色部長高
色部 長高(いろべ ながたか、生年不詳(1300年代初頭?)~没年未詳(1343年以後))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。色部長貞の嫡男。通称・官途は蔵人。
色部氏は桓武平氏流秩父氏の流れを汲み、地頭職を得た越後国小泉荘色部条の地から「色部」を称するようになったという。鎌倉期の色部氏については清水亮氏の論文*1に詳しく、以下それに沿って紹介する。
色部氏の家系は、色部公長の息子の代で分かれ、庶子の一人・色部長茂は小泉荘牛屋条の中心地である西部を相続するだけでなく、出雲国飯生荘地頭職も譲与されて、惣領となった兄・色部忠長に次ぐ存在であったことが窺える*3。高橋一樹氏の見解によれば、長茂の嫡男・色部長行(九郎左衛門尉)は鎌倉末期に北条氏と関係の深い相模・信濃の国衙領に所領を持ち、北条氏被官化していた可能性が高いという*4。
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そして清水氏は、長行の嫡子・長貞、嫡孫・長高が各々、北条氏得宗貞時・高時の偏諱を受けたと推測されている*5。同氏は長茂流色部氏が貞時以降の得宗から一字拝領を受けるようになった背景について、同じ頃、蝦夷鎮圧の拠点とする関係で鎌倉幕府の統制が強化され、小泉本荘が幕府直轄領(=関東御領)とされたことに着目され、長茂流は積極的に幕府中枢部に接近することで、惣領家と拮抗、もしくはそれを凌駕する政治的位置を保持していたと説かれている*6。
長高については次の史料が残されていて、その実在が確認できる。
●【史料2】建武2(1335)年閏10月4日付「雑訴決断所牒」*7
●【史料3】康永2(1343)年3月4日付「室町幕府引付頭人石橋和義奉書案」(反町英作氏所蔵『色部文書』)*8
(張紙)「十四、左衛門佐遵行状案」
青木四郎左衛門尉武房等申越後国小泉庄事、申状具書如此、於色部遠江権守長倫・平蔵人長高・秩父左衛門次郎持長・山城入道行暁・安富大蔵大夫空円(=安富長嗣)跡者、所被糺明也、至城入道・後藤信濃入道等跡闕所分者、不日止本庄左衛門次郎(=持長)以下輩濫妨、任御下文、可被沙汰付、更不可有緩怠之儀之状、依仰執達如件、
康永二年三月四日 左衛門佐(=和義)
上椙民部大輔殿 在判
清水氏によると、【史料3】は武蔵国御家人の青木武房らが恩賞として与えられた小泉荘内の所領で、本主たちが当知行を行っていることに対して室町幕府に提訴した結果出された引付頭人奉書であるという。
同荘の関東御領化については前述したが、1333年に鎌倉幕府が滅ぶと、その内部にあった安達時顕・後藤基胤・二階堂行貞(行暁)・安富長嗣(空円)ら北条高時政権中枢メンバーの「跡(=旧領)」が闕所地として確定されていた(行貞と基胤は幕府滅亡前に逝去)が、小泉荘全体が没収対象地とみなされてしまったためか、同時に色部長倫・色部長高の所領も一旦は没収処分を受けてしまったらしい。
【史料2】によれば、長高は同族と思われる秩父貞長(孫太郎)と牛屋条内宮次薬師丸田畠在家をめぐって相論を起こし、去々年(=1333年)に貞長が再度所領の知行を主張して苅田狼籍を行ったことも記されているが、清水氏はこれが同年の鎌倉幕府倒壊を契機としたことは明らかで、長茂流が得宗に接近していたために、幕府倒壊に伴って微妙な立場に置かれていたのではないかと説かれている*9。繰り返すが「高」の偏諱はその証左になり得よう。
系図類によれば、秩父季長は平武基(秩父武基)6世の孫(=来孫)にあたる。同じく武基の来孫にあたる畠山重忠が長寛2(1164)年生まれとされる*10ので、季長もそれほど離れた世代ではなかったと思われる。仮に同年生まれとし、なるべく誤差の出ぬよう各親子間の年齢差を平均25として算出すれば、長貞の生年は1289年頃、長高のそれは1304年頃と推定可能である。元服は通常10代前半で行われることが多かったので、長高の元服当時の得宗が北条高時(1311年家督継承、執権在職:1316~1326年)*11であった可能性は高く、その偏諱を受けることも可能と判断できる。父・長貞自身が一字を拝領したこともあり、続いて息子の元服に際しても「高」の偏諱を申請したのではないかと思われる。
(参考ページ)
● 武家家伝_色部氏
脚注
*1:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)。
*2:注1前掲清水氏論文 P.3 掲載系図(川島光男 編『越後国人領主色部氏史料集』(出版:神林村教育委員会、1979年)所収「色部・本庄氏系図」等により作成)、武家家伝_本庄氏 を参考に作成。
*3:注1前掲清水氏論文 P.4。
*4:前注同箇所。
*5:前注同箇所。
*6:注1前掲清水氏論文 P.4・7。
*7:注1前掲清水氏論文 P.9。『新潟県史 資料編 中世』1046号文書。
*8:注1前掲清水氏論文 P.8。『新潟県史 資料編 中世』1047号文書。
*9:注1前掲清水氏論文 P.9。
*10:畠山重忠とは - コトバンク より。
*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
千葉時常
千葉 時常(ちば ときつね、1215年頃?~1247年)は、鎌倉時代初期~中期の武将、御家人。下総国埴生荘(現在の千葉県印旛郡一帯)を継いだことから、埴生時常(はぶ ー)とも呼ばれる。通称は上総介次郎、下総次郎、埴生次郎(表記は垣生次郎とも)。
『吾妻鏡』における時常
まずは史料上での登場箇所を見ておきたい。『吾妻鏡』では次の箇所に現れている。
年 | 月日 | 表記 |
嘉禎3(1237) | 1.3 | 上総介次郎 |
暦仁元(1238) | 1.1 | 上総介次郎 |
年 | 月日 | 表記 | 史料詳細 |
宝治元(1247) | 6.7 | 下総次郎時常 | 【史料C】 |
