〉P.220で確認できる限り、源宗家(三条天皇の曾孫・従四位下、三巻P.558・559)と足利宗家(三巻P.258、四巻P.144)の2名のみであり、年代と官位が一致するのは後者である。

*17:『尊卑分脉』以下の足利系図による。『尊卑分脉』四巻P.144の略系図では「右近衛将監」とするが誤りか。

*18:群書系図部集 2 - Google ブックス

*19:工藤時光 - Henkipedia【史料15】参照。

毛利経光

毛利 経光(もうり つねみつ、1230年頃?~1270年頃?)は、鎌倉時代中期の武将、御家人、安芸毛利氏の当主。父は毛利氏の始祖である大江広元の4男・毛利季光

 

 

生年の推定

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父・季光については、宝治合戦(1247年)で三浦泰村方について自害した時46歳(数え年)であったといい、逆算すると建仁2(1202)年生まれと分かる*1。従って、現実的な親子の年齢差を考えて経光の生年は早くとも1222年頃で、1247年までの間に生まれている筈である

 

ここで、母親についても確認しておこう。

『諸家系図纂』等の三浦氏の各系図類では、三浦義村の娘の一人に毛利季光法名: 西阿)*2妻を載せており、「佐野本 三浦系図」によると、広光・信光・泰光、そして経光の母親であったとする*3。この女性が泰村の妹で季光の妻であったことは次の史料にも記されている。

【史料A】『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月5日条*4より一部抜粋

……毛利蔵人大夫入道西阿……彼妻泰村妹、西阿鎧袖云、「捐若州(=若狭前司・泰村)参左親衛(=時頼)御方之□〔事〕者、武士所致歟、甚違年来一諾訖、恥後聞乎哉□〔者〕」、西阿聞此詞、発退心加泰村之陣、……

季光は当時の5代執権・北条時頼の岳父(妻の父)でもあった*5が、「泰村を捐(す=捨)て時頼の許に参じて御方(=味方)することは武士のすることではない」との妻の言葉を受けて宝治合戦では泰村の陣営に加わったと伝える。

泰村が1204年生まれであるから*6、この女性はそれ以後の生まれということになるが、夫・季光とさほど年齢の離れていない妻であったとみなすのが自然であろう。仮に1205年生まれとした場合、親子の年齢差も考慮して、長男・広光を産んだのが1225年頃とするのが妥当であろう。4男であった経光の生年は早くとも1228年頃と推定される

 

あわせて次の史料も見ておきたい。 

【史料B】文永7(1270)年7月15日付「毛利寂仏(経光)譲状写」(『毛利家文書』)*7

  沙弥(=寂佛) 在判

ゆつりわたす所りやう(所領)の事、あきの国よしたの庄安芸国吉田庄)、ゑちこのくにさハしのしやう越後国佐橋庄)南條の地とふしき(地頭職)等ハ、寂佛さうてん相伝の所りやう也、しかる(然る)四郎時親、ゆつりわたす所也、この状まかせて、永代ちきやうすへし(知行すべし)、仍ゆつり状如件、

  文永七年七月十五日

この史料は沙弥寂仏相伝の所領として安芸国吉田荘と、越後国佐橋荘南条の地頭職を時親に譲るとしたものであるが、この「寂仏」は『江氏家譜』や『系図纂要』において「入道寂仏」と注記される経光*8に比定される。このことは、実際に時親の子・貞親が自らの譲状で「祖父寂仏」と記している*9こと、『尊卑分脈*10での系譜が「経光―時親―貞親」であることからも裏付けられよう。すなわち【史料B】は「経光入道寂仏→時親」への父子相伝であったことになる*11

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ここで着目しておきたいのが、息子の「四郎時親」という名乗りである。のちに刑部少輔にまで昇進したことは、曽孫・毛利元春自筆の書状(「毛利元春自筆事書案」)*12によって判明しているが、【史料B】の段階では「四郎」と名乗るのみで無官であったことが分かる。これは元服からさほど経っていなかったためであろう。

従って、【史料B】の段階で、息子の時親は元服適齢の10代前半以上の年齢に達していたと考えられ、親子の年齢差を考慮して父である経光は30代以上の年齢であったと推測される。逆算すると生年は1240年より前となる。

以上の考察により、経光の生年は1228~1240年の間(=およそ1230年代)と推定される。

 

烏帽子親の推定

『吾妻鏡』寛元4(1246)年7月11日条に「毛利蔵人経光」とあるのが確認でき*13、これが史料における初見であろう。この時既に10代前半の適齢を迎えて元服を済ませていたことになるから、1230年代前半には生まれていたと考えるのが妥当であろう

そして、その数ヶ月前にあたる『吾妻鏡』同年3月23日条にある通り、同日まで「武州」=武蔵守・北条が4代執権の座にあり、その「」の偏諱が許されていたことが窺える。この字は元々時が第4代将軍・九条頼から拝領したものであるが、この頼経から直接賜った可能性も否定はできない。では経光に1字を与えたのは頼経、経時のいずれであったか。

 

前述の『江氏家譜』経光項の注記を改めて見ると、概要は次の通りである*14

  1. 「泰村一乱(=宝治合戦」の時、越後国に在国して謀反に与しなかったとして、同国佐橋荘南条と安芸国吉田荘などの所領を安堵された。
  2. 『東鑑(=吾妻鏡』によると、寛元4年 翌年宝治に改元 7月11日頼経帰洛の際の供奉人に「毛利蔵人経光」とある。
  3.  宝治合戦で父・西阿(季光)が自害した時、幼年の遺児「文殊丸」が北条氏に生け捕りにされ、これが成長して経光になったとする説があるが、2.により異説である。

2.については前述の通りで、1.についても【史料B】で経光(寂仏)から時親へ同地が譲られていることから裏付けられよう*15。よって、2.と矛盾する3.の説はやはり誤伝と考えられるが、これがかえって、宝治年間当時経光元服からさほど経っていない若年であったことの証左になり得るのではないか。

 

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ここで、三兄である毛利の名乗りにも着目したい。「光」は親子間、兄弟間で共有される通字であり、年代からしても「」は3代執権・北条時から拝領した可能性が十分に考えられる(上記記事参照)。従って、当時の将軍・頼経ではなく執権の泰時を烏帽子親とした泰光に対し、弟の経光が将軍から一字を拝領するというのは不自然に感じざるを得ない。よって、経光の烏帽子親は4代執権・北条経時と判断され、その執権期間(1242~1246年)*16内の元服であったと推測される。恐らく1230年代初頭の生まれで、執権となったばかりの経時から一字を拝領したのであろう。

 

毛利師雄について

ところで、『尊卑分脈』等の系図では経光の弟に「師雄(もろかつ?)」の記載が見られるが、下に示す通り一部の系図では経光が師雄の改名後の名前で同一人物とするものがある。

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これについては、佐々木紀一の研究*17に詳しく、前述の通り宝治合戦で処罰を免れていることから、当初は大江広元の子孫と縁戚関係にあって「師」を通字とする外記・中原氏に養子入りしていたのではないかとする説を掲げておられる。師雄は複数の系図で季光の息子として載せられ、兄弟間で一人だけ「光」字を持たない理由を考えても妥当な想定だと思う。少なくとも、経光と同人か否かに拘わらず季光の庶子中原師雄という人物がいた可能性は高いのではないか。

 

そもそも師雄=経光とされるのは、上記系図に明記されるだけが理由ではない。『尊卑分脈』において、経光の後に「基親―時元」、師雄の後に「元親―時元」と、同じ諱を持つ親子(基親と元親はともに読みが「もとちか」)が存在していたことになっているのに対し、天文本系図での元親の「法名仙仏」と『毛利家系図』と前田・長井両本の系図での基頼(改め基親)の法名瞻仏」がいずれも「せんぶつ」と読め、永正・天文両本系図では「師雄―元親―時元」のみの記載であることから、基親流と元親流を重複とみなして一方を省いたとみられる系図が幾つか存在することもその根拠とされている。

 

勿論、これらの情報は系図独自の情報であり、その扱いには注意せねばならない。

経光の長男・基頼(のち基親)の名乗りである。基については前述の『門司氏系図』と『毛利家系図』にも掲載されている*18ほか、『尊卑分脈』でも経光の子・基親の「親」に対するものであろう、「本 」の注記がある。のちに大江氏にゆかりの「親」字*19によって基親と改名したとみられるが、毛利氏一門で「」字を用いたのは基(基親)だけであり、基親の弟・親や、子・元に北条氏の通字「時」が許された形跡が見られることから、これは5代執権・北条時(経時の弟)からの偏諱ではないかと推測される。

もしそうであれば基頼は時頼執権期間(1246~1256年)*20元服した筈であり、親子の年齢差を考慮すれば父である経光の生年を遡らせる必要が生じると思うが、それでも経時から偏諱を受けたのだとすれば、"改名" しか考えられないだろう*21毛利季光の末子は当初中原氏に養子入りして中原師雄と名乗ったが、間もなく何かしらの事情でそれが解消され、実家の毛利氏に戻って改名した可能性を考えても良いのだろう(但し、経時から1字を受けているから、宝治合戦で季光や兄たちが滅んだのに伴うものでないことには注意である)