6.17 | 埴生次郎 | 【史料D】 | |
6.22 | 埴生次郎時常 | 【史料E】 |
【史料C】『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月7日条*3より一部抜粋
……上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀、……各自殺。其後数十宇舎屋同時放火、内外猛火混而迸半天。胤氏(=大須賀胤氏)以下郎従等咽其熾勢、還遁避于数十町之外。敢不能獲彼首云々。又下総次郎時常自昨夕入籠此舘、同令自殺。是秀胤舎弟也。相伝亡父下総前司常秀遺領垣生〔埴生〕庄之處、為秀胤被押領之間、年来雖含欝陶、至斯時、並死骸於一席。勇士之所美談也。抑泰村(=三浦泰村)誅罰事、五日午刻、通当国之聴云々。
十七日戊戌、故上総介(=秀胤:「権」脱字か)末子一人 一才、同修理亮(=政秀)子息二人 五才、三才、垣生次郎子息一人 四才、各出来。面々被加検見、人々預守護之。
【史料C】より、下総次郎時常が「秀胤舎弟」にして、父が「下総前司常秀(=前下総守・千葉常秀)」であったことが分かる(通称名は常秀の「次郎(次男)」を表す)。『吾妻鏡人名索引』では時常の登場箇所を【表B】の3箇所のみとするが、【表A】の2箇所にある「上総介次郎」も当時の上総介=常秀*6の次男を表すから時常に比定される。
【史料C】には、父の死後、遺領として継いでいた埴生庄を兄・秀胤に横領されて事実上断交状態にあったが、秀胤一家が討伐を受けた際にはいち早く駆け付け、【史料E】の戦死者リストにも含まれている通り、そのまま彼らと運命を共にしたということが書かれている。【史料D】によれば、時常には4歳(数え年、以下同様)の遺児が一人いたようで、同族でありながら討伐にあたった東胤行の嘆願があって助命されている。
父と兄の世代の推定
次に、時常の生年について推定を試みたいと思うが、その前に父・常秀と兄・秀胤のそれから考察を加えたいと思う。
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こちら▲の記事にて、鎌倉時代初期の正確な千葉氏の系譜について述べたが、歴代の家督(嫡流家当主)は次の通りである。
[参考] 千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の通称および生没年
*( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。
● 千葉常胤(千葉介)
:1118年~1201年(84) …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より
● 千葉胤正(胤政とも/千葉太郎→千葉新介→千葉介)
● 千葉成胤(千葉小太郎→千葉介)
:1155年~1218年
…生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より
● 千葉胤綱(千葉介)
● 千葉時胤(千葉介)
:1218年~1241年(24) …『千葉大系図』より
父の千葉常秀については、兄・成胤の生まれた1155年から、父・胤正の亡くなった1202年までの間であることは間違いない。『吾妻鏡』では元暦元(1184)年8月8日条に「境平次常秀」と初めて現れるから、これよりさほど遡らない時期に元服を済ませたと考えられよう*7。1170年頃の生まれと推定される。
すると、その長男である兄・秀胤*8の生年も1190年以後と推定可能であるが、下記記事で述べたように息子の時秀・泰秀兄弟が1210~1220年代に生まれたと推測されるから、1200年頃までに生まれたと考えられる。
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以上より、「秀胤舎弟」である時常は早くとも1190年代、或いはそれより後1200年代の生まれであった可能性が高い。そして前節の【史料D】より、亡くなった宝治元年当時4歳の遺児がいた(逆算すると1244年生まれ)ことから、時常は若くとも20代後半の年齢には達していたと考えるのが妥当で、1220年頃までには生まれていたとも推測できよう。但し、これを大幅に遡れば親子間の年齢差も大きく離れてしまうため、1210年代の生まれとするのが現実的ではないかと思われる。この裏付けとして次節では通称(呼称)や官職に着目してみたい。
生年と烏帽子親の推定
冒頭の史料に示したように、時常は亡くなるまで「次郎」と呼ばれ、無官であったことが窺える。前述の通り、父・常秀は20歳位で左兵衛尉(七位相当)*9となっており、兄・秀胤も20歳位で叙爵(従五位下)して上総権介に任ぜられ、数年で従五位上に昇っている。更に前掲【史料C】~【史料E】からは、宝治元年当時、甥にあたる秀胤の息子たちも概ね20歳以上には達して官職を得ていたことが窺える。
常秀が官職の面で兄・成胤(千葉介=下総介)を超えて下総守や上総介に任ぜられ、秀胤も幕府の評定衆に加えられるなど、常秀の系統(上総千葉氏)は宗家を凌ぐ地位を誇っていたと言えよう。しかしその割に時常は宝治元年の段階で何の官職を得ていない。
勿論、秀胤に対する庶子ゆえに同様の昇進が叶うとも思えないが、もし秀胤と年の離れていない弟であれば、宝治元年当時40~50代となり、せめて父・常秀がなった左兵衛尉など官位が低めの官職を得ても良いような気がする。
従って、官職を得ていない理由の一つとして考えられるのが年齢の若さである。前節で【史料D】にある遺児との年齢差を考えた時、1210年代の生まれとするのが妥当であるとしたが、初見の嘉禎3年当時、元服からさほど経っていない20代で「上総介次郎」を称していたのであれば、納得がいくだろう。
以上の考察により、時常は秀胤とは年の離れた弟で、むしろ甥にあたる秀胤の息子たちと近い世代の人物であったと推測される。ここでは暫定的に1210年代半ば頃の生まれと推定しておく。
また、ここで「時常」という実名に着目すると、「常」が常秀から継承した字*10であるから、既にご指摘があるように、上(1文字目)に置かれる「時」は北条氏を烏帽子親として付けられたものと考えられよう*11。北条泰時(在職:1224年~1242年)*12が元服当時の執権であった可能性が高く、その偏諱と推定しておきたいが、北条氏一門の他系統の者から受けた可能性も否めないので、これについては検討の余地を残している。
(参考ページ)
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.475(通称・異称索引)より。
*2:前注『吾妻鏡人名索引』P.194「時常 垣生(千葉)」の項 より。
*3:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*6:注1『吾妻鏡人名索引』P.255~256「常秀 境(千葉)」の項 より。
*7:注1『吾妻鏡人名索引』P.255~256「常秀 境(千葉)」の項によれば、建久元(1190)年12月2日条まで「千葉平次常秀」と書かれていたものが、同月11日条では「左兵衛尉平常秀」と表記が変化しており、同2(1191)年正月1日以降もしばらくは「(千葉/境)平次兵衛尉常秀」で通され、前注で述べた通り嘉禎年間に上総介在任が確認できる。
*8:千葉秀胤の経歴については、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その123-千葉秀胤 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)を参照のこと。
*9:左兵衛の尉とは - コトバンク より。
*10:この字については、かつて房総平氏の惣領であった上総広常(平広常)が有していた上総権介の地位及びその所領を継承した常秀が、千葉氏の通字「胤」を用いず、房総平氏の通字「常」を継承したという見方がある(→ 境氏 - Wikipedia)が、単に存命であった祖父・千葉常胤から受けた可能性もある。時常はこの字を継承したが、跡を継いだ兄・秀胤は宗家への対抗意識からか、むしろ「胤」を用いており、その息子たちは「常秀―秀胤」と続いた「秀」を有していて、上総千葉氏において「常」という字はさほど重要性を帯びていなかったように思われる。
千葉泰胤
千葉 泰胤(ちば やすたね、生年未詳(1220年代前半か)~1251年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。下総国香取郡千田庄(現・千葉県香取郡多古町)を領したことから、千田泰胤(ちだ ー)とも呼ばれる。通称は千葉次郎。法名は常存 (じょうぞん) と伝わる(『般若院系図』)。
はじめに
肥前国小城郡の雲海山岩蔵寺に所蔵されていた過去帳(=『岩蔵寺過去帳』※焼失)には、同郡の代々の地頭として「常胤、胤政、成胤、胤綱、時胤、泰胤、頼胤、宗胤、明恵 後室尼、胤貞、高胤、胤平、直胤〔=貞胤カ〕、胤直〔=胤貞(再承)カ〕、胤継(胤平弟)、胤泰…」と名を連ねているが、原則千葉氏の歴代家督(宗胤以降はいわゆる九州千葉氏)が務めていたことが分かる。
ところが、時胤―頼胤父子の間に「泰胤」が地頭を務めていることは注目に値する。時胤が24歳の若さで亡くなった時、跡を継いだ頼胤(亀若丸)は3歳と幼少であった*1。当然ながら地頭を担えるはずもなく、後述するが『吾妻鏡』で確認できる限りその当時幕府に出仕して活動が見られる泰胤が事実上当主代行であったと考えられよう。
以下この泰胤について、判明していない生年の推定を試みたいと思う。
『吾妻鏡』における泰胤
まず、建武4(1337)年に書かれた「千葉貞胤亡母三十五日表白」(『拾珠抄』)によると、貞胤の母(胤宗の妻)について、
との記載があり*2、貞胤母の母(=すなわち貞胤の祖母)が泰胤の娘であったことが分かる。逆算すると貞胤の母親は文永11(1274)年生まれということになり*3、この女性は金沢顕時の娘であったようだ*4(但しこれについては疑問があり後述する)が、年齢差の面でも問題は無い(貞顕の異母姉であったことになる)。そして、その母親は1254年以前には生まれていたと考えて良いと思われ、その父親である泰胤は遅くとも1230年頃には生まれていなければおかしい。
ここで次の表を見ておきたい。
年 | 月日 | 表記 |
寛元2(1244) | 8.15 | 千葉次郎泰胤 |
寛元3(1245) | 8.15 | 千葉次郎泰胤 |
宝治元(1247) | 2.23 | 千葉次郎 |
宝治2(1248) | 1.3 | 千葉次郎 |
8.15 | 千葉次郎泰胤 | |
建長2(1250) | 8.15 | 千葉次郎胤泰〔ママ〕 |
8.18 | 千葉次郎 | |
12.27 | 千葉次郎 |
1244年までには元服を済ませて「次郎 泰胤」を名乗っていたことが分かる。元服は通常10代前半で行われたから、やはり1230年以前の生まれであったことは確実である。
系譜について
ここで泰胤の系譜上での位置について確認しておきたい。
千葉氏系図類での相違
まず『尊卑分脈』の千葉氏系図では頼胤の子、宗胤の弟で仮名「太郎」とする*6が、同系図は非常に簡略なもので宗胤の子を貞胤とする誤り(正しくは胤貞)もあり、泰胤についても少なくとも仮名は【表1】との整合性が取れない。また冒頭の『岩蔵寺過去帳』と照らし合わせても、父兄より先に小城郡地頭となり、その後に父・兄の順で継がれたことになってしまい、明らかに不自然である。
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頼胤については1239年生まれと判明しており、泰胤がその息子として1244年までに元服するのは絶対に不可能であるだけでなく、泰胤の娘が頼胤に嫁いだとする系図が見られることからも『尊卑分脈』の記載は誤りである。