 

(参考ページ)

 毛利経光 - Wikipedia

 毛利経光(もうり つねみつ)とは - コトバンク

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.141「毛利季光」の項。毛利季光(もうり すえみつ)とは - コトバンク毛利季光 - Wikipedia

*2:季光の法名が「西阿」であることは『尊卑分脈』(→『大日本史料』5-2 P.657)のほか、『吾妻鏡』天福元(1233)年11月3日条や『関東評定衆伝』同年条にも「蔵人大夫入道大江季光法師、法名西阿、」(→『大日本史料』5-9 P.304)とあることから裏付けられる。

*3:『大日本史料』5-22 P.137

*4:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*5:『大日本史料』5-12 P.558『諸家系図纂』所収「北条系図」(P.24)。

*6:三浦泰村 - Henkipedia 参照。

*7:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.2 二号『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3。『鎌倉遺文』第14巻10647号。

*8:『大日本史料』5-22 P.156『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3

*9:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.3 四号『大日本史料』6-3 P.46

*10:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 12 - 国立国会図書館デジタルコレクション。尚、本項での『尊卑分脈』は全てこれに拠ったものとする。

*11:史料綜覧. 巻5 - 国立国会図書館デジタルコレクション毛利時親(もうり ときちか)とは - コトバンク毛利経光(もうり つねみつ)とは - コトバンク

*12:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.18~ 一五号

*13:複数の写本が伝わる『吾妻鏡』の中で、島津本では「毛利蔵人経正」とする(→『大日本史料』5-20 P.355)が、北条本によって「毛利蔵人経光」の誤記と推察される。尚、最善本とされる吉川本では寛元4年の部分が欠損しているが、この補充に北条本が用いられており(→ 吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション)、比較的正確性が高いことの証左になるだろう。

*14:『大日本史料』5-22 P.156

*15:上杉和彦「日本中世の伝承と相模国毛利荘」(所収:『文化継承学論集』第3巻、明治大学、2007年)P.107(55) 注(8)。

*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*17:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(上)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第41号、2014年)P.11、P.17注(14)。

*18:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(下)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第42号、2015年)P.8~9。

*19:一族における例としては、大江広元の兄とされ、摂津高親が祖先と仰ぐ中原親能や、広元の長男で源通親の猶子となったとされる大江親広が挙げられる。尚、この字は鎌倉後半期の安芸毛利氏(時親貞親―親衡)でも用いられている。

*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*21:北条氏得宗からの一字拝領は元服時に限らず、改名によって賜った例としては足利頼氏(初め利氏)や大友頼泰(初め泰直)などが挙げられる。

毛利泰光

毛利 泰光(もうり やすみつ、1227年頃?~1247年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。父は毛利氏の始祖である大江広元の4男・毛利季光

 

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父・季光については、宝治合戦(1247年)で三浦泰村方について自害した時46歳(数え年)であったといい、逆算すると建仁2(1202)年生まれと分かる*1。従って、現実的な親子の年齢差を考えて泰光の生年はおよそ1222年よりは後のはずである

 

次に、母親についても確認しておこう。

『諸家系図纂』等の三浦氏の各系図類では、三浦義村の娘の一人に毛利季光法名: 西阿)*2妻を載せており、「佐野本 三浦系図」によると、広光・信光・泰光・経光の母親であったとする*3。この女性が泰村の妹で季光の妻であったことは次の史料にも記されている。

【史料A】『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月5日条*4より一部抜粋

……毛利蔵人大夫入道西阿……彼妻泰村妹、西阿鎧袖云、「捐若州(=若狭前司・泰村)参左親衛(=時頼)御方之□〔事〕者、武士所致歟、甚違年来一諾訖、恥後聞乎哉□〔者〕」、西阿聞此詞、発退心加泰村之陣、……

季光は当時の5代執権・北条時頼の岳父(妻の父)でもあった*5が、「泰村を捐(す=捨)て時頼の許に参じて御方(=味方)することは武士のすることではない」との妻の言葉を受けて宝治合戦では泰村の陣営に加わったと伝える。

泰村が1204年生まれであるから*6、この女性はそれ以後の生まれということになるが、夫・季光とさほど年齢の離れていない妻であったとみなすのが自然であろう。仮に1205年生まれとした場合、親子の年齢差も考慮して、長男・広光を産んだのが1225年頃とするのが妥当であろう。3男であった泰光の生年は早くとも1227年頃と推定される

 

ここで、次の表に着目したい。

 