他の系図類を確認してみると次の通りである。
● 『松蘿館本千葉系図』・伊豆山権現『般若院系図』・中条本『桓武平氏諸流系図』・『徳島本千葉系図』・『平朝臣徳嶋系図』etc.:胤綱―泰胤(時胤兄弟)
● 『千葉大系図』:成胤―泰胤(胤綱弟・時胤〈実成胤之三男〉兄)
すなわち、
● 成胤の子、胤綱の弟
● 胤綱の子、時胤の兄弟
のいずれかということになる。
鎌倉時代後期に千葉氏関係者によって書かれたとされる『源平闘諍録』*7には "千葉氏の当主が長男に継承され続けた" 旨の記述があり*8、歴代の「千葉介」の仮名は本来「太郎」であったと思われる。判明しているだけでも、胤正が「太郎」、成胤が「小太郎」を称し、更に頼胤の長男・宗胤も「太郎」と呼ばれていたことが実際の書状で確認できる*9。
従って、"次郎" 泰胤は千葉介継承者、胤綱または時胤の弟であったと考えて良いと思われる。
『承久記』における「千葉次郎」
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こちら▲の記事にて、鎌倉時代初期の正確な千葉氏の系譜について述べたが、歴代の家督(嫡流家当主)は次の通りである。
【表2】千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の通称および生没年
*( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。
● 千葉常胤(千葉介)
:1118年~1201年(84) …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より
● 千葉胤正(胤政とも/千葉太郎→千葉新介→千葉介)
● 千葉成胤(千葉小太郎→千葉介)
:1155年~1218年
…生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より
● 千葉胤綱(千葉介)
● 千葉時胤(千葉介)
:1218年~1241年(24) …『千葉大系図』より
これだけで見れば、父が成胤、胤綱のいずれでも矛盾は生じない。
ところで、野口実氏は『承久記』の諸本の中でも最古で鎌倉時代中期の成立とされる慈光寺本についての論文(2005年)において、承久の乱(1221年)での幕府本隊(東海道軍)の「五陣」の一人として従軍し*10、乱後の7月6日にも後鳥羽院が四辻殿から鳥羽殿へ移る際の供奉役を務めた「千葉次郎」*11を泰胤に比定されていた*12。また系譜についても言及があり、「そもそも鎌倉・ 南北朝期に成立した系図は、事実としての血統よりも所領・所職の相伝の論理によって作成されている」ため、『千葉大系図』の方が「蓋然性の高い所伝と判断」して、泰胤を「胤綱の兄弟とされるべき人物である」と説かれた。掲載の系図でも泰胤を成胤の子、胤綱・時胤の弟として作成されたが、それにもかかわらず、まとめの記述では「千葉介胤綱の伯(叔)父とみられる泰胤」としており矛盾している。
「五陣」の大将について、流布本『承久記』や『吾妻鏡』では「千葉介胤綱」とするが、これについて野口氏は、『吾妻鏡』によると胤綱は安貞2(1228)年5月28日に21歳で没したとあり、7年前の承久の乱当時14歳で大将を務めるのに無理があると考えたのか、実際の任務にあたったのは後見役であった一族の者と見なすのが順当として、慈光寺本『承久記』にある「千葉次郎(=泰胤に比定)」が正確であろうと説かれた。野口氏としては、『吾妻鏡』で確認できる「千葉次郎」はあくまで【表1】の泰胤であり、"泰胤が胤綱のおじ"と考えられたのは、泰胤が成胤の子、胤綱の弟であれば、14歳以下で大将を務めたことになってしまっておかしいと判断されたからであろう。
ところが、2010年代に入って『本土寺過去帳』における没年齢について再検討されたことで、胤綱の正確な生年は1198年と判明した。成胤の子であったというのに変わりはないが、承久の乱当時24歳となり、それでも若いのではあるが、大将を務めたとしても問題は無くなる。よって、泰胤を胤綱の叔父とする必要性も無い。ちなみに成胤の弟には常秀(上総千葉氏の祖)がおり、当初の通称「平次」から胤正の次男であったと考えられるので、「次郎」を称する泰胤がその兄弟であった可能性は考え難い。
ここで再度『岩蔵寺過去帳』と照らし合わせると、次の3パターンで考えられる。
【a】
+―⑥泰胤
【b】
+―⑥泰胤
【c】
+―⑥泰胤
この中で最も現実的と思われるのは【c】の相続順であろう。【b】は近世成立の『千葉大系図』で修正が施された結果に過ぎず、中世成立の系図が揃って【c】説を採ることからしてやはり後者を信用すべきと思う。野口氏が言われるように仮に「鎌倉・ 南北朝期に成立した系図は、事実としての血統よりも所領・所職の相伝の論理によって作成されてい」たとしても、その相伝の仕方はやはり長幼の順であったと考えるのが自然ではないか。泰胤は中世成立の系図が示す通り胤綱の子であったと見なされる。すなわち時胤の弟であったことになる。よって胤綱が亡くなる安貞2(1228)年(【表2】)までに生まれたことも確実となる。
では、慈光寺本『承久記』の「千葉次郎」は何者なのか。時胤は『千葉大系図』によると建保6(1218)年8月11日生まれとされ、同年4月10日に亡くなった成胤(【表2】)の3男である可能性はほぼ皆無で、胤綱の生年が1198年と修正されたこともあり、こちらも中世成立の系図が示す通り胤綱の子と判断して問題無い。
時胤は承久の乱当時4歳となり参戦できる筈はなく、それは弟の泰胤も同様である。従ってこの「千葉次郎」は泰胤とは別人と考えるべきであろう。そして、可能性が皆無とは言い切れないにせよ、成胤54年の生涯の中で男子が胤綱だけだったとは限らない。承久の「千葉次郎」は系図には載せられていない胤綱の弟であったと判断しておきたい。
生年と烏帽子親の推定
前節で泰胤が胤綱の子、時胤の弟であると結論付けた。従って、泰胤の生年は1218年以後となる。ここで再び『千葉大系図』を見ておきたい。
【図4】『千葉大系図』より一部抜粋(図は 千田千葉氏 ー 千田泰胤 より引用)
千葉次郎 次郎太郎 孫次郎 中澤孫次郎
泰胤――+―胤英――――胤義――胤頼
|
| 越後太郎妻 於鎌倉造立嶺松寺
+―女
|
| 千葉介頼胤妻
+―女
着目したいのは、泰胤の娘が頼胤に嫁いでいたということである。そしてこの女性は宗胤・胤宗兄弟の母親でもあったと考えられている。特に宗胤の系統は西国に下り、冒頭にも示したように九州肥前国を拠点の一つとしたが、下総国千田庄も所領の一つとして継承している*13様子から、同庄が泰胤から娘を通じて宗胤に渡ったと考えられていることによる。
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こちら▲の記事で紹介の通り、宗胤の生年は1265年とされ、泰胤がその祖父であれば各親子間の年齢差を考慮して1225年までには生まれていたと考えるのが妥当であろう。【表1】にあるように初見の1244年当時も無官で「次郎」を称していたことからすると、泰胤は1225年またはそれよりさほど遡らない年の生まれであったと推測される。
ここで「泰胤」の名に着目すると、千葉氏の通字「胤」に対し、「泰」は泰胤が生まれ、元服した当時の執権・北条泰時(在任:1224年~1242年)*14の偏諱を受けたものと見られる*15。兄・時胤と同様に、泰時を烏帽子親として元服し、その折に一字を拝領したのであろう。
最後に
【図4】を見ると、泰胤のもう一人の娘は「越後太郎妻」であったという。先行研究において「越後太郎」は金沢実時(越後守)の子・顕時に比定され、小笠原長和氏の見解では、泰胤の娘が金沢顕時の妻となって金沢貞顕を産み、貞顕の姉は千葉胤宗の妻となって貞胤を産んだとし*16、永井晋氏らもこの説にほぼ従っておられる。但し貞顕の母については細川重男・生駒孝臣 両氏や永井氏もご指摘の通り、系図で確認できる限りでは摂津の御家人・遠藤為俊の娘(入殿)である*17。
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そして「越後太郎」が顕時であるかどうかは疑問である。こちら▲の記事でも紹介したが、『吾妻鏡』や鎌倉後期成立の『入来院本 平氏系図』を見る限り、顕時の通称は「越後四郎」であり、「越後太郎」は長兄・実村にこそ相応しい。ちなみに『千葉大系図』(【図4】)以外に泰胤女子の一人が顕時の妻であったことを示す史料・系図類は管見の限り確認は出来ない。
但し実村は1245年前後の生まれで*18顕時とさほど年齢は離れていなかったと考えられ、冒頭で紹介の通り「泰胤―女子―女子(胤宗妻)―貞胤」という系譜は確実であるため、泰胤女子が実村・顕時いずれに嫁いでいたとしても世代的な変化は生じない。実村と貞胤母(1274年生)との年齢差も親子として問題ない。
泰胤の没年については、鎌倉時代後期に編纂された『中条家文書』所収「桓武平氏諸流系図」上で「建長三正(1251年正月)卒」とあり*19、『吾妻鏡』でも同2年末以降一切登場していない(【表1】)ことから、この説が採用されている。
参考ページ
脚注
*1:千葉頼胤 - Henkipedia 参照。
*2:千田千葉氏 ー 千田泰胤 より。
*3:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.6。
*4:前注同箇所。
*5:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.316「泰胤 千葉」の項 より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。
*6:『大日本史料』6-14 P.373。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第15-18巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*7:源平闘諍録 - Wikipedia 参照。
*8:千葉時胤 - Wikipedia より。
*9:正応元(1288)年9月7日付「関東御教書」(『山代松浦文書』、『鎌倉遺文』第22巻16766号)の文中に「千葉太郎宗胤」とある。尚、その名乗りから本来は嫡男で、千葉介を襲名予定であったと思われるが、頼胤の跡を受けて九州に下ったため千葉介を名乗らなかった。
*10:東京国立博物館デジタルライブラリー / 慈光寺本承久記 27ページ目。
*11:東京国立博物館デジタルライブラリー / 慈光寺本承久記 44ページ目。
*12:野口実「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」(所収:『研究紀要』第18号、京都女子大学宗教・文化研究所、2005年)P.51~52。
*13:『多古町史 上巻(通史編)』(多古町史編さん委員会 編、1985年)P.93第3章第1節-1「千葉氏と千田庄」参照。例として宗胤の子・胤貞から嫡男・胤平への譲状である 千葉高胤 - Henkipedia【史料1】にも所領の一つとして書かれている。
*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*15:千田千葉氏 ー 千田泰胤、千葉宗家の女性・一門 #千田泰胤 より。
*16:『多古町史 上巻(通史編)』(多古町史編さん委員会 編、1985年)P.93。
*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪。生駒孝臣「鎌倉中・後期の摂津渡辺党遠藤氏について ―「遠藤系図」をめぐって」(所収:『人文論究』第52巻2号、関西学院大学、2002年)P.22~23。注3前掲永井氏著書 P.4。