【表B】『吾妻鏡』での泰光の登場箇所*7

月日 表記
嘉禎2(1236) 11.23 毛利新蔵人泰光
延応元(1239) 7.2 毛利蔵人
仁治2(1241) 6.17 毛利蔵人泰光
11.4 毛利蔵人
寛元元(1243) 7.17 毛利蔵人
宝治元(1247) 6.22

(毛利)三郎蔵人

(父と自害)*8

嘉禎2年の段階で「泰光」と名乗っていたことが分かり、既に10代前半の適齢に達して元服済みであったことが窺える。前述の通り、早くとも1220年代後半の生まれと推定されるので、北条泰時執権期間(1224年~1242年)*9内の生誕・元服であることは確実と言って良い。前述の「佐野本 三浦系図」において「元服之時北条泰時加冠、授諱字」と注記される泰村*10と同様に、「」の実名も時自らが加冠役(烏帽子親)となり、その偏諱を与えたものと考えて良いだろう。1227年頃の生まれとすると嘉禎2年当時10歳(数え年)となり元服の適齢である。

また「蔵人」という通称名からは、父・季光や兄・広光に代わって蔵人となったばかりであったことも窺える。季光が16歳、従兄(季光の兄・長井時広の子)にあたる長井泰秀が18歳で蔵人になっていることを参考にすれば、嘉禎2年当時泰光も10代であったことが裏付けられよう。

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尚、『尊卑分脈』では「泰元 蔵 昇殿」 と記される*11が、崩し字の類似から「元」と「光」を混同したものであろう(季光一家の「光」は元々大江重光大江維光などに由来すると思われるが、維光の子とされる大江広元が用いたこともあってか、広元の子孫ではこの2字が両方使われている)

 

関連ページ

 夢語りシリーズ - Wikipedia:湯口聖子による漫画作品で、宝治合戦を描く「六月の子守唄」に毛利泰光が登場する。

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.141「毛利季光」の項。毛利季光(もうり すえみつ)とは - コトバンク毛利季光 - Wikipedia

*2:季光の法名が「西阿」であることは『尊卑分脈』(→『大日本史料』5-2 P.657新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 12 - 国立国会図書館デジタルコレクション)のほか、『吾妻鏡』天福元(1233)年11月3日条や『関東評定衆伝』同年条にも「蔵人大夫入道大江季光法師、法名西阿、」(→『大日本史料』5-9 P.304)とあることから裏付けられる。

*3:『大日本史料』5-22 P.137

*4:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*5:『大日本史料』5-12 P.558『諸家系図纂』所収「北条系図」(P.24)。

*6:三浦泰村 - Henkipedia 参照。

*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.317「泰光 毛利」の項 より。

*8:前注同箇所では「同次郎蔵人入道」を泰光とし、「同三郎蔵人」を弟の経光とする(→ 同前P.79「経光 毛利」の項)が、『江氏家譜』「佐野本 三浦系図」等の系図類では季光の子は広光、信光(光正とも)、泰光、経光の順に書かれており、『吾妻鏡』のこの記事でも「毛利藏人入道西阿 同子息兵衛大夫廣光 同次郎藏人入道 同三郎藏人」の順に書かれているから、『江氏家譜』の通り泰光は3男で「三郎蔵人」と同人と考えて良いだろう。ちなみに経光は難を逃れて生き延び、文永7(1270)年に息子の時親に所領を譲った書状が残されている。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*10:『大日本史料』5-22 P.134

*11:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 12 - 国立国会図書館デジタルコレクション

尾藤頼景

尾藤 頼景(びとう よりかげ、1230年代後半?~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将、御内人得宗被官)。尾藤景氏の嫡男。尾藤時綱(演心)の父。

 

頼景については、生没年も含め不明な点が多い。まずは世代の推定にあたって、『尊卑分脈』に基づき作成した次の図を見ていただきたい。

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頼景(景頼)佐藤公清から数えて10代目にあたるが、親戚にあたる後藤氏での基頼と同じ代数となる*1。 

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こちら▲の記事で紹介の通り、後藤基については暦仁元(1238)年生まれと判明しており、頼景もほぼ同世代人であったと考えて良いだろう。 

既に細川重男が指摘の通り、実名の「」は第5代執権・北条時(在職:1246~1256年*2偏諱を賜ったものと見受けられる。これに従えば、通常10代前半で行う元服は早くとも1246年となるので、1230年代半ばより後の生まれとするのが妥当であろう。尚、実名について『尊卑分脈』が「」とするのに対し、『続群書類従』所収「尾藤系図」では「」と記載されるが、主君たる得宗からの1字を普通は上(1文字目)に置くと考えたのであろう、細川氏は後者が正しいと判断されている*3。 

 