*18:金沢顕時 - Henkipedia 参照。
*19:岩橋直樹「中条本『桓武平氏諸流系図』所収の両総平氏系図に関する覚書 ー神代本『千葉系図』との記載事項比較を通じてー」(所収:『文学研究論集』48号、明治大学大学院、2018年)P.437系図。
千葉氏胤
千葉 氏胤(ちば うじたね、1335年 または 1337年~1365年)は、南北朝時代の武将。父は千葉貞胤。母は曽谷教信(日礼)の姪・法頂尼と伝わる。通称は千葉新介、千葉介。
『本土寺過去帳』によると氏胤は貞治4(1365)年9月13日に亡くなったとされ、『増上寺本 千葉系図』・『諸家系図纂』などの系図類では美濃国での病死と伝える*1。
『本土寺過去帳』を見ると、「千葉介代々御先祖次第」の項目では「第九氏胤 三十一 貞治四年乙巳九月十三日」と書かれているのに対し、中旬(中巻)でのもう1箇所では「十三日 千葉氏胤 貞治四 九月 御年□□」と欠字になっており、以下のように系図類でも異同がある。
●『諸家系図纂』:貞治2年に31歳
●『系図纂要』:貞治5年に32歳
日付(命日)はどれも一致しており、恐らくは編纂の過程で誤伝・誤写などがあったのではないかと思われる。
このうち『千葉大系図』では、延元2(1337)年5月11日に京都で誕生したとも明記し、没年齢から逆算しても矛盾は無いため、下記参考ページなどではこの説が採用されているが、実際の史料である『本土寺過去帳』の情報も無視はできないと思う。但し過去帳の没年齢から逆算しても1335年生まれとなり、世代的にはさほど変わらない。
貞和元(1345)年8月29日に執り行われた天龍寺供養において、後陣の随兵のメンバーに「千葉新介」が見え(『園太暦』・『師守記』・『結城文書』・『天龍寺供養記録』)*3、『太平記』でこの内容を描く部分(巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」)では「千葉新介氏胤」と書かれている*4。これらが史料上での初見とみられ、既に元服を済ませていたことも窺える。尚、「新」というのは父 "千葉介" 貞胤との区別で付されたものであり、先立って戦死した兄・一胤*5に代わって「千葉新介」を称していた。
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ここで「氏胤」の名に着目すると、千葉氏通字の「胤」に対し、1文字目に戴く「氏」が烏帽子親からの偏諱とみられる(父・貞胤や兄・一胤(初め高胤)までは代々北条氏得宗家を受け、ほぼ一貫して1文字目に置いていた)。前述の生年に基づくと貞和元年には9~11歳と元服の適齢を迎え、「氏」は当時の将軍・足利尊氏(在職:1338年~1358年)*6からの一字拝領と判断して良かろう*7。
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子の満胤、孫の兼胤にも元服当時の鎌倉公方(足利氏満・足利満兼)から偏諱を受けた形跡が見られる。
参考ページ
脚注
*3:『大日本史料』6-9 P.249・275・278・287・304・306。
*5:千葉一胤 - Henkipedia 参照。
*6:足利尊氏とは - コトバンク より。
*7:千葉氏の一族 #千葉介氏胤 より。
千葉一胤
千葉 一胤(ちば かずたね、1312年頃?~1336年)は、南北朝時代の武将。父は千葉貞胤。通称は千葉新介。初名は千葉高胤 (たかたね) か。
『千葉大系図』では貞胤の子、氏胤の兄弟として一胤を載せ、その注記では「一」の部分について「高」とする別説(「一 作高」)を載せる*1。すなわち別名を「高胤」とするが、これについては当初北条高時の偏諱を受けた「高胤」をのちに「一胤」に改めたものと解釈されており*2、筆者もこれに賛同である。
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一つには、貞胤に至るまで代々北条氏得宗からの偏諱を受けてきたこと(時胤―頼胤―胤宗―貞胤)が挙げられる。一胤(高胤)が鎌倉時代末期から存命であったことは確実と言って良いと思うが、下記記事で紹介の通り、胤貞(貞胤の従兄)の次の肥前国小城郡地頭として実在が確認できる高胤も「高」の字を受けた形跡があるから、「千葉介」を継承する千葉氏嫡流となっていた貞胤の嫡子が高時の一字を受けなかったとは考え難い。
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そして、こちら▲の記事で紹介の通り、鎌倉幕府滅亡後には高時からの「高」字を棄てて改名した者が少なからずいたことが確認され、一胤(高胤)もその一人であったと考えて何ら問題は無いと思う。
(https://chibasi.net/souke17.htm より引用)
『太平記』(巻15「三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事」)には、建武3(1336)年正月16日、南朝方の新田義貞軍に属していた「千葉新介」が、足利尊氏方の細川定禅と合戦に及んで矢で討たれ*3、『梅松論』ではそれより間もない三条河原での戦いにて「千葉介」が新田家臣の「船田入道、由良左衛門尉*4」と共に討ち取られたとする*5。通称名に若干の違いはあるが、「新」というのは父 "千葉介" 貞胤との区別で付されたものであり、当時の千葉介であった可能性を暗示する。
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こちら▲の記事で紹介の通り、貞胤は観応2(1351)年に亡くなったと伝えられるので、『梅松論』において討ち取られたとする「千葉介」は貞胤とは別人とみなすべきである。
また貞胤が存命であった貞和元(1345)年8月29日には、天龍寺供養における後陣の随兵のメンバーに「千葉新介」が見える*6が、これは『太平記』(巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」)で明記の通り「千葉新介氏胤」*7に比定すべきであり、前述の討たれたという「千葉新介」はこの氏胤とも別人とすべきである。
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よって、建武3年正月に討たれたという「千葉新介」および「千葉介」は、『千葉大系図』において同月13日〔ママ〕に三井寺で戦死と注記される一胤に比定される。
『太平記』や『梅松論』は元々軍記物語ではあるが、正月16日に三井寺(園城寺)で合戦があったこと自体は実際の書状でも確認ができる*8ので、千葉一胤の討死も含め、実際の史実に基づいて描かれたと考えて良いと思われる。
ところで、『千葉大系図』での注記を再度確認すると「貞胤之(の)嫡子」として下総介に任じられたが、氏胤の下に列せられた故に家督を継がなかった、とある。しかし、前述の通りその後の注記では一胤が建武3(1336)年戦死とする一方、同系図の氏胤の注記には延元2(1337)年の誕生とあり、一胤の死後に氏胤が生まれたことになる。また、「嫡子」とは家督を相続する者の意味であるから、その者が誰かより格下で家督を継げなかったというのは明らかに矛盾しているし、同じ時を生きていない一胤・氏胤が家督を争える筈もない*9。
「千葉介」を継承できたということは、注記の最初にある通りでやはり「貞胤之嫡子」だったのであり、故に高時の偏諱を受けたのである。
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父・貞胤については1292年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考えれば、一胤(高胤)の生年は早くとも1312年頃と推定可能である。仮に1312年生まれとすると、北条高時が執権を辞して出家した正中3(1326)年*10の段階で15歳とちょうど元服の適齢に達する。よって、元服が通常10代前半で行われることから考えて、一胤(高胤)の生年は1312~1316年あたりとするのが妥当であると思う。高時執権期間(1316年~1326年)*11内の元服であったことが確実となり、「高」の偏諱を受けたと考えて差し支えない。
『伊勢光明寺残篇』を見ると、鎌倉幕府滅亡に至るまでの一連の戦い(元弘の乱)において父・貞胤と思われる「千葉介」が幕府側として従軍して参加しており、滅亡の直前、元弘3(1333)年4月のものと思われるリストにも「千葉介 一族并伊賀国」が含まれている*12。詳細な名前は記されていないものの、この「一族」の中に一胤(高胤)も含まれていたのではないかと思われ、以後父と動向を共にして建武政権に従ったとみられる。
参考ページ
脚注
*1:『千葉大系図』下巻。『大日本史料』6-2 P.1015。
*6:『大日本史料』6-9 P.249・275・278・287・304・306。
*8:『大日本史料』6-2 P.993~の各史料を参照のこと。
*9:氏胤の生年については『本土寺過去帳』での没年齢により1335年の可能性もあるが、それでも翌年に亡くなる一胤と家督を争うには無理がある。この頃貞胤が千葉介を譲るにしても、幼少の氏胤よりは、長男・一胤の方が適していたことは言うまでもなかろう。
*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*11:前注同箇所。
*12:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。
千葉高胤
千葉 高胤(ちば たかたね、1310年頃?~1334年?)は、鎌倉時代末期の武将、御家人。千葉胤貞の最初の嫡子とみられる。通称は千葉小太郎。
『神代本 千葉系図』には胤貞の子として小太郎 高胤の記載が見られ*1、肥前国小城郡の雲海山岩蔵寺に所蔵されていた『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』(=『岩蔵寺過去帳』※焼失)にも、同郡の代々の地頭として「常胤、胤政、成胤、胤綱、時胤、泰胤、頼胤、宗胤、明恵 後室尼、胤貞、高胤、胤平、直胤〔=貞胤カ〕、胤直〔=胤貞(再承)カ〕、胤継(胤平弟)、胤泰…」と名を連ねている。
ここに記されるのは千葉氏の歴代当主(宗胤以降はいわゆる九州千葉氏)やその代行者であるが、胤貞と胤平の間に「高胤」が小城郡地頭であったことは注目に値する。というのも、次の史料にある通り胤貞が、嫡子であることを理由に胤平に所領を譲る旨の書状を遺しているからである。
●【史料1】建武元(1334)年12月1日付「千葉胤貞譲状」(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)*2
小城郡のほか、下総国千田庄・八幡庄内の所領を胤平に譲るとした内容で、当然ながらこの時小城郡地頭の座も胤平に渡る筈だが、前述の過去帳に加え、次の史料により同郡地頭として高胤が実在であったことが認められよう。尚、署名の「平」というのは、千葉氏が桓武平氏良文流で平姓であったことによる(『尊卑分脈』など)。
●【史料2】「平(千葉カ)高胤寄進状」(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)
これらの史料から、胤貞の次に小城郡地頭の座を継いだのは高胤であったが、恐らくは早世したため、改めて弟の胤平が嫡子に定められ、所領およびその惣領職が譲られたものと推測される。この推測が正しければ、高胤は【史料1】が出された建武元(1334)年12月以前に亡くなったことになる。