尚、吾妻鏡では時頼執権期の以下3箇所が頼景に比定される*4

建長2(1250)年正月一日条「尾藤兵衛尉

※但し、前述の通り1230年代後半、或いは1240年代の生まれとした場合、10代或いはそれ以下で兵衛尉に任官したことになり、かつ次の登場箇所では無官で「二郎」とだけ書かれているのも不自然になってしまうため、これは頼景と別人とするのが妥当ではないかと思う。

同4(1252)年正月一日条「尾藤二郎

康元元(1256)年正月三日条「尾藤次郎兵衛尉

 

関連記事

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参考ページ 

 尾藤頼景 - Wikipedia

 

脚注 

*1:途中養子相続を挟むため、正確には公清―季清―康清―仲清―基清―基綱―基政―基頼と、公清から8代目にあたるが、能清の実弟・基清が実基の養子であったということは重要であって、養父よりは年少(或いは老いていてもほぼ同世代)であったと考えるのが自然と思われる。代数の少なさは親子の年齢幅の違いに起因するものであろう。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.214 注(24)。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.422「頼景 尾藤」の項 より。

大掾高幹

大掾 高幹(だいじょう たかもと、1310年頃?~1380年頃?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。桓武平氏より分かれた大掾氏嫡流にあたる多気氏の当主で、多気高幹(たけ ー)とも呼ばれる。通称は十郎。
 

 

世代と烏帽子親の推定

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実名「」に着目すると「幹」は大掾氏の通字であるから、「」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、同時期に現れる同族同名の真壁について得宗北条から偏諱を受けたとする見解*1を参考にすれば、同様に高時から1字を賜ったものと判断される。

 

これを裏付けるために、『尊卑分脈』等の系図を参考にして、世代の推定を行ってみたいと思う。次の図に着目していただきたい。

 

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ここで重要なのが先祖からの代数である。桓武天皇平高望までの生年(一部諸説あり)を見れば分かるように親子間では相応の年齢差がある筈であり、例えばある人物の孫(3世の孫)同士であれば従兄弟関係となるが、さほど世代は変わらないことが多いだろう。上図でも例えば、平貞盛8世の孫にあたる北条時政平重盛が、奇しくも共に保延4(1138)年生まれである*2従って代数は世代の推定にあたって一つの目安になると言えよう

このような観点から、同じ代数同士の人物を並べる形でまとめたものが上の図である。厳密には北条高時多気高幹で1代のずれがあるが、途中の親子間の年齢差の関係でそうなることも十分あり得よう。

先祖を遡っても、多気義幹が現れるのは、時政や重盛の活動期とほぼ重なっているし、義幹の跡を継いだ資幹の息子・多気幹は(根拠が弱いが)北条泰時(初名:時)に同じく源頼朝偏諱を受けた可能性が考えられる。高幹の祖父・幹も北条氏の通字「時」の使用が許されており、得宗専制が強まる北条宗執権期にその一字を受けたのではないか。

元徳2(1330)年創建の清涼寺、応安7(1374)年創建の照光寺は、いずれも大掾高幹を開基とすると伝えられ*3時が存命の間に幹は「高」の偏諱を許されていたと考えて良いだろう。 

高時が元服したのは延慶2(1309)年、その2年後の父・貞時の逝去に伴って得宗家督を継ぎ、1316~1326年の間14代執権の座にあった*4。高幹の元服はこの間に行われたと推定される。 

 

史料における高幹

鎌倉幕府滅亡に際しては高時らと運命を共にせず、その後は足利尊氏に従ったようである。「常陸大掾系図*5、『常陸三家譜』*6、『系図纂要*7によると法名は「浄永(じょうえい)」であったといい、以下に示す通り南北朝時代の史料に大掾入道浄永の名が確認できる。幕府滅亡から数年の間に、無官で「十郎」と名乗ったまま出家したようであり、20~30代と若年での剃髪であったと推測される。

 

【史料1】建武5(1338=暦応元)年8月日付発給者:三浦高継「税所虎鬼丸(幹)軍忠状」(『税所文書』:「惣領大掾十郎入道浄永*8

【史料2】『関城繹史』:「七月……平高幹叛降賊、大掾系図、桜雲記、廿六日、小田志筑官軍、攻高幹府中石岡城、戦于市河、志筑下河邊氏族、」*9

 

【史料3】康永3(1344)年正月日付発給者:高師冬「税所幹軍忠状」2通(『税所文書』:「惣領常陸大掾入道浄永*10、もう一方にも「…浄永存知上者、…」*11とあり。

 

【史料4】観応3(1352)年10月日付「鹿島烟田時幹軍忠状」(『烟田文書』):花押を据える発給者が高幹(浄永)か。*12

 

【史料5】貞治3(1364)年9月10日付「沙弥浄□〔浄永〕披露状」(『烟田文書』)高幹(浄永)関東管領に同族・烟田時幹の軍忠を賞するよう請う*13

 

【史料6『鹿島文書』所収・貞治4(1365)年付書状5点*14:2月2日付 足利基氏書状案の宛名に「常陸大掾入道殿」、以後4点書状の冒頭端裏書に「貞治五三二(※各々年月日の数字)常陸大掾入道被進之」とあり。尚、11月15日付書状は高幹(浄永)自らが発給したもので、「沙弥浄永」の署名と花押が据えられている。

 

【史料7】永和3(1377)年10月6日付「関東管領上杉憲春奉書」(『円覚寺文書』):宛名に「常陸大掾入道殿」*15 

 

 

(参考ページ)

 大掾高幹(だいじょう たかもと)とは - コトバンク

 多気高幹(たけ たかもと)とは - コトバンク

 大掾氏系図

 

脚注

三浦高継

三浦 高継(みうら たかつぐ、1305年頃?~1339年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。三浦氏の庶流・佐原氏の一族から盛時が再興した "三浦介" 家(=相模三浦氏)の当主であり、歴史研究では佐原高継(さはら/さわら ー)とも呼ばれることもある*1

 

 

南北朝時代初期の三浦氏に関する史料群

まずは、三浦時継・高継父子の実在と活動が確認できる書状数点を紹介しておきたい。

 

建武元(1334)年4月10日『足利直義宛行状』(『葦名古文書』)*2

  可令三浦介時継法師法名道海、領知武蔵国大谷郷下野右近大夫将監跡
  相模国河内郷渋谷遠江権守跡、地頭職事
 
 右、為勲功賞所宛行也者、早守先例、可令領掌之状、依仰下知如件、
 
  建武元年四月十日
                  左馬頭源朝臣(直義花押)

この書状は足利直義が勲功の賞として三浦時継(道海)に、下野右近大夫将監の旧領=武蔵国大谷郷と、渋谷遠江権守*3の旧領=相模国河内郷の地頭職を宛行う旨を記したものである。 

 

建武2(1335)年? 9月20日『少別当朗覚書状案』「神奈川県史」所収『到津文書』)

 (前略)…一関東も足利殿御下向候、凶徒等悉被追落候、無為ニ鎌倉へ御下著候間、諸方静謐無為、返々目出候、三浦介入道一族廿余人大船ニ乗天、尾張国熱田浦ニ被打寄候處、熱田大宮司悉召捕之、一昨日京都へ令進候間、被刎首、被渡大路候後ニ、可被懸獄門之由、治定候、…(以下略) 

文中の「三浦介入道」は前年に登場した時継法師道海であろう。『太平記』によれば、北条時行の挙兵に加わった*4らしいが、冒頭にもある通り、関東に下向した足利殿(=尊氏)に敗れ(中先代の乱)、その後一族の者20数名と共に舟で尾張国に逃れようとしたところ、熱田大宮司(=昌胤か)に捕らえられ、京都に送られた後に首を刎ねられて獄門に懸けられたことが記されている。 

 

建武2(1335)年9月27日『足利尊氏袖判下文』(『宇都宮文書』)*5

       (花押:足利尊氏)  下    三浦介平高継
 
  可令早領知相模国大介職三浦内三崎、松和、金田、菊名網代、諸石名、大礒郷、在高麗寺俗別当職、東坂間、三橋、末吉、上総国天羽郡内古谷、吉野両郷、大貫下郷、摂津国都賀庄、豊後国高田庄、信濃国村井郷内小次郎知貞跡、陸奥国糠部内五戸、会津河沼郡蟻塚上野新田、父介入道々海本領事、

 右以人、為勲功之賞所宛行也者、守先例可致沙汰之状、如件、
 
    建武二年九月廿七日 

 

建武2(1335)年10月23日『三浦介高継寄進状』(『鶴岡八幡宮文書』)*6

  上総国眞野郡椎津郷内田地壹町事
  
 右、且為天長地久、現世安穏、子孫繁昌、至于子々孫々、
 於此料田者、不可致其煩、仍寄進状如件、
 
  建武二年十月廿三日   三浦介高継(花押)

③と④の書状によって、建武2(1335)年に「三浦介」であった人物として三浦高継の実在が確認できる。

③は①に同じく宛行状であり、足利尊氏が勲功の賞として高継に、記載の複数の領地を与えていることが記されている。中には「父 介入道々海跡」の記載があって、三浦介入道道海(=時継)が父であり、②も踏まえれば、斬首となった父の領地を子の高継が継承したことが分かる。 