父の胤貞は正応元(1288)年、父(高胤祖父)宗胤の下向先の小城郡円明寺辺りで生まれたとされるが、正安3(1301)年の北条貞時出家以前には鎌倉に入って貞時の偏諱を受け元服し、以後鎌倉に居住していたと考えられている*3。従って、高胤や胤平も鎌倉または下総千田庄で生まれ育った可能性が高い*4。現実的な親子の年齢差を考慮すれば早くとも1310年頃の生まれとするのが妥当だと思う。
元服は通常10代前半で行われることが多かったから、その時期は14代執権・北条高時の在任期間(1316~1326年)*5内であった可能性は濃厚で、「高胤」の名もその偏諱を受けたものとみなして良いだろう*6。
尚、高胤に関する史料としては【史料2】の他にも、『一期所修善根記録』に「高胤聖霊」*7、『祐師文書事』(日祐自筆文書目録)にも前掲【史料2】を指すと思われる「高胤御寄進状一」の記載が見られる*8。
参考ページ
脚注
*1:『大日本史料』6-3 P.896。尚、同系図では高胤の兄として小太郎胤高を載せるが、仮名が同じであることや実名の類似から恐らくは重複ではないかと思われる。
*2:千葉氏の一族 #千葉胤平 より。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*6:千葉氏の一族 #千葉高胤 より。
北条宗政
北条 宗政(ほうじょう むねまさ、1253年~1281年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。北条氏得宗家の一門。北条時頼の子(準嫡子)、北条時宗の弟。子に10代執権・北条師時(四郎)、北条時信(五郎)*1、政助(頼助弟子)、北条忠時(万寿、十郎)*2などがいる。
幼名は福寿(ふくじゅ)または福寿丸。通称は相模四郎、武蔵守(武州)。法名は道明(どうみょう)。
『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)・『関東評定衆伝』・『弘安四年鶴岡八幡遷宮記』*3等によると、宗政は弘安4(1281)年8月9日に29歳で亡くなったと伝えられ*4、逆算すると建長5(1253)年生まれとなる。
ここで『吾妻鏡』を見ると、同年正月28日条に「相州(=相模守時頼)……男子」生誕の記事があり*5、これが宗政に比定される。尚、2月3日には「相州新誕若公名字」が「福寿」に定まったといい*6、これが宗政の幼名と分かる。
『吾妻鏡』ではその後、正元2(1260)年正月11日、8歳で将軍・宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣に供奉したという記事において、「相模太郎」時宗に次いで「同(相模)四郎宗政」の名で登場しており*7、この段階では既に元服を済ませていたことが窺える。
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こちら▲の記事で紹介の通り、時宗は康元2(1257)年に7歳で元服しており、森幸夫・高橋慎一朗両氏は宗政も同じく7歳であった前年(正元元(1259)年)に元服を遂げたのではないかと推測されている*8が、筆者もこれに賛同である。
前述の通り、時宗は長男ではなかったものの、曽祖父で3代執権の北条泰時の仮名に因んだものか、「太郎」を称しており、以後 "相模太郎"邦時(『分脈』・『太平記』etc.)に至るまでの得宗嫡子(時宗―貞時―高時―邦時)が代々称したと思われる。一方で宗政の仮名「四郎」は、元々北条時政・義時(江間小四郎)、そして伯父で4代執権の北条経時(弥四郎)が称していたものであったが、高時の弟・泰家の例を踏まえると、時頼以降の得宗においては嫡子に次ぐ庶子(準嫡子と呼ぶ)に与えられる仮名であったと推測される。実際、前述の正元2年正月11日条では「相模太郎(=時宗) 同四郎宗政 同三郎時利(=のちの時輔)」*9の順で記されている。
ここで、北条氏得宗家における男子の烏帽子親について、その前例を見てみたい。
北条義時の長男・泰時(初め江間太郎頼時)は本来、庶長子であったが、義理の伯父でもある初代将軍・源頼朝に気に入られて「頼」の偏諱を賜り、最終的には義時の後継者となった。義時の嫡男(正室の長男)は朝時であり、3代将軍・源実朝の1字を受けたが、実朝の怒りを買ったために義時からも義絶されると、代わって実義(のちの実泰)が実朝の偏諱を受けている。
父・時頼も本来、兄・経時に対する北条時氏の庶子であったが、それでも "準嫡子" 格であったためか、同じく4代将軍・九条頼経の加冠および偏諱を受けた。
このように、得宗家では嫡子とそれに準ずる存在を用意して、その両名が将軍を烏帽子親にすることを慣例としたと思われる。従って、宗政も嫡兄・時宗に同じく6代将軍・宗尊親王の偏諱を受けたのではないかと推測される。一方の「政」は「四郎」と連動して初代執権の時政にあやかったものであろう。
(参考ページ)
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.366「前田本平氏系図」より。
*2:『長門国守護代記』 および 田村哲夫「異本『長門守護代記』の紹介」(所収:『山口県文書館研究紀要』9号、山口県、1982年)P.63。
*4:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安4年8~10月 P.8。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第15-18巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*6:前注に同じ。
*7:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*8:高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.160。典拠は 森幸夫「得宗家嫡の仮名をめぐる小考察」。
*9:北条時輔 - Wikipedia も参照のこと。