 

 

高継の世代と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事にて、曽祖父の三浦頼盛が1240年頃の生まれと推定した。これに従えば、各親子間の年齢差を20とした場合、その曽孫である高継の生年は早くとも1300年頃と推定可能である。

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すると、元服は通常10代前半で行われることが多かったから、高継の場合1310年代前半より後に行ったと推測可能である。上記記事において盛の「頼」が5代執権・北条時からの一字拝領と推測したが、その後の「明―継」も北条氏の通字「時」を与えられた形跡が見られる。従っても、元服当時の得宗であった北条(1311年得宗家督を継承、1316~1326年の間14代執権)を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったとみなして問題ないだろう*7

 

ここで、この考察を裏付けるべく、高継の生年を推定してみたいと思う。

③より、建武2年の段階で高継が三浦介を名乗っていたことは確実であるが、①にある通り、父・時継が出家済みであった前年建武元年)の段階で "三浦介"(=③で「相模国大介職」と呼ばれているもの)の座が譲られていた可能性が高いと思われる。

*軍記物であるが、『太平記』巻3「笠置軍事付陶山小見山夜討事」には、元弘元(1331)年9月20日に上洛した幕府軍の「相従う侍」の筆頭に「三浦介入道」とあり、これが事実に基づくものであればこの時すでに父・時継が出家していたことになる*8。1330年代には時継から高継へ「三浦介」の継承がなされたと考えて良いだろう。

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この記事▲でも紹介の通り、頼盛の場合、12歳頃に元服を済ませて「三浦介六郎(=三浦介盛時の6男の意)」、19歳頃には任官して「三浦介六郎左衛門尉」と呼ばれ、24歳頃から「三浦介」を名乗るようになったことが『吾妻鏡』から窺える。

これらを参考にすれば、1330年頃には高継も20代半ば以上の年齢であったと推測できよう。逆算すると1305年前後の生まれとなり、高時執権期間の元服であることが裏付けられる。 

*『葦名古文書』には、建武4(1337)年4月20日付で「平高通」を左衛門少尉、同年8月28日付「従五位下平高連」を従五位上に叙す旨の宣旨が収録されており、各々三浦高通(たかみち)・高連(たかつら)父子に比定される*9。すなわち、この時孫の三浦高連が叙爵済みであったことが分かるが、従五位上に昇進していることから20代位には達していた可能性があり、その場合高継の年齢をもう少し上げる必要が生じるが、今度は頼盛との年齢差で辻褄が合わなくなる。1300年代前半に父・時継が三浦介であったことを踏まえると、高継もやはり1300年代初頭生まれであることは動かし難いだろう。或いは、高通と高連が兄弟であった可能性を考えても良いかもしれないが、この辺りは改めて後考を俟ちたい。

 

一説に高時は祖先と仰ぐ平高望にあやかって命名されたとする見解があるが、同じく桓武平氏(高望)の末裔を称する三浦氏にとっては奇しくもゆかりの字を拝領した形となり、上記【三浦氏系図】で示した通り、高継以降の三浦介家は「」を通字とするようになったのである(のち上杉氏から養子入りした三浦義同の代に、今度は「義」字が復活した)。 

 

『正木家譜』によれば、高継は暦応2(1339)年5月18日に亡くなったという*10。同年12月17日付の足利直義の書状(『南部晋 所蔵文書』)に「…三浦介高継侍所管領之時、…」と回想する形で書かれている部分があり*11、この年までの三浦介が高継であったことが窺えよう。

*『伊豆山神社文書』には、この後 明徳元(1390)年8月6日付で相模守護であった「大介高連」が発給した請文が収録されており*12、暦応2年から51年の間に三浦介(相模国大介職)の座は孫の高通に渡っていたことが分かる。

 

(参考ページ)

三浦惣領家 #三浦高継

 27 三浦高継 三浦介父と子の争い: 黒船写真館

 相模三浦氏 - Wikipedia

 

脚注 

*1:『大日本史料』6-4 P.958

*2:『大日本史料』6-1 P.516

*3:『伊勢光明寺残篇』に所収の、元弘の変に際しての幕府軍のリスト「関東軍勢交名」2通に掲載される「渋谷遠江権守」と同人であろう。片方のリストには「渋谷遠江権守一族」とあり、相模国(現在の高座渋谷駅辺り)を発祥・拠点とする得宗被官・渋谷氏の一族をまとめる惣領的な立場にあったと推測される。実名は明らかにされていないが、『若狭国今富名領主次第』「渋谷遠江守重光」が正中元(1324)年9月2日から元弘2(1332)年9月まで得宗の代官を務めたとの記載があり、『太平記』巻6「関東大勢上洛事」にも幕府軍のメンバーの一人に「渋谷遠江守」が含まれている(→ 大仏高直 - Henkipedia【表A】)ので、遠江権守=重光の可能性が考えられる。

*4:太平記』巻十三「中前代蜂起事」。

*5:『大日本史料』6-2 P.609

*6:『大日本史料』6-2 P.660

*7:三浦介高継 ー  千葉氏の一族 より。

*8:「太平記」笠置軍事付陶山小見山夜討事(その12) : Santa Lab's Blog三浦惣領家 #三浦介時継 より。

*9:『大日本史料』6-4 P.205

*10:27 三浦高継 三浦介父と子の争い: 黒船写真館系図綜覧. 第二 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。ちなみに正木氏は、戦国時代から江戸時代にかけて活動がみられるが、三浦氏より分かれた氏族と伝えられる(→ 安房正木氏 - Wikipedia房総の正木氏の系譜)。

*11:『大日本史料』6-5 P.851

*12:鎌倉以後の三浦氏 参照。

相馬高胤

相馬 高胤(そうま たかたね、1315年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、下総相馬氏当主。通称は小次郎。

 

相馬氏の系図上では確認できない人物だが、次の史料により実在が確かめられる。

史料A】元弘4(1334=建武)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)*1

 関東廂番

定廂結番事 次第不同

( 中略 )

三番

 宮内大輔貞家      長井甲斐前司泰広

 那波左近大夫将監政家  讃岐権守長義

 山城左衛門大夫高貞   前隼人正致顕

 相馬小次郎高胤

( 中略 ) 

 

右守結番次第、無懈怠可令勤仕之状、依仰所定如件、

 元弘四年丶丶

上記三番衆のメンバーを見てみると、他のメンバーが何かしらの官職に任じられているのに対し、相馬高胤だけが無官のため「小次郎」と称されている。これは、一番衆の一人「河越次郎高重」と同様で、元服からさほど経っていなかったためであろう。恐らく10~20代の年齢であったと推測される。

逆算すると、元服の時期は北条高時執権期間(在職:1316年~1326年*2内であったと推定可能であり、通字の「胤」に対して上(1文字目)に戴いている「」の字は時の偏諱を拝領したものと考えて良いだろう*3

 

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▲【図B】相馬氏略系図*4

 

七宮涬三の研究によると、相馬氏は文永8(1271)年の相馬胤村(たねむら)急死後の所領争いによって、長男・胤氏(たねうじ)の系統下総相馬氏と嫡男・師胤(もろたね)の子である重胤(しげたね)の系統奥州相馬氏に分かれ、高胤を下総相馬氏の人物としている*5。同氏によれば、元亨元(1321)年に胤氏の子・五郎左衛門尉 師胤が罪を問われて行方郡太田村・吉名村を没収され(これらの地は御内人・長崎思元に渡る)*6、その弟・胤基の系統が下総相馬氏の嫡流として戦国末期まで存続したという。

世代的に考えると、高胤は師胤・胤基兄弟の子または甥とするのが妥当と思われるが、上掲【図B】に示した通り、歓喜寺所蔵の相馬系図では胤基の子は「胤忠(たねただ)」と書かれている*7。系譜に若干の違いがあるものの、千葉大系図や広瀬氏所蔵系図でも胤忠の記載はあり、それ以降の系譜は一致している。

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こちら▲の記事に紹介の通り、鎌倉幕府滅亡後「高」の字を棄てて改名した御家人は少なからずおり、同じく「小次郎」を称したというこの "胤忠" も高胤が改名後の同人である可能性が考えられるが、この点も含め以後の活動内容については後考を俟ちたいところである。

 

(参考ページ)

 相馬高胤 - Wikipedia

 下総相馬氏 #相馬高胤

下総相馬氏 #相馬胤忠

 

脚注

*1:『大日本史料』6-1 P.422。『鎌倉遺文』第42巻32865号。『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:下総相馬氏 #相馬高胤 より。

*4:武家家伝_下総相馬氏 および 光音子「陸奥と下総の相馬」(所収:「2011年3月11日午後2時46分東日本大震災による奥州相馬によせて」/新四国相馬霊場88ヶ所を巡る会、2011年)2ページ目系図 より作成。

*5:七宮涬三『下総奥州相馬一族』(新人物往来社、2003年)P.61~65、P.93。

*6:同年12月17日のものとされる「相馬重胤申状」(『相馬家文書』)による。『鎌倉遺文』第36巻27918号 所収。

*7:武家家伝_下総相馬氏 より